先日の記事でも書きましたが、トラウマを負っていると、「自分は他者とは違う(おかしい)」として、自分の感覚を信じられなくなります。
自分が感じる腑に落ちない感覚や、気が乗らない状況を不調、うつ状態であるととらえて、治すべきものだ、と考えてしまう。
そして、ソワソワに巻き込まれて、しなくてもいいことをしてしまう。
以前筆者の家の洗濯機の「乾燥モード」が動かなくなったことがありました。操作して動かすと最初は動くのですが、しばらくすると、「ピーピーピー」と止まってしまうのです。
こちらは腹を立てて、「なんだよ、ちゃんと動いてよ」「故障だ」と思っていましたが、よく調べてみると、排気口にホコリがたまって排熱できなくなっていたために、センサーが作動して自動停止していたようなのです。つまり、洗濯機は正しく機能していたわけです。ただし機能して、停止してくれていた。
正しく機能していたのに、それを「故障だ」と決めつけていた。
もし動いていたら、熱がたまって本当に壊れてしまっていたことでしょう。
この洗濯機と同じように、私たちも私たち自身の感覚を「異常だ」と思わされて、自分の感覚がわからなくなってしまっています。
もう一つ、それと対になるように、私たちは「他者は自分と同じだ」として、同じように考えてくれない、動いてくれない相手にイライラしたり、相手の気持ちを考えて不安になったりすることがあります。
「自分は他者とは違う」と「他者は自分と同じ」ということは矛盾しているようですが、実は、一貫しています。
一貫しているトラウマティックな人間観、社会観が背後にあります。
それは、「社会、人間というものは一元的で一つの基準でできている」と考えています。それを自他に当てはめてる。そして、次に、「その基準から見て、自分は劣っている」というもの。
ただ、現実には人間は多様、多元的ですから、他者はその基準に従って必ずしも動くわけではありません。こちらが思っているようには、社会や他者は動いていないのでズレが生じます。
そのずれは、「他人は自分が思う通りには動いてくれない」というイライラ、不安につながります。
さらに「自他の区別」が弱いために、相手のことを考えすぎて振り回されてしまうのです。
なぜ、「相手は自分と同じだ」となるか、といえば、不適切な環境(親など)がそれを強いていたからでもある。
自他の区別がついていない未熟な自分の理不尽な言動を正当化するために、「私の気持ちを考えろ」と親が子供に強いたりすることがある。
(参考)→「トラウマ(愛着不安)を負うと、自他の別を越えさせられちゃう」
あるいは、他者の理不尽の原因について、「お前がいい子ではないからだ」と本人に原因帰属をさせる。
理不尽な人や物ほど、「相手の身になれ」「私のことを理解しろ」と巻き込んでくるものです。でも、それは相手を支配する手段だったりする。
そうすると段々と「自他の区別をつける」という大事なことがわからなくなってしまう。
(参考)→「「自他未分」」
大人になってもそれが習性になってしまう。
大人になると、そのおかしなことを言う人が、恋人や上司となって現れる。
パートナーは、「私の気持ちを考えろ」「このイライラはお前のせいだ」といって、自分の不安定な情動に一体化させようとする。
上司は、「顧客の気持ちを考えろ」とか、「上司や同僚の身になって考えろ」といってくる。もっともらしく見えますが、実は相手の身になって考えると、うまくいかなくなる。
TV番組で、「帰れま10」という番組があります。
その飲食店で人気10位以内のメニューを当てるまで帰れない、という番組ですが、
出演者は、
「やっぱり、レストランといえば、〇〇でしょ」
「女性が多い店だから、△△が受けるはず」
とか、顧客の身になって、人気メニューを想定するのですが、なかなかうまくいかない。
絶対これは当たるはず、というメニューでも、30位代なんて言うこともザラ。
つまり、身になって考えたことは当たらない。それではわからない。
(撮影が長時間になり、疲れて頭(意識)が働かなくなってどうでもよくなった時に、うまく距離が取れて、当たったりする。)
母子が密着した親が、私は子供のことがわかっていると考え、「子どものために」といったことは、大抵がずれている。子どもは渋々、着たくない服を着たり、進みたくない進路に進んだり、陰鬱な顔をしている。
マーケティングが進んだ会社では、相手の身になってなど考えず、統計データなどで自他の距離をとって、感覚ではわからない解を見出す。
大学の研究室でも、対象物から距離をとった研究者が客観的な結論を導き出す。
本来、相手を理解する、というのは、相手も自分と同じだ、として相手の気持ちを考える、ことではない。
「相手は自分とはまったく違う、異文化である」として、まずはしっかりと距離を取って、“外形的”に理解する。
さながら、自然科学者が生物を研究するかの如く、社会科学者が異文化を研究するかの如く、相手を見ます。
私たちは、生物とか、外国の文化などに接したときに、容易には感情移入することはありません。
もちろん、頭で「擬人化(自分に擬して)」すると、理解の助けとすることはありますが、同一化して、という感覚ではない。
ある意味ドライに見えるかもしれないが、そうしたほうが本当に理解ができる。これが、本来的な自他の関係、ということ。
(参考)→「カエサルのものはカエサルに」
他者を理解するためには一度十分に距離を取らないと、相手の身になることもできない。身になったつもりでいると、それは単なる陶酔であったりする。
(相手に距離を詰めた理解を求めれば求めるほど相手は自分を理解できなくなる。)
「自分は他者と同じく健全」であり、同時に「他者は自分とは異なる」という感覚、
これが本来的な感覚といえそうです。
(負の暗示が入ると、これができなくなります)
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
●よろしければ、こちらもご覧ください。