愛着的世界観とは何か

 

 これまでの記事でも触れてきました愛着的世界観とは、どういったものでしょうか。

 愛着的とは、自分を取り巻く環境については、「安心安全である」ということを土台としています。
 
 その上で人間については、「弱く、不完全である」という価値観をもっています。

 自分は弱く、不完全であるが、ある人々は強く、完全だ、ということではありません。

 「人間」というのは、貴族であろうが、ノーベル賞受賞者であろうが、大企業のトップであろうが、金メダリストであろうが、高僧であろうが関係なく、すべての人間ということです。

 

 このブログでも触れてきましたように、まさに「落語の世界観」ということです。

 すべての人が、だらしなく、いい加減で、弱い、ということです。
 人間の理性には限界があって、すべての人は感情や欲、見栄といったもので動いている、と考えます。

 もちろん、ときに崇高さや、ヒロイックな行動を人間は取るわけですが、それもあくまで感情や欲を消化(昇華)した先にあるものと考えます。
 粋(いき)といった概念はそうしたものに近いかもしれません。頭ではなく、身体から発せられたような感覚です。

 

 この人間の弱さ、不完全さ、とは、前回の記事でも触れましたようにDoing(行動)レベルのことです。

 存在レベル(Being)は、等身大で、環境の安心安全(愛着)によって守られている領域です。
 

 そのため、愛着的世界観の中では、「自分は罪深い」とか「根本的におかしい」といったわけのわからない自信のなさ、や罪悪感といった感覚は基本的にありません。

 意思やエネルギーは有限であり、欲が満たされれば飽きる、やりすぎれば疲れる、人に対しては、人は皆それぞれ違う、合わないなら仕方がない、合わないことは自分の存在とは関係しない、といった感覚。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 行動レベル(Doing)と存在レベル(Being)とは分離しています。

 

 「善悪、正邪、無限」ではなく、「差異、弱さ、有限」といったさっぱりした感覚。

 理不尽さに出会っても、それは、人の邪悪さからではなく、人の弱さ、違いからのものだと捉えます。

 勉強や仕事においても、物理的な世界への信頼があり、着実に取組めば答えはあるだろうし、なんとかなるという感覚があります。
 もちろん、交渉や競争など相手があることについては、平均的な勝率+αを普通とします。 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす」「物理的な現実への信頼

 

   
 人間というのは弱く、不完全である、という人間観が「すべて」の人に及ぶため、人からの言葉や攻撃というものが、自分の存在レベル(Being)に及ぶことがありません。そのような筋合いや権限は誰にもないからです。
 

 

 つまり、行動レベル(Doing)で、人間は弱く不完全なもの、とする人間観によって、存在レベル(Being)の安全も保たれるのです。
   
 
 具体的には、「安心安全」を土台として、等身大の人間観、世界観を育んでいく、そして、社会の中で位置と役割を獲得していくことで、通常は確立されていきます。

 

 その中では、「愛着」や「仕事」の役割は大きく、成長の段階で踏み外すとなかなか大変なことになります。
 自分だけでなせるものではなく、家族や社会の役割、サポートの必要性はとても大きなものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて
 

 
 以前ご紹介した、社会学者のマックス・ウェーバーの予定説をもとにしたテーゼは、こうした愛着的世界観のプロテスタント版と言えるもので、存在レベル(Being)を神様が予定している、とすることで、ニセの責任を免責し、存在レベル(Being)の安全を担保する。
 そのことでDoing(行動)レベルでは、しがらみなく力を発揮できる、というものであると考えられます。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 
 
 ローカルルールとは、反対に、人間を強く、完全なものである、とする世界観です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 ローカルルールを作り出した胴元の人が、ルールの創造者としてあたかも完全であるかのように振る舞い、Doing(行動)レベルで不完全であることをBeing(存在)レベルの不完全さの証拠であるとして、目の前の人を裁いて支配する、というものです。
 ローカルルールの胴元は感情的で理不尽であり、呪縛をかけられた側は、過度に客観的、理性的になります。感情への嫌悪、恐れがあります。

 「善悪、正邪、無限」の一元的な世界です。

 
 呪縛をかけられた側は、存在レベル(Being)の不完全さという呪縛を、Doing(行動)レベルでの完全さで挽回しようとして、どこまでいっても果たすことができずに、さらに呪縛の縄が強く絞まる、という悪循環に陥ります。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 人間が強く、完全なものである、という世界観では、主権は他者に奪われてしまうのです。

