自信はどこからやってくる?~「安心安全」は、自信ともつながっている。

 

 自信がない、というのは多くの人が感じる悩みの一つです。

 これまでの認知行動療法などや、自己啓発でも、自信は個人の考え方などに起因するとしてきました。そのため考え方や行動を変えることで自信が得られるとしてきました。

 ただ、実際に取り組んでみると(もちろん全く効果がないということはありませんが)なかなかうまくはいきません。

 自信のなさは、個人の頭(心)の中に原因があるという仮説は、実はそうではないことがわかります。
 
 

 

 もう一つ、自信がないのは実績が無いからだ、実績があれば自信が持てる、という考えも俗な観念としてあります。

 例えば、容姿とか学歴とか、収入とかが良ければ自信ができる、悪ければ自信がなくなる、という考え方。

 たしかにある部分はそうです。
 例えば、野球選手が練習の結果、活躍できれば、自信になるといったことはあります。

 

 しかし、実績が十分にあったとしても、自信がない人は世の中にはたくさんいます。

 どういうわけか自信がありません。

 他者から「これだけ実績があるのだから自信を持ったら」と言われても、全然ピンとこない。

 筆者も、どういうわけだか自信がないということがあって、いくら実績を積んでも、セラピーをしてみても、どうしても自信が高まらずに苦しんだ、ということがありました。
 

 いろいろと経験し、調べてみてわかってきたことは、実績というのは、すでにある自信を強化する要素の一つでしかなく、自信そのものではないということです。実績は基礎的な自信があってその上に積み上がっていくものです。

 

 

 

 では、本来の自信というのは 何によって決まるのでしょうか?

 まず、結論から言えば、それは「他者からの承認の量」で決まります。

 一番わかりやすいの例は、親からの承認です。
 いわゆる「愛着」です。

 親自体が「安全基地」として機能して、支えてくれることは、社会生活を送るうえで様々な領域で高い汎用性を持つことが明らかになっています。
 まさに、パソコン、スマホにおけるOS(オペレーティングシステム)のような役割を果たしてくれます。

 「愛着」は存在(Being)レベルで体感的に承認をしてくれますから、根拠のない自信というものをもたらしてくれます。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 

 反対に、親が不安定であったり、不和で喧嘩が絶えない、暴言が止まらないといった機能不全環境に生きてこられた方は、必然的に自信がなくなってしまいます。
 (暴言は、自信に向けられたものだけではなく他者に向けられているものも含まれます。)
(参考)→「「汚言」の巣窟」 

 

 

 機能不全家族では、親や家族といった身近な人から味方をしてもらえないといったこともしばしば生じます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 親が偽りの公を騙り、喧嘩両成敗的な言い訳で、対外的にトラブルにあったときに、いつも「あなたにも悪いところがある」といった対応をする。

 夫婦が不和や家族への嫉妬から、そのストレスのはけ口に「あなたはだめなところがお父さん(お母さん)にそっくり」といった言い方をされる。
 単に自分の不満を子どもをダシに解消しているだけ。

 あと、兄弟間でえきひいきがあり、公正さや正義が行われていない。

 などなど

 こうしたローカルルールが支配する環境で長く巻き込まれていると、自信はボロボロになります。まさに戦争や災害の被害に巻き込まれたかの如くトラウマを負ってしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 一見自信がありそうでしっかりしていそうな人でも、”自分”という中身は空っぽ、ということも少なくありません。
 
 自信があるように見えても、躁的に自分を盛り上げたり、
 他者からよく見えることや称賛を得ることばかりに意識が行っていたり、
 あるいは他者を見下すような感覚であったり、
 世の中に反発するような感覚であったりすることもあります。
 
 いずれにしても、どこか地に足がついていない、本当の自信とは違う感覚なのです。

 

 

 

  
 トラウマを負った人にとっての悲劇は、自信を取り戻そうとする過程でも起きます。
 

 自信とは他者からの承認、ということですが、承認を得ようと努めてみても、なかなかうまくいきません。

 集めようと努力するのですが、なぜかうまく承認は得られない。承認らしいものがあったとしても受け取れない。
 

 
 自信とは心の問題だ、という言葉を信じて気持ちを盛り上げようとしますが続かない。反対に躁的な感じになり、傲慢やプライドが高いと取られて、反対に傷ついたり、自分を責めるようになってしまう。

 

