すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 


 人の言っていることがすべて戯れ言 です。

 真に受ける必要はない。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 これで言われてきた理不尽な言葉、自分への悪口、指摘もすべてローカルルールでしかない。

 他の人から見て立派な人でも、人間は容易に解離してしまうもの。

 


 すると、なんとなく思えるのは、

 「すべてが戯れ言なら、真実はないの??」

 という不安がよぎります。


 「そうです。真実はありません。」と答えると、価値相対主義になります。

 


 反対に、
 「真実はあります。他の人の言葉は戯れ言ですが、私の言葉は信じてください」と答えると、怪しげな宗教になってしまいます。

 


 では、どう考えればよいのか?

 

 この問題は、実は、デカルト以降、カント、ヘーゲルなどなど、錚々たる哲学者が取り組んできた問題でもあります。
 ヨーロッパでも、近世から近代にかけて「キリスト教の言っていることがもしかしたら戯れ言だったのでは??」という精神的な危機が訪れたからです。

 

 権威ある言葉もどうも戯れ言であった、という恐ろしい事態。

 ただ、人類の英知とは便利なもので、こうした難問にも答える知恵が見いだされてきました。

 

 


 宗教のようなこれが唯一の真実という答えはもちろんありませんが、
 実は、ちゃんと人間が安心して生きていく上での土台というのはあるのです。

 健康に生きている人がよって立つことのできる“普遍的な何か”というものが。

 

 

 まず、個々の人間の言葉には真実はありません。すべて戯れ言といって間違いがない。

   
 ただ、社会全体には、なにやら”真実”とでも呼びたくなるような普遍性のあるアイデアや感覚というものがどうやらある。

 


 例えば、世界の人々を魅了するような歌や、文学、絵画などは、そうした、普遍的な”何か”をアーティストが、あたかもシャーマンのように降ろしてきて表現したものです。

 わたしたちの身体的な感覚としても腑に落ちて、しっくりきて感動し、魅了される。

 

 
 そうした普遍的な“何か”のことを、プラトンは「イデア」と呼び、ヘーゲルは「歴史」「世界精神」、ルソーは「一般意志」などと呼んでします。
 (このブログの中では、それらを「常識」「社会通念」あるいは「パブリック(グローバルな)ルール」と表現してきました。)

 


 それらを目に見える形で表現することを「代表」といいます。

 
 “普遍的な何か”というのは、直接に表現することはなかなか難しい。

 
 作家や画家、作曲家といった人たちも、苦悶しながら、それを降ろそう(代表しよう)としています。

 

 民主主義では、世論調査や選挙を通じて一般意志を「代表」させようとしていますが、なかなかうまくいかず、「自分たちの気持ちがわかってもらえていない」と不満を持つ人も多い。

 

 科学などの専門的な知見もある意味、普遍的な“何か”を「代表」させる方法です。

 

 最近では、統計、AIを使って、“普遍的な何か”を表現しようという試みもあります。
 
 ※ルネサンス(近世)以降の西洋の取り組みというのは、半ばローカルルール化した宗教から離れ、“普遍的な何か”を自ら作り上げようとしてきた歴史とも言えるのです。

 

 個々の人間の言葉は戯れ言だ、というのは、AIやビッグデータで言えば、個別のデータには意味がない、ということと同じ意味です。

 

 アンケート調査でも、ひとりひとりの意見は意味がありません。逆に真に受けると惑わされたりします。

 

 ただ、それらを集計して、単なる合計ではなくその背後にある母集団、法則といったものを見出した際に、“普遍的な何か”に近づくことができます。

 


  
 個別データも意味がないように、個々の人間には嫉妬や支配欲、不全感と言った能動的なバイアスがかかります。つまり、意図的に相手をコントロールするために自分の言葉を使おうとするのです。

 それらが強く現れている状態を「ローカルルール人格」と呼びます。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 特に、私的環境では頻繁に現れます。真に受けるなんて危険極まりない。

 

 


 一方、公的な環境では、マシになります。

 なぜなら、公的環境では、上記で書いたような「代表」という機能が働くからです。
 
 人間は公的環境で、公的な役割・責任を背負うと、普遍的な何かを「代表」するという力が働きます。   

 例えば、仕事に没入しているとき「私」というものは背後に下がり、
 その職務で果たすべき機能を自分が表現している、という実感をわたしたちは感じます。
 
 さらに仕事に習熟し、没入していると、なにやら仕事の精神が自分に宿ったような、全体とつながって世界の一部になったような不思議な感覚になることがあります。

 こうした感覚が「代表」という状態です。

 


 そうしたときに発せられる言葉は、まだ信じることができます。


 専門家の言葉が信用に足ると思われているのは、専門知識や職業意識などが普遍性を代表してくれていると思うからです。 

 
 
 ただ、もちろん生身の人間ですから、ちょっと気を抜くとノイズも入りやすいです。
 公的な環境においてもそうです。
 専門家でも、専門領域の内輪の理屈を優先したり、過度に専門的すぎて普遍性から離れてしまうと「専門バカ」と呼ばれて、信頼されなくなります。
 
 だから、公的環境の言葉も真に受けすぎずに、できる範囲で都度吟味はします。

 


 でも私的領域に比べれば、かなりマシです。

 

 

 気をつけておかなければいけないのは、公的環境とはハコ物が揃っていれば成り立つものではないということ。学校、会社や職場という環境は実は、公私が曖昧です。
 なぜなら、組織に機能不全がない学校や会社はなく、機能不全な環境では、私的領域(ローカルルール)が生まれ、モラハラ、パワハラが横行し始めたりもするからです。

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる」

 

 

 以上は、理屈を整理したものですが、私達が現実に生きていく上においては、難しく考えなくても大丈夫です。

 世の中の「常識」や「社会通念」というのは、思っている以上に、信じるに足る“普遍的な何か”であります。
 特に、社会がバランスが取れて、多元性が保たれていれば、かなりの程度、普遍性を代表してくれています。