 愛着的世界観には、「こうあるべき」という思想はありません。
 健康に発達する中で感取される現実からくるものだからです。
 

 生物学者が、植物、動物を見るように、人間のそのままを見ている、というものです。

 

 前回の記事でも例としてあげましたように、カラスを見て、その存在(Being)が呪われている、だなんて、誰も思いません。
 そのため、カラスの存在(Being)にはなにも問題はありません。
 しかし、カラスは完全な生き物であるわけではもちろんなく、習性や行動(Doing)は、弱く不完全なものです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 
 人間も同様で、その存在(Being)が呪われているものなど、一人もいません。しかし、行動(Doing)は不完全で、弱いものだ、ということになります。

 弱く不完全なものだという観点からは、誰も他者の存在を云々する権限はなく、たしかな自他の区別があります。
 もちろん、その発する言葉も不完全なものですから、戯言として流すことができます。

 

 

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存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 人間とは、弱く、間違いをおかすものでもあります。
 人間はいい加減で、だらしがなく、まとまらない存在。
 よく「落語の登場人物のよう」といわれますが、こうした人間観、世界観は、「愛着的世界観」です。 健康な人にとっての見え方です。

(参考)→「非愛着的世界観

 では、弱く不完全であるということは、その存在がだめだということを表しているのでしょうか?

 そんな事はありません。

 その存在自体はなんの罪もなく、誰もが尊重されるに足ります。

 

 

 「もともと呪われている」「もともとがだめだ」というような考えというのは偽りで、滑稽なことです。

 

 例えば、カラスを見て、「カラスは呪われた生き物だ」なんて考えている人がいたとしたら、いつの時代の価値観なんだ!?と思われるでしょう。

 

 私たち現代人は、科学的な価値観を持ち合わせていますから、「カラスだってひとつの生き物だ」「いろいろな特徴や習性はあるが、それと存在の正邪は関係ない」と考えるでしょう。

 

 つまり、行動(Doing)と、存在(Being)とを分けて捉えていて、
 存在(Being)になにか根本的な問題がある、という考えはとりません。

 ゴミをつついたり、鳴き声がうるさくて迷惑をかけていたとしても、カラスは単なる生き物。存在(Being)自体にはなにも問題はありません。

 

 
 もちろん、存在(Being)にはなにも問題がない、からといって、カラスが完璧な生き物だ(生き物でなければならない)というわけではありません。

 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして、両立します。
 

 

 人間も同様です。

 冒頭に書きましたように、人間の行動(Doing)は、弱く、不完全です。間違いをすることもあります。
 しかし、それをもって、存在(Being)が「呪われている」「邪悪だ」ということを意味しません。

 人間においても、 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして両立するのです。

 
 愛着的世界観、健康な人間観では、存在(Being)は、行動(Doing)とは、全く別のものとして捉えられています。
 
 
 だから、安心して失敗できる。安心して自己開示できる。人を特別恐れることもありません。
  
 

 

 しかし、虐待とか、ハラスメントというものは、存在(Being)と行動(Doing)という別次元のものを無理やりつなげようとします。つながっているように見せる、刷り込む、そして行動(Doing)の不完全さによって存在(Being)の不完全を証明する、というトリックを行います。

 

 例えば、行動(Doing)の不完全さ、未熟さを取り上げて、存在(Being)がダメだと叱責する。
 子どもが失敗したことを取り上げて、「あなたは生まれてこなければよかった」といったことをいう。
 部下が失敗したことを取り上げて、「お前なんか、社会人として失格だ。クズだ」と暴言を浴びせる、といったようなこと。 

 

 健康な状態では別れていたはずの存在(Being)と行動(Doing)が繋げられて、しかも、存在(Being)が不完全だと思わせて呪縛にかけます。

(参考)→「自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 

 ここからがさらに厄介なのですが、ハラスメントを仕掛けられた人(被虐待者)は、その状態から抜け出そうと努力をします。

 努力というのは、行動(Doing)によって行われます。

 しかし、存在(Being)と行動(Doing)はもともと別次元のものであるために、いくら行動(Doing)を頑張ったとしても、存在(Being)のキズは癒やされることはありません。なぜなら、種類が違うから。

 

