“あいまいな”マルトリートメント(虐待)②

 今回は、前回ご紹介した『精神の生態学へ』(岩波文庫)に紹介されている母子の話についての続き、です。

参考)「“あいまいな”マルトリートメント(虐待)①」

 ダブルバインドによって精神障害(統合失調症)を発症し、で入院していた息子のところに、問題の母親が見舞いに来ます。息子は入院によって体調はかなり回復をしていました。

 

 しかし、母が来たことを喜んで息子が母の肩に抱き着くと、母は身をこわばらせます。

 それで、息子がとっさに手を引っ込めると

 母は「もう、私を愛していないの?」と言います。

 顔を赤らめる息子に対しては母は、「そんなまごついてはいけないわ。自分の気持ちを恐れることはないのよ」といいます。

 そうして、母が帰った後、息子は暴れ出し、ショック療法の部屋に連れていかれました。。。

 

 
 もし、息子が「母は僕が肩に腕を回すと落ち着かないんだ。僕の愛情表現を受け入れられないんだ」とでも表現できれば、暴れ出すような破滅的な事態は起きず、状況は少しは改善したかもしれません。

 しかし、息子は、強度の束縛(ダブルバインド状況)の中で、母親のコミュニケーションの真実を言語化することができない状況に育ってしまっているのです。
 

  
 一方で母親は息子の状況にもっともらしい論評を加え、自分の解釈を息子が受け入れることを強要しています。

 さらに、息子は医師からも「統合失調症」の烙印を押され、「暴れた」という事実もあるために、その診断は“医学的にも”合理的とされることになっています。

 自分がもしこの息子だとしたらと思うと、本当に恐ろしい状況です。

 前回も書きましたが、統合失調症として現れるか? 複雑性PTSD(発達性トラウマ)として現れるかは、単なる体質の差です。
 パニック障害、解離性同一性障害、うつ病、依存症としてもあられることがあり、気質の違いによります。ベイトソンは、統合失調症の原因としてこれを書いていますが、複雑性PTSD(発達性トラウマ)でもそのまま当てはまります。
 

 

 恐ろしいのは、では、この母の言動は、社会的に虐待と認定されるようなものなのか?といえばそうではありません。まったくもって“あいまいな”ものです。  

 しかし、この“あいまいな”虐待は、社会的認定されている虐待以上の恐るべきダメージをもたらしています。

 

 

 では、ここで取り上げた見舞いの際の母のコミュニケーションをベイトソンが解説していますから、その詳細も紹介させていただきます。

 

●母親は、腕を引っ込めた息子の反応を「もう、私を愛していないの?」などとあげつらうことで、自分の拒絶を隠ぺいしています。
 さらに、息子も母の非難を受け入れて自分の感覚、状況理解を否定しています。 (これが、母が帰った後で暴れたことにつながります。)
 

●「もう愛していないの?」という言葉からは、以下の含みがくみ取れます。

 a)「わたしは愛するに値する」という前提。

 さらに、
 b)「お前は私を愛するべきだ。愛せないお前が悪い。それは間違っている」という非難の含み。

 

 c)「もう」の一言が、「以前はわたしを愛していたのに、今は愛していない」という含みを添える。
  それによって、息子が愛を表現できるか否か、ではなく、愛情を抱くことができるか否かに焦点が移ります。
  しかし、息子は過去に母を憎んだこともあるのだから、この葛藤において母の優位は揺るがなくなります。
 息子は過去も十分に母を愛せていなかったことに罪悪感を感じます。

 

 d)「もう愛していないの?」と言うことで、つまり息子が母の肩を抱いたことについて「お前が今表現したことは、愛情ではなかった」という一方的なラベルを貼っています。
  そのラベルを息子が認めるとき、これまで社会的に学んできた愛情表現の方法(肩を抱く、など)は愛情表現ではないと否定されます。
  すると息子は、過去に自分が行った愛情表現が表現として不適切だったのだ、相手がそれを受け入れたと思えたことまでが疑わしい、と不安を感じるようになります。
  ここで彼が経験するのは「支えの喪失」です。
  過去の経験が自分の支えとしての機能を失ってしまう、疑わしいものになるということです。

 