 今度は、自信≒実績なのだとして頑張ろうとしますが、瞬間的に評価を得られますが、長くは続かない。
 トラウマを負った人は、それまでのなかで否定されてきたので、少しの成果は実績とは受け取れません。
 そのため実績が積みあがらない感覚に襲われる。
 誰からもケチのつけようもない圧倒的な実績を求めるのですが、そのためにはどのように努力していいのかがわからなくなってくる。

 

 

 また、継続的な成果を上げるためにはチームプレーが必要です。
 さらに、表面的には成果が上がらない「待つ」時間もとても大切。

 しかし、トラウマを負っていると、「安心安全」(足場)がないために、それがうまくできません。他者との関係が築くことができなかったり、成果を「待つ」時間が「成果が得られていない」と感じて怖くなったりして、余計な動きをしてしまい、待てば得られるはずのものを台無しにしてしまったりします。

 

 そうして努力が続かなくなり失速していく、ということが起こります。
 トラウマを負っている人の中には、会社などでも最初は評価されるんだけど、結局ダメになってしまう、という方は多い。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 

 これは、「安心安全」(足場)がないために生じる現象です。
 

 前回の記事でも書きましたが、
 人間の成長、成熟(社会に出る)とはなにかといえば、それは、自分の心身や関係において安心安全を築きながら徐々に領域を開拓、攻略していくことです。
 その開拓、攻略の果てに「社会」というものがあります。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 「安心安全」とは公的な環境によって作られます。

 公的な環境による安心安全があるとあたかも騎士道精神のように、相互にリスペクトし、承認し合うことができます。

 承認をもらうためには、公的な環境づくりによる「安心安全」が不可欠です。

 対人関係において公的環境を形成するのは礼儀やマナーと言ったプロトコルであったり、嫌なものについては「NO」といったり、必要に応じて突っ込んだりすることです。

(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 しかし、公的環境が作れないままだと、「人間は私的環境では解離して容易におかしくなる」という性質があるために、ただ承認を貰おうとしても、嫉妬で発作を起こしてしまい、こき下ろされたり、ローカルルールに巻き込まれて、そのままでは承認が得られない。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 

 人間とは社会的(クラウド的)な生き物で、社会に接続されることで初めて機能する。

(参考)→「人間、クラウド的な存在

 だから、社会とつながろうとして努力するのですが、トラウマを負っていると、そもそも足場(愛着≒安心安全)がないためにそれがうまくできない。
 ローカルルールを真に受けると、ローカルルールが社会そのものになってしまいます。
 本来つながりを持つべき「社会」が何やら危険で不安な場所となってしまう。自信の源から自然と遠ざかるようになる。

 そのうち、対人恐怖や社会恐怖が強まっていき、、安心安全から人とかかわることができず、承認をうまくもらうことができない→自信が育たない、という悪循環に陥ってしまう。

(参考)→ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 

 仮に、相手から承認が得られたとしても、安心安全がないために、それらを受け取ることができない。
 成果によって得られた承認は、「また次に成果を挙げないと失われてしまう」という事になり(見捨てられる不安)、承認を得られたとしても不安なままです。次から次へと成果を上げる必要がある、と思うと絶望的な気分になります。

 

 ※ひきこもりのケースなどは 機能不全環境の中でまさに足場を失わされてきたと考えられる。それは本人の心の問題などではもちろんなく、「安心安全」(足場)やそれを形成する公的環境づくりができなくさせられてきた、ということに起因する。社会が怖いし、自信がないし、わかっているけどどうしようもできない、という状態になるのはそのためです。

(参考)→「上手に退却(引きこもったり)し、上手に社会とつながる」 

 

 このように自信がない、という場合に、ただ、考え方を変えて自信を持とうとか、実績を作ろう、としても意味がありません。
 自分の内外に「安心安全」を少しずつ作り出す必要がある。それが承認を生み、自信につながっていきます。
  

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 私たちは、“愛着”という足場を基礎として、徐々に公的な環境を自分の内と外に作り出していきながら成長(社会化)していきます。

 公園デビューをした時、幼稚園・保育園に入園したとき、など、
 大人から教えられるのは、挨拶であったり、おもちゃを貸してあげなさい、ということであったり、「公的な環境の作り方」を教えられる。

 

 時に、相手が解離して「私的な感情」の洗礼を浴びるときがある。

 その時は、安全基地(愛着)まで後退して、親の力も借りながらストレスをキャンセルし、再び、公的な環境を作りながら、お友達との付き合いを再開させていく。

 安全基地(愛着) ←(行ったり来たり)→ 探索しながら“公的な環境”を拡張する旅

 といったことを繰り返していく。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 安全基地(愛着)が堅固であればあるほど、遠くまで旅をすることができる。