(参考)「常識、社会通念とつながる


 
 
 このように、わたしたちは、「常識」という名の“普遍的な何か”を拠り所にして生活をしています。


 常識を拠り所にできるためにはいくつかの条件があります。


 それは、
 ・健全な愛着が土台としてあること。
 ・そして反抗期を経て、自他の区別がついていること。
 ・社会の中で位置と役割(いわゆる仕事)を得て、社会の中で自己を解消していること。 
 ・さらに、睡眠、食事、運動が適切に満たされ、心身が安定していること。


 そうして、「常識」を拠り所にして違和感なく生きることができます。
 


 本来の親の養育や、社会の教育、というのも、“普遍的な何か”を、身近な大人が代表して伝える営みです。そうして、常識を伝えていくものです。決して、親の個人的な信念を伝えるためにあるのではない。
 健全な教育を受けていき、さらに、反抗期で一旦それを総否定することで、自我が形成されて、自分で再編成した「常識」を支えに社会に出ていく。
 さらに、職業など公的な役割を得ることで、“普遍的な何か”を代表する。
 それにより、ほんとうの意味で自己一致という状態に至ることができるのです。

(このような人格陶冶をヘーゲルは「教養(ビルドゥング)」と呼びました)

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある」

 

 


 別に特別なことではなく、愛着に問題がない健康な人であれば、自然とできていることです。


  
 反対に、上記の条件に欠けがあると、生きづらさを感じたり、「ローカルルール」に巻き込まれたりしてしまうのです。

 つまり、私達が悩みや生きづらさを抱えていたりするのはこうしたことが背景にあるのです。トラウマとは”普遍的な何か”から切り離されている機能不全状態のこととも言えます。

 


 人の言葉はすべて戯れ言であって、真実はそこにはありません。
 (人の言葉はビックデータのための個別データとしてならかろうじて活用できるかもしれませんが)

 


 
 人の言葉というのは、戯れ言として聞き流していると、ローカルルールに巻き込まれずにスルーすることができます

 そうしていると、“普遍的な何か”を身体で感じることができるようになる。

 別に“真実”などという大げさなものではなく、「常識」といわれるようなもの。
 

 

 

 身体感覚で感じる“普遍的な何か”を拠り所にしながら、
 人の言葉は戯れとして適当に楽しむ。フリをしながら付き合う。
 そうして初めて人との一体感、つながりが生まれてきて、「気が合う」「一緒にいて楽しい」と感じられるようになる。


 人の話を真剣に耳と傾けていたときには「疎外感」「生きづらさ」を感じていたのに、
 ‘戯れ言”としていい加減に聞き流し始めると、楽しく感じられるようになる。

 
 マジメに人の中に‘真実”を追い求めていたときは、「絶望」を感じたり、自己啓発のグルの言葉でかりそめの癒やしを得ても満たされなかったのに、人の言葉はすべて戯れ言であり、世の中に真実はないとわかると、「代表」が機能し始め、普遍的な何かを感じることができるようになる。
(参考)→「「トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。


 
 戯れ言とは、「戯れ(遊び)の言葉」ということ。
 戯れ言とわからなければ、人の言葉は楽しく感じることができないのです。

 

 このような感覚が、みなさんが悩みが解消した先にある、普通の世界なのかもしれません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

「言葉には心を越えない~♪」というのは昔大ヒットした歌の歌詞です。

言葉には意味がないのよ、というのは昔から人間が感じていたことです。

 一方、言葉が最初にあった、というように言葉の価値の大きさもわたしたちは知っている。

 

カウンセリングでも、「傾聴」ということが重んじられるわけです。

では、本当の傾聴ってなんだろう?と考えたくなります。

 

 傾聴とは、鵜呑み、真に受けではありません。

 人間が解離しやすく、内的な人格が分かれているという性質を持つ以上、すべて真に受けることはありえません。発せられた言葉を吟味し、選別し、本来の人格の声を見つけること。それも治療者の役割と言えます。

 

 ハラスメントやローカルルールといったものを見るにつけて、強く思うのが、「日常の人間の言葉は本当に意味がない」ということです。

 

 なぜかといえば、繰り返しになりますが人間は容易に解離してしまう存在であり、おかしくなってしまうからです。
 これは誰でもそうです。

 とくに私的環境では簡単に人格スイッチしてしまう。 

 そして、私的な情動(不全感)をもとに、相手を支配しようとしたり、攻撃しようとして、おかしな発言をする。

 

 人間は、公的な環境で、公的な役割を背負ってはじめて理性的でいられる。
 実際に、古代ギリシャでは、公的な役割がなければ完全な人間ではない、と考えられていました。

 
 それは、私的な環境では人間がいかにおかしくなってしまうのか、ということを経験的にわかっていたからかもしれません。

 日常生活で人間は、夜中に食べたくもないラーメンを無性に食べたくなるくらい、本心というのはわからない存在。本心って一体何?と不思議に思います。
 

 言葉はもっといい加減。

 

 日常で発せられる言葉、とくに責任を負わない消費者という立場には、ローカルルールが頻繁に介入してきます。そのため、無駄な買い物をしたり、クレーマーになってみたり、おかしなことだらけ。

 

 臨床の現場でも、言葉を吟味せずに治療者がすべて真に受けては、クライアントさんにとっても危険で本来の人格とローカルルールからきたものとを、よほど吟味しないといけない。

 

 悩みを抱える、とはなにかといえば、ローカルルールを内面化した状態、と定義できます。

 

 
 例えば、クライアントさんが
 「仕事でミスをする人がどうしても許せない」と言ったとしたら、

 それは、「ミスをしてはいけない(ミスをする人は存在してはいけない)」という内面化したローカルルールから来た言葉だとわかります。

 