 存在(Being)のキズは、そもそも、呪縛によって仕掛けられたものなので、行動(Doing)よって挽回されるものではなく、あくまで、呪縛自体を覆しにかかる必要があるのです。

 

 しかし、そのことがわからないまま、行動(Doing)によって挽回しようとして、へとへとになってしまいます。

 特に、存在(Being)の完全性を取り戻すために、行動(Doing)レベルでも完璧さを求めて、絶対正しい、絶対に間違いのない、という領域を目指そうとして、挫折を繰り返すことになります。

(参考)→「トラウマチックな世界観と、安定型の世界観

 

 さらに、人間の本性は、行動(Doing)レベルは、弱く不完全なもの、ですから、どこまでいっても不完全なままです。うまくいったとしても、ゴールポストを動かされてしまえば、成功も失敗と判定される。

 「やっぱり、自分は存在自体が不完全なんだ、だって行動(Doing)レベルの証拠があるもの」となって、さらなる呪縛へと落ち込んでしまうのです。

 

 トラウマの裏には、存在(Being)と行動(Doing)との間違った接続、同一化が存在しています。

 

 

 

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「言葉」偏重

 

 SNSが普及した現代では、ニュースや投稿に様々なコメントが寄せられます。
それぞれのコメントなど真に受ける人はいませんが、量や勢いで圧倒されて「炎上」ということが起きることはあります。

 

 かつてのインターネットがない時代では、世の中に自分の意見を言える人というのは、それぞれの分野でそれなりの実績があり、発信する資格があると認められていた人達に限られていました。

 出版社やマスコミ、各種団体等がそのフィルタになっていたわけです。

 人間の言葉とは常に戯言でしかありませんが、かろうじて意味があると認めてもらうためには実績、資格が必要だったということです。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 近所のおじさん、おばさんが世間話で、政治や哲学を立派に語っていても真に受ける人はいません。

 「そうなんですね~」と言いながらスルーしています。 
  

 居酒屋で偉そうに武勇伝や説教をしている酔っぱらいの話を聞いて、真に受ける人もいません。
 

 スポーツなどで、あまり上手ではないのに「教えたがり」の人がいますが、それもそのまま真に受ける人はいません。

 

 それぞれに共通しているのは、「(それを言う)資格がない」ということです。

 人間の言葉とは、何を言うか、ではなく、「誰が言うか(資格、筋合いがあるか)」です。
 

 上記の近所のおじさんが「安倍首相はね~」というのは、内容は正しいかもしれません。でも、正しくても真に受けたりはしないものです。

 

 それは、健康な状況では人間は、「言葉」ではなく、「態度」や「資格」「筋合い」に目を向けるからです。もっといえば、物理的な現実を見ている。

 言葉ではなく、その「実態」を見ている。

 

 言葉は立派でも、そこに劣等感や嫉妬などを感じ取れば、それは、「劣等感」「嫉妬」なんだと捉えます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 
 近所のおじさんが「あなたはね~」と言っても、真に受けたりはしない。

 「安倍首相」が「あなた」になっただけで、近所のおじさんがそれをいう「資格」「筋合い」がないからです。

 この「資格」「筋合い」の範囲というのは、思っている以上に狭いものです。

 基本的に、なにか契約とか権限がなければ言うことはできません。

 
 どんな立派な人でも、通りすがりの人を捕まえて説教をたれたりすることはできない。「なんの筋合いでそんな事を言ってきているんだ?」でおしまいです。

 

 電車の中などで、マナーの悪い人に注意する、ということでも、よほどわきまえてないと、トラブルになってしまうのは、「筋合い」が明確になりにくいからです。
   

 街中で人に関わる、というのは、「僭越ながら」という弁え(わきまえ)がないと成り立たないと言えそうです。

 

 

 では、家族同士はどうか?といえば、実はこれも基本的には同じです。

 家族といえども別の人間。

 夫婦などがわかりやすいですが、意見が通るためには「やることをやっていないと」いけなかったりします。 

 「やること」とは、夫としての機能(役割)、妻としての機能(役割)。
 しかもそれは時代とともに微妙に変化もしていきます。
 
 家のことを何もしないで、夫(妻)が妻(夫)に対して偉そうなことを言っても、話が通るわけがありません。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 あと、例えば、キッチンなど妻の領域については、基本的には夫の意見は通らない。そこは権限(なわばり)外だからです。
 (家のこともしっかりやっていれば、聞いてもらえる一時的な資格は得られるかもしれませんが・・・)
(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