 愛着とは、親との子のきずなを指します。

 機能している親子だと、親子関係にも、健全な距離感があり、親も子を尊重する意識があります。
 親が不全感や発達障害傾向などがある場合は、その距離感が崩れて、距離が遠すぎたり、不安定すぎたり、近すぎたりする。
 もっとわかりやすく言えば、親が私的な情動を抑えられず、それが前面に出すぎて、不安定型愛着となってしまう。
 親はそのことをごまかして、これは正しいことだ、と強弁すると不安定さはより強まってしまう。

 

 不安定型愛着とは、親子の間に生まれたローカルルール状態のことだといえます。

 

 安定型の愛着は、それ自体が公的な環境のひな型となりえる。
 (相互に別々の人間であるというわきまえとリスペクトがあります。)
 

 人間は成長の過程で愛着という安全基地を足場として、さながら開拓民のように、探索行動をして自分にとっての公的環境を拡張していく。

 

 

 もちろん、心身に危険なこともある。その時は基地まで戻って、ストレスをそらしてまた再開する。身体への危害も、心への危害も、ともに私的情動によるものですが、公的な環境というバリアがあれば、それらから自分を守りやすくなります。

 

 

 公的な環境を拡張する旅は、自分の内側にも向きます。

 それは、精神的な成熟ということです。

 

 人間の精神は、社会での活動や肉体の発達とも不可分ですが、思春期などを経て、相手の気持ちを考えたり、抽象的な思考ができるようになるなどしていきます。

 発達課題、その中でもいちばん重要なアイデンティティの確立、という難しいテーマにも挑戦していきます。

 

 

 そして、人間が精神的に自立するためには、公的な環境を作り出すために大人たちから得た規範を内面化しつつ、それを棄てて、昇華するということが必要です。

 

 例えば、二度にわたる反抗期で、大人に対して「嫌々(NO)」ということ。
 大人の教えに反発すること。

 自分だけの秘密を持ったり、ウソが付けるようになったり、ということも必要。俗には”悪”と感じられるようなエゴも大切なことです。

 

 規範の内面化 → 規範の否定 → 規範の昇華 というプロセスを経て、公的環境が真に自分の土地となる。 

 

 

 さらに、成長とともに、社会的な役割も引き受けることになります。

 習い事、部活やバイトなどの「しごと」引き受けながら公的人格に憑依することを通じて、精神は落ち着きを持つようになります。

 新入社員の顔を見ればわかりますが、どこか人間としての所在が落ち着かない浮ついた感じから、ベテランになると、目や雰囲気がすわってくる。

 本当の自分はどこかべつにあるのでもなく、私的人格にあるのでもなく、公的な人格の中にこそあります。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 

 ですから、もし、精神的に不安定であったり、悩みの中にあるときは、そこから抜け出すためには、なんらかの社会的な役割をいただく、公的な人格をまとう必要がある。
 ただ、家にいても良くなることはありません。
 (家は、あくまで一時緊急避難先としての機能しかありません)

 
 私的な環境は、人間をおかしくしてしまいます。

 (参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 
 人間は、

 愛着(安全基地) → 公的な環境 → 公的な環境 →・・・
            (安心安全)  (安心安全)
          
 という形で、ストレスから身を守りながら、安心安全の領域を拡張していきます。
 

 社会で活躍できる方、精神的に安定している方というのは、分解すると、こうした段階を持っていると考えられます。
 
 
 登山の時も、基地を作って前進、基地を作って前進、と進んでいきますが、
 まさにそのような感じ。

 基地がなければ遭難してしまう。
 

 

 前回の記事で、トラウマを負った人は社会で活躍していくための足場を失ってきた、ということを書きましたが、

(参考)ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 反対に、トラウマを負っている、愛着が不安定な場合(あるいは発達障害傾向など)は、

 
 愛着が不安定 → うまく公的環境(安心安全)が作れない。 →  うまく公的環境(安心安全)が作れない。→・・・

 という感じになっている。

 安心安全の前線基地がないために、礼儀やマナーといった関係のプロトコルを上手く使うことができなくなります。

(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 その結果、関わる人が私的な環境にとどまり、情動をコントロールできず解離して、理不尽なことを仕掛けてきやすくなってしまう。
 もちろん、理不尽なことをする側に問題があり、トラウマを負った人には責任はありません。
 実際に、いじめといったローカルルールはこちらの状況にほとんど関係なくやってきますが、安全基地があれば、一歩前に戻って嵐がすぎるのをまったり、別のルートを選択することができる。

