「自分が気がついていないマイナス面を指摘され、受け止めなければならない」というのはローカルルールだった!

 

 人間にとって、一番のダメージとのなるのは、「自分が気がついていないマイナス面を他人から指摘される」ということではないかと思います。まさに不意打ちを食らうような感じで破壊的なダメージとなります。

 

 ”自分が気がついていない”というところがポイントで、これがあると、結局どこまで行っても、「自分が気がついていないこと」というのはなくなりませんから、いつもどこか自信が持てない状態に追い込まれてしまいます。

 こうしたことを悪用しているのが、かつて流行した洗脳型の自己啓発セミナーで、参加者同士でその方の欠点を言わせて、自我を破壊したあとに、拠り所を渇望し始めた参加者に、主催者側が刷り込みたい理論を伝えると、高揚とともにそれを吸収していきます。

 

 

 中国で行われていた洗脳はそれを徹底していて、「ラストエンペラー」という映画でもその一端が描かれています。

 看守が、元皇帝の靴のヒモをわざとほどきます。
 すると、靴ヒモを結んだことのない皇帝はヒモが結べないために、自分が一般人の常識が身についていないことに気づかされます。
 こうしたことを繰り返していくと、だんだんと自我が壊れていき、最後は従順な共産党支持者となっていく、というものです。
  

 私たちが日常で遭遇してきてトラウマになっている家族や友人、上司のふるまいととても共通すると思います。
 

 

 特に私的環境において、

 「実は、あのとき、私はあなたに対して~~だと思っていた」とか、  
 「あなたは~~という面があって、とても不快だった」とか、
 「気がついていないだけで、あなたは~~だ」とか、

 実はこうした指摘はすべてローカルルールによるものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 指摘は作られたもので、本当の事実ではない。

 

 

 指摘してくる人の背後には嫉妬や、支配欲、あるいは自己の不全感があります。それによって、ローカルルール人格にスイッチして、こうした破壊的な指摘を相手にぶつけて、相手の自我を傷つけ、支配しようとします。

 

 人間には気質、生育歴に差があって、知っていること、出来ることにも差異があります。また、パフォーマンスが発揮されるためには環境からの支援が不可欠です。

 つまり、事実というのは客観的に定まったものではなく、環境によってかわり、意図によっていかようにもなる、ということです。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 

 

 例えば、皇帝がヒモを結べないのは仕方のないことです。ある職業の人が、別のことができないのはよくあることです。一流企業の社長もタクシーの運転はできないでしょうし、農作業もうまくできないかもしれない。スポーツ選手は、デスクワークは不慣れでしょう。それは仕方のないことです。

 

 海外のバラエティドキュメントに「アンダーカバーボス」という番組があります。大企業の社長が変装し、平社員として現場で働く、というものです。働いてみると、現場での作業ができない。それで社長なのに怒られたりする。現場で働くことで、会社の問題点が見えたり、社員の気持ちがわかったりするようになっていきます。

 社長とはいえ、ブランクがあったり、経験していない仕事はできません。人間とはそんなものです。でも、万能感があるために、それに気がつかないだけ。
 
 

 

 多くは、ちょっと学べばできたりする程度のことだったりします。靴ヒモなんてすぐに覚えられます。

 しかし、ここに人間の不全感や、嫉妬といったものがはいると、途端にローカルルールによるニセ事実が作り出されます。
 

 「お前はその歳にもなってそんな事もできないのか!」

 と、ひとこと言うだけで、「仕事ができないだめな人間」という“事実”を作り出して、相手をマウンティングすることができます。
 

 

 これを真に受けてしまうと、「確かに、俺は靴ヒモ結べないし・・・」とか「運転できないし・・」とか、「こんな簡単な仕事もミスしちゃうし・・・」となり、人から「気にしなくていい」と言われても、「いやいや事実だし・・」となって長く取れない呪縛となってしまいます。

 

 子どもの頃に、「あなたは~~だ」と親から言われたことも大半は作られた事実に過ぎなかったりするのです。それが長く呪縛となってしまっている。

 

 つまり人のいうことは客観的な事実ではなく、単なる主観でしかないものです。しかも、人間は簡単に負の感情に落ち込んだり、人格が変わってしまう生き物です。耳を傾けるには人間の意見はあまりにも信頼性が低いのです。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 耳を傾ける信頼性があるとしたら、公的な環境が整った場面においてのみ。
具体的にはお金を払って専門家からアドバイスを貰うとか、まったく他に利害関係を削ぎ落とした状況においてだけです。

 会社の状況が悪いので、専門から「実は・・・大変な状況ですよ」とか、健康診断で、医師から「実は、ここに疾患があります」とか、フィットネスクラブで、コーチから、「ここの筋肉が使えていませんよ」とか、
 

 ※いわゆる学校、職場という場所は公的な環境かどうかはとても怪しくて、教師の嫉妬や不全感などからおかしな私的感情が入ることもあります。むしろ、塾などのほうが公的な環境に近いと言えます。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 養育環境などでおかしな助言や指摘を受け続けていると、まさに洗脳セミナーのごとく、混乱させられて、何を受け取って、何を受け取らないほうが良いのかがわからなくなってしまいます。

 結果として、本当に受け取るべきときに助言を受け取れなくなってしまって、失敗してしまう、ということも生じます。

 

 

 人間は本来は、養育環境では、愛着(安全基地)を土台として、自分らしさというもの、自分への信頼というものを育んでいきます。さらに、二度の反抗期では、親の教えにも「イヤイヤ」と否定することで、自立を果たしていきます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 そうした「自分」というものがシステムとしてある程度確立していく上に、知識や技術、経験が形作られていく、というものです。

 

 しかし、いわゆるローカルルールによる「耳の痛い」指摘は、その土台を掘り崩してしまいます。いっときは良くても、自分の良さが失われてしまい、長く力を発揮できなくしてしまいます。

 建物もそうですが、足場を破壊しては建築していくことはできない。
自然環境も精妙なバランスでできていて、壊して良くなるというものではない。

 

 「人間は成長するためには、耳の痛いことも人から言ってもらわなければならない」というのは実はローカルルールです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 もっともに見えますが、
 「建物は、立てるためには足場を破壊しなければならない。」「自然のバランスは壊さなければいけない」といっているようなもので、そんなことはありえないのです。

 

 「いや、でも、いろいろな人の経験談などを見ると、人からの指摘で目を啓かされたというのは聞くけど」という人がいるかもしれません。

 

 それは、その内容をよほど精査しないといけません。

 自分が成長できた、目を啓かされた、という体験の実情は、果たして本当にそうだったのか?上に書いた洗脳されたラストエンペラーのようなことになっていないか?
  