 機能不全家庭に育ってトラウマを負ってしまった人は、その「資格」や「筋合い」がわからず、家のことはしないまま、妻や夫に実の母や父の役割を求めて怒り出したりして、混乱を起こしたりすることはよくあります。
 
 さらに、何が問題かわからず、「相手は頑固だ」とさらにイライラしてしまう。でも、それは相手が頑固なのではなくて、町中の人に説教するのとおなじく、資格、筋合いがないから耳をかさないのです。

 

 

 親子でも同様です。

 基本的には別の人間同士であって、さらに子どもは今は未熟でも将来は一人前の社会人として独立することが予定されていますから、過度に価値観を押し付けたりする筋合いは、実の親にもありません。 

 かつては生みの親というものの価値は低く、「~~親」という社会的な役割はたくさんありました。
 子どもは共同体で育てるもの、という考えもあるように、「血が繋がっている」というだけでは、ほとんど正統性はありません。  

(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

 親は、自分の価値観を伝えるのではなく、社会の常識を自分が翻訳(代表)して伝える役割である、と言えます。

 さらに、子どもの年齢(発達の段階)によって関わり方も変わってきますから、柔軟に対応していかなければなりません。 

 

 うまく関わればよい(質)のではなく、関わる時間(量)も必要です。
  
 そうしてようやく、子どもに何かしら、偉そうなことを言える権利は発生します。でも、聞くか聞かないかは子ども側の権限です。   

 子どもは、反抗期には精神的に直訳していた価値を殺して独立していきます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 ここまで見たように、何かを言うためには、資格が必要で、それ以外の言葉は受け取ってもらえません。

 
 「友達からなにか言われて傷ついた」という場合も、相手には言う資格がありませんから、もちろん「意味のない音」としてスルーする。

 愛着的人間観は、「人は皆、だらしがなくて、いいかげんで、どうにもまとまらないもの(人は弱い)」というものです。

 誰も自分を棚に上げて、他人のことを言うことはできません。

 立派に見える人でも、そう見せているだけ。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 

 社長を継いだ二代目が社員から認めてもらえずに苦労した、という話はよくあります。社長という肩書があっても、その役職に足る力があると認めてもらえなければ、部下も言うことを聞かないのです。

 戦国武将などもそうであったようで、部下の武将から認められるように常に心を砕いていた。

(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 

 親もそうで、親として日々機能していなければ、子どもも言うことを聞かないのは当然のことです。

 「とにかく、お母さんの言うことを聞きなさい!」というのは、「資格がないけど、私の私的感情をのみ込んでくれないと、居ても立っても居られないのよ」といって恐怖で言うことを聞かせているだけです。

 

 人が他人に介入できる場面というのは、本当にごく限られたもので、よほどの実績と筋合いと、さらに相手の同意とがなければ成り立たないものです。

(参考)→「自他の壁を越える「筋合いはない」

 
 野球では“超”がつく実績があるイチロー選手ですが、実は、マリナーズでは孤立して、最後は逃れるように移籍していったことがありました。どうやら、ストイックな態度がチームメイトから反発を買ってしてしまったようです。

 

 サッカーの元日本代表で、かつてローマなどで活躍した中田英寿選手がいましたが、ドイツワールドカップの日本チームの中では、海外の経験からこうするべきと主張するものの軋轢を生み、孤立してしまったようです。

 

 あれだけの選手でも、チームメイトの同意、つまり、相手の領域を尊重するといったことがなければ、その話(意見)を真に受けてもらうことはできない、ということです。

 

 実績で劣る選手でも同じプロ同士、「イチロー選手のご意見であればなんでも承ります」とはならないものです。

 

 自他の区別が厳然として存在していて、
 そこで人に何かを云うためには、資格、実績が必要。
 さらに、すごい実績があったとしても、相手の領域を尊重することがなければ(関係性ができなければ)、耳を傾けてもらえなくて当然。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 つまり、人間は、そもそも人の意見などは聞く筋合いはない、というところからスタートしているということです。相手がいくら偉い人でも、自他の区別の境界は絶対です。境界を明け渡すことはありません。

(参考)→「他者の領域に関わる資格、権限がない以上、人間の言葉はやっぱり戯れでしかない。

 

 これは会社の中であっても同様です。社長でも実績がなければ部下は言うことを聞かないのですから。
 

 かろうじて耳を傾けるとしても、せいぜい話半分で受け入れる、ということが人間にとっては健康なスタイルだ、と言えそうです。

 

 イチロー選手や中田選手の言うことでさえチームメイトは耳を傾けなかったのに、なぜ、私たちは、はるかに実績の劣る親や友達の言葉(おかしな理屈)を真に受けなければならないのでしょうか?
 

