前記の記事で「闇を忖度する」という表現を使いましたが、トラウマを負ってしまうと、あるいは、ローカルルールに飲まれてしまうと、常識(自分の文脈)に足場が置けなくなり、相手の闇を忖度するようになってしまいます。
(参考)→「公的な場に現れたものこそが本心」
相手が理不尽な言動をしたら、その相手の闇や秘密を自分が抱えようとしてしまうのです。
いじめやハラスメントなどは典型で、相手が闇を抱えて因縁をつけてくるわけですが、それに対して、相手の闇に足場を置いて、更に、その闇が第三者にバレないように、自分が気を使って秘密を守ろうとしてしまう。
そんなことをする必要はないわけですが、なぜかそんなことを自動的にしてしまう。
街中でも、機嫌の悪い人、明らかにおかしな暴言を吐いているような人がいたら、その人に意識が自動的に向いてしまって、なぜかハラハラしてしまう。
漠然と不安を感じている場合も、実は他人の不安(闇)を忖度して飲み込んでしまっているのではないか? という視点で見てみると意外な発見があるかもしれません。
それまでは、単に自分がビビりだから、不安症だから、だと思っていたのが、実は他人の問題(闇)を自分のものとしていたからだということがわかります。
(参考)→「問題の根底にある「(作られた)ビビリ」」
例えば、「この世の中は他者に冷たく、人は自分に攻撃してくる」というおそれがある場合も、よく分析してみれば、敵意を持って他者に接してくる人の内面を覗き込み、その闇、秘密を自分で抱えていることがわかります。
ここでも闇を忖度していて、その忖度したものからビビリが来ている。
常識に足場を置いている安心感があれば、そんな闇は忖度せず、「なにあなた? おかしいんじゃないの?」と突っ込んで、否定すればいい。
相手の事情なんかお構いなしに、却下すればいい。
お付き合いしなくていい。
(参考)→「つねに常識に足場を置く」
愛着不安とかトラウマというのは、結局、この足場(常識)を奪われてしまうこと、にほかなりません。
理不尽を押し付けるためには、ルールで偽装しなければなりませんから、 理不尽に触れ続けるということは、常識が何か?ということに自信が持てなくなることでもあります。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
そして、闇を忖度することが自分の責任、当たり前のようになってしまうのです。
相手の事情まで自分の責任と感じてしまい、闇を忖度することが当たり前になっていないか? を一度チェックしてみることは、生きづらさを解消するのにとても役に立ちます。
(参考)→「忖度とはなにか? 相手の負の世界を飲み込んでしまう。黙ってしまう。」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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