●「そんなまごついてはいけないわ。自分の気持ちを恐れることはないのよ」

 このメッセージには以下の意味を含んでいます。
 a)「普通の人は自分の気持ちを表現するのにお前はそうしない、できていない。だからお前は他のきちんとした正常な人間とも違う」

 
 b)「自分の気持ちを恐れることはない」ともっともなことを言い、「お前の感情自体は問題ない。問題はお前がその感情を容認できていないことだ」としていますが、しかし、自分が母に触れた時に母が示したこわばりが自分に現れた感情を母が容認しないと示している以上、彼は過去の葛藤に追いやられることになります。 
 母が勧めるように、自分の感情に恐れを感じないでいるならば、母への愛の感情も素直に表現して当然です。

 しかし、そうしてしまえば、恐れているのは母のほうだを気づかずにはいられない。しかし、気づいてはならない。
 息子はこれまで母との関係や母の幻想を壊してしまわないように、自分が感じた感情(つまり、母は私を拒絶している)を認めないようにして来たわけです。母は自分の欺瞞のために息子を協力させてきたのに、ここではそれがおかしいと非難をしているわけです。言葉では「自分の気持ちを恐れることはない」とキレイ事を言っていますが、構造としては、私の幻想と私との関係を壊すなとしているわけです。

 

 この見舞いの場面では母に愛情を示さなければ母を失う、でも、示した愛情はおかしいとされる、自分の気持ちに率直になることは、母の幻想や関係を壊すためにできない、こうした解決不能のジレンマに息子はおちいっているわけです。

 

 ベイトソンの解説は秀逸だと思います。

 こうした構造の状況は、トラウマ、複雑性PTSDの相談において実際によくあります。

 

 繰り返しになりますが、母の会話がもし音声で録音されていてもおそらくすぐには「虐待!」とは認定されないでしょう。よほど、家族関係やハラスメントの専門家が見なければ正しくアセスメントはしてくれません。

 

 ましてや本人は呪縛の中にいますから、気が付きようもなく、しかし、心身に症状だけが生じていて、社会でもうまくいかず、人間関係も作れず、その“事実”から自分はおかしいと責めるようになります。

 前回でも書きましたように、
 「いや~、親がそれほどひどかったとは思えないんです・・」
 「親のせいにするなんて自分がそう思いたいだけかもしれません??」
 「実際に、社会でうまくいっていない自分のほうがおかしい。だって他の兄弟は何ともありませんし。。」などとなってしまうのです。

 社会的にもあいまいだからこそ、それ自体が、第4、第5の拘束のメッセージともなりさらなる拘束となります。
 

 まさに、あいまいなマルトリートメント(虐待)の恐ろしさです。
そして、あいまいなマルトリートメント(虐待)は、決して稀ではなく、そこここに存在しています。

 

 母子に単純化していますが、これが、親族、学校、会社などでも様々な場面でも起こりえます。

 生まれつきそうではないか?天才的!?と思うくらいに、絶妙のタイミングで私たちの些細な行動を弱点として取り上げて、あげつらう(ハラスメントをする)のが得意な人というのはいたりします。
 あるいは、普通の会話、やり取りなのに、なんとも言えない嫌~な気にさせるような人などもいますし、皆様もそうした人に出会うことがあるのではないでしょうか?
 (それは、もちろん生まれつきではなく愛着不安やトラウマによる不全感を抱えたことを土台として、その人の気質が合わさって生じるものです。)

 そうしたことは表面では現時点では、虐待ともハラスメントとも、されないかもしれませんが、ベイトソンが明らかにした視点から精緻に分析すれば、それは、私たちを縛る欺瞞的なコミュニケーションなのです。

 このことに対して私たち社会全体も、もうさすがに気がつかなくてはなりません。
 不全感に基づく欺瞞的なコミュケーションについて賢くなり、明らかにしていく必要があります。

 

 

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“あいまいな”マルトリートメント(虐待)①

 臨床においては、明らかに家族の影響によって生きづらさが生じているにもかかわらず、相談者自身も「別に、虐待されたわけではないし・・」といったように、家族がもたらす影響が自覚できない、わからなくなる、というケースが珍しくありません。
 
 
 明らかな暴言、暴力などはないけども、親のおかしな接し方が子どもの生き生きとした気質を削ぎ、力を奪い、子ども自身も自分はダメだ、とおもうようになる、ということは実はよくあります。