 支配欲や嫉妬から発したことをまさか「これは嫉妬です」という人はいない。
 「あなたのためだ」というふうに騙ります。

 

 それを真に受けた人が「耳の痛いことを行ってもらって、あれで私は良くなった」といった人もかなり多いのではないか。

 良くなった、と思わされているけど、本来の自分を発揮する伸びしろは確実にそがれ、萎縮する形での改善になっていることが考えられます。

 ラストエンペラーも「共産党と人民のおかげで、私は良い人間になれました」と言うでしょう。自己啓発の参加者も、「このセミナーのおかげで、私は変われた」という。でも、洗脳ですから、本来の自分は抑圧された結果です。

 

 世の中にはこうしたニセ美談がたくさんあって、それが私たちをハラスメントから逃れることを妨げています。

   

 「いや、それでも、人間はときに自分が気が付かないことも指摘されることは大事では?」と思うかもしれません。 もちろん、指摘が必要な場面があります。岡目八目が必要なことはある。

 それは、公的な環境においてのみ。
 利害関係を削ぎ落とした状況で専門家からアドバイスを貰うというようなことです。

  
 私たちは食べ物でも、安全を確認してから食べるのに、人の意見について毒味もせず受け止めるなんてありえない。
 

 

 健康な人間には自他の別があり、それぞれ自分のことだけで生きているのですから、相手のことに構う、という時点でかなり異様なことなのです。それを越えて「あなたのため」と言ってくることは耳を傾けてはいけない。

 親族の言葉、助言というのは一番怪しいものです。

 

 アドバイスを貰うなら、お金を払うなりして、こちらから貰いにいかないといけません。

  
 基本的には、システム全体を入れ替えるような指摘するというようなことは、神にしかできない。ローカルルール人格は、ニセ神様を演じますから、さながら神のごとく指摘しようとします。

 でも、それは単なるローカルルール。
  
 真に受ける必要もないし、気にする必要もない。

 
 すべては、まずは自分というシステム(内部環境)を大事にして、そこから積み上げていくことが大切。

 

 実は、健康な人は自然とそうしている。例えば職場でも、上司の話は話半分で聞いている。内容を精査している。「デキる社員はやり過ごす」という本がありましたが、真に受けたりはしていない。でも、意固地ではなく、素直に聞いているように見えている。それは土台があるからできるわざです。

 
 
 私的環境における人の言葉はすべて戯れとして聞き流す(家庭の中は特に)。
 公的環境における言葉は吟味にして受け取る。
 職場や学校のようにローカルルールがはびこりやすい環境では、よほど精査して、話半分できく、ということが必要です。

(参考)人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

意味深というのは、ローカルルールに巻き込むための方策

 

 「大切なものは目に見えないんだよ」

 

 という台詞で有名な「星の王子さま」です。

 素敵な童話というように考えられてきましたが、東大の安冨歩教授によると、これは、モラルハラスメントについて書かれた作品だ、といわれています。 

 
 王子さまはバラとかキツネとか、出会うキャラクターたちの意味深な発言に混乱させられ、罪悪感を植え付けられて、徐々に支配されていくさまが描かれています。

 「ハラスメント被害者の物語」というのが、「星の王子さま」の別の姿です。

 

 「大切なものは目に見えないんだよ」というのは、一般には素敵なセリフとして紹介されていますが、とんでもない。その逆で、意味深さで王子さまを縛る呪い言葉だったのです。

 

 
 私たちも星の王子さまのように、ハラスメントの呪縛にかかって苦しんでいるのですが、その中でも厄介なのは、身近な人が発する意味深な発言です。

 意味深な発言というのが、さながら、コンピュータに演算不能な関数を打ち込んでダウンさせてしまうように頭をぐるぐるとさせて、私たちを縛り続けてしまうのです。

 

 世の中には、意味深なことを言ったりする人は少なくありません。

 予言めいたことを言う人もいます。

 「あなたは将来こうなる」とか。

 

 特に家族は厄介で、家族からの意味深な言葉がずっと残っていて、クライアントさんを縛っていることがよくある。

 

 実は単に、ローカルルール人格が発した世迷い言でしかないのに。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 

 現代は人間が理性的な存在である、という前提があるために、私的環境においては、人間が日常的におかしくなるのだ、ということが忘れられている。
おかしくなるというのは、よほどの酩酊、錯乱状態のときだけとされている。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 その為、日常で発せられる意味のない意味深な発言を真に受けさせられている。

 

 実際はそんなことはなく、
 たとえ地位のある人の言葉でさえ、日常においては戯れ(戯言)でしかなく意味などない。
 

 それなのに、なぜ意味があるように聞こえるかといえば、ローカルルール人格というのは、“神化”しているから。

 

 ニセ神様のようになってしまっていて、あたかも自分がすべてを知っていて、相手を支配する力があると錯覚した存在だから。
 ただ、認識できる範囲は狭いので、具体的に言うことができない。独自の不思議世界の中にいる。そうしたこともあって“意味深な”発言となってしまうのです。

 

 

 一方、真に受ける側の事情もあります。
 

 長い間、理不尽なストレス環境にあると、安心安全がないために物理的な現実を信頼することができない。世の中というのは理不尽に突然襲ってくるものだ、という感覚があります。
 
 また、あまりにも現実がうまくいかないために、それらを迂回したり、寄る辺を求めるためにスピリチュアルなものに対しても親和性を持ってしまうことがある。

 さらには、トラウマを負った人というのはいつも深刻なのです。リラック史できず過緊張でガチガチです。そのため、真に受けなくても良いことまで深刻に受け取ってしまう。

 すると、意味深な言動というものが何やら聞く必要のあるかのように感じられてしまい、真に受けてしまうようになる。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 相手が意味深なことをいうときは、ローカルルール人格にスイッチしているのですが、実際の治療現場でも意味深発言というのは起こります。

 

 あるセッションで、クライアントさんが“本音”を吐露し始めました。
 幼いことからのこと、治療者への要望や陰性感情などもふくめて、とっても意味深な内容で、治療者としてはなんとか話に耳を傾けて理解しようとします。特に要望は聞かなければとがんばります。

