秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 先日の記事でも書きましたが、秘密というのは、ローカルルールにとっては檻のような役割を果たします。檻は何重にも取り巻き、私たちを縛るようになります。

 この秘密というものは、なかなか厄介です。

 

 ローカルルールとは、公を騙った私的な情動のことです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 そのため、広く知られてしまって、「それ、おかしいんじゃないの」とか「違うよ」とツッコミが入ったり、疑問を呈されたりすると簡単に壊れてしまいます。ですから、それを他人に話さないように秘密にすることでローカルルールは延命できるようになります。

 

 ローカルルールそのものではなく、ローカルルールによって「悪」「恥」とされたものについて、他人に話せなくすることで、ローカルルールはもっともらしく生き残ろうとするのです。

 

 いじめでもそうで、多くの場合は、いじめられていることを家族に話せなかったりする。話せるような環境であれば解決に大きく前進するのですが、家族にもいじめの陰湿さが及んでしまうのではないか、ということでそれができなくなる。

参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 レイプといった犯罪についてもそうで、それ自体もひどい出来事ですが、そうした犯罪を犯す側が持つローカルルールの呪縛(秘密の共有、自分が穢れた、など)を被り続けるという側面もあります。そして、人に話せないということがそのローカルルールを延命させてしまうのです。
 

 機能不全家族において観られる現象に、「ファミリー・シークレット」というものがあります。親が理不尽な振る舞いや、依存症、場合によっては虐待といった家族の中では外に出したくない秘密というものがあった際に、子どもがそれを自らの秘密として背負い続けてしまう、ということです。

参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 家族の病気や死といったものを、子どもに言わずに隠す、という行為も、ファミリー・シークレットになる場合があります。

 秘密があることで、社会との関わりが限定されたり、断絶したりすることや、自分そのものも普通の人とは違う、という感覚を持つことで、ローカルルールに縛られ、生き生きとした生活を妨げられてしまう。
 

 さらに、親自身が、ローカルルールに縛られていて、なんでもないことでも秘密にしたったり、世間に情報が漏れることを極度に恐れたり、というケースは結構もよくあります。もちろん、個人情報保護が重んじられるから、ではありません。そうしたことを越えて、過剰に秘密にしたがったりする。
 

 親に影響されて、子どもも知らず知らずのうちに、なんでもないことを秘密とするような傾向を持たされるようになります

 親のローカルルールの延命を子が手伝わされたり、あるいは自分もその呪縛にかかったり、といったことが起きてしまいます。

 

 

 さらに、そうしたことを強化するトラップとしてあるのが「恥」という発作のような感覚です。恥とは、本来、共同体の規範から外れたときに生まれる感情を指します。
 
 規範からみておかしな行動をとったときに「恥」を感じる、というのは自然な感情です。

 しかし、「共同体の規範」というのもが、「本当の社会」ではなく「ローカルルール」がすり替わり、本来ならば「恥」とする必要のないものまで、「恥」として感じさせるようになります。

 例えば過去の失敗や、ちょっとした言動についても、後悔とともに、「恥」の感覚が湧いてくる。
 

 その恥の感覚というのは、感情というような生易しいものではなく、さながら発作のように強くわきおこってきて、その場から飛び跳ねたくなるような、
逃げたくなるような衝動に襲われます。ついつい、恥の発作をそらすために、独り言をつぶやいたりしてしまう。

 

 自分の過去の言動全てが恥であるように思えてきて、関わった人と再度関係を持つことをためらったり、億劫に感じたいさせられるようになります。

 

 実は、これは、ローカルルールに基づく「恥の発作」です。

 

 本当の恥ではありません。造られたものです。
造られたものなのですが、その恥の感覚が起きないように(寝た子を起こさないように)起きないように行動してしまう。
 自分の中にある恥の感覚を刺激されるようなものがあれば、それを避けてしまったり。

 