 

 しかし、ローカルルールとは、恐怖や不安とかなり変な理屈とで、こうした手続きを壊して、全権を委任したかのように、「すべての言葉を真に受けろ」という形にしてしまいます。

 

 変な理屈とは、「親子だから」「上司と部下だから」「あなたはおかしいから」とか、冷静に見れば、なんの根拠にもならないような因縁のことです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 そして、いつの間にか言葉をやたらと真に受け重んじるような「言葉」偏重の状態、さらには言葉=現実としてしまうのです。

 

 

 

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生きづらさとは、他人の「ドーダ」を真に受けていただけ

 

 アラン・ソーカルという物理学者が、1996年に「境界の侵犯:量子重力の変換解釈学に向けて」という論文を雑誌に掲載しました。その内容を見て、批評家や思想家たちが評価しました。
 一通りの評価が揃ったころに、その頃合いを見計らって、実はその内容は哲学や物理学の単語をもっともらしく並べただけの全くのデタラメだったと発表しました。意味のない文章を見て「意味がある」と評価した学者や批評家は面目丸つぶれになりました。

 

 

 アラン・ソーカルは、現代思想などで科学の知識がいい加減なまま乱用されていることへの警鐘として、こうした挑発を行ったといわれています。
 
 「アラン・ソーカル」事件といいます。

 

 実は学者とか専門家でも、自分の目で見て、頭で考えて物事を判断しているわけではなく、「すごそうだ」とか、「すごいといわれている」ということで判断をしているのではないか、というのです。

 

 

 昔は、日本でもマルクス主義という考え方が主流でしたが、今から見ると非科学的な考えも含まれていますが、「真理である」と普通に流通していたりしていました。

 それも、当時の社会状況や問題意識もありますが、じつはベタに言うと「(内容はよくわかってないけど)なんか、すごそうだ」というような感情がベースにあったのではないかと考えられます。

 

 

 もう亡くなってしまいましたが、吉本隆明という思想家がいました。娘は吉本ばななという作家です。「戦後最大の思想家」と呼ばれ、信奉者も多い人です。

 近年は、それに対して疑義を唱える人が出たりしています。

 

 「吉本隆明という共同幻想」という本がありますが、簡単に言えば、「吉本隆明というのは、難しく書いてあるだけで、何を書いているのかわからない。実は内容も意味がないのではなかったのではないか?!」
 というものです。単なる難癖ではもちろんなく、吉本のいい加減な言葉遣いや、デタラメさについて、細かく例を上げて示しています。

 

 

 かんたんなことをわざわざ難しそうに書いてあるのは、結局は、「どうだ、オレはすごいだろう!」という顕示欲や相手をマウンティングしたいという支配欲だったのではないか、というのです。  
 その難しそうな文章を見て、同時代の人たちは「吉本隆明はすごい」と思って、共同幻想(ローカルルール)に染まっていただけではなかったのか?と。

 

 

 

 明治大学の鹿島茂教授が、小林秀雄を取り上げて同じようなことを書いています。
  
 小林秀雄といえば、私たちが使っていた国語の教科書にも登場する日本を代表する英文学者とされます。

 しかし、小林秀雄もどうやら「どうだ、オレはすごいだろう!」という自意識から、わざわざ難しい言葉で文章を書いていたのでは?というのです。

 

小林秀雄

 

 
 

 

 

 

 

鹿島茂は、

 「小林秀雄が書いた文章で「わかった!」と思った経験が一度もない。文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは小林の文の方であることがわかる。」
 「こういう意味不明なことを書く小林秀雄も困ったものだが、それを入学試験にあえて出題する大学教師とは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 

 

 作家の丸谷才一や、比較文学者の小谷野敦も小林秀雄は意味不明だと批判しているそうです。

 

 

 でも、小林秀雄は国語の教科書にも載っているくらいだから、それなりの学者たちには評価されていたはずですが、実は、それは、「どうだ、オレはすごいだろう!」というローカルルールに染まった結果だったのかもしれない。
 