 
 今回は、そうした“あいまいな”、でも深刻な虐待についてグレゴリ・ベイトソンの『精神の生態学へ』(岩波文庫)の内容を紹介しながら、詳しく解説してみたいと思います。

 人類学者のベイトソンは、ダブルバインド(二重拘束)が統合失調症の原因、という仮説を提示したことで有名です。特に近年はあらためてその妥当性、慧眼が注目されています。
 

 

 そのベイトソンが書いた『精神の生態学へ』の中巻の中で、ある母子の例が紹介されています。

 それは、子どもが近づくと母は不安を感じて身を引いてしまう、というケースです。

 

具体的には、

 その母は、子どもと親密な関係になると不安と敵意を感じるという問題を抱えています。

ベイトソンは、その不安の原因として、例えば

母が、
 ・自分と家族との関係に不安を感じている
 ・子どもが、男の子か、女の子かということだけで不安を感じる
 ・その子の誕生日が身内の命日と重なるから、という理由から不安を感じる
 ・その子の兄弟の中での位置が自分と重なる
 ・母の感情的な問題が理由で、その子を特別視している
などいくつかの可能性を挙げています。
 実際のカウンセリングの相談でもよくありそうなものばかりです。

 

 母親はそうした自分の中の不安や敵意を否定しようと、子どもを愛していることを強調する行動をとります。
(母が自分の愛を子どもに強調する行動とは、優しい言動だけではなく、子どもをいい子にしつけることも含みます。)

 その行動に対して子どもが母を愛情に満ちた母として見ないと、母はさらに身を引いてしまうのです。

 

 さらに、父の存在の欠如、希薄さがこの状況を増幅させます。
本来ならば、父が洞察力をもって、こうしたおかしな母子関係に割り込み、子どもの支えになることが父の役割なのですが、その存在がいない、あるいは子を支えるにはあまりに存在が薄い。
 父の存在の欠如、薄さはこうしたケースのつねだ、とベイトソンは述べています。(実際のケースでは、父以外でも祖父母など関係する大人の機能不全があります)

 

 簡単に言えば、たったこれだけのことが統合失調症のような重い精神疾患を生じさせる、というのです。
 たったこれだけのことが、です。

なぜか?

 これが有名なダブルバインド(二重拘束)と呼ばれる作用によるものです。

 

 ダブルバインド(二重拘束)とは、矛盾するメッセージを受け入れさせられることが人間にとって非常なダメージになるということを明らかにした理論です。

 

 このケースに即して具体的に言えば、

 母は、自分が子どもと親密になると不安や敵意を感じてしまいます。
子どもは、母の不安や敵意の反応を無意識に感じとります(第1のメッセージ)。

 しかし、母は、子どもに対する自分の不安や敵意を受け入れることができず、愛情を溢れる母親を演じることになります(第2のメッセージ)。

 その結果、子どもは矛盾する2つのメッセージを投げかけられることになります。これが、矛盾するメッセージによる拘束です(ダブルバインド

 

 

 これだけならまだ抜けることはできますが、さらに、ダブルバインドから抜けられない第3のメッセージが飛んできます。

 それは、母との関係を維持しなければならない、母の幻想を壊してはいけない、というものです。

 

 子どもは母との関係を維持するために、真実を見破ることが許されない状況に陥ることになります(逃げてはいけない、拘束を壊してはいけない、という第3のメッセージ)。見破ってしまったら、母子関係がもたないからです。

 そして、子どもは、素朴に感じた自分の感覚を否定する、歪める必要性に迫られます。

 

 別の場面で、例えば、母が子どもに対して不安や敵意を感じた時に、それを否定するために「もうおやすみなさい。私はあなたにゆっくり休んでほしいの」と愛のメッセージを発しますが、その裏には、「お前はうんざりだ、お前はもう目の前から消えておしまい」というメッセージが含まれています。

 

 そのことに子どもは気づいても、それを見破ってしまっては、
「母は自分を疎ましく感じ、しかも優しい素振りで騙そうとしている」ということに直面しなくてはなりません。

 

 それを避けるために、子どもは、自分の本来の感覚よりも、例えば「自分は疲れている」ことにしてしまうようになります。

 そうして、子どもは自分の感覚を欺くようになり、母の欺きに加担することになります。

 

 母以外の他者との関係においても、子どもは、自分の感覚について誤った識別を行うように動かされることになります。

 

