人の言葉が怖い、人の言葉に振り回される、という際に、その理由の一つとして、他人が急におかしなことを言い出す、自分に失礼なことを言ってくる、ということがあるかと思います。
さながら、不意に犬に噛みつかれるみたいな怖さがある。そして犬恐怖症になって、現在に至る、といったような感じで。
では、人はなぜ急におかしくなってしまうのでしょうか?
このブログでも触れていますが、それを解く鍵の一つが「公的領域-私的領域」という区分けです。
(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張」
人間というのは、もともとのその内面は、溶鉱炉のような、マグマのような、不全感の不純物も含んだ雑多な原材料の塊です。
そうしたものが、愛着、健康といった基盤の上に、他者とのやり取りを経て「社会化」されていくことで“人間”となる。
「社会化」というのは、私的領域を資源として公的領域を内面化することで成型されていくということです。
(参考)→「「私的な領域」は「公的な領域」のエネルギー源」
人間は“社会的動物”“ポリス的動物”と呼ばれるように、社会化(公的領域を内面化)されなければ安定して成立できない。
統合失調症や、境界性パーソナリティ障害などは、そうした社会化する機能が十分得られないことで起きているのではないか?と最近の臨床心理、精神医学などでは指摘されています。
社会化するための要素はどこから来るか?といえば、それは自分の外側からやってきます。
人間というは、クラウド的な存在として、周囲の人を媒介として、自分を社会化するための要素を少しずつもらうようになっている。
特に「他人の言葉」が重要な媒介物となります。
しかし、その他人の言葉も社会化されたパブリックなものになっていなければ、私たちにとって毒になってしまいます。
夫婦喧嘩、汚言、悪口などはその最たるもので、家族であれば、父母、妻夫といった機能を果たすことができないまま、個人の私的な感情をそのまま垂れ流すようなこともパブリックなものになっていない言葉の代表例です。
そうしたものを浴びると、子どもは十分に自分をパブリックなものへと昇華しきれずに、不全感を抱えることになります。
(参考)→「「汚言」の巣窟」
反対に、家族が機能していて、そこから多様なパブリックな言葉を受けると、安定した人格へと成長していきます。
実は、機能している家庭とは私的な空間ではなく、とても公的な存在なのです(親しき仲にも礼儀あり)。
(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・」
ただし、安定した人でも栄養、睡眠など健康の基盤が揺らいだり、社会的な役割が失われそうになると不安定になります。
言葉遣いが荒くなったり、おかしなことをいい出したり、ということは簡単に起きてしまいます。
特に、不全感が全くない人という方が少ないので、公的領域の枠組みがゆらぎ、不全感が刺激されると、暴言を吐いたり、ということは誰にでも起きます。
ここに、強いトラウマや、愛着不安を抱えていれば、そのリスクはもっと増大します。
車内といったようなプライベートな空間で運転という競争的な刺激が加わって、「あおり運転」というようなことをしてしまったり、家の中というプライベートな空間で、パートナーに暴力を奮うなんて言うことも起きてしまう。
そこまで行かなくても、急に態度や言葉がおかしくなって、それを目の前の人にぶつけてしまうようなことが起きる。
こうしたことが、なぜ急に人間の態度がおかしくなってしまうのか?ということについての一つの仮説と考えられるのです。
今回の本では、そうしたメカニズムについても言語化して提示することにも取り組んでいます。
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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