 安全基地がないと礼儀やマナーと言ったこと関係のプロトコルが何やら億劫に感じられるようになってきて、公的な環境がうまく作れないために、

 

 愛着が不安定 →  ローカルルール  → ローカルルール  →・・・
         (社会恐怖、対人恐怖)(社会恐怖、対人恐怖)
         
 

 という負の連鎖になってしまう。

 トラウマを負った人が感じる(見ている)社会や人間とは、社会や人間そのものではなく、ローカルルールでおかしくなった状態のものです。

 トラウマチックな記憶が処理されるためには共感が必要ですが、
 その記憶もうまく処理されずに、心身に残り、苦しみ続けるようになる。

 かりそめの安心安全を作り出そうとして、ニセ成熟と呼ばれる状況に陥ったり、宗教だとか、スピリチュアル、自己啓発に頼る場合もある。

 「ニセ成熟」というのは、ローカルルールに合わせて公的な人格を作り上げた状態で、本物ではないので、いびつで、本人にとっては自然体ではなく、ヘトヘトになるものです。本当の成熟ではないので長くは続きません。

(参考)→ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 ローカルルールに合わせた公的人格とは、理不尽な親や友達などの要求に応えるように頑張っているような状態のことです。
 (例:「あなたはすぐに調子に乗る」→調子に乗らない自分 「あなたは人から好かれない」→人から好かれるように頑張る など)
 

 また、自己啓発等の「安心安全」の代替は、あくまでかりそめであり、それ自身がローカルルールであることも多く、本当の安全は得られない事が多い。

 

 人間にとって正規の発達とは何か?というと、
それは、愛着を基礎に、自己の内外に公的環境を作り出しながら、「安心安全」を拡げていくプロセスということになります。

 
 今もし生きづらいなら、それは、安心安全の足場がない状態ではないか? 事実と思っていることがローカルルールではないか?
 と確認してみること、が大切です。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 前回の記事でも少し触れましたが、礼儀やマナーは、公的環境を維持して人間をおかしくさせないための装置と考えられます。

 人間は、私的環境に置かれるとちょっとした刺激で解離しておかしくなる性質がある。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 車でも、あおり運転が最近問題になっています。
 これも、私的環境が人間をおかしくしてしまう例です。

 車内という私的環境でちょっとした刺激に解離してしまい、乱暴な運転を行ってしまう。
 殺人にまで至ってしまうというケースもありました。

 バイクや自転車があおり運転する、というのをあまり耳にしないのは、やはり、空間的に外(公的環境)に開かれているためかもしれません。

 

 DVでも、外(公的環境)では紳士的な人が、家(私的環境)では豹変して暴言暴力をおこなってしまう。

 私的環境で問題を起こしてしまう人たちでも、公的環境では紳士的になる。そのくらい公的環境の力は強い。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 

 対人関係で理不尽な目に合わないようにする方法、簡単な魔法があるとすれば、それは、「礼儀」「マナー」ということになります。
 「挨拶をする」だけで、難しいコンディションの人でも公的環境の“制御”にかかる。

 

 以前、テレビでタクシー会社の社長が出ているのを目にしたことがあります。
その会社では、運転手にマナー研修や清掃を徹底している、と紹介されていましたが、その効果として、

「(暴言や暴力を働くような)お客様でも、こちらがマナーを良くしていれば、おかしくならない」

といったようなことをおっしゃっていました。

 

 確かに、クレーマーは、マナーの瑕疵を取り上げてケチ(因縁)をつけることが多いですね。裏返して言えば、マナーがしっかりしていると付け入ることができない、ということなのかもしれません。

 

 

 筆者が社会人になりたてで新人研修の時に、ある先輩社員が、挨拶の大切さを伝える例として、
「よく、TVで何か犯罪を犯した人について近所の人のインタビューがありますが、『いつも挨拶してくれて、良い人そうだったのにねえ』というのを耳にするでしょう?」

「本当にいい人かはわからないし、実際に犯罪を犯しているのに、挨拶をしているだけでそれだけ「良い人そうだった」なんて好印象を持ってもらえる(だから挨拶はとても強い力がある)」

 と教えていただいたのを印象深く覚えています。

 