 そのことを、鹿島茂は、漫画家東海林さだおの言葉を借りて「ドーダ」という言葉で表現しています。
 
 

 

 「ドーダ」とは、「自己愛に源を発するすべての表現行為である」と定義しています。
 (なんか、ローカルルールとよく似ていますね)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 本当はすごくないけども、皆が何故かすごいと思いこむのは、「その時代特有の「集団の夢」」だと鹿島茂は言っています。
 

 

 さらに、森鴎外や、西郷隆盛などを取り上げて、歴史上の人物の行動にも、「ドーダ」というものがあったとして、これまでとは違って視点で「すごい」とされる人の行動の背景にある「ドーダ」を描いています。

 さて、こうしたことから見えてくるのは、「すごそうだ」とか、「皆から評価されている」ということの実像です。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私たちも、「職場のあの先輩は皆から評価されている(でも、私には理不尽なことをする)」「親戚のあの人は尊敬されている(でも、とても支配的で窮屈だ)」ということがあります。
 周りから評価されているから、ということで理不尽さを否定し難いように見え、自分を否定する行為を真に受けてしまいがちですが、それも、結局「ドーダ」という集団の夢だったのではないか?別の言葉で言えば単なる「ローカルルール」でしかなかったのではないか。

 
 

 

 日常でも、わたしたちに対して、「仕事はここまでできて当然だ!」とか、「これができないなんて恥ずかしい!」と指摘してくる人がいたりしますが、それって、結局は、その人が「自分をすごいと思わせたい」「相手をマウンティングしたい」「相手を負かしたい」という気持ちの発露でしかなかったのではないか。

 つまり、「ドーダ」でしかなかったのではないか?
 
 もちろん、「ドーダ」以外にも嫉妬ということもあります。広義では嫉妬も「ドーダ」といえますが。
  

 

 

 筆者も、以前の職場で、先輩から「東大卒で営業部に配属されて、上司からいじめられた人」の話を聞いたことがあります。
 東大卒ということに対するやっかみから、「こんなこともできないのか」と些細なことを取り上げて上司がその人をいじめて潰してしまった、というのです。

 東大卒のその人は、指摘されることが事実であると真面目に考えて、単なる嫉妬でしかないことで潰されてしまったのです。

 

 

 このブログでも、手塚治虫の有名なエピソードをとりあげましたが、
 手塚治虫も、嫉妬から同輩や後輩の漫画家を「こんな描き方はだめだ」こき下ろして、トラブルになることしばしばであったのです。
 漫画家の神様も、当たり前ですが、業の深い人間でしかないのです。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 

 わたしたち人間はだれでも、嫉妬や「ドーダ」から自由ではありません。
 

 

 鹿島茂は、「ドーダ」は自己愛から発するので、「自己愛とはターミネーター2の金属男のように、あらゆる形をとってどこにでも発言するから、容易にそうとは見抜けぬ」といい、そして、「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」ともいっています。
 

 

 いいかえると、私的領域の言葉はすべてローカルルールということです。

 

 だから、人の言葉や行動をそのまま真に受けるなんてしない。できるわけない。

 

 

 トラウマを負った状態というのは、いいかえれば「ローカルルール」の幻想にとらわれている状態。ローカルルールの幻想とは、「そうはいってもローカルルールが正しい」「自分は間違っている」という感覚。
 だから、代謝が進まない。

 でも、そのローカルルールとは、結局「ドーダ(私的情動、不全感)」でしかなかった。 

 

 ローカルルール(人格)の言葉とはすべてそうです。

 深刻そうにして、相手を非難する。自分は悲劇の主人公で、それを理解できない相手の理解や共感性の欠如に問題があるとする。
 難しい理屈で感情や思考をこねくり回して理屈を作り上げているが、意味不明。

 しかし、ローカルルールというものの正体がわかると、
 「文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちらのせいだと思っていたが(罪悪感を感じていたが)、今になると悪いのはローカルルールの方であることがわかる。」
 のです。

 

 

 もっと別のケースでわかりやすく言い換えたら、

 「昔は、親の言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは親の方であることがわかる。」
 
 あるいは、

 「昔は、友人やパートナーの言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは友人やパートナーの方であることがわかる。」