 その「ミスをしてはいけない」はどこから来るか?といえば、

 養育環境で親などが、イライラする自分の不全感を発散させるために感情を子どものぶつけることを正当化しようとして、「お前がミスをするからだ!」「ミスをしてはいけない、というのは常識だ。だからお前を叱責しているのだ(自分の私的感情からイライラしているのではありませんよ)」ということから始まり、

 それを「期待に応えなければ」と思う真面目な子ども(クライアントさん)が真に受けて、内面化し、忠実に実行してきた。

 そして、親のローカルルールに感染した「ローカルルール人格」が子ども(クライアントさん)の中に形成されます。

 
 そうして長い年月を経て、発した言葉が「仕事でミスをする人がどうしても許せない」ということ。

 

 そうなると、それはその方の本来の発言ではありません。ローカルルールに言わされている、ということです。
 ”ローカルルールの現れ”として捉える必要があります。

 
 そして、治療者が「それ、ローカルルールのようですね」と区分けしたり、本来の自分ではない、とあえて否定したりする必要がある。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 治療者が、まさか「傾聴が大事」なんて真に受けてしまっていたら、クライアントさんは良くならない。
 クライアントさんの本音は、「今私が話している言葉は本来の私ではなく、ローカルルールに言わされているんです~。誰か気づいて、助けて~」と思っているのですから。

 
  
 別の場面で、
 「治療者の言葉や態度が気に入らない」と言ったとしたら、それも内面化したローカルルールから来ている。
 まさか真に受けて、治療者が「態度を改めよう」なんていうことは全く必要ない。勘違いして、もし態度を改めたら、クライアントさんは余計にローカルルールに呪縛されてしまう。
 

 それも、「ローカルルールから来ているようですね」といって、区分けしてあげないといけない。

 

 ローカルルール人格というのはまさに、ウイルスによって、パソコンが乗っ取られているような状態です。社会学者の内藤朝雄氏の本でもいじめに加担した生徒の声が載っていますが、「何かそれ、うつっちゃうんです」という状態。

参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 だから、乗っ取られた状態を真に受けて「そうなんですね~」なんて傾聴で応じていてはいけない。

 しっかりと観察して、区別して、指摘して、ローカルルール人格というものの影響を明らかにしていかないといけない。
 それによって、クライアントさんも本来の自分に戻ることができるようになる。
 

 

 

 繰り返しになりますが、日常で発せられる言葉というのは本当に意味がない。
 

 冒頭に書きましたように、言葉の価値は本来大きいのですが、「言葉が尊い」という場合のそれは本来は「神の言葉」という意味。人間はそれを承るだけの存在だし、完全には理解できない。
 その言葉の価値を悪用しているのがローカルルールです。ニセの神様のようになって、言葉を弄んでいる。

 人間の言葉はすべて戯言です。

 

 公的な環境になると人間の言葉がかろうじて意味を持ってくるのは、それは公的な役割を通して「一般意志」をいくらか”代表”できるようになるから。
 一般意志とはルソーの概念ですが、社会の普遍的意志のことです。
 (普遍的意志は、近代以前は、シャーマンや聖職者が、神がかって降ろしたりしていました。占いなどもそうですが、なんとかして神の言葉を読み取ろうとしていたのです。)
 

 作家や歌手の言葉が感動を呼ぶのは、普遍的意志を降ろしてくるから。
 でも、それができるのは瞬きのような一瞬で、いつもではない。だから、しばしば薬物に手を出すようなアーティストも出てくる。

 

 一方、日常では「悪貨は良貨を駆逐する」というように、価値のない悪貨だらけの世界であることを知らなければならない。
 東大の安冨歩教授は「世の中はハラスメントでできている」といっています。ハラスメントの言葉だらけ。本当に価値のある言葉が埋もれている状態。

 

 目の前の貨幣(言葉)が本物か偽物かを吟味することをせずに、すべてを受け取らなければならない、という間違ったルールに従わされている。 

 

 

 「傾聴が大事」と思いこまさせられている人たちが、まさにハラスメントの犠牲者になっている。親やいじめっ子や、上司の盲言を真面目に受け止めさせられて、カウンセラー役をさせられてしまっている。
 

 

 反対に、健康な人ほど日常の言葉は意味がないと知っていて、やり過ごしていたりします。

 元ソニーの社員が書いた本はまさにその様になっています。
 (参考:高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」日経ビジネス人文庫)

 やり過ごすことが勢いのあった時代の日本企業を支えていた、というのです。

 

 
 カウンセリングでも、本来大切なのは傾聴ではなく観察。

 治療者であれば、クライアントさんの様子を、よーく観察する。
 言葉は真に受けない。あくまで観察のための材料。基本的にはやり過ごして、聞き流さないといけない。

 良い料理人が目利きをするみたいに、素材を選り分ける。
 良い研究者やジャーナリストみたいに、証拠を吟味して、取捨選択をする。

 

 言葉が1000あれば、そのうち本来の言葉はかろうじて3つあるかないか、かもしれません。
 日常であれば、ほぼ0といってもいいくらい、言葉には意味がない。言葉は本来神のものですから。

 

 ローカルルール人格とはニセの神様になった状態のことです。
 (いじめを行っている人たちや、あおり運転の人たちも、まさに神のような全能感を持って他人を裁いている様が最近であれば動画で記録されています。)

 日常の言葉とは、その方の生育歴からくる雑多な感覚を目の前のものに投影してただ吐き出しているだけ。何も”代表”していない。

 
 悩みを抱えている人にとっても、こうしたこと知るのはとても大事。

 

 自分自身がローカルルールの影響から逃れるためにも、ですが、日常でハラスメントにあわないためにも、です。
 人が発する言葉にはすべて意味がないと知れば、「~~さんって嫌なところがあるよね」みたいな気になる意味深な言葉も、全く意味がないとスルーできるようになります。

 

 日常の言葉は戯れ言としてすべて聞き流す。言葉は何も表していない。
 (聞き流してはじめて本当のコミュニケーションが取れるようになります。)

 

 

 今までは理想化して、恐れていた人が、大したことがない存在であること、「解離しやすいおサルさん」でしかなく、話す言葉も意味深なだけの意味のない言葉であることがわかってきます。人に対する怖さがなくなってきます。

  
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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「自分が気がついていないマイナス面を指摘され、受け止めなければならない」というのはローカルルールだった!