 なんとか、こういうことかな?と意味がわからない部分がありながらも懸命に受け止めた、と思って、セッションが終わりました。

後日、しばらくして何回かあとのセッションの機会で、

 「あのときのことは実は、治療者を巻き込もうとしてやっていたことだったとおもいます」

 とそのクライアントさんがおっしゃったそうです。

 「あれは本当はそうは思っていませんでした」と。

 

 治療者は驚きました。

 「ええ~!一生懸命聞いていたあれは何だったの?」

 やっぱり、人格ってスイッチするし、意味深な発言っていうのは意味がないんだ、ということを示す出来事です。

 

 

 要は、「意味深」というのも、巻き込むための方策でしかないことをあらためて教えられるエピソードです。

 

 

 「ドクターハウス」というアメリカの医療ドラマがありますが、その主人公の口癖は、「患者はウソをつく」といいます。

 

 さすがに、「治療者が患者さんの話を嘘と思って聞いてはまずいでしょう」「そんなひどい治療者にはなりたくない」と思ってしまいますが、「私はクライアントさんのすべてを受け止めます」とやっているとでも、はじめのうちは良いのですが、しばらくすると本当にやられてしまいます。ある日ひどいクレームにさらされて、治療者を辞めないといないところまで精神的に追い込まれます。

 これは、カウンセラーなどの治療者あるあるですね。

 

 ベテランの治療者はそのことを知っていて、うまく流して本質を捉えようとします。特に依存症などを扱う(依存症は人格が顕著に変わる症状です)医師やカウンセラーなどは、真に受けないように、巻き込まれないようにトレーニングをされているそうです。

 

 ドクターハウスの主人公は、要は「本質に目を向けろ」といっているわけです。人間というのは弱い生き物でいろいろな事情を抱えていて本当のことが言えない場合もあるし、人格もスイッチするから真に受けていたら二進も三進もいかなくなる。

 
 カウンセリングでも同様に、クライアントさんの本来の人格の言葉を聞くためには、表面的な言動に惑わされてはいけないし、その奥にあるものを捉えないといけない、ということになります。

 

 治療場面だけが特別ではなく、私たちは日常でもにとってもこうしたことはしばしば接します。特に親族、友人、知人、会社の上司、意味深発言、というのはまともに聞いてはいけない。

 スルーするか、「なにうさん臭いこと、いってるねん!」と突っ込み返さないといけない。相手は神様ではなく人間なんですから、分をわきまえない意味深な言葉なんて発する力ありませんから。

 

 実際に、よくあるお笑い芸人の漫談で、すごく伝統や権威のある、と思っていた人とか占い師めいた人の話を真剣に聞いていたら、ただのおじいさんだったとか、実はそうじゃなかった、いい加減だった、みたいな笑いばなしがありますが、まさにそんな感じ。

 

 

 人間の言葉は本当に意味がない。
言葉が意味を持つのは公的環境においてのみです。

 

 特に意味深発言は耳を傾けてはいけません。意味を考えてはいけません。前回の記事でも書きましたが、日常の会話というのは戯れとして流していくものなのです。

(参考)人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 歴史学の世界では、「史料(資料)批判」という言葉があります。

歴史の史料も、それが本当なのか、適切なものなのかを吟味する、取捨選択することを言います。

 歴史学以外の学問でも同様で、研究で得た素材をそのまま無批判に受けるということはありません。その史料がどういった性質のものか?誰がなんのために残したものなのか、その意図や、内容が虚偽ではないか、を確認していきます。

 史料として集めても、極端に言えば、9割以上は使えずに捨てるという結果になります。

 

 理系での実験データなどでも同様に、その内容は徹底的に吟味されます。統計でいろいろと数字を出してみても大半は意味のあるものではなく、試行錯誤して、ようやく意味のあるデータを拾い出す、という感じです。
 

 

 このように、得られた史料、データや素材をそのまま用いることはなく、厳しくチェックした上でエビデンス(証拠)として採用されていきます。虚偽が混じっていたり、解釈のできないデータが入っていたりして、論文などはかけませんし、ちゃんとチェックをしなければ信用を失ってしまいます。

 

 

 
 「目利き」という言葉があります。
 例えば、宝石商の人が宝石の価値を鑑定したり、偽物かどうかを見極めたりします。

 最近は中古品買い取りが一大ビジネスになっていますが、ブランド物のバッグもマニュアルを作ったり、訓練を受けた係員が値打ちを判断し、買取額を判定します。
 

 鑑定せずすべてをホンモノだとして買い取ったりしたら会社は大損をしてしまいますし、顧客の信用を失ってしまいます。

 
 世の中は偽物も多く、まだ騙そうとする人もいます。そのため、それを選別したその判断をすることで秩序が保たれています。

 

 

 

 そんな中、私達の日常に視点を戻してみると、あれ?と思うことがあります。

 それは、「人の話をよく聞かなければならない」という考えが正しい、とされていることについてです。

 

 トラウマを負っている人たちに顕著ですが、「人の話はよく聞かなければならない、受け止めなければならない」という考えを私たちの多くは持っています。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 特に、
 「耳の痛い話ほど、受け止めなければならない」ということを私たちは独りよがりにならない戒めとして信じています。

 

 しかし、これはかなりおかしな、そして危険な考えです。

 

 

  
 例えば、私たちは、食べ物でも、毒のあるものは食べません。長い歴史の中で、人類は毒のあるものとそうではないものとを見分けてきました。キノコなどは猛毒のものもあります。間違って食べたら即死してしまいかねません。

 腐っているものも食べません。お腹を下してしまいます。
 だから親切に消費期限や賞味期限という情報が提供されています。

 食べ物は選り分けるのが普通で、なんでもかんでも食べるなんてことはしていません。体に悪いものは食べない。そうしなければ健康的な生活をおくることができなくなります。

 

 
 この世界で健康的に生活したり、事実を掴むためには、接する事物を吟味し、そして多くを捨てなくてはならないのです。まず受け入れることの前に、チェックし、捨てることが最初にあります。

 

 

 そうした常識の中、
 私たちは、なぜか、「人の話はすべて受け止めなければならない」という考えを信じています。

 そして、過去に言われた家族や友人知人たちからの言葉を、あたかも神からの託宣のように受け止めて、その呪縛に苦しんでいます。

 

 なぜ、このような考えが、正しいと受け止められて、広まってしまったのでしょうか?