 そして、親や友人やパートナーの言うことに賛同していた人たちは、「集団の夢」に染まって、
 「こういう意味不明なことを言う親や友人パートナーも困ったものだが、それに賛同する人たちとは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 ということです。
 

 

 「生きづらさ」とは、結局、他人のドーダを真に受けて、後始末を押し付けられている状態、といってもいいかもしれません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 実は、冒頭のアラン・ソーカル事件のように、人間というのはローカルルールの世界では中身などは見ていないのです。「なにやらすごそうだ」という様だけを見て、それなりの人でも、おかしな理屈に染まったりする。

 

 ドーダはあちらこちらにありますから、そうと知っていなかれば、ついついもっともな気がしてしまいます。そして、自分が特別に駄目だと思ってします。

 

 

 歴史に名が残るような人、あるいは現在すごいとされている著名な人でも、結局は意識、無意識にドーダをかましているだけ可能性が高い。
というか、鹿島茂が「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」といっているように、すべての言動はドーダなのだと思う必要がある。
 特にテレビとかマスコミに出るような人は、全てが演出でできていますので。

 

 スポーツ選手も、経営者も、作家も、政治家も、哲学者も、芸能人もみんなみんな「ドーダ」でできていただけだった。

 

 

 
 身近な人達なども同様です。
 カーネギーの名著「人を動かす」はまさに、「ドーダ」の塊である人間をどう扱うか?をまとめた本でした。

 

 

 
 日常生活において、例えば仕事で威圧的な人にあったら、「あ、この人もドーダなんだ!」と考える。
 「このくらいのこともできないの」といわれたら、「あ、この人、今ドーダをかましてきた」と気づく必要がある。
 (昔、アニメとかで見た、見栄を張った奥様同士の会話のようですね。「うちの主人は、今度ニューヨークに出張なんですのよ!」のと同じこと)
 「自分はできていない」「自分はだめだ」なんて、反省したり、真に受ける必要なんてありません。

 

 みんなが「すごい、すごい」と言っていても、「本当か?」と思ってよい。
 というか、思うほうが普通だし、世の中を生きる者の作法として、疑わないといけない。

 
 
 でも、健康な人間はすべてを疑って生きてもしんどいので、ノリつつツッコミ、ツッコミながらノル、ということをして生きる。
 二重の意識を持ちながら物事を楽しんだりします。

 人間というのは、本来「すごい人」など実は一人もおらず、誰しも業が深く、弱い生き物なのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 前回、意思決定、選択プロセスについて、結果論からマウンティングされると、結果から最善手を求めるようになり、自分の主権が奪われる。

(参考)→「結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 ということを書きました。

 

 その背後には、マウンティングする側が自己を神とするような万能感の錯覚が潜んでいることにも触れました。
 

 

 
 ローカルルール(人格)とは、それ自身がルールを創造する小世界のニセ神のような存在です。
 そのなかでは、あたかも神のように振る舞う(正統性を偽装する)ことでなければ、成立しません。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 その証拠に全体主義の国では指導者や組織は神に擬せられ、神聖化されます。カルト教団の教祖は神のようですし、機能不全家族の親もあたかも自分は全能であるかのように言動します。

 

 

 トラウマを負った人は、

 「私はいつもだめです。判断のおかしさを指摘されてきました。」
 「自分の親や、他人はいつもしっかりしていて、正しい。なぜなら結果がそうだったから」
 

 といいますが、実はそれはニセ神化した他者が、結果論で評論をしていただけだったのではないか。

 自分に自信を持つとは、自分の判断や選択、行動に自信を持つということです。

 

 

 なぜ自信がないか?といえば、その一つに、判断や選択の主権を奪われてきたから。

 自分が選んだことも「これが正しいかわからない」となる。

 では結果から判断しようとしますが、結果が最善手ではないことを取り上げて「やっぱり、自分の考えは信用できない」となって自信を失ってしまう。

 他人からも「もっとこうしておけば」と指摘されて、「ああ、他人のほうが優れている」となって、自信を失う。

 

 

 でもそれは、「結果論で下駄を履かされた他人の意思決定の正しさの幻想」でしかないものです。

 前回も触れましたが、人間は最善手を打つことは絶対にできないのですから、結果から判断することは実は意味がない。
 

 