 

 人間にとって、一番のダメージとのなるのは、「自分が気がついていないマイナス面を他人から指摘される」ということではないかと思います。まさに不意打ちを食らうような感じで破壊的なダメージとなります。

 

 ”自分が気がついていない”というところがポイントで、これがあると、結局どこまで行っても、「自分が気がついていないこと」というのはなくなりませんから、いつもどこか自信が持てない状態に追い込まれてしまいます。

 こうしたことを悪用しているのが、かつて流行した洗脳型の自己啓発セミナーで、参加者同士でその方の欠点を言わせて、自我を破壊したあとに、拠り所を渇望し始めた参加者に、主催者側が刷り込みたい理論を伝えると、高揚とともにそれを吸収していきます。

 

 

 中国で行われていた洗脳はそれを徹底していて、「ラストエンペラー」という映画でもその一端が描かれています。

 看守が、元皇帝の靴のヒモをわざとほどきます。
 すると、靴ヒモを結んだことのない皇帝はヒモが結べないために、自分が一般人の常識が身についていないことに気づかされます。
 こうしたことを繰り返していくと、だんだんと自我が壊れていき、最後は従順な共産党支持者となっていく、というものです。
  

 私たちが日常で遭遇してきてトラウマになっている家族や友人、上司のふるまいととても共通すると思います。
 

 

 特に私的環境において、

 「実は、あのとき、私はあなたに対して~~だと思っていた」とか、  
 「あなたは~~という面があって、とても不快だった」とか、
 「気がついていないだけで、あなたは~~だ」とか、

 実はこうした指摘はすべてローカルルールによるものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 指摘は作られたもので、本当の事実ではない。

 

 

 指摘してくる人の背後には嫉妬や、支配欲、あるいは自己の不全感があります。それによって、ローカルルール人格にスイッチして、こうした破壊的な指摘を相手にぶつけて、相手の自我を傷つけ、支配しようとします。

 

 人間には気質、生育歴に差があって、知っていること、出来ることにも差異があります。また、パフォーマンスが発揮されるためには環境からの支援が不可欠です。

 つまり、事実というのは客観的に定まったものではなく、環境によってかわり、意図によっていかようにもなる、ということです。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 

 

 例えば、皇帝がヒモを結べないのは仕方のないことです。ある職業の人が、別のことができないのはよくあることです。一流企業の社長もタクシーの運転はできないでしょうし、農作業もうまくできないかもしれない。スポーツ選手は、デスクワークは不慣れでしょう。それは仕方のないことです。

 

 海外のバラエティドキュメントに「アンダーカバーボス」という番組があります。大企業の社長が変装し、平社員として現場で働く、というものです。働いてみると、現場での作業ができない。それで社長なのに怒られたりする。現場で働くことで、会社の問題点が見えたり、社員の気持ちがわかったりするようになっていきます。

 社長とはいえ、ブランクがあったり、経験していない仕事はできません。人間とはそんなものです。でも、万能感があるために、それに気がつかないだけ。
 
 

 

 多くは、ちょっと学べばできたりする程度のことだったりします。靴ヒモなんてすぐに覚えられます。

 しかし、ここに人間の不全感や、嫉妬といったものがはいると、途端にローカルルールによるニセ事実が作り出されます。
 

 「お前はその歳にもなってそんな事もできないのか!」

 と、ひとこと言うだけで、「仕事ができないだめな人間」という“事実”を作り出して、相手をマウンティングすることができます。
 

 

 これを真に受けてしまうと、「確かに、俺は靴ヒモ結べないし・・・」とか「運転できないし・・」とか、「こんな簡単な仕事もミスしちゃうし・・・」となり、人から「気にしなくていい」と言われても、「いやいや事実だし・・」となって長く取れない呪縛となってしまいます。

 

 子どもの頃に、「あなたは~~だ」と親から言われたことも大半は作られた事実に過ぎなかったりするのです。それが長く呪縛となってしまっている。

 

 つまり人のいうことは客観的な事実ではなく、単なる主観でしかないものです。しかも、人間は簡単に負の感情に落ち込んだり、人格が変わってしまう生き物です。耳を傾けるには人間の意見はあまりにも信頼性が低いのです。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 耳を傾ける信頼性があるとしたら、公的な環境が整った場面においてのみ。
具体的にはお金を払って専門家からアドバイスを貰うとか、まったく他に利害関係を削ぎ落とした状況においてだけです。

 会社の状況が悪いので、専門から「実は・・・大変な状況ですよ」とか、健康診断で、医師から「実は、ここに疾患があります」とか、フィットネスクラブで、コーチから、「ここの筋肉が使えていませんよ」とか、
 

 ※いわゆる学校、職場という場所は公的な環境かどうかはとても怪しくて、教師の嫉妬や不全感などからおかしな私的感情が入ることもあります。むしろ、塾などのほうが公的な環境に近いと言えます。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 養育環境などでおかしな助言や指摘を受け続けていると、まさに洗脳セミナーのごとく、混乱させられて、何を受け取って、何を受け取らないほうが良いのかがわからなくなってしまいます。