 人に対して勝手に「あの人は~だ」とネガティブな感情を持つのは、まさに解離している、ということですが、「挨拶」という行為によって公的環境を作り出すことで相手が私的環境に陥って解離することを防止している、と考えられます。

 

 

 
 これだけ、効果が高い「礼儀」と「マナー」ですが、筆者もそうなのですが、トラウマを負った人の中には、そうしたものをどこか毛嫌いしてしまう心性があります。

 効果が高いのだからうまく利用すればいいし、使えばいいのにと思うのですが、なんだかウソっぽくて嫌だな、納得いかないな、という感覚です。
 

 

 それはどうしてか、というと、
 一つには、「礼儀」や「マナー」をローカルルール化してしまっている人たちがいて、その人たちからのストレスにやられてしまっている、ということがあります。

 例えば、マナーにうるさすぎたり、独善的に礼儀を押し付けたりという人たち。

 そうした人は、自分の不全感(「I’m NOT OK」)を癒すために、相手の些細なミスをつこうとしています(「You’r NOT OK」)。

(参考)→「造られた「負け(You are Not OK)」を真に受ける必要はない。

 
 本来の礼儀やマナーというのは、相互に相手への「リスペクト」が背後にあるものですが、自信の支配欲や不全感をいやすための道具なので、相手への「攻撃(怒り)」や「侮り」がある。

 礼儀やマナーを盾に取っている間は、自分は絶対的な善でいることができる。
 その盾に隠れて、相手を支配して、自分を保とうとしている。

 礼儀やマナーを、ローカルルールとしてまさに悪用しているのです。

 

 

 別の例では、親が子供を支配する道具として、礼儀やマナーにうるさすぎる、という場合もあります。
 本当に子供のことを思っているのではなく、単に支配したいだけ。

 自分の私的情動から発した行為であることを繕うために、礼儀やマナーという建前を持ち出していることも多い。
 実態は、自分の気まぐれでしかないので一貫性がありません。そのため、人に対して厳しく、自分に対しては甘い、ということがあります。

 本当のマナーとは、強迫的なものではなく、相手へのリスペクトやユーモアがあります。
 なぜかというと、世の中は多元的であり、人それぞれ、であるからです。
 本来は世の中の多元性、多様性への橋渡しとしてマナーが存在しているものです。

 

 そのため、本当の礼儀やマナーは、相手を包摂するところがあります。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 反対に、悪用された礼儀やマナーとは、相手を侮り、攻撃するところがあります。 
 そうした環境に長く置かれると、「礼儀やマナー」というものにうんざりするようになる。
  
 相手の仕掛けてきたの呪縛を解くことにエネルギーを取られたりして、「礼儀やマナー」を肯定的にとらえて、気持ちよく使うことができなくなってしまう。

 

 

 

 二つ目は、過剰適応という問題。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 慢性的なストレス環境に置かれると、安心安全が奪われます。
 その結果、自分を守るために、過剰に環境に適応しようとしてしまう。

 結果として、適切に他者に合わせることができなくなってしまう。
  

 他人に気をつかったり、合わせたりすることに過剰になって、あるいはくたびれて過少になってしまうために、礼儀やマナーということに意識を向けることができなくなってしまう。
 「これ以上気をつかうのはもううんざり」という感覚になって、結果、うまくつかえなくなってしまうのです。

 

 

 三つ目には、
 これまでに挙げたようなことに加えて、「形式よりも心が大切」といった理想主義的心性も影響します。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 これは、機能不全な環境に長く置かれた結果、ストレスフルな現実というものへの反感、嫌悪から理想主義的になってしまい、そのため、人間関係においては「形式よりも、心が大切」という理想を求めるようになります。 
 (理想によって、つらい現実から自分を一気に超越させようとする、という面もあります。)
 

 
 ただ、実際には人間は形式が伴わなければ相互に理解しあえないため、自分が思う「心」は相手に通じることはなく、ただ形式を欠いて相手と通じ合えない、というつらい経験に直面することにもなります。

 そして、理想が敗れてニヒリズムに陥ることになり、結果、礼儀やマナーがうまく使えなくなってしまいます。

 

 

 このように、礼儀やマナーとは、世の中を生きていくための必須のプロトコル(手順)ですが、ローカルルールやトラウマティックな環境というものが、それらを自分のものとして生き生きと活用することを奪ってしまうのです。

 

 社会に出てから公的環境を維持するための最強のツールとしての「礼儀やマナー」をうまく使うことができず、理不尽な目に遭ったり、モンスター化した人にやられたりするようになってしまいます。
 

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について