 求めていることと全く違えばそのプロセスを改善することは意味があるかもしれませんが、次善手であれば万々歳といっていいのです。

 仮に失敗であったとしても、自分の価値基準(フォーム)から意思決定をできたのであれば、それは大いに褒められることです。

 なぜなら、人生は判断の連続です。
 自分の価値基準(フォーム)で生きるしか、主権を持って生きる方法はないのです。

 
 人間は弱く認識能力は限定されており最善手にはアプローチすることはできない。
 世の中には常に次善手しか存在しない、ということを知ることを成熟といいます。

 世の中は、多元的ですから、自分のスタイルに沿った瞬間に、評価の次元が自分軸になりますから、次善手が最善手となります。 
 そして、自分のスタイルに沿った選択の結果を「縁」というのです。

 

 

 一方、人間の能力は高いはずで、そこに向けて努力するべきだ、と考える考えをハラスメントといいます。
 DV、虐待、モラハラ、クレーマーにはすべてこのおかしな人間感が背景にあります。

 そして、幼い子どもが完全な人間(立派な人間)でないことに腹を立てて激しい折檻をしたりして、命を奪ってしまったりするのです。

 クレーマーは、自分の趣向や思考をエスパー(完全な人間、立派な人間)のように汲み取れない店員に腹を立てて、「気が利かない」として怒り出す。 

 

 

 人間の能力が高いはずだと捉えて、最善手を求めるものは、しらずしらずのうちに、人間の判断力を超越した不思議なめぐり合わせや、自分に備わる特別な力を信じるようになります。

 なぜなら、そうでなければ、最善手に達することはありえないからです。

 例えば、株が最高値で売れるかどうか、最安値で買えるかどうかなど予め分かるはずもありませんが、人間の能力は高いはずで、最善手が予め分かるということが成立するためには、自分だけが特別で不思議なめぐり合わせがやってくる、というおかしな考え(トリック)をもってくるしかありません。

 

 

 これは「縁」とは実は全く異なる概念です。「縁」とは人間の力が有限であることを背景に、自分のスタイル、価値基準で得た選択(次善手≒自分軸では最善手)との出会いの中に感じるなんともいえない感覚のことです。

 

 自分の価値基準に基づきますから、あたかもフォームができたスポーツ選手がコンスタントに結果が出せるように、また次の「縁」に出会うことができて、縁が積み重なり、人生が拓かれていく。

 

 

 一方、人間の能力が高いはずだ、自分もそうあるべきだ、と捉えて、最善手を求めるものは、自分の価値基準を崩して主権を他者に奪われた状態です。
 主権を奪われた状態にもかかわらず、頭の中でだけ不思議なめぐり合わせを信じていますが、主権が奪われていますから、目の前に来たものが最善かどうか判断することができません。
 常に、判断に迷い選びきれず、選んでも結果論から最善手でないことを悔い、他人の後出しジャンケン批評にマウンティングされ続けることになるのです。

 

 自信はまったくないのですが、心のどこかで「自分は特別だ」と思っている。

 それもそのはず「自分は特別だ」というのは、上でも書きましたように、最善手を求める錯覚が成立するために必要なトリックだからです。

 
 実は、トラウマを負った人がもつ「自分はだめだ」というスティグマ感は、そのコインの裏側です。

 結果論で裁かれることと、予め分かるはず、ということをつなぐのは、自分はだけが特別にだめで、いつも悪い結果が起こる、というローカルルールしかないからです。

 

 最善手が予め分かるはずなのにできないのは、自分は特別にだめらから、ということで、親や他者から裁かれてきたためです。
 「ほら、他の子は出来ている」と、たまたまできている最善手らしき例を後出しで取り上げて、結果論が正統だと真に受けさせられてきた。
 

 トラウマを負った人には、「自分は特別だ」という変な自信と同時に、どんなに学歴やキャリアなど実績があっても拭えないくらい深い自信のなさとが存在するのです。

 

 主権を回復したいけど、どうしていいかわからない。
 わかっていてもできない、という場合は、最善手の幻想(ローカルルール)にかかっています。

 自信がないから主権がない、とか、自分で選べないのではありません。最善手の幻想が成立させるために(それによって)、万能感やスティグマ感、長年苦しめられてきた「自信のなさ」が必要なのです。
 

 

 この不思議な構造が見えてきたということは、「最善手の幻想」を壊すことで、自信のなさや、自他の区別がない、自分はおかしい、ということを変えていくことができるかもしれません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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