 さらに、母親は、“子ども本人になり代わり”「思いやりのあふれたメッセージ」で子どもの感覚を言語化することで、子どもの問題はさらに深まることになります。

 具体的には、母親は、子どもの「疲れ」について気遣いを表明する。
 これは、母が子どもの感覚を制御し、返答も制御していることになります。
(もし、子どもが自分の感覚から批判的なことを口にしても「あなたは間違っている」「それは本気ではないわよね?」などと言う)

 そして母は、自身のことよりも子どもを気遣っているのだということを主張して譲りません。
 
 子どもは、真実を捉えようとする欲求を挫かれます。

 子どもは母の愛を装うことに反応して、愛を求めて母に近づこうとしては親密さを恐れる母から咎められ(子どもは自分の愛情表現が適切ではないのかも?として混乱し)、かといって、求めに行かなければ愛を装う母に咎められる。母は愛を装うために子どもに寄って行くが、子どもが近づいたことで母は不安になり、、、と混乱を極める。

 こうして、子どもは母の状況を正確に認識したことで罰せられ、不正確に認識したことでも罰せられるというダブルバインドに陥ります。

 

 同じようなことが成長の過程で長い年月をかけて何度も何度も繰り返し再現されることになるわけです。
(これは、現代の知見で言えばもちろん「発達性トラウマ」に該当します。)
参考)→「トラウマ(発達性トラウマ)、PTSD/複雑性PTSDとは何か?原因と症状

 

 こうした矛盾する状況をさらに修正するためには子どもは自分の「認知」、さらに「自己認識」を操作する必要があります。矛盾を整合させるために子どもが自身を「おかしな子ども」「ダメな自分」として、自己を規定することも起こるのです。 そして、そのゆがめた自己規定を追認するような出来事も起きます。

 

 具体的には、そのような呪縛にあっては、当然、パフォーマンスも下がりますし、対人関係もうまくいかなくなります。
(自分の感覚についても誤った識別を行うように動かされていますから)
その結果、コミュケーションがうまくいなくなり、学校でもカーストの下位に陥ったり、いじめられたり、運動や学業もうまくいかなくなることで「ダメな自分」は”確定”となります。
 家の中だけではなく、外でもうまくいかない自分に直面して「やはり、母の言っていたことは正しかったのだ」と、母が自分の感覚を偽るための取っていた言動、それに気づいた子どもの感覚をおかしいとする欺きの言動のほうが正しいと認識されることになるわけです。

 そうして、自分はダメだ、という“(家以外の複数箇所でも)証明された”自己規定を基にその後の人生を進むようになるのです。

 

 また、矛盾する状況を修正するためには、子どもが自分の「感情」を歪めるといったことも起きます。ネガティブな感情が起きてもそれを無いことにしたり、自分の感情を操作するのです。操作とは文字通りのことで、気分や気持ちの切り替えといったような軽いことではありません。実際に、感情を無いことにするのです。そんな感情の操作などができるのか?あり得るのか?と信じられないことですが、そんな感情操作を行うことを子どもが身に着ける、ということも生じます(もちろん、その副作用は生きづらさや他の問題として生じることになるのですが)。

 さらに感情にまつわる別の例としては、親の不安や恐怖を子が抱え込むということもあります。親子の距離が近くなり自他の区別がなくなることも手伝い、親の不安や恐怖を子ども肩代わりするかのように自分のものとして抱え、その結果として、成人してもなぜかよくわからない不安や恐怖にさいなまれ続けることも起こります。

 

 

 以上のように、親などの家族の矛盾する状況を整合させるために賢い子どもが自分の認知、感覚を歪めてまで、親との関係や、家族の調和を維持しようということは珍しくないのです。人間はかように高機能なために、それが逆用されると、長く深刻な影響を引きずるのです。

参考)→「家族の中で一番利発でまともな子が頭がねじれて病んでしまう

 

 そんな状況について、父に助けを求めようにも存在が薄い、あるいは状況を洞察する力がない(機能不全)、介入したらヒステリックになるであろう母(妻)について関わろうとしない。仕事に忙しいことを半ば言い訳にかかわれない(単身赴任なども)場合もあります。さらに、母は外面は良いので、学校の先生や、親族も問題に気が付けない

 

 