 結果として、本当に受け取るべきときに助言を受け取れなくなってしまって、失敗してしまう、ということも生じます。

 

 

 人間は本来は、養育環境では、愛着(安全基地)を土台として、自分らしさというもの、自分への信頼というものを育んでいきます。さらに、二度の反抗期では、親の教えにも「イヤイヤ」と否定することで、自立を果たしていきます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 そうした「自分」というものがシステムとしてある程度確立していく上に、知識や技術、経験が形作られていく、というものです。

 

 しかし、いわゆるローカルルールによる「耳の痛い」指摘は、その土台を掘り崩してしまいます。いっときは良くても、自分の良さが失われてしまい、長く力を発揮できなくしてしまいます。

 建物もそうですが、足場を破壊しては建築していくことはできない。
自然環境も精妙なバランスでできていて、壊して良くなるというものではない。

 

 「人間は成長するためには、耳の痛いことも人から言ってもらわなければならない」というのは実はローカルルールです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 もっともに見えますが、
 「建物は、立てるためには足場を破壊しなければならない。」「自然のバランスは壊さなければいけない」といっているようなもので、そんなことはありえないのです。

 

 「いや、でも、いろいろな人の経験談などを見ると、人からの指摘で目を啓かされたというのは聞くけど」という人がいるかもしれません。

 

 それは、その内容をよほど精査しないといけません。

 自分が成長できた、目を啓かされた、という体験の実情は、果たして本当にそうだったのか?上に書いた洗脳されたラストエンペラーのようなことになっていないか?
  
 支配欲や嫉妬から発したことをまさか「これは嫉妬です」という人はいない。
 「あなたのためだ」というふうに騙ります。

 

 それを真に受けた人が「耳の痛いことを行ってもらって、あれで私は良くなった」といった人もかなり多いのではないか。

 良くなった、と思わされているけど、本来の自分を発揮する伸びしろは確実にそがれ、萎縮する形での改善になっていることが考えられます。

 ラストエンペラーも「共産党と人民のおかげで、私は良い人間になれました」と言うでしょう。自己啓発の参加者も、「このセミナーのおかげで、私は変われた」という。でも、洗脳ですから、本来の自分は抑圧された結果です。

 

 世の中にはこうしたニセ美談がたくさんあって、それが私たちをハラスメントから逃れることを妨げています。

   

 「いや、それでも、人間はときに自分が気が付かないことも指摘されることは大事では?」と思うかもしれません。 もちろん、指摘が必要な場面があります。岡目八目が必要なことはある。

 それは、公的な環境においてのみ。
 利害関係を削ぎ落とした状況で専門家からアドバイスを貰うというようなことです。

  
 私たちは食べ物でも、安全を確認してから食べるのに、人の意見について毒味もせず受け止めるなんてありえない。
 

 

 健康な人間には自他の別があり、それぞれ自分のことだけで生きているのですから、相手のことに構う、という時点でかなり異様なことなのです。それを越えて「あなたのため」と言ってくることは耳を傾けてはいけない。

 親族の言葉、助言というのは一番怪しいものです。

 

 アドバイスを貰うなら、お金を払うなりして、こちらから貰いにいかないといけません。

  
 基本的には、システム全体を入れ替えるような指摘するというようなことは、神にしかできない。ローカルルール人格は、ニセ神様を演じますから、さながら神のごとく指摘しようとします。

 でも、それは単なるローカルルール。
  
 真に受ける必要もないし、気にする必要もない。

 
 すべては、まずは自分というシステム(内部環境)を大事にして、そこから積み上げていくことが大切。

 

 実は、健康な人は自然とそうしている。例えば職場でも、上司の話は話半分で聞いている。内容を精査している。「デキる社員はやり過ごす」という本がありましたが、真に受けたりはしていない。でも、意固地ではなく、素直に聞いているように見えている。それは土台があるからできるわざです。

 
 
 私的環境における人の言葉はすべて戯れとして聞き流す(家庭の中は特に)。
 公的環境における言葉は吟味にして受け取る。
 職場や学校のようにローカルルールがはびこりやすい環境では、よほど精査して、話半分できく、ということが必要です。

(参考)人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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意味深というのは、ローカルルールに巻き込むための方策

 

 「大切なものは目に見えないんだよ」

 

 という台詞で有名な「星の王子さま」です。

 素敵な童話というように考えられてきましたが、東大の安冨歩教授によると、これは、モラルハラスメントについて書かれた作品だ、といわれています。 

 
 王子さまはバラとかキツネとか、出会うキャラクターたちの意味深な発言に混乱させられ、罪悪感を植え付けられて、徐々に支配されていくさまが描かれています。

 「ハラスメント被害者の物語」というのが、「星の王子さま」の別の姿です。

 

 「大切なものは目に見えないんだよ」というのは、一般には素敵なセリフとして紹介されていますが、とんでもない。その逆で、意味深さで王子さまを縛る呪い言葉だったのです。

 

 
 私たちも星の王子さまのように、ハラスメントの呪縛にかかって苦しんでいるのですが、その中でも厄介なのは、身近な人が発する意味深な発言です。

 意味深な発言というのが、さながら、コンピュータに演算不能な関数を打ち込んでダウンさせてしまうように頭をぐるぐるとさせて、私たちを縛り続けてしまうのです。

 

 世の中には、意味深なことを言ったりする人は少なくありません。

 予言めいたことを言う人もいます。

 「あなたは将来こうなる」とか。

 

 特に家族は厄介で、家族からの意味深な言葉がずっと残っていて、クライアントさんを縛っていることがよくある。

 

 実は単に、ローカルルール人格が発した世迷い言でしかないのに。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 

 現代は人間が理性的な存在である、という前提があるために、私的環境においては、人間が日常的におかしくなるのだ、ということが忘れられている。
おかしくなるというのは、よほどの酩酊、錯乱状態のときだけとされている。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 その為、日常で発せられる意味のない意味深な発言を真に受けさせられている。