 

 

 臨床などでわかってきたことで、このブログでも度々ご紹介していますが、人間というのは容易に解離します。ちょっとした刺激で人格がスイッチする生き物です。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 最近問題となっている、あおり運転をみればよくわかります。ちょっとした刺激で人格が変わります。並走車に割り込まれたり、相手がゆっくり走っていたりしただけで、不全感を刺激された人格が豹変して相手の車をあおり、暴力や、果ては殺人まで起こすということが起こります。

 

 DVもそうです。仕事では優秀な社員とされている紳士的な人が、家では人格が変わり、暴力を振るう。そして、常識からはわけのわからない理屈をこねて、暴力を正当化します。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策
 

 

 いじめもそうで、かわいいはずの子どもたちが、同級生をいじめて、最悪は死に追いやる。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 そこにもおかしな行為を正当化する勝手な理屈があります。

 その勝手な理屈をローカルルールといいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 人間社会にはそこここにローカルルールというものが存在します。不全感から起きるネガティブな感情を正当化して、人を攻撃したり、支配したりすることです。

 

 ローカルルールは人から人へと感染していきます。
 特に私たちの中の人格に感染し、感染した人格は刺激を受けて前に出てきます。普段はまともなひとが、急におかしなことを言い出すのはそのためです。

 

 

 また、立場が近い人ほど互いに嫉妬に巻き込まれることもわかっています。 
嫉妬というものは厄介で、いくら理性で抑えようとしても抑えることは叶わず、嫉妬を刺激されると破壊的な人格に変身して、他者を惑わす言葉を吐いたり、攻撃したりします。

 こうしたことから自由な人は誰ひとりいません。
どんな立派な人でも嫉妬は沸き起こります。

 

 

 
 人間は、公的な環境では、本来の自分でいられますが、私的な環境におかれると解離しやすく、すぐにおかしくなってしまうのです(ローカルルール人格にスイッチするのです)。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 
 ローカルルール人格は、支配欲や不全感を発散させたいというネガティブな感情から、思わせぶりな発言をしたり、意味深なことをいったり、非難してみたり、そして、それを常識だとして騙ったり、様々なことをして、他者を惑わせています。 

 

 

 ローカルルール人格が発する言葉や理屈というのは、全く意味がありません。
 なぜなら、実態は個人的な感情だからです。

 以前の記事でも書きましたが、クレームについても9割はローカルルール人格が行っているニセのクレームです。あおり運転を行う人の文句と同じです。

(参考)→「世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 ローカルルールというのは、もっともらしい理屈を言ってみても、意味深な内容に見えても、中身は空っぽです。
 ですから、切って捨てないといけない。真に受けてはいけない。
 人間のコミュニケーションには相手を支配したり、呪縛したりして、拘束する側面もある。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 真に受けると、その方の本来の自分が蔑ろにされてしまうからです。
 

 

 

 世の中ではローカルルール人格による巻き込むためのニセの本音が飛び交っています。それらは、まともに相手にするようなものではないのです。 

 そうした環境に生きている中、「人の話はよく聞かなければならない」という考えは果たして適切なのでしょうか?

  
 当然ながら、全く正しいものではありません。

 

 人の話には、そのまま受け止めるのはあまりにも不純物が多すぎる。

 

 

 食べ物に置き換えてみれば、 
 「すべての食べ物はチェックせずにそのまま食べなければならない」といっているようなものです。毒や腐ったものにあたって死んでしまいます。

 

 実際に、人の話をよく聞かなければ、と真面目に考えている私たちは、人の話を受け取って、頭が真っ白になったり、体が固まったり、相手の発言が気になってぐるぐる回ってどうしようもなくなったりしています。

 人から言われた言葉を真に受けて、答えを探そうと私たちは何年もその事を考え続けてしまいます。

 本当は意味などなかったのです。切って捨ててよかった。

 

 

 これまでの心理療法では、話を受け取ったあとにいかに頭が真っ白になったり、ぐるぐる周りが起こらないか?ということに取り組んできましたが、よくよく考えれば、受け取る時点で、チェックして受け取らない必要があります。
 毒を食べてからでは遅いのです。

 

 そのためには、当たり前と信じてきた「人の話を受け取らなければならない」という考えを疑わなければなりません。
 

 

 正しくは、

 「人の話は聞いてはいけない(基本はすべて捨てて良い)」

 

 もっといえば、
 「よく吟味して、怪しいものはすべて捨てて、本当に大丈夫なものだけ、自然と伝わって来たものを吸収する」ということになります。

 

 特にローカルルール人格が発する発言は、全く意味をなしません。
 聞く価値はありません。

 以前の記事のも書きましたように、いじめっ子の身勝手な論理に耳を傾けるようなもので、本来は、一刀両断に切って捨ててしまわなければならないのです。 

 間違って寄り添うと
 「誤った共感」になってしまいます。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 意味深で、なにか意味があるのかも、とおもったり、人の話を聞かないと独りよがりな人間になってしまう、と考えてしまうとおかしな呪縛にかかってしまいます。 

 

 

 学問における、「優秀な研究者」とは、資料やデータを徹底して疑う人たちです。

 「良い目利き」とは、疑い、ニセモノや価値の無いものを捨てていく人たちのことです。

 

 同様に、「聞き上手」とは、人の話を真に受けない人のこと。人の話を聞かない人のことです。

 世の中で、「ちゃんと私の話を聞いてくれる」とか、「共感してくれる」という人は、実は、「人の話を聞いていない」のです。

 人の話を聞かないことで聞き上手になっている、というのは、ニセモノを見極め除いて、本物を受け取ってくれる、ということです。

 

 

 トラウマを負っている人たちは、
 「人の話をよく聞かなければならない」ということを強く信じている傾向にあります。

 それは、養育環境の中で、理不尽にさらされていたから。
 理不尽な家族や友人知人が、ローカルルールを強制する環境にいたために、「何を捨てるのか、何を捨てないのか」を混乱させられた環境で生きてきたから。
 