 このようなダブルバインドの状況になると、子どもは、状況をメタ認知で言語化することができなくなります。

メタ認知とは、わかりやすく言えば、状況を俯瞰して、つっこみを入れることです。

 「それって、どういう意味?」「マジかよ?!」「なんでそんなことしたの?」といったようなことです。

 おかしな状況に水をかけるような言葉です。
 

 つっこみとは、自分の感覚から発する言葉でもあります。

 母親は否定のメッセージを発しているときにメタの言語化をされるのは脅威ですから、それを子どもに禁じます。

 すると、子どもは、真に相手の意図を組み、真に自分の思いを表現するという、正常な関係にとって基礎的なコミュニケーション能力の欠けた人間に育っていくのです。それどころか、自分の感情や考え、本心が何かもわからなくなるのです。

 

 以前、このブログで、トラウマが重いと「壊れたラジオ」のようになる、ということを書きましたが、トラウマを負った方は、まさに自分の感覚や、メタを言語化することが苦手です。

 自分の本心を言うことに制限がかかっているので、えんえんと壊れたラジオ、あるいは酔っ払いが管を巻くように話続けたり、自分の状況を尋ねられても自分のことをうまく言葉にできないということがあります。そもそも自分が何を考え、感じてて、何を言いたいかも自分でわからなくなるのです。
参考)→「”壊れたラジオ”のように

 

 なぜこうなるか?といえば、頭の中に家族との歪んだコミュニケーションで負った矛盾した状況を内面化していて、さらに、「自分(の考え、感覚)はおかしい」という不安が強固に思ったまま、会話しようとしているからです。

 おかしな連立方程式を解きながら会話しようとしていて、さらに解けない自分は他人よりも劣っている、欠陥がある、と自己否定しているからです。

参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 こうした生育歴で成人した場合、非常な生きづらさを感じることになります。

 ベイトソンは、統合失調症を例としていますが、統合失調症になるか、複雑性PTSD(アダルトチルドレン、ヤングケアラー状態)となるかは、その人の体質や気質によります。
 パニック障害として現れる場合も珍しくありませんし、多重人格となる場合もあります。うつや不安症、強迫性障害、俗にいうパーソナリティ障害、依存症としても現れます。

 それぞれは、ダブルバインド状況の中で葛藤から発症し、発症によって何とかその状況から抜け出そうとする心身の働きです。
   

 しかし、本人は生きづらさを抱えてカウンセリングなりにかかったとしても、はっきりと自分を表現することもできず、「明確に親が自分を虐待したという事実」も見つけることができず、「いや~、親がそれほどひどかったとは思えないんです・・(だから、ただただ自分がおかしいのでは?)」と言うことになります。

 さらに、症状が出ているのは自分で、家族は社会的には問題ないとされています。同じ環境で育った兄弟は見た目には病んでいなかったりもする(本当は同じではないのですが)。パフォーマンスが上がらない、たまに耐え切れずに親に暴言を吐くような自分のほうがおかしいとされる“客観的な”状況がそろっており、そのことも苦しめます。

 まさに、“あいまいな”マルトリートメント(虐待)です。

 

 実はここでご紹介した“あいまいな”状況こそが一番深刻とさえ言えます。
 わかりやすい虐待のほうが、相手が悪で被害者が善であると認識しやすく、社会の承認も得られてよほど良い、とさえ言えます。

 そして、治療者も、ダブルバインドなどの知識がなければ、状況を洞察できず、バランス感覚を重視して根拠もなく決めつけるようなことを避けたいという心理も働きますから、治療者自身もその欺きに少なからず加担させられるなどという恐ろしいことにもなりかねません。

 仮に、良い治療者に出会っても、子どもは家族を守るために内(家)の文化をどこか守ろうとします。場合によっては、医師やカウンセラーに対して家のおかしさを理知的に語るかもしれません。しかし、その物腰は本当に家族の文化にどっぷりつかった人のそれで、どうしても核心に迫れない、本当の解決策につながれないということも起こるのです。

参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 ※ここで表現したのは母子関係に単純化したもので、実際のケースではここに兄弟、父や祖父母などが複雑に関係してきます。

 

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家族の中で一番利発でまともな子が頭がねじれて病んでしまう

 

 クライアントの持つ疑問(ある種の呪縛でもある)としてよくあるのが、「育った家庭環境が悪いのはわかったが、兄弟もいる中でなぜ私だけこんなに苦しんでいるのか?」というものがあります。

 
これは、もっともな質問であると同時に、その裏には暗に「環境が悪いし、その影響があるというなら、兄弟もすべてが病むならわかるが、私だけそうなるということは、私がやはりおかしいのだ」というトラウマによる心理的な呪縛を伴っている質問です。