 

 実際はそんなことはなく、
 たとえ地位のある人の言葉でさえ、日常においては戯れ(戯言)でしかなく意味などない。
 

 それなのに、なぜ意味があるように聞こえるかといえば、ローカルルール人格というのは、“神化”しているから。

 

 ニセ神様のようになってしまっていて、あたかも自分がすべてを知っていて、相手を支配する力があると錯覚した存在だから。
 ただ、認識できる範囲は狭いので、具体的に言うことができない。独自の不思議世界の中にいる。そうしたこともあって“意味深な”発言となってしまうのです。

 

 

 一方、真に受ける側の事情もあります。
 

 長い間、理不尽なストレス環境にあると、安心安全がないために物理的な現実を信頼することができない。世の中というのは理不尽に突然襲ってくるものだ、という感覚があります。
 
 また、あまりにも現実がうまくいかないために、それらを迂回したり、寄る辺を求めるためにスピリチュアルなものに対しても親和性を持ってしまうことがある。

 さらには、トラウマを負った人というのはいつも深刻なのです。リラック史できず過緊張でガチガチです。そのため、真に受けなくても良いことまで深刻に受け取ってしまう。

 すると、意味深な言動というものが何やら聞く必要のあるかのように感じられてしまい、真に受けてしまうようになる。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 相手が意味深なことをいうときは、ローカルルール人格にスイッチしているのですが、実際の治療現場でも意味深発言というのは起こります。

 

 あるセッションで、クライアントさんが“本音”を吐露し始めました。
 幼いことからのこと、治療者への要望や陰性感情などもふくめて、とっても意味深な内容で、治療者としてはなんとか話に耳を傾けて理解しようとします。特に要望は聞かなければとがんばります。

 なんとか、こういうことかな?と意味がわからない部分がありながらも懸命に受け止めた、と思って、セッションが終わりました。

後日、しばらくして何回かあとのセッションの機会で、

 「あのときのことは実は、治療者を巻き込もうとしてやっていたことだったとおもいます」

 とそのクライアントさんがおっしゃったそうです。

 「あれは本当はそうは思っていませんでした」と。

 

 治療者は驚きました。

 「ええ~!一生懸命聞いていたあれは何だったの?」

 やっぱり、人格ってスイッチするし、意味深な発言っていうのは意味がないんだ、ということを示す出来事です。

 

 

 要は、「意味深」というのも、巻き込むための方策でしかないことをあらためて教えられるエピソードです。

 

 

 「ドクターハウス」というアメリカの医療ドラマがありますが、その主人公の口癖は、「患者はウソをつく」といいます。

 

 さすがに、「治療者が患者さんの話を嘘と思って聞いてはまずいでしょう」「そんなひどい治療者にはなりたくない」と思ってしまいますが、「私はクライアントさんのすべてを受け止めます」とやっているとでも、はじめのうちは良いのですが、しばらくすると本当にやられてしまいます。ある日ひどいクレームにさらされて、治療者を辞めないといないところまで精神的に追い込まれます。

 これは、カウンセラーなどの治療者あるあるですね。

 

 ベテランの治療者はそのことを知っていて、うまく流して本質を捉えようとします。特に依存症などを扱う(依存症は人格が顕著に変わる症状です)医師やカウンセラーなどは、真に受けないように、巻き込まれないようにトレーニングをされているそうです。

 

 ドクターハウスの主人公は、要は「本質に目を向けろ」といっているわけです。人間というのは弱い生き物でいろいろな事情を抱えていて本当のことが言えない場合もあるし、人格もスイッチするから真に受けていたら二進も三進もいかなくなる。

 
 カウンセリングでも同様に、クライアントさんの本来の人格の言葉を聞くためには、表面的な言動に惑わされてはいけないし、その奥にあるものを捉えないといけない、ということになります。

 

 治療場面だけが特別ではなく、私たちは日常でもにとってもこうしたことはしばしば接します。特に親族、友人、知人、会社の上司、意味深発言、というのはまともに聞いてはいけない。

 スルーするか、「なにうさん臭いこと、いってるねん!」と突っ込み返さないといけない。相手は神様ではなく人間なんですから、分をわきまえない意味深な言葉なんて発する力ありませんから。

 

 実際に、よくあるお笑い芸人の漫談で、すごく伝統や権威のある、と思っていた人とか占い師めいた人の話を真剣に聞いていたら、ただのおじいさんだったとか、実はそうじゃなかった、いい加減だった、みたいな笑いばなしがありますが、まさにそんな感じ。

 

 

 人間の言葉は本当に意味がない。
言葉が意味を持つのは公的環境においてのみです。

 

 特に意味深発言は耳を傾けてはいけません。意味を考えてはいけません。前回の記事でも書きましたが、日常の会話というのは戯れとして流していくものなのです。

(参考)人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 歴史学の世界では、「史料(資料)批判」という言葉があります。

歴史の史料も、それが本当なのか、適切なものなのかを吟味する、取捨選択することを言います。

 歴史学以外の学問でも同様で、研究で得た素材をそのまま無批判に受けるということはありません。その史料がどういった性質のものか?誰がなんのために残したものなのか、その意図や、内容が虚偽ではないか、を確認していきます。

 史料として集めても、極端に言えば、9割以上は使えずに捨てるという結果になります。

 

 理系での実験データなどでも同様に、その内容は徹底的に吟味されます。統計でいろいろと数字を出してみても大半は意味のあるものではなく、試行錯誤して、ようやく意味のあるデータを拾い出す、という感じです。
 

 

 このように、得られた史料、データや素材をそのまま用いることはなく、厳しくチェックした上でエビデンス(証拠)として採用されていきます。虚偽が混じっていたり、解釈のできないデータが入っていたりして、論文などはかけませんし、ちゃんとチェックをしなければ信用を失ってしまいます。

