人はコミュニティや人間関係を更新・移動するもの~更新の際は悪く言われて当然

 

 前回もお伝えしたように、目の前にある、今ある共同体や関係の中に適応しなければならない、適応できない自分はダメだ、適応している人はすごい、と、私たちはつい幻想にとらわれてしまいます。

 実はそうではない。

(参考)→「適応できることがいいことではない~“不適応”というフィードバック

 

 
 自分はあの会社ではうまくいかなかったが、他の人(例えばAさん)はうまくやっている(だから自分はダメだ)

 他の人はあのグループで仲良くやれている、でも自分は馴染めなかった(だから自分はダメだ)

 
 と思いがちです。

 私たちは、実験を重ねるようにして、ここが合わない、ここも合わない、と試行錯誤(不適応)しながら、自分の道を見つけていきます。

 人はどんどんと共同体を移動していくものです。

 もともといた共同体に属し続け(うまくやり続け)なければいけないというのは幻想でしかありません。

 

 特に、生まれた場所、地域だからそこが自分にとって良い場所(故郷)とも限りません。
 地方などは典型的ですが、閉鎖的で、同調圧力が強い地域もよくあります。

 

 

 さらに、そんな場所から、卒業したり、抜け出したりして、自分の道を見つけていく際は、決して、キレイに移行、卒業できるというわけではありません。

 例えば、中学や高校で、つるんでいた友達と離れて、勉強や部活に熱心になったら、「あいつは付き合いが悪い」と言われて陰口をたたかれることになります。

 自分のやりたいことを見つけて進む中では、地元の友達関係とは距離を取ることになります。

 その際も、「あいつは変わった」「何、調子に乗ってんだ!」と悪口を言われるかもしれません。

 

 

 生まれた地域も同様です。

 地元の消防団などの会合や、寄合には出ないという選択肢を取ったり、転居したりする。「あそこの家の娘、息子はおかしい」「付き合いが悪い」と言われるかもしれません。

 

 会社も同様です。
「あいつは仕事ができない」「あいつは使えない」と言われたりします。

 

 パートナーとの付き合いも、別れるときはものすごいストレスがかかります。相手から罵倒されるかもしれません。

 

 問題のある父や母、親族とは距離を取らなければなりません。その際にも、とても嫌な呪いの言葉を浴びるかもしれません。 強い罪悪感、自責の念を感じる。

 そんなストレスを経ながら私たちはところを得ていきます。

 

 

 それぞれから離れる際には、

「なんで、あんな態度をとってしまったのか?」

「うまいことを言っておけばよかったのに。私は本当にバカだ」

「ほかの人ならうまくやれた(自分はうまく付き合えなかった)」

なんて、自分の不器用を呪うこともあります。

 

 これらは、すべて「不適応」です。

 

 しかし、「適応しなければ」と、中にはその不適応から生じるストレスを避けたいがために、あるいは「すべての場所で適応しなければならない」「過去に失敗したから今回は同じことはできない(同じようにケンカ別れになったら、自分だダメな人間であると確定されてしまう)」「すべての環境、人から合格点をもらえなければ、次に進んではいけない」という間違った観念、幻想を元に、適していない環境に居続けてしまう、というケースがあります。
 

 まさに”適応幻想”による呪縛と言うしかありません。

 
 私たちは、どんどん環境を変え、移動を続けていくものです。

そうやって人生を作っていきます。
  

 家族にも良い子と呼ばれ、今でも地元の友達とも付き合いがあり、人生で出会うあらゆる人から好かれ、地域でも覚えがめでたく、勤めた会社では惜しまれて転職、なんて、そんなことは実際にはあり得ません。
 いつも旅行やグルメを楽しんでいる姿をアピールするようなYoutubeやインスタと同じくらい作られた幻想です。

 もし実際に、うまくやり続けてきたとしたら、「何かがおかしい(本当の自分が殺されていないか? ほかの人や何かを犠牲にして成り立っていないか?)」と見ないといけません。学歴もキャリアもプライベートもうまくいっているように見える人が実際には本当は自分の人生を歩んでいない、という例はとても多いのですから。

 

 

 共同体にとっては自分たちの共同体の正統性を維持するために、脱退されることを防ぐためにも逸脱する人を悪く言うという動因もあります。

 
 そんな恐れから、共同体にとどまったりしてしまってはいけません。

 そして、悪く言われることをもって、自分がダメな人間だと思うことも必要ありません。仲良くできるのも、無用なあつれきを賢く避けることも、もちろん愛着(生きるため)の力ですが、時に仲違いをしたり、必要なけんかをすることも、生きていくのに必要な力です。

 

 そうして必要な際は腹をくくり、自分の気質、持ち味が持つ、必要な流れに沿って、更新し続けることこそが大切なのです。

 

 

 

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適応できることがいいことではない~“不適応”というフィードバック

 

 どこのコミュニティも、そつなくこなしているように見える人はいます。とても関係づくりがうまく、うらやましいように見える人が。 

 

 例えば、幼い時は公園で友だちができて、お母さんたちとも馴染める。

 小学校では友達がたくさんいる。いろんな友達とうまく付き合える。

 中学校以降になると、部活で先輩ともぺこぺことうまくやりとりができる。

 大学に進むと、研究室の先生にも目をかけられ、院生ともうまく付き合いができる。

 就職した先では、上司に取り入り、得意先とうまく付き合いができる。

 結婚したら、パートナーとうまく関係が築ける。

 地域では、ご近所付き合い、ママ友、学校などとの地域の活動がうまくできる。

 

 こうしたことが「標準」「正常」であるというイメージを私たちは持っています。そして、これらのことからずれること、うまくいかないことは「異常」であり、自分が劣っている証拠であると考えてしまいます。

 そうして自分を責める。劣等感を持ってしまう。

 

 

 私たちは適応できることが善で、不適応を悪だと考えています。
 実際に、カウンセリングにおいても、適応を目指します。
 私たちは、最終的には社会に適応するしかない、とされます。
それは確かにその通りで、“社会”に適応するしかありません。 

 

 だから、一見すると「適応」はやはり善に見えます。

 これらは本当なのでしょうか?正しいのでしょうか?