 

 これについては以前の記事でも書きました。

(参考)→「同じ環境でも問題が出ているのは自分だけだから自分に問題がある? おかしな環境は優等生を必要とする。
 

 同じ環境であっても受ける側の気質も状況もポジションも異なりますから、同じようにならなくて当たり前です。
 家族の中でも影響に差が出ますし、その中で優等生として優遇される人が出たり、カルト宗教で幹部になるようなごとき間違った適応を果たす人もいる、ということです。

 

 

  そうしたことに加えてもう一つ、自分だけが病んでいる、ということの理由があります。

 それは、その方が家族の中で一番利発でまともであった、ということです。

 

 私たちは景色や見ている画像が揺れたりすると、酔ったり、気持ち悪くなったりしますが、それも、こちらがまともな感覚があればこそです。
 おかしいのは揺れている画像のほうです。

 反対に、海に揺られていると、揺られていることに適応して、陸に戻っても揺られているような感覚がしたりすることもあります。

 

 こうした自然環境だけではなく、社会環境に対しても同様に、私たちには環境に適応しようという動きが自然と起こります。

 しかし、社会環境の側がいびつでおかしければ、こちらの側が酔う(病む)ということは生じます。

 

 

 例えば、とてもねじれた考えやコミュニケーションの仕方を持つ家族に囲まれて生活しているような場合などはそうです。

 まともで、まじめであるほどに、そこに適応しようとすると「不適応」を起こしてしまう。

 もっといえば、家族が持つねじれを、その利発で賢い子供の側が、家族のねじれを「整えよう」としてしまう。

 
 例えば、親のねじれた発言を子どもが忖度して、意味が通るように“翻訳”したり、自分の感情を殺すようにして吸収したり、といったことはよく見られます。
 親のおかしな行動を、マネージャーや執事のように先回りしてごまかしたり、取り繕ったりすることを半ば無意識に行うなどしたり。

 

 
 歪んだ鏡に囲まれた部屋に住むがごとく、歪んだものに囲まれていれば、こちらの認知がそれに合わせるかのように歪んでしまいますが、前回の記事でも書いた「頭がねじれる」と、まさにそのような結果生じるのです。

(参考)→「トラウマ、ハラスメントによってどのように頭がねじれるのか?~連鎖して考えてはいけない

 それは、その人がおかしいから、ではなくて、その方が一番利発で、まともだからです。

 たまたま、その人が引き受けてくれたおかげで、適当でいい加減でいられたりできたほかの兄弟(姉妹)は軽く済んだりすることもあります。
(あるいは、優等生として、歪んだ世界で優等生になったり、おかしいと思わないように誤適応したり)

 
 おかしな環境で心が病む、というのは、その方がおかしいからではなくて、まともである証拠です。

 

 

 しかし、本人は、適応できていない、あるいは症状を発症している自分がおかしい、弱い、病んだ人間だと捉えてしまう。

 もちろん、そんなことは間違いです。

 歪んだ鏡を見させられすぎて、ねじれてしまった頭を、常識の世界に戻って元に戻す必要があります。 

 元に戻す際に生じる課題は、「そのおかしな環境に対しても適応しなければならない」という偽の責任意識や、偽の義理の感覚(罪悪感)、自分への疑い(やっぱり病む自分がおかしいのだ、自分の中に問題があるのだ)が邪魔をする、ということです。

 

 その邪魔自体、トラウマの柱の一つでありハラスメント(心理的支配、呪縛)によるものですが、まずは、知識レベルでよいので、自分は大丈夫だ、まともだからこそ苦しんでいるのだ、と知ることです。

 

 

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「みにくいアヒルの子」という状態

 

“社会”こそがおかしいのだ、“社会”こそが問題なのだ、ということを前回の記事にも書かせていただきました。

参考)→「“It’s the society,the community stupid”(“社会”こそ問題なのだよ、愚か者!)」
 

 そして、その際の社会とは、ダイレクトに「社会の制度が~」「現在の社会が~」といった意味での「社会」とは異なり、私たちを日常で取り巻くローカルなコミュニティや人間が不全感を抱えて規範を騙る状態や機能不全をまずは“社会”と呼んでいます。