 直接的に「あなたは人の話を聞いていない(もっと私の話をありがたく聞け)」といった叱責を浴びてきた人もいるでしょう。
 
 あるいは、機能不全に陥った家族をなんとかしようとして、真面目に一生懸命、理不尽なものを全部を受け止めさせられてきたからです。

 恣意的にゴールポストを動かされて作り出された事実を客観的なものだと信じさせられてきた人もいます。
  
 トラウマとは、まさにローカルルールの毒気にあたった、中毒状態と言えるかもしれません。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 ここで書いてあることも、健康で、世慣れた人にとっては、実は常識といえるもので、「(人の話をいちいち真に受けて聞かないなんて)そんなの当たり前じゃない」ということだったりする(言葉には出さないけど実は常識という“裏ルール”)。

(参考)→「“裏ルール”が分からない

 でも、トラウマを負った人にとっては、わざわざ拭わなければならないくらいの枷となっていることでもある。

 

 

 私たちが、日常生活において、特にプライベートな空間でかわされる言葉の9割(99%?)以上は、真に受けず捨てて良い。ローカルルールが飛び交う中で、まともにうけるには人の話はあまりにも危険だからです。

 

 聞くべき話があるとしたら、お金を払って専門家からアドバイスを貰うか、信頼できる書籍の中からなどしかありません。つまり、ローカルルールが入る余地を排除した公的な状況でなければ人からは真に受けて良い情報は得られないのです。

 

 それでは安心して日常会話ができなくなってしまう、と思うかもしれませんが、会話が持つ役割が違うということです。
 日常におけるプライベートな会話とは、”戯れる(たわむれる)”ためにあるもので、真に受けるためにあるものではない、ということ。

 

 “戯れ”として接することができれば、リラックスして会話を楽しむことができます。稀にローカルルール人格が前面に出て失礼な発言があった際には、ツッコミをいれて、公的な状況を作り出して相手を我に返す。

 日常でおしゃべりを楽しんでいる安定型の人は実はこれができている。

 

 仕事(や学校)は公的な場ですが、社風(校風)にもよりますが、残念ながら特に社内というのも、どちらかといえばローカルルールがはびこりやすい私的環境に当たります。嫉妬や不全感と言ったものが顔を出しハラスメントが横行することもあります。

 真に受けられるのはどちらかといえば信用できるのは、お金のやり取りがある取引の場面での会話のみで、職場の会話も戯れとして聞く必要があるのでしょう。

 

 

 元ソニーの社員が書いた「できる社員は「やり過ごす」」という本でいわれているのは、まさに人の話は戯れとして真に受けず大事な仕事を見極めて打ち込め、ということなのだと思います。 

 反対にトラウマを負った人は、人からの話はすべて客観的な事実であり、神からの託宣のように受け取って、意味などないそのない意味をずっと考え続けさせられています。
  

 日常における人の言葉はまったく意味がない。戯れ※として楽しみ、流す。
 すると、自然と本当に受け取るべき本質が見えてきます。
 

 

 ※「戯れ(たわむれ)」とは、「遊び興じること。ふざけること」ですが、「戯言」と書くと「ざれごと」と読み「たわけた言葉。ばかばかしい話」という意味になります。

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 妻夫木聡さんが主演している「悪人」という映画があります。
 吉田修一さんの小説に基づいたものですが、その映画の中で、登場人物がむしゃくしゃしてラーメン屋を出る際に「ああ、まずかった!」と大きな声で行って出ていくシーンがあります。

 これは明らかにその登場人物が物事がうまくいかない不全感からラーメン屋の店主を傷つけようとして行ったものです。
 
 当然、発言の内容には意味はありません。

 もし、ラーメン屋の店主が真に受けてしまったら、ラーメン屋を廃業する、なんてことが起きるかもしれません。

 

 

 以前、TV番組で、藝妓さんが取り上げられていました。
 伝説的な藝妓さんということで芸も一流ですが、会話の仕方からすべて相手のことを気遣って接していらっしゃいました。
 

 そんな伝説の藝妓さんでも、仕事をしていて辛い体験はあったそうです。
 それはある宴会の席でお座席に呼ばれたときのこと。会話を磨いていた藝妓さんは、相手が盛り上がる話題を提供し、自分では自信を持って接客できた、と思っていたら、後日、「あいつはもう呼ぶな」とお客さんから言われそうなのです。とてもショックな出来事です。

 問題なかったはずだけども、どこか自分に慢心があり、お客さんの気に触ったのではないか、ということだそうです。

 それ以来、会話など接し方を見直して今に至る、というエピソードが紹介されていました。
 

 

 別の例では、ある店員さんが普通に接客していました。そのお客さんは問題なくお帰りになられたと思っていました。
 
 しかし、後日会社のカスタマーセンターに
 「笑顔が嘘くさかった」「親切さが押し付けがましかった」とか、
 「上から目線に感じて不快だったから、二度と利用しない」とのクレームが入った旨の連絡が来て驚いたそうです。

 

 対応している側としてはそれで他のお客さんからは文句もないし、普通に接している。ただ、なぜか1年に1~2回は必ずそうしたお客さんが現れたりする。

 気にしなくて良いとはわかりながらも、店員としてはやはりショックを受けて傷つく、徐々に萎縮する感覚を感じてしまう。 
 
 「自分に問題があるのでは」という気持ちが拭えなくなってしまったそうです。

 

 

 冒頭からの3つの例について、ここで起きていることは、実は全てローカルルール人格が引き起こした現象です。

 (参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 顧客が自己の不全感から何かの引き金でローカルルール人格にスイッチします。すると、普通にサービスを提供しているのにもかかわらず、クレームを寄せてきて、言い返せない相手を傷つけるだけ傷つけます。

 

 一流のホテルや旅館、レストランでもクレームのないところはありません。

 
 もちろんミスからクレームになることはありますし、それに対応して改善することは当然ですが、多くのものが、要は「自分を大事に扱っていない」という過剰な(ニセモノの)クレームだったりします。

 

 飛行機の中では豹変してローカルルール人格になる人はとても多い。いい大人が駄々っ子のようになって、CAさんを相手に文句を言っている場面をよく目にします。

 CAさんなどの仕事は「感情労働」と呼ばれていますが、そのストレスは大変なものです。

 

 人間はどれだけしっかりと接していても、仕事などでローカルルール人格に変身した方に遭遇します。サービス業であれば必ずある一定の割合と頻度で、ローカルルール人格に変身した人たちが訪れてきます。ローカルルールに相手を巻き込むためだけにサービスに申し込む人もいます。

 

 サービス業などを中心に生じるクレーム(ローカルルール)というものは、「お客様は神様です」「お客様の言うことはどんなことでも応えなければならない」「お客様の方が正しい」といった観念を悪用して成り立っています。
  

