「自分探し」といったことをよく耳にするようになって、かなり経つでしょうか。
それに対して「探したって、理想の自分なんてないよ」といった揶揄や、お説教もよく聞きます。
確かにそれはその通りで、自分というのは、どこか彼方にはなく、日常の「関係」の中にしかないものです。
ただ、「自分探し」をしなければならないほど、生きづらいし、生き苦しい社会であることは変わりません。
揶揄されても「自分探し」はやめられない。
直感が、今の自分が本当ではない、ということを告げてくれるからです。
では、どこにあるのだろうか?本当の自分とは。
例えば、
セラピーなどを用いて、自分の内面を探ってみる方法はどうでしょうか。
インナーチャイルド、トランスフォーメーション、前世療法などなど、様々なワークがありますから、探ってみること自体は可能です。
それぞれは有効なものだと思います。
例えば、自分の「女性性の部分に気が付けた」「意外な部分に気づけた」とかそういうことは起こりますけども
主催者側の宣伝は別にして、それだけで「本当の自分がわかった」という人に残念ながら出会ったことはありません。
仏教の悟りにしても、仏陀を除いて、悟りを得られた人は本当に一握りで、凡人には難しい。
自分の内面を探る、というのは「私的な領域」を掘り下げる作業ですが、そうしたものからは結局本当の自分は得られないのではないか?
もちろん、一瞬、「悟ったような気になる」ことはしばしばありますが、それを維持することは難しいですし、悟ったということを表現しようとすると俗世の垢にまみれる必要があって、そこでまた元に戻ってしまう。
筆者も経験がありますが、世間との関係は脇に置いて、自分の内面を掘り下げて磨けばよい、改善すれば生きづらさはなくなるのではないかと取り組んでみます。
途中までうまくいくような気がするのですが、結局頭打ちになってしまう。
そして、 結局、気がつくのは、哲学や脳科学といった知見などもしめすように、人間はクラウド型であり、「社会」や「関係」を離れて自分を知るということはできない、ということ。
スタンドアロン(自分だけで)で変わるのは難しい。
スマホでいえば、本来の中身(コンテンツ)は、端末の外にあるということ。
クラウドの世界で生きるというのは、公的なネットワークの中で生きるということ。
私的な情動のままでは通信をすることはできないので、
公的に決められたプロトコルに沿った形でデータは整えられ表現される。
それが人間であるということ。
実際、古代ギリシャでは、公的な領域こそが市民の本来の姿であり、私的な領域というのは、未熟で野蛮なものとされたそうです。
現代の私たちの多くが誤解しているのは、「私的な領域こそが本来で、公的な領域は取り繕った偽りである」という考え。
これは全くの逆であることが見えてきます。
以前の記事にも書きましたが、
実際に、あるクライアントさんが、活動量計(スマートウォッチ)をつけて生活していたところ、一人で家にいるときが一番緊張していて、外でたくさんの人と接しているほうが緊張は少なくリラックスしていた、ということです。※最近は、歩数計といったことだけではなく、睡眠の状況から血圧まで簡単に測ることができます。
(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている」
もちろん、その方は人とのかかわりが得意、というわけではなく、むしろストレスになることのほうが多いと感じていました。でも、実際に計測してみると逆であることが明らかになりました。
家で一人でいるというのは、まさに「私的な領域」であるわけですが、余計に緊張が増して、自分らしくいれなくなる。「一人で家にいて、好きなことをしている」から、自分らしい、という風に思いこまされているだけで、実際はそうではない。
本ブログでも何度も言及していますが、統合失調症の方も、治療のために部屋にずっといて、薬さえ飲んでいたら良いかといたら全く逆であって、ドアに鍵をかけず、仕事(役割)を与えて過ごしていると、メキメキ改善していくことが知られています。
(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント」
実は社会の中で「位置と役割」がないために幻覚(症状)が必要になるのではないか、とも言われています。
「公的な環境」が維持できなくなって、「私的な領域」に陥ってしまうと、やはりおかしくなってしまう。幻覚、幻聴を用いてまで「公的な環境」を作り出してしまう。
こうしたことからわかることは、
私たち、人間にとっては「公的な領域」こそが本来の自分がいる居場所ではないか、ということです。
私的な環境にいるとどうなるか?といえば、偏った家族の価値観(ローカルネットワーク)とつながってしまう。
そこでは、多様性がなさすぎて、私的情動を昇華するにはリソースがまったく足りない。極端に言えば、特定の誰かに依存(支配)されることを余儀なくされてしまう。
私たちは、生まれてきて、まずは“機能している”親の助けを借りて、自分の中にある「私的な領域」を「公的な環境」で表現することを学びます。学校での教育や友人関係も(正しく機能してくれれば)その助けとなります。
最も大きなポイントは「就職」です。
仕事を通じて「位置と役割」を得てはじめて人間は「公的な環境」に安定して身を置くことができるようになる。
働いた報酬としてお金を得ることができますが、お金の力があることで、他者からの支配から自由になることができる(経済的に他者に依存していて自由を得ることは難しい)。お金というのは価値を数字で置き換えたものですから。
(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。」
昨今は社会情勢のせいで仕事に就きたくても就けない人が増えています。
これは、精神的な健康の観点からも大問題です。
(仕事ができないのは基本的にその方のせいではありません。社会の責任です。)
「恒産なくして、恒心なし」といいますが、一人部屋にいて仕事をしない状態のままでは、世界一の医師やカウンセラーであっても、その方を「自分らしく」生きていただくようにすることは難しい。
上に書きました統合失調症の例もそうですが、やはり、徐々にでも仕事をして、社会に出て何らかの活動をしていくようにしていかないと本当の回復はできない。
(※家にいて家事をするのは立派な社会的な仕事です。また、家庭は一時的な避難場所でもあります)
「生きづらさ」の背景にあるものは、「関係の個人化(私事化)」であるといわれます。社会に原因がある問題が、すべて個人に還元されてしまうことを指します。
例えば「引きこもり」でも、そこには家族の問題がある、経済の問題があるわけですが、すべて、個人の性格の問題、やる気の問題、精神の問題とされてしまってはたまりません。
つまり、生きづらさを「私的な人格」の問題とし、そこで解決しようとすることはさらなる生きづらさを生むということです。
自己啓発も最初は癒される気がしても、まわりまわって最後は「問題を解決できないのは、あなたのせいだ」と突き付けてくるわけですから。
人間はクラウド的存在です。クラウドから切り離されると機能しなくなる。
ローカルネットワークの呪縛から解き放ち、「ワールドワイドウェブ」につながらないと機能回復は果たせない。
緩やかな「関係」を構築して、社会に位置と役割を得て「公的な環境」を築いていく。そこで世の中の常識や社会通念をバックボーンにして生きていく。すると、多元性や安心安全を感じるようになります。
自分にかかる苦しみも、まわりまわって社会に還元されていきます。
そうしてはぐくまれる「公的な人格」こそがローカルな呪縛を離れた本来の自分であることが見えてきます。
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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