 
 もう一つ、ローカルルールを延命させる檻としてあるのが「後悔」です。

 「あのときもっとこうしておけばよかった」とか、「あんな行動を取らなければよかった」というような感情です。

 後悔についても、発作のように強く湧いてきて、目を閉じて頭を抱えたくなるような感覚に襲われます。

 これも恥と同じく、それを刺激するようなものは避けたくなります。

 刺激を避けることで結果として知らず知らずのうちに行動は大きく制約されるようになります。 

 

 繰り返しになりますが、ローカルルールとは、偽のルールです。本物の常識ではありません。ですから、その存在の根拠はかなりあやふやで、脆いものなのです。

 しかし、その周囲には、「秘密」というものであったり、「恥」「後悔」といった強い感情といった檻によっってぐるぐるに守られていて、簡単に壊れないような仕組みになっているのです。

 ただし、メカニズムが分かればアプローチしていくことが可能になります。

 
 ローカルルール(人格)の影響を壊して、自由になっていくためには、こうした「恥」「後悔」そして、「秘密」というのものも壊していく必要があるのです。

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「自分が気がついていないマイナス面を指摘され、受け止めなければならない」というのはローカルルールだった!

 

 人間にとって、一番のダメージとのなるのは、「自分が気がついていないマイナス面を他人から指摘される」ということではないかと思います。まさに不意打ちを食らうような感じで破壊的なダメージとなります。

 

 ”自分が気がついていない”というところがポイントで、これがあると、結局どこまで行っても、「自分が気がついていないこと」というのはなくなりませんから、いつもどこか自信が持てない状態に追い込まれてしまいます。

 こうしたことを悪用しているのが、かつて流行した洗脳型の自己啓発セミナーで、参加者同士でその方の欠点を言わせて、自我を破壊したあとに、拠り所を渇望し始めた参加者に、主催者側が刷り込みたい理論を伝えると、高揚とともにそれを吸収していきます。

 

 

 中国で行われていた洗脳はそれを徹底していて、「ラストエンペラー」という映画でもその一端が描かれています。

 看守が、元皇帝の靴のヒモをわざとほどきます。
 すると、靴ヒモを結んだことのない皇帝はヒモが結べないために、自分が一般人の常識が身についていないことに気づかされます。
 こうしたことを繰り返していくと、だんだんと自我が壊れていき、最後は従順な共産党支持者となっていく、というものです。
  

 私たちが日常で遭遇してきてトラウマになっている家族や友人、上司のふるまいととても共通すると思います。
 

 

 特に私的環境において、

 「実は、あのとき、私はあなたに対して~~だと思っていた」とか、  
 「あなたは~~という面があって、とても不快だった」とか、
 「気がついていないだけで、あなたは~~だ」とか、

 実はこうした指摘はすべてローカルルールによるものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 指摘は作られたもので、本当の事実ではない。

 

 

 指摘してくる人の背後には嫉妬や、支配欲、あるいは自己の不全感があります。それによって、ローカルルール人格にスイッチして、こうした破壊的な指摘を相手にぶつけて、相手の自我を傷つけ、支配しようとします。

 

 人間には気質、生育歴に差があって、知っていること、出来ることにも差異があります。また、パフォーマンスが発揮されるためには環境からの支援が不可欠です。

 つまり、事実というのは客観的に定まったものではなく、環境によってかわり、意図によっていかようにもなる、ということです。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 

 

 例えば、皇帝がヒモを結べないのは仕方のないことです。ある職業の人が、別のことができないのはよくあることです。一流企業の社長もタクシーの運転はできないでしょうし、農作業もうまくできないかもしれない。スポーツ選手は、デスクワークは不慣れでしょう。それは仕方のないことです。

 

 海外のバラエティドキュメントに「アンダーカバーボス」という番組があります。大企業の社長が変装し、平社員として現場で働く、というものです。働いてみると、現場での作業ができない。それで社長なのに怒られたりする。現場で働くことで、会社の問題点が見えたり、社員の気持ちがわかったりするようになっていきます。

 社長とはいえ、ブランクがあったり、経験していない仕事はできません。人間とはそんなものです。でも、万能感があるために、それに気がつかないだけ。
 
 

 