 最近は、それを「カスタマーハラスメント」というそうですが、もしかしたら日本では特に生じやすいのかもしれません。
 

 

 以前記事に書いたことがありますが、海外だと、お店に入ってもスマイルもないし、店員さんも無愛想にしています。

(参考)→「社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」
  
 良いサービスを受けるためには、その分のお金を払わないといけない。ただでサービスは求めることができない。

 対価と提供するものとがしっかりと対になっている。

 

 実はこれが本来の姿ではないかと思います。

 一方、日本だと、安くてもサービスは良かったりするので、ついつい当たり前に思っていますが、お金も出していないのに、良いサービスを当たり前としているのはどこかおかしい。
 

 

 例えば、コンビニやファーストフードの店員に笑顔がなかった、といってクレームをつける人がいたとしたら、どこか勘違いをしています。
 わずか数百円しかお金を払っていなければ、それだけのサービスしか受けれません。

 

 「いつでもどこでも、一流のホテルマンみたいな対応をしろ!それが常識だ。ただし、追加のサービス費用は払わないから、タダでお願いね」
 
 と言っているということですから。

 

 もし、本来いただいている費用によって提供を約束しているものを厳密に定義したとすれば、正当なクレームというのは半分にも満たないかもしれません。

 

 多くのクレームは、「お客様は神様です」という慣習にタダノリして、自分の不全感を発散しているだけ。

 一般の店員さんに対して、チップを渡しているわけでもないのに、一流の接客を求めるなんて冷静に考えれば変なことです。

 海外でチップが必要なのは、日本人から見たらドライですが、とてもフェアなことではあります。

 

 そう考えると、
 例えば、
 タクシーの運転手が道がわからないとすぐに腹を立てる人もいますが、(もちろん、道を知っていてほしいのはやまやまですが)特別料金を払っているわけではなく流しのタクシーを安く利用しているのであれば、稀にそうした事があるのはやむなしとしてある程度は許容しないといけないのでしょう。 

 

 

 以前、習い事のグループレッスンで先生が自分にアドバイスをくれなかった、と怒っている方がいらっしゃいましたが、それも、もちろん丁寧に対応してくれるに越したことはないのですけれども、グループレッスンであるために割安で利用できているのであればぼちぼちで許容しないといけない。
 手厚く対応してほしいのであれば、本来はマンツーマンのレッスンを申し込まなければいけないということなのでしょう。

 

 

 本来提供を約束しているものと期待のミスマッチ。その間を「お客様は神様です」という気合・慣習を背景に「自分だけは特別に優遇してもらえるはず」という幻想が生まれ、「自分は大事にされていない」という失望がきっかけでそこにローカルルールが付け入って炎上(クレーム)を引き起こす、という構図と言えます。

 

 

 その点、日本は異常かもしれない。

 同様に、個人同士でもさながら日本人全員が伝統芸能の弟子さんにでもなったかのように、過剰な礼儀や気遣いを求められることもおかしなことです。日本はあまりにも細かなことにうるさすぎて、それが自分にも返ってきて、互いに拘束しあっている。もはやローカルルール化している。

 そのために、「対人恐怖症」というのは、日本独自の悩み(文化依存症候群)とされるまでになっています。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック

 

 

 
 ローカルルールは、社会で一見正論のようでいておかしな慣習を悪用して、生き永らえようとします。

 例えば、いじめは、「学校の中は自治が行われる聖域で、外の社会とは違い特別だ」といった観念、慣習を悪用をして、社会の常識や法といった外部の介入がなされないまま、被害者が命を断ったり、消えがたいトラウマを負ってしまうということが起きてきました。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 
 DVやパワハラもそうで、「家庭や職場の中は特別(私的領域)」「私がおかしいと判断した相手を指導して良い」という意識がハラスメントの温床となります。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 

 外で人と殴ったり暴言を吐いたら警察に捕まります。しかし、「家や職場の中では良いのだ」といっているのですからおかしなことです。
 外でダメなことは家や職場の中でも当然ダメなのですが、ローカルルールは、内密な関係から外れたら生きていけないような気にさせて、常識がわからなくさせてしまいます。

 本来それぞれ独立した人間ですから、正当な権限でもなければ、相手を指導することなどできません。
 会社でも指導できるのはあくまで業務の改善だけです。人格に触れることはできません。

 

 ローカルルールがはびこりやすいのは、権限の範囲などが曖昧にされていて、曖昧さから生まれる不具合が個人の人格の問題とされたり、擬似的な私的領域が生まれやすい状況といえます。
 
 日本の職場は、仕事の権限や責任が明確ではありません。
 そのために、「これは私の仕事ではありません」「人格に関わることについて言われる筋合いはありません。」とは言えず、曖昧さの隙間にハラスメントが生じます。 

 

 会社と顧客の間にも同様に曖昧さは生じます。

 
 サービス業の方が身につけているのは、当たり障りなく、そうした曖昧な隙間を埋めて、ローカルルール人格にスイッチする確率を減らすための所作やあるいはそれを鎮めるための方略や身を護る術、と言えるかもしれません。

 

 人間は公的な環境では本来の状態でいることができます。
 「礼儀」というのは公的環境を作り出すには最適なものであるためです。

(参考)→「親しき仲にも礼儀あり

 

 しかし、ローカルルール人格の言っていることを真に受けてしまうのであれば、それは全くの間違いです。ふりまわされているだけになります。

 結果、世の中のビジネスはクレームを恐れて過剰に設計されていて余計なコストを負担している。野菜などの食品がわかりやすい。クレームが来そうなものは食べれるものでも廃棄されている。過剰防衛になっていると言えます。 
 

 本来、おかしいのはローカルルール人格の側なのですから。

 

 かつては、ローカルルール人格の言うようなことも意味があるとして受け止める風潮はありました。

 理不尽な部活の先輩や監督の要求に耐える。

 弟子は師匠の気まぐれに応える。

 会社上司の言うことはすべて受け止める。

 などなど

 「理不尽を受け止めたり、耐えることで成長することができました!」というスポ根的な美談は数多くありました。
 (特にトラウマを負った人にとっては、理不尽なことは全て自分の責任であり、応えて当然、と思いがちです。)

 