 結局、生きづらさの原因をたどると、“社会(環境)”の理不尽を個人が引き受けさせられていることこそが、私たちの生きづらさのすべてであるといっても過言ではありません。
クライアントの状況を見ていて、現時点でわかる究極因はそこにあります。

 クライアントの頭や心がおかしいのではありません。

 

 

 そして、“社会”の問題を「自分のせいだ」「自分がおかしいのだ」と思わせる偽装がいくつかあり、その罠にかかり、“社会”の理不尽を自分のものとしてしまい、どうしても、そうではないと思えない、自分は大丈夫と思えない状態こそが「生きづらさ」であるということです。

 白鳥が、アヒルとして劣っていると責められて「みにくいアヒルの子」と思わせられている状態です。

 ここからサッと逃れる方法を探そうとしているのが私の臨床での取り組みになります。

 

 

 機能不全な社会における日常の経験や体験というのは、究極のマインドコントロール装置、といってもいいくらいに作用します。
 
 
 長期にわたり、何度も何度も「あなたはおかしい」とつきつけられる経験を重ねることで自分は「みにくいアヒルの子」で、それはどうしても否定できない、と”作られた事実”を重ねられていってしまうのです。

 そして厄介なのは、身近な親族が絡んでいるケース。

親だけおかしいなら「親がおかしくて自分はそうではない」とわかりやすくて良いのですが、親族が絡むとそうは見えなくなる。

 親戚というのは一見、「立派で」「物わかりがよく」見えますから、その親族から「自分がおかしい」とされたり、反対に加害者である親を評価されたりするとわけがわからなくなる。

 あるいは、学校でのいじめの経験、職場でのハラスメント経験が重なるようなケースも厄介です。

 学校でも、一見、「イケていて」「人気があって」「運動もできて」「勉強もできて」「ものがわかってて」「バランス感覚があって」などという同級生がいますから、その友だちたちから「おかしい」「ダメだ」とされることの衝撃は簡単なものではありません。

 会社も同様です。

「家のみならず、学校でも、職場でも自分がおかしいとされるなら、もうこれは確定された事実なのだ」となってしまうのです。

 そうするとみにくいアヒルの子の状態から逃れられなくなります。
 

 

 

 しかしながら、「家も、学校も、職場もおかしい(It’s the society,the community)」ということが実際に存在するのです。 

 ハラスメントの罠は日常のそこここに存在します。

そのような状況の中に家で親に「みにくいアヒルの子」とされたトラウマを抱えた子どもが行けば、学校でもいじめられる、職場でも否定される、ということは普通に起こります。

 そのことをもって、「自分はやはり確定された事実としておかしいのだ」と思う必要はないのです。

 立派に見える親族も同様で、親もおかしいなら、親族も同様の文化を背負っていて、立派に見えているけど実態は変な人たちである場合も多いのです。

 学校もそう、会社もそうです。自分に対してハラスメントをしてくるようなおかしな環境でも「優等生」が存在します。
 社会問題となったカルト宗教でも、その教団に適応し、実績を上げて出世し、立派に見える人たちが記者会見で登場している様を見ればよく分かります。
 ナチのアイヒマンやハイドリヒのようにおかしな集団の中でも仕事がバリバリできて出世する人がいるのです。
 しかし、適応できた彼らがまともか?といえば、そうではありません。
 適応できないことのほうがまともさの証なのです。

 
 白鳥であるあなたは、白鳥ゆえにいじめられて、苦しみますが、それはあなたのおかしさを示すものではありません。環境がおかしいのです。

 みにくいアヒルの子とされた白鳥が自分を取り戻す道は、よいアヒルの子を目指すことではありません。
 ちゃんと不適応を起こして、自分はある日ではない、と気づき、白鳥へと戻ることです。
 

 ベストセラー『窓際のトットちゃん』は、みにくいアヒルの子にされかけたトットちゃんが、移った学校でのびのび育っていく様子が描かれているわけですが、“社会”は人間というものをちゃんと理解できておらず、さらにいえば、“社会”は子どもの気質(個性)、激しさを恐れるものなのです。

 会社でも、ちょっと率直な物言いをしたらすぐに「問題社員」扱いとなります。

 社会(ローカルコミュニティ)自体がおそれや不全感を隠し持ちながら立派なふりをしていて、その立派なふりを見破られて「王様は裸だ!」とされることを“社会”は極度に恐れる、ということなのかもしれません。

 

 

 

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