 多くは、ちょっと学べばできたりする程度のことだったりします。靴ヒモなんてすぐに覚えられます。

 しかし、ここに人間の不全感や、嫉妬といったものがはいると、途端にローカルルールによるニセ事実が作り出されます。
 

 「お前はその歳にもなってそんな事もできないのか!」

 と、ひとこと言うだけで、「仕事ができないだめな人間」という“事実”を作り出して、相手をマウンティングすることができます。
 

 

 これを真に受けてしまうと、「確かに、俺は靴ヒモ結べないし・・・」とか「運転できないし・・」とか、「こんな簡単な仕事もミスしちゃうし・・・」となり、人から「気にしなくていい」と言われても、「いやいや事実だし・・」となって長く取れない呪縛となってしまいます。

 

 子どもの頃に、「あなたは~~だ」と親から言われたことも大半は作られた事実に過ぎなかったりするのです。それが長く呪縛となってしまっている。

 

 つまり人のいうことは客観的な事実ではなく、単なる主観でしかないものです。しかも、人間は簡単に負の感情に落ち込んだり、人格が変わってしまう生き物です。耳を傾けるには人間の意見はあまりにも信頼性が低いのです。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 耳を傾ける信頼性があるとしたら、公的な環境が整った場面においてのみ。
具体的にはお金を払って専門家からアドバイスを貰うとか、まったく他に利害関係を削ぎ落とした状況においてだけです。

 会社の状況が悪いので、専門から「実は・・・大変な状況ですよ」とか、健康診断で、医師から「実は、ここに疾患があります」とか、フィットネスクラブで、コーチから、「ここの筋肉が使えていませんよ」とか、
 

 ※いわゆる学校、職場という場所は公的な環境かどうかはとても怪しくて、教師の嫉妬や不全感などからおかしな私的感情が入ることもあります。むしろ、塾などのほうが公的な環境に近いと言えます。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 養育環境などでおかしな助言や指摘を受け続けていると、まさに洗脳セミナーのごとく、混乱させられて、何を受け取って、何を受け取らないほうが良いのかがわからなくなってしまいます。

 結果として、本当に受け取るべきときに助言を受け取れなくなってしまって、失敗してしまう、ということも生じます。

 

 

 人間は本来は、養育環境では、愛着(安全基地)を土台として、自分らしさというもの、自分への信頼というものを育んでいきます。さらに、二度の反抗期では、親の教えにも「イヤイヤ」と否定することで、自立を果たしていきます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 そうした「自分」というものがシステムとしてある程度確立していく上に、知識や技術、経験が形作られていく、というものです。

 

 しかし、いわゆるローカルルールによる「耳の痛い」指摘は、その土台を掘り崩してしまいます。いっときは良くても、自分の良さが失われてしまい、長く力を発揮できなくしてしまいます。

 建物もそうですが、足場を破壊しては建築していくことはできない。
自然環境も精妙なバランスでできていて、壊して良くなるというものではない。

 

 「人間は成長するためには、耳の痛いことも人から言ってもらわなければならない」というのは実はローカルルールです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 もっともに見えますが、
 「建物は、立てるためには足場を破壊しなければならない。」「自然のバランスは壊さなければいけない」といっているようなもので、そんなことはありえないのです。

 

 「いや、でも、いろいろな人の経験談などを見ると、人からの指摘で目を啓かされたというのは聞くけど」という人がいるかもしれません。

 

 それは、その内容をよほど精査しないといけません。

 自分が成長できた、目を啓かされた、という体験の実情は、果たして本当にそうだったのか?上に書いた洗脳されたラストエンペラーのようなことになっていないか?
  