 
 でも、それらは全く意味がなかったのかもしれない。その事に気がついた人たちが、最近は、モラルハラスメントだとして告発するようになりました。

 告発された側が地位を失うような自体になっています。

 「ハゲ~!」と絶叫していた国会議員は、まさにローカルルール人格に変身した姿を記録されて、失職してしまいました。

 

 冒頭の藝妓さんも、クレームを受けてそれに応えたということで美談となっていますが、現代の基準で言えば、それに応えなくても良かったのかもしれません。
 もちろんクレームに応えて成長できた部分もあることは否定しませんが、受け止めた結果、萎縮して抑えてしまった本来の自分の良さもあるでしょうから。

 

 例えば、好きな芸能人のランキングに上る人が、同時に嫌いな芸能人のランキングにも登場することがしばしばあります。

 その芸能人は、嫌いと言っている人のクレームを聞いて、改善しなければいけないのでしょうか?
 この世には万人に好かれる人はいないのですから、改善したら確実に良さが失われてしまいます。

 

 

 プロ野球の投手は打たれても反省することはありません。

 反省するような性格であれば、投手としてはやっていけない。
 では、独りよがりになるか、といえばそんなことはなく、自分の感覚を信頼して改善していきます。
 
 

 世の中にあるクレームのおそらく9割はローカルルール人格がからむニセクレームで、真のクレームというのは1割といってもよいのでしょう。 

 あおり運転などを見ればわかります。
 並走している車へのクレーム行為ですが、いかに異常であるかがよくわかります。

 

 あおり運転の加害者は異常だとはっきりわかりますが、日常のクレームについてはなぜか真に受けてしまいがちです。
 それは「お客様は神様です」といった慣習が邪魔をしているから。

 世の中には、ローカルルール人格というものが存在するということ、そして世の中はニセのクレームだらけだということを知る必要があります。

 

 ニセのクレームがあるということについてわかりやすいのは、モラルハラスメントを行う会社の上司、DVを行うパートナー、いじめっ子、虐待する親などの発言です。
 私的感情を隠すために彼らは理屈をこねますが、言っている内容が耳を傾けるに値しないことは明らかなことです。

 

 

 虐待死事件で、死に追いやられた子供が痛ましい反省文を書かされていましたが、あれも、親のニセのクレームにさらされ、本来改善する必要のないものを改善するように強いられていたわけです。

 もし、親にインタビューしたら、もっともらしい理屈を語るでしょうけどもたわごとであることは自明です。

 同様のことが、じつは私たちの身近な仕事の現場でも起きています。

 

 ニセのクレームを真に受けて心に傷を負ってしまう人や、場合によっては仕事を辞めてしまう人もいるでしょう。(以前ご紹介したカウンセラーの例もその一つです)

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 ニセのクレームだということと、そのことが世間でも浸透し、会社全体でも真に受けなくなれば、過剰防衛によるムダも減るかもしれないですし、トラウマを負ってしまう人も少なくなるかもしれません。
 「カスタマーハラスメント」という言葉が出てきたのは良いことです。

 

 

 こうした前提から考えると、

 仕事において、普通にサービスを提供して、普通に応対していて、それでもクレームが来るなら、それはすべて相手がおかしい、と捉えて間違いではない。
 いじめられっ子が、いじめっ子の理屈を真に受けないでいいのと同様。ローカルルール人格が絡んでいるということ。  

 (会社の中での上司の叱責や、学校や家庭の中での心のない言葉もです。)

 

 

 冒頭のラーメン屋の例であれば、もちろん受け止める必要もなく、店主がその失礼さを叱りつけて、「二度とのれんをくぐるな~」と、水をまいても良いくらいかもしれません。
 叱責によって公的環境にいると目が醒め、人間はローカルルール人格への変身から目が覚めやすくなります。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 万が一、提供すべきサービスが提供できていなければ、それは謝罪し、改めたものを提供し直すということは当然のことですが、

 私たちは、自分の立ち位置は、常に日の当たる側、常識の側においておく。
 そして、しっかり普通に仕事をする、予定されたサービスを提供する。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 それでもクレームが来たとしたら、それはニセのクレームだと知る。
 

 

 本当のクレームというのは、意識を向けていれば身体で自然とわかるものです。 

 

 お客さんと会話していく中で、改善のヒントにハッと気がついたり、仕事をする中で不意にアイデアが降りてきたり、といったことがおきます。それが本来のカタチ。 

(参考)→「真の客観とは何か?

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 「本来の自分」同士のやりとりというのは、安心安全で創造的なものです。

 私たちはもっと、常識を背景とした自分の感覚を信頼しても良いのかもしれません。そうすると、何を受け止めるべきことかは自然が教えてくれます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

自信はどこからやってくる?~「安心安全」は、自信ともつながっている。

 

 自信がない、というのは多くの人が感じる悩みの一つです。

 これまでの認知行動療法などや、自己啓発でも、自信は個人の考え方などに起因するとしてきました。そのため考え方や行動を変えることで自信が得られるとしてきました。

 ただ、実際に取り組んでみると(もちろん全く効果がないということはありませんが)なかなかうまくはいきません。

 自信のなさは、個人の頭(心)の中に原因があるという仮説は、実はそうではないことがわかります。
 
 

 

 もう一つ、自信がないのは実績が無いからだ、実績があれば自信が持てる、という考えも俗な観念としてあります。

 例えば、容姿とか学歴とか、収入とかが良ければ自信ができる、悪ければ自信がなくなる、という考え方。

 たしかにある部分はそうです。
 例えば、野球選手が練習の結果、活躍できれば、自信になるといったことはあります。

 

 しかし、実績が十分にあったとしても、自信がない人は世の中にはたくさんいます。

 どういうわけか自信がありません。

 他者から「これだけ実績があるのだから自信を持ったら」と言われても、全然ピンとこない。

 筆者も、どういうわけだか自信がないということがあって、いくら実績を積んでも、セラピーをしてみても、どうしても自信が高まらずに苦しんだ、ということがありました。
 

 いろいろと経験し、調べてみてわかってきたことは、実績というのは、すでにある自信を強化する要素の一つでしかなく、自信そのものではないということです。実績は基礎的な自信があってその上に積み上がっていくものです。

 

 

 

 では、本来の自信というのは 何によって決まるのでしょうか?