 

 

 
 「目利き」という言葉があります。
 例えば、宝石商の人が宝石の価値を鑑定したり、偽物かどうかを見極めたりします。

 最近は中古品買い取りが一大ビジネスになっていますが、ブランド物のバッグもマニュアルを作ったり、訓練を受けた係員が値打ちを判断し、買取額を判定します。
 

 鑑定せずすべてをホンモノだとして買い取ったりしたら会社は大損をしてしまいますし、顧客の信用を失ってしまいます。

 
 世の中は偽物も多く、まだ騙そうとする人もいます。そのため、それを選別したその判断をすることで秩序が保たれています。

 

 

 

 そんな中、私達の日常に視点を戻してみると、あれ?と思うことがあります。

 それは、「人の話をよく聞かなければならない」という考えが正しい、とされていることについてです。

 

 トラウマを負っている人たちに顕著ですが、「人の話はよく聞かなければならない、受け止めなければならない」という考えを私たちの多くは持っています。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 特に、
 「耳の痛い話ほど、受け止めなければならない」ということを私たちは独りよがりにならない戒めとして信じています。

 

 しかし、これはかなりおかしな、そして危険な考えです。

 

 

  
 例えば、私たちは、食べ物でも、毒のあるものは食べません。長い歴史の中で、人類は毒のあるものとそうではないものとを見分けてきました。キノコなどは猛毒のものもあります。間違って食べたら即死してしまいかねません。

 腐っているものも食べません。お腹を下してしまいます。
 だから親切に消費期限や賞味期限という情報が提供されています。

 食べ物は選り分けるのが普通で、なんでもかんでも食べるなんてことはしていません。体に悪いものは食べない。そうしなければ健康的な生活をおくることができなくなります。

 

 
 この世界で健康的に生活したり、事実を掴むためには、接する事物を吟味し、そして多くを捨てなくてはならないのです。まず受け入れることの前に、チェックし、捨てることが最初にあります。

 

 

 そうした常識の中、
 私たちは、なぜか、「人の話はすべて受け止めなければならない」という考えを信じています。

 そして、過去に言われた家族や友人知人たちからの言葉を、あたかも神からの託宣のように受け止めて、その呪縛に苦しんでいます。

 

 なぜ、このような考えが、正しいと受け止められて、広まってしまったのでしょうか?

 

 

 臨床などでわかってきたことで、このブログでも度々ご紹介していますが、人間というのは容易に解離します。ちょっとした刺激で人格がスイッチする生き物です。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 最近問題となっている、あおり運転をみればよくわかります。ちょっとした刺激で人格が変わります。並走車に割り込まれたり、相手がゆっくり走っていたりしただけで、不全感を刺激された人格が豹変して相手の車をあおり、暴力や、果ては殺人まで起こすということが起こります。

 

 DVもそうです。仕事では優秀な社員とされている紳士的な人が、家では人格が変わり、暴力を振るう。そして、常識からはわけのわからない理屈をこねて、暴力を正当化します。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策
 

 

 いじめもそうで、かわいいはずの子どもたちが、同級生をいじめて、最悪は死に追いやる。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 そこにもおかしな行為を正当化する勝手な理屈があります。

 その勝手な理屈をローカルルールといいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 人間社会にはそこここにローカルルールというものが存在します。不全感から起きるネガティブな感情を正当化して、人を攻撃したり、支配したりすることです。

 

 ローカルルールは人から人へと感染していきます。
 特に私たちの中の人格に感染し、感染した人格は刺激を受けて前に出てきます。普段はまともなひとが、急におかしなことを言い出すのはそのためです。

 

 

 また、立場が近い人ほど互いに嫉妬に巻き込まれることもわかっています。 
嫉妬というものは厄介で、いくら理性で抑えようとしても抑えることは叶わず、嫉妬を刺激されると破壊的な人格に変身して、他者を惑わす言葉を吐いたり、攻撃したりします。

 こうしたことから自由な人は誰ひとりいません。
どんな立派な人でも嫉妬は沸き起こります。

 

 

 
 人間は、公的な環境では、本来の自分でいられますが、私的な環境におかれると解離しやすく、すぐにおかしくなってしまうのです(ローカルルール人格にスイッチするのです)。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 
 ローカルルール人格は、支配欲や不全感を発散させたいというネガティブな感情から、思わせぶりな発言をしたり、意味深なことをいったり、非難してみたり、そして、それを常識だとして騙ったり、様々なことをして、他者を惑わせています。 

 

 

 ローカルルール人格が発する言葉や理屈というのは、全く意味がありません。
 なぜなら、実態は個人的な感情だからです。

 以前の記事でも書きましたが、クレームについても9割はローカルルール人格が行っているニセのクレームです。あおり運転を行う人の文句と同じです。

(参考)→「世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 ローカルルールというのは、もっともらしい理屈を言ってみても、意味深な内容に見えても、中身は空っぽです。
 ですから、切って捨てないといけない。真に受けてはいけない。
 人間のコミュニケーションには相手を支配したり、呪縛したりして、拘束する側面もある。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 真に受けると、その方の本来の自分が蔑ろにされてしまうからです。
 

 

 

 世の中ではローカルルール人格による巻き込むためのニセの本音が飛び交っています。それらは、まともに相手にするようなものではないのです。 

 そうした環境に生きている中、「人の話はよく聞かなければならない」という考えは果たして適切なのでしょうか?