 支配欲や嫉妬から発したことをまさか「これは嫉妬です」という人はいない。
 「あなたのためだ」というふうに騙ります。

 

 それを真に受けた人が「耳の痛いことを行ってもらって、あれで私は良くなった」といった人もかなり多いのではないか。

 良くなった、と思わされているけど、本来の自分を発揮する伸びしろは確実にそがれ、萎縮する形での改善になっていることが考えられます。

 ラストエンペラーも「共産党と人民のおかげで、私は良い人間になれました」と言うでしょう。自己啓発の参加者も、「このセミナーのおかげで、私は変われた」という。でも、洗脳ですから、本来の自分は抑圧された結果です。

 

 世の中にはこうしたニセ美談がたくさんあって、それが私たちをハラスメントから逃れることを妨げています。

   

 「いや、それでも、人間はときに自分が気が付かないことも指摘されることは大事では?」と思うかもしれません。 もちろん、指摘が必要な場面があります。岡目八目が必要なことはある。

 それは、公的な環境においてのみ。
 利害関係を削ぎ落とした状況で専門家からアドバイスを貰うというようなことです。

  
 私たちは食べ物でも、安全を確認してから食べるのに、人の意見について毒味もせず受け止めるなんてありえない。
 

 

 健康な人間には自他の別があり、それぞれ自分のことだけで生きているのですから、相手のことに構う、という時点でかなり異様なことなのです。それを越えて「あなたのため」と言ってくることは耳を傾けてはいけない。

 親族の言葉、助言というのは一番怪しいものです。

 

 アドバイスを貰うなら、お金を払うなりして、こちらから貰いにいかないといけません。

  
 基本的には、システム全体を入れ替えるような指摘するというようなことは、神にしかできない。ローカルルール人格は、ニセ神様を演じますから、さながら神のごとく指摘しようとします。

 でも、それは単なるローカルルール。
  
 真に受ける必要もないし、気にする必要もない。

 
 すべては、まずは自分というシステム(内部環境)を大事にして、そこから積み上げていくことが大切。

 

 実は、健康な人は自然とそうしている。例えば職場でも、上司の話は話半分で聞いている。内容を精査している。「デキる社員はやり過ごす」という本がありましたが、真に受けたりはしていない。でも、意固地ではなく、素直に聞いているように見えている。それは土台があるからできるわざです。

 
 
 私的環境における人の言葉はすべて戯れとして聞き流す(家庭の中は特に)。
 公的環境における言葉は吟味にして受け取る。
 職場や学校のようにローカルルールがはびこりやすい環境では、よほど精査して、話半分できく、ということが必要です。

(参考)人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

理不尽な家族(他者)の都合の良い“カウンセラー”役をさせられていた。

 

 社会心理学では、「ソーシャルリアリティ」といい、現実は社会的に作り出されている、と捉えます。

 特に人間関係では、それは顕著で、他者からの承認がなければ成立することがありません。

 例えば、ジャイアンがジャイアンとして成立するためには、スネ夫とかのび太がいないといけないでしょうし、その反対もそうです。
 人間関係では、無意識に配役が当てられて、それを演じさせられるということは起こります。

 

 ローカルルールで作られる関係においては、特に顕著です。なぜなら、ローカルルールは私的な情動で作られたニセルールですから、現実にしっかりとした足場がありません。

 ローカルルールが維持されるためには、それに巻き込まれる人たちが必要になるのです。

 

 その巻き込まれる人たちとは例えば家庭であれば「子ども」、学校であれば「いじめられっ子」や「傍観者」「教師」、会社であればそこで働く「従業員」であったりします。

 
 不安定な人が発する理不尽な言いがかりを、受け止めることを強要されます。

 

 

 もちろん、その言いがかりは、私的な情動から発しているのですが、まさか「これは個人的な感情です」とはいえませんから、「これが常識だ」「これがノリということだ」「仕事のルールだ」と騙ります。
 それで、その騙ったことをハラスメントを受ける側の人が真に受けます。
 こうしてローカルルールが出来上がります。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ローカルルールを真に受ける側は様々なスタイルの役目を押し付けられます。

 「(自分が思うように弄んでいい)被支配者」
 「(気の利かない、仕事ができない)教育すべき人間」
 
 といったようなこともそうですが、

 
 結構多いのは、
 「いい人」役、や「世話人」役、
 「カウンセラー」役をさせられるケースです。

 これは、家庭、特に親子関係で多く見られます。

 

 