 まず、結論から言えば、それは「他者からの承認の量」で決まります。

 一番わかりやすいの例は、親からの承認です。
 いわゆる「愛着」です。

 親自体が「安全基地」として機能して、支えてくれることは、社会生活を送るうえで様々な領域で高い汎用性を持つことが明らかになっています。
 まさに、パソコン、スマホにおけるOS(オペレーティングシステム)のような役割を果たしてくれます。

 「愛着」は存在(Being)レベルで体感的に承認をしてくれますから、根拠のない自信というものをもたらしてくれます。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 

 反対に、親が不安定であったり、不和で喧嘩が絶えない、暴言が止まらないといった機能不全環境に生きてこられた方は、必然的に自信がなくなってしまいます。
 (暴言は、自信に向けられたものだけではなく他者に向けられているものも含まれます。)
(参考)→「「汚言」の巣窟」 

 

 

 機能不全家族では、親や家族といった身近な人から味方をしてもらえないといったこともしばしば生じます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 親が偽りの公を騙り、喧嘩両成敗的な言い訳で、対外的にトラブルにあったときに、いつも「あなたにも悪いところがある」といった対応をする。

 夫婦が不和や家族への嫉妬から、そのストレスのはけ口に「あなたはだめなところがお父さん(お母さん)にそっくり」といった言い方をされる。
 単に自分の不満を子どもをダシに解消しているだけ。

 あと、兄弟間でえきひいきがあり、公正さや正義が行われていない。

 などなど

 こうしたローカルルールが支配する環境で長く巻き込まれていると、自信はボロボロになります。まさに戦争や災害の被害に巻き込まれたかの如くトラウマを負ってしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 一見自信がありそうでしっかりしていそうな人でも、”自分”という中身は空っぽ、ということも少なくありません。
 
 自信があるように見えても、躁的に自分を盛り上げたり、
 他者からよく見えることや称賛を得ることばかりに意識が行っていたり、
 あるいは他者を見下すような感覚であったり、
 世の中に反発するような感覚であったりすることもあります。
 
 いずれにしても、どこか地に足がついていない、本当の自信とは違う感覚なのです。

 

 

 

  
 トラウマを負った人にとっての悲劇は、自信を取り戻そうとする過程でも起きます。
 

 自信とは他者からの承認、ということですが、承認を得ようと努めてみても、なかなかうまくいきません。

 集めようと努力するのですが、なぜかうまく承認は得られない。承認らしいものがあったとしても受け取れない。
 

 
 自信とは心の問題だ、という言葉を信じて気持ちを盛り上げようとしますが続かない。反対に躁的な感じになり、傲慢やプライドが高いと取られて、反対に傷ついたり、自分を責めるようになってしまう。

 

 今度は、自信≒実績なのだとして頑張ろうとしますが、瞬間的に評価を得られますが、長くは続かない。
 トラウマを負った人は、それまでのなかで否定されてきたので、少しの成果は実績とは受け取れません。
 そのため実績が積みあがらない感覚に襲われる。
 誰からもケチのつけようもない圧倒的な実績を求めるのですが、そのためにはどのように努力していいのかがわからなくなってくる。

 

 

 また、継続的な成果を上げるためにはチームプレーが必要です。
 さらに、表面的には成果が上がらない「待つ」時間もとても大切。

 しかし、トラウマを負っていると、「安心安全」(足場)がないために、それがうまくできません。他者との関係が築くことができなかったり、成果を「待つ」時間が「成果が得られていない」と感じて怖くなったりして、余計な動きをしてしまい、待てば得られるはずのものを台無しにしてしまったりします。

 

 そうして努力が続かなくなり失速していく、ということが起こります。
 トラウマを負っている人の中には、会社などでも最初は評価されるんだけど、結局ダメになってしまう、という方は多い。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 

 これは、「安心安全」(足場)がないために生じる現象です。
 

 前回の記事でも書きましたが、
 人間の成長、成熟(社会に出る)とはなにかといえば、それは、自分の心身や関係において安心安全を築きながら徐々に領域を開拓、攻略していくことです。
 その開拓、攻略の果てに「社会」というものがあります。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 「安心安全」とは公的な環境によって作られます。

 公的な環境による安心安全があるとあたかも騎士道精神のように、相互にリスペクトし、承認し合うことができます。

 承認をもらうためには、公的な環境づくりによる「安心安全」が不可欠です。

 対人関係において公的環境を形成するのは礼儀やマナーと言ったプロトコルであったり、嫌なものについては「NO」といったり、必要に応じて突っ込んだりすることです。

(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 しかし、公的環境が作れないままだと、「人間は私的環境では解離して容易におかしくなる」という性質があるために、ただ承認を貰おうとしても、嫉妬で発作を起こしてしまい、こき下ろされたり、ローカルルールに巻き込まれて、そのままでは承認が得られない。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 

 人間とは社会的(クラウド的)な生き物で、社会に接続されることで初めて機能する。

(参考)→「人間、クラウド的な存在

 だから、社会とつながろうとして努力するのですが、トラウマを負っていると、そもそも足場(愛着≒安心安全)がないためにそれがうまくできない。
 ローカルルールを真に受けると、ローカルルールが社会そのものになってしまいます。
 本来つながりを持つべき「社会」が何やら危険で不安な場所となってしまう。自信の源から自然と遠ざかるようになる。

 そのうち、対人恐怖や社会恐怖が強まっていき、、安心安全から人とかかわることができず、承認をうまくもらうことができない→自信が育たない、という悪循環に陥ってしまう。

(参考)→ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 

 仮に、相手から承認が得られたとしても、安心安全がないために、それらを受け取ることができない。
 成果によって得られた承認は、「また次に成果を挙げないと失われてしまう」という事になり(見捨てられる不安)、承認を得られたとしても不安なままです。次から次へと成果を上げる必要がある、と思うと絶望的な気分になります。

 

 ※ひきこもりのケースなどは 機能不全環境の中でまさに足場を失わされてきたと考えられる。それは本人の心の問題などではもちろんなく、「安心安全」(足場)やそれを形成する公的環境づくりができなくさせられてきた、ということに起因する。社会が怖いし、自信がないし、わかっているけどどうしようもできない、という状態になるのはそのためです。

(参考)→「上手に退却(引きこもったり)し、上手に社会とつながる」 

 

 このように自信がない、という場合に、ただ、考え方を変えて自信を持とうとか、実績を作ろう、としても意味がありません。
 自分の内外に「安心安全」を少しずつ作り出す必要がある。それが承認を生み、自信につながっていきます。
  

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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