  
 当然ながら、全く正しいものではありません。

 

 人の話には、そのまま受け止めるのはあまりにも不純物が多すぎる。

 

 

 食べ物に置き換えてみれば、 
 「すべての食べ物はチェックせずにそのまま食べなければならない」といっているようなものです。毒や腐ったものにあたって死んでしまいます。

 

 実際に、人の話をよく聞かなければ、と真面目に考えている私たちは、人の話を受け取って、頭が真っ白になったり、体が固まったり、相手の発言が気になってぐるぐる回ってどうしようもなくなったりしています。

 人から言われた言葉を真に受けて、答えを探そうと私たちは何年もその事を考え続けてしまいます。

 本当は意味などなかったのです。切って捨ててよかった。

 

 

 これまでの心理療法では、話を受け取ったあとにいかに頭が真っ白になったり、ぐるぐる周りが起こらないか?ということに取り組んできましたが、よくよく考えれば、受け取る時点で、チェックして受け取らない必要があります。
 毒を食べてからでは遅いのです。

 

 そのためには、当たり前と信じてきた「人の話を受け取らなければならない」という考えを疑わなければなりません。
 

 

 正しくは、

 「人の話は聞いてはいけない(基本はすべて捨てて良い)」

 

 もっといえば、
 「よく吟味して、怪しいものはすべて捨てて、本当に大丈夫なものだけ、自然と伝わって来たものを吸収する」ということになります。

 

 特にローカルルール人格が発する発言は、全く意味をなしません。
 聞く価値はありません。

 以前の記事のも書きましたように、いじめっ子の身勝手な論理に耳を傾けるようなもので、本来は、一刀両断に切って捨ててしまわなければならないのです。 

 間違って寄り添うと
 「誤った共感」になってしまいます。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 意味深で、なにか意味があるのかも、とおもったり、人の話を聞かないと独りよがりな人間になってしまう、と考えてしまうとおかしな呪縛にかかってしまいます。 

 

 

 学問における、「優秀な研究者」とは、資料やデータを徹底して疑う人たちです。

 「良い目利き」とは、疑い、ニセモノや価値の無いものを捨てていく人たちのことです。

 

 同様に、「聞き上手」とは、人の話を真に受けない人のこと。人の話を聞かない人のことです。

 世の中で、「ちゃんと私の話を聞いてくれる」とか、「共感してくれる」という人は、実は、「人の話を聞いていない」のです。

 人の話を聞かないことで聞き上手になっている、というのは、ニセモノを見極め除いて、本物を受け取ってくれる、ということです。

 

 

 トラウマを負っている人たちは、
 「人の話をよく聞かなければならない」ということを強く信じている傾向にあります。

 それは、養育環境の中で、理不尽にさらされていたから。
 理不尽な家族や友人知人が、ローカルルールを強制する環境にいたために、「何を捨てるのか、何を捨てないのか」を混乱させられた環境で生きてきたから。
 

 直接的に「あなたは人の話を聞いていない(もっと私の話をありがたく聞け)」といった叱責を浴びてきた人もいるでしょう。
 
 あるいは、機能不全に陥った家族をなんとかしようとして、真面目に一生懸命、理不尽なものを全部を受け止めさせられてきたからです。

 恣意的にゴールポストを動かされて作り出された事実を客観的なものだと信じさせられてきた人もいます。
  
 トラウマとは、まさにローカルルールの毒気にあたった、中毒状態と言えるかもしれません。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 ここで書いてあることも、健康で、世慣れた人にとっては、実は常識といえるもので、「(人の話をいちいち真に受けて聞かないなんて)そんなの当たり前じゃない」ということだったりする(言葉には出さないけど実は常識という“裏ルール”)。

(参考)→「“裏ルール”が分からない

 でも、トラウマを負った人にとっては、わざわざ拭わなければならないくらいの枷となっていることでもある。

 

 

 私たちが、日常生活において、特にプライベートな空間でかわされる言葉の9割(99%?)以上は、真に受けず捨てて良い。ローカルルールが飛び交う中で、まともにうけるには人の話はあまりにも危険だからです。

 

 聞くべき話があるとしたら、お金を払って専門家からアドバイスを貰うか、信頼できる書籍の中からなどしかありません。つまり、ローカルルールが入る余地を排除した公的な状況でなければ人からは真に受けて良い情報は得られないのです。

 

 それでは安心して日常会話ができなくなってしまう、と思うかもしれませんが、会話が持つ役割が違うということです。
 日常におけるプライベートな会話とは、”戯れる(たわむれる)”ためにあるもので、真に受けるためにあるものではない、ということ。

 

 “戯れ”として接することができれば、リラックスして会話を楽しむことができます。稀にローカルルール人格が前面に出て失礼な発言があった際には、ツッコミをいれて、公的な状況を作り出して相手を我に返す。

 日常でおしゃべりを楽しんでいる安定型の人は実はこれができている。

 

 仕事(や学校)は公的な場ですが、社風(校風)にもよりますが、残念ながら特に社内というのも、どちらかといえばローカルルールがはびこりやすい私的環境に当たります。嫉妬や不全感と言ったものが顔を出しハラスメントが横行することもあります。

 真に受けられるのはどちらかといえば信用できるのは、お金のやり取りがある取引の場面での会話のみで、職場の会話も戯れとして聞く必要があるのでしょう。

 

 

 元ソニーの社員が書いた「できる社員は「やり過ごす」」という本でいわれているのは、まさに人の話は戯れとして真に受けず大事な仕事を見極めて打ち込め、ということなのだと思います。 

 反対にトラウマを負った人は、人からの話はすべて客観的な事実であり、神からの託宣のように受け取って、意味などないそのない意味をずっと考え続けさせられています。
  

 日常における人の言葉はまったく意味がない。戯れ※として楽しみ、流す。
 すると、自然と本当に受け取るべき本質が見えてきます。
 

 

 ※「戯れ(たわむれ)」とは、「遊び興じること。ふざけること」ですが、「戯言」と書くと「ざれごと」と読み「たわけた言葉。ばかばかしい話」という意味になります。

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について