 理不尽で、気分の上限の激しい親を、子どもがあくせく共感したり、気を回したり、あたかもカウンセラーのような役割を押し付けられてしまうということです。
 (カウンセラーは一般に立場が弱く、共感しなければ、受け止めなければ、といった縛りも多いので、支配には特に都合が良い役目です。傷つけたいときには簡単に傷つけることもできます。)

 

 

 「共感したり、受け止められなければ冷たい、人として十分ではない」という罪悪感を刷り込まれて、そして、振り回される。

 

 一生懸命対応していても、
 「冷たい」だとか、「自分のことを理解していない」だとか言われて、ヘトヘトにさせられてしまう。

 

 本当に正しい対応は、「もうこれ以上、付き合っていられません。勝手にしてください」と静かに伝えることであり、完全に距離をおいて離れることなのです。

 ローカルルールを維持することに協力させられ、そして、そのローカルルールによって、自分が支配されたり、傷つけられたりする。

 

 ローカルルールに影響されていることに気が付かなければ、成長して、別の場所に行っても、同じようにローカルルール人格にスイッチした人に振り回されて、カウンセラー役をさせられる羽目になってしまうのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

家では「安心安全」は得られない。~家も機能が限定された場所の一つである。

 

 安心安全というときに、問題になるのは「家」の役割(機能)をどのようにとらえるのか?ということです。

 

 人間にとって、万能の安住の地というものはなく、それぞれの場所というのは限定された機能しかありません。

 

 例えば、カフェで、フルコースの料理を頼んでも出てきませんし、宿泊したくても泊まらせてもくれません。
 ある時間以上いると、だんだんと疲れたり、倦怠感を感じてきます。カフェで何日もずっといないといけなくなったら健康を害してしまうでしょう。

 職場は働くところです。ある時間までに向かい、時間内に仕事を終えて、退社します。

 美容院は髪を整えるところです。髪を整え終わったらお金を払って後にします。
 
 休日にショッピングモールやデパートに行きますが、やはり、長くいすぎると疲れてしまいます。ソファでぐったりしているお父さんたちがいたりします。 
 
 
 このように、人間にとっての「場所」とはそれぞれに限定的な機能しかなく、想定された役割や時間以上に居ることはできません。
さまざまな場所を循環するように次々と移り変わりながらトータルで「機能」が満たされるようになっています。

 

 

 「家」も同様で、一見、多機能に見えるために誤解されがちですが、限定的な機能しかありません。
(かつては、「家」は生産の場でもあり、「しごと」にあふれていましたが、今は「消費」中心でさらに限定的です。)

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 家は 社会とのかかわりの中で「家」にいる人たちが役割を果たして初めて機能するもので、社会から切り離されたり、役割が果たされていないと循環が絶たれると「機能不全な場」となってしまいます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 よりはっきり言えば、家が「永続的な安心安全が得られる場所」というのは幻想です。

 

 特に、養育環境に問題があったケースや、家庭が機能不全に陥っているために心身の不調が生じている場合に、家にいてもそこでは「安心安全」は得られません。
 

 以前の記事にも書きましたが、あるクライアントさんが、活動量計で測ってみたところ、家にいるときのほうが緊張していて、外にいるときのほうがリラックスしていることがわかりました。

 ほかのクライアントさんでも、明らかに家にいるときのほうが緊張しているという方は少なくありません。
 ※家は「私的領域」という面が強く、家にいることで、機能不全な家族とつながってしまったり、解離してしまったりということが生じ、調子を崩してしまうようです。

 「家が落ち着く先である」というのは、やはり錯覚のようです。

 

 

 前回の記事でも見たように、睡眠、食事、運動も大切です。家はそうしたことを満たす場ですが、社会から切り離された状態でずっと「家」にいることで反対に生活習慣が乱れてしまい、身体的にも「安心安全」が失われてしまうことがあります。

 (参考)→「「安心安全」は、身体の安定から始まる

 睡眠がうまく取れない。昼夜逆転してしまう。
 一人暮らしであれば、栄養のある食事を摂ることができない。
 長く家にいることで、近所の目が気になり、外出もできなくなり、運動も取れなくなる。 
 睡眠、食事、運動が乱れれば、足場がなくなり、本人がいくら回復したいと意を決しても叶わなくなってしまいます。

 

 たしかに、病気などで「自宅療養」というものは存在しますが、自宅療養として機能させるためにはかなりのコストと手間、他者からの支援が必要になります。
 さらに、ただ「家」というハコモノがあればよいわけではなく、快適な環境として機能するためには構成メンバーの不断の努力が必要で、気を抜くとすぐに機能不全環境に陥ってしまいます。
 (現代で介護が大変なのも、こうした点にあるのかもしれません)

 

 
 このようなことから考えると、
 心身が不調にあるときでも「家」は安住の地ではなく、あくまで一時避難先としての機能しかありません。
 「家」という場所は、社会から離れて長期に居るようにはできていないのです。

 

 人間とはスマホのようなクラウド的存在、長くただ「家」にいるだけだと更新されないままになり、機能低下していってしまうのです。
 (「家」そのものも、あくまで社会の中の数ある場所の一つで、システムとして連携されることで機能を発揮します。)
 

 家で仕事をしている、勉強をしている、といった場合は別ですが、基本的には、ある程度回復したら早めに社会活動を再開しなければなりません。

 

 「安心安全」の確保に家を活用するためには、まず、本来家の持つ役割が限定的であることを知ることです。そのうえで、社会とのつながりを切らさないように意識することがとても大切です。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

“責任”は不要~人間には「役割」があればいい。

 

 “責任”にはニセモノが多い。
その蓄積が、私たちの苦の根源にあるものだ、としてきました。

 ニセモノがあるのであれば、ホンモノの責任があるのか?ということについて、ですが、便宜的に、ホンモノがあるということはできます。

 本物の責任だけを背負って、そうではないものは背負わないことがポイントといえます。

 

 ただ、いろいろと調べてみると、“責任”という概念は、とても曖昧で、納まりが悪い言葉であることが見えてきます。

 哲学とか、法学とかで責任ということについていくつか研究されているようですが、どうやらイマイチピンとくるものがない。

 

 『“責任”はだれにあるのか』という本を書いた国士舘大学客員教授の小浜逸郎氏は、「本書を書き終えた感想をひとことで率直に言うと、「やっぱり責任て、なんだかよくわからない概念だなあ」というところです。」
 と述べています。

 

 

 なぜ、よくわからないか、というと、
簡単に言えば、責任の主体と、問われる責任そのものとがどう理屈をつけても一致しない、ということ。 

 

 責任とは、自由意志を持つ主体が、その行為の結果について問われる、ということです。

 しかし、人間ってそもそも自由意志など持っていない。自由意志を持っている、といってもあくまでそれは理想の話。
 実際の人間は、外的、内的環境の影響を受ける存在で、否応なしに追い込まれるように反応しているだけ。

 

 哲学者のスピノザも述べていますが、人間には自由意志などなく、行為の原因をたどると環境に還元されてしまう。

 

 

 今日朝ごはんになぜパンを食べたか、といえば、前に見たTV番組のせいか、メーカーのマーケティングのせい、スーパーの価格決定のせい、親の教育のせい、意図しないホルモンバランスの乱れのせいか、政府の政策のせいか・・・
 など原因はきりがありません。
 何にも影響されず、自由意志で選んだ、とは言えない。
 

 「いやいや、そんなへ理屈を言って。パンは自分で選んだでしょ」と思うかもしれませんが、自分の行動を説明できないのは、私たちがよく知っている。
 買いたくない買い物をしたり、やりたくないことをしてしまったり、自分の行動で説明できることのほうが少ない。

 

 街頭でいきなりインタビューを受けて、「その服はなぜ買ったのですか?」と聞かれたら、スッキリ答えることはできない。
 「たまたま通りかかって」とか、「バーゲンをしてて安かったから」とか、
 「いや、デザインが気に入ったので」と、それはわかりやすい理由を探して言うだけ。本当の原因とは言えない。

 

 マーケティングなどの研究では、そうした答えは本当の答えではなく、真に受けると痛い目に合うことはよく知られている。
 本当の理由はもっと奥にあるけど、当人は気が付けない。第三者もそれを導くためには、正しく設計された調査と統計的な手法が必要になる。
 その際明らかにするのは、自由意志というものではなくて、環境の要因とか、無意識に潜む因子といったものです。

 

 こうしたことを考えると、人間には完全な自由意志などはないし、そこから導き出される“責任”という概念はまったく似合わない。

(パリ大学の小坂井敏晶教授も、『責任という虚構』という本の中で責任ということが人間にとってふさわしくないことをまとめています。)

 

 

 実際、“責任”という概念を持ち出して議論すると紛糾しています。
 納得できず、納まりが悪いので、いつまでたっても結論が収束しない。

 犯罪といったような明らかにその人が起こした問題であっても“責任”という言葉で語り始めると、居心地が悪くなってくる。

 例えば、ある国でマイノリティの人たちは犯罪率が高い、といったときに、では、犯罪はその人たちの責任か、といえば、そもそも構造的に貧しいから、教育水準が低いから、差別にさらされているか、となる。

 では、現場で起きた窃盗の責任はだれにあるの?と突き詰めていくと、訳が分からなくなってくるのです。

 『反省させると犯罪者になります』という本にもあるような理不尽さを人間は正しく感じるようになります。

 

 

 

 筆者は、“責任”という言葉は不要で、廃止してしまったほうが良いのではないか、と思っています。

 とっても扱いづらいし、納得性も低い。実用性も低い。なくても全然困らないからです。

 

 
 「責任っていう言葉がなくなったら、無責任な人が増えて困るのでは?」と思うかもしれません。 

 
 しかし、“責任”という言葉は、日本においては、実は明治になり外から入ってきた言葉です。

 それ以前は“責任”という言葉は現代でいう意味ではありませんでした。
 でも、困ることはなかった。  

 私たちが教科書なんかで習った「御恩と奉公」だとか、儒教の「仁」だとか、別の言葉が代わりにあったと考えられます。

 

 
 現代でいえば、「役割」という言葉がそれにあたるのかな、と思われます。

 

 使いにくい“責任”という言葉は廃止して、「役割」を用いたほうがよほどすっきりする。

 

 

 なぜかというと、これまで述べたように、“責任”というのはありえない自由意志と対になっていることから、そもそも範囲が広くなりすぎる性質があるため。

 
 “責任”はその範囲を制限していても、結局、「道義的な責任」といったようなものも含んで、当人の人格や存在そのものにまで浸透して、否定して消し去ろうとする傾向がある。

 
 “責任”が想定する自由意志とは環境も含んだ要素から成り立っているため、環境という自分ではコントロールできないものまで、自分のせいにされてしまうのです(社会学では、「関係性の個人化」といいます)。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 だから、皆、“責任”という言葉には理不尽さを感じて、しり込みをしてしまうし、それが私たちを苦しめる。

 

 あるいは、本来、 責任のない人まで責任を感じて、「ニセの責任」引き受けてしまう、という不思議な現象も起きてしまう。

 
 例えば、子どもが、夫婦の不和の原因を、自分の責任だと思う、といったようなこと。そして、それがおかしいことだと気が付きにくい。

 

 

 しかし、「役割」だったらどうでしょうか? 
 

 親の不和を仲裁したり、気にかけることが子どもの「役割」とまでは、ふつうは思えない。もし、アダルトチルドレン状態でそのように錯覚していても、落ち着いて眺めれば、「それは自分の役割ではない」と気が付きやすい。

 

 「役割」にはあいまいさが少なく、範囲も限定されやすい。
 人格や道義的なことまで広がることもない。
 役割は、自由意志などといった過大な前提がないからです。

 

 職場でも、“責任”というと、道義的、人格的なことも含めてどこまでも広がっていくようなところがありますが、「役割」というとはっきりします。
 「それは私の役割ではありません」といえます。
 反対に、“責任”といわれると、「責任逃れ」という言葉の悪い印象から
 「私の仕事じゃないけど、道義的には申し訳なく思わなくては・・・」となってしまう。
 
 
 「自分のことじゃなくても、人としては責任を感じるのが正しいんじゃないのか!」なんて、怒る教師や上司もいたりする。悪用する人も出てくる。
  まさに、「関係性の個人化」を表すような言葉です。

 

  実は「罪悪感」という言葉には、“責任”が裏に潜んでいる。
 “責任”が潜んだ「罪悪感」には終わりがない。無限に広がって、終わりなく自分を責めてくる感じがあります。

 

 でも反対に「役割」であればどうか、といえば、そうしたことが少ない。限定的です。
  

 対人関係で、「罪悪感を植え付けてくる」ような人がいても、“責任”という観念を当たり前としていると、「私が悪いのかも」「道義的に責任を引き受けなければ・・」と考えてしまいますが、「役割」といえば、「相手を気分良くさせるのは私の“役割”ではない」とピンときます。立て直しやすくなる。
 

 

 また、“責任”は無限定であいまいなために、反対に具体的な機能が果たされていない場合にも、そのことが気づかれにくい。

 例えば、「親の責任」というと、ほとんどの親は「親の責任を果たしている」と漠然と答えたり、子どもを思っていれば、責任を果たしたことになる、と自己愛的にとらえる人も出てきます。
 しかし、具体的に「ちゃんと役割を果たしているか?」と問われると、怪しくなってくる。

 「役割」とは、機能不全家族でいう、「機能」という言葉に近いですが、具体的であるため、何が欠けていて、何が欠けていないかが確認しやすい。
 “責任”だと、ふわっとして、訳が分からなくなってくる。

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 「役割」というのは、物理的な量感、身体感覚を伴った言葉であるため、それが実際背負える量に対して、過大であることも感覚的にわかりやすい。具体的で、等身大で、個人が何をしなければいけないかが明確。場によって生じ、場を離れればなくなる。時間が経てば自然となくなります。

 

 “責任”というと、とても自己愛的で、空想的な言葉で、自我肥大するかのように、過大なものを背負っていても、違和感なく受け取ってしまう。またプライベートとパブリックとがあいまいにもなりがち。場が変わってもずっと呪いのようについてくるような概念。時間がたっても消えにくい。
 

 

 「法律に違反したという場合は?」というと、それは法令順守という市民の「役割」を果たさなかったということで、それに付随した罰則が来る、という理解になります。

 

 
 このように考えると、“責任”なんて言葉はまったくいらない(明治以前にはなくても困らなかったのですから)。
 「愛」と同じで、人間にはまったくサイズが合わない。おそらく、それは、神様しか使えない言葉です。

 (参考)→なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 私達の世の中には、人間の身の丈に合わないために、私達を苦しめる結果となる言葉、概念がいくつかあり、“責任”もその一つ。
 私たちはよりよく生きるためには、必ず等身大の身体感覚からスタートする必要があります。
 

 

 私たちが生きていく上では、“責任”という言葉は棄て、「役割」を採用することが大切。 

 

 “責任”という言葉が浮かんで来たら、「役割」という言葉に変換して、そして、「実際、今私の役割って何?」と確認すればいい。

 友達同士の付き合いなどの場面であれば、自分の「役割」などほとんどないことがわかる。
 「ゲシュタルトの祈り※」が、きれいごとじゃなくて、本当にそうだな、ということが実感できる。

 だから、「相手を不快にさせたかな?」なんて思いは全く浮かんで来ることがなくなります。

 

 「相手を気持ちよくさせるのは私の役割ではない」と。
 

 

 
 迷ったり罪悪感が湧きそうになったら、仕事でも、プライベートでも、自分の「役割」を確認する。
  
 
 そうすると、ニセの責任に振り回されることが少しずつなくなっていきます。

 

 

 ※ゲシュタルトの祈り  フリッツ・パールズがセッションの前に読み上げたとされる詩のこと

「われはわが事をなさん。汝は汝の事をなせ。わが生くるは汝の期待に沿わんがために非ず。汝もまた我の期待に沿わんとて生くるに非ず。
 汝は汝、われはわれなり。されど、われらの心、たまたま触れ合うことあらば、それにこしたことなし。もし心通わざればそれもせんかたなし」

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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