 実はもっともに見えますが、まったく正しくありません。

 

 正しく言えば、適応するためには、「不適応」を起こさなければならない、もっといえば、自己を確立するためには、積極的に不適応を起こす必要がある、と言えるのです。

 適応しなければならないけど、不適応も必要? どう考えればいいのだろうか??頭が混乱しそうですが、難しい話ではありません。

 

 生物の世界、植物でも、動物でもどんな環境でも適応できる種は存在しません。必ず、生息に適した環境があります。 それを「ニッチ」というそうです。

 淡水魚は海水では生息できませんし、百獣の王とされるライオンも適した地域はかなり限られます。
 

 つまり、それぞれ適した場所でこそもともとの生命力を発揮できると言えます。

 

 

 人間でも同様のことが言えます。

よく言われるのは、企業や軍事での戦略の世界です。

 企業での戦略は、自分たちが得意な分野(ポジショニング)はどこか?を探すことだとされます。大企業であったとしても不得手なところにうって出ると必ず失敗します。

 

 軍隊でも、得意な状況は実は限られていて、
例えば、“最強”とされたモンゴル軍でも、自分たちが得意な平原から離れてくると力を発揮できなくなって、日本や東南アジアでは敗退しています。
 20世紀に世界最強とされたアメリカもベトナムで撤退するなど、実は適した環境は限られています。

 どんなところでも適応できなければならない、勝てなければならない、などと言うのは本当に幻想だということがよくわかります。

 

 スポーツ選手も、同じ競技でもチームが変わるだけで全く活躍できなくなるなんてことは珍しくありません。
 チームの戦術や、監督のパーソナリティ、リーグのスタイルでもかなり左右されます。

 実は会社も同様で、同じ業界でも、会社が違えば活躍できなくなることはあります。

 

 

 「あの人は、どんな世界に行っても活躍できる」というのは、比喩(そんな気がするだけ)であって、本当にどんな世界に行っても活躍できる人などは、人類史上一人も存在しません。

 もしいたら、その人を題材に、生物学(人類学?)の世界で論文を書けばノーベル賞を取れるかもしれません。
 
 絶対にありえないからです。

 

 私たちにとっての適応とは、「自分の持ち味を発揮できるところを得ること」です。

 自分にとっての強み、持ち味を発揮できる場所や人間関係はどこか?を見極めて、早くそこに立つことです。

 大谷翔平が事務職をしても不幸でしかありませんし、卓球やゴルフではきっと野球ほどには活躍できないでしょう。
(バスケットボール選手の天才的な選手であるマイケル・ジョーダンが、野球に行ってうまくいかなかったことはよく知られたことです)

 

  
 
 私たちが、各所で見る、「うまくやっている人」というのは、そこでうまくいっているだけで、実際に、すべての場所でうまくいくわけではありません。
 
 
 私たちの脳は、自分を否定するために、都合よく、それぞれの場所で「うまくいっている人」を取り上げては、それらと自分とを比較してダメ出しをしてきます。

 しかし、そんなご都合主義の比較に意味があるでしょうか?

 ガントチャートで、すべての項目がMAXでなければ人としておかしい、なんてそんなことありえるでしょうか?

 ライオンが、スズメみたいに空は飛べない、水の中では魚に勝てない、モグラのように土の中では、だからライオンはダメだ、などと都合よくダメなところを比較して、意味があるでしょうか?

 

 

 多くの場合、私たちは、親などや養育環境の中での間違った比較やこうあるべきを押し付けられて自信を失っている場合もよくあります。

 

 確かに、いろいろな場所で相対的にうまくいってそうな人はいるかもしれません。そつのない人もいます。

 しかし、器用であるが故の不幸もあるのです。

 以前、ブログで紹介した、なんでも器用に100点の回答をしてくる東大生たち。彼らは果たして幸福でしょうか?

(参考)→「世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。

 

 その器用さゆえに、壁(不適応)に当たらないことで、本来の自分の場所が見つからない、という恐ろしいことも生じるのです。

 実際にそつがないゆえに、会社などで出世していって、でも、本来のその人の人生を生きてはいない、なんていうことはたくさん存在するのです。
 

 たまたま数字のある部署に配属されて、それで役員(子会社の社長)まで行く、なんていうのは大企業ではよくある型です。良いことのように見えますが、それも本当に幸せなのか?
 

 どこかで「この仕事は合わない」「この組織は合わない」というシグナルが来て、別の会社や職に就くことが、その人の本来のいる場所、かもしれません。

 しかし、器用に適応したがために、自分の本来の道を見つける機会はついぞ失われてしまうわけです。

(参考)→「誤った適応

 

 

 例えば、印象的なのは、以前、社会問題となった宗教団体でネクタイを締めたスーツ姿の幹部たちが会見をしている場面をテレビで見たことがあります。

 あの人たちは、その宗教団体という組織の中で適応し、出世した人たちです。

 おそらく、仕事もできるのでしょう。
 その組織の中で覚えめでたく、上司にも好かれ、だから出世したのでしょう。

 一方その宗教団体を訴える人たちは、その団体で搾取されてきた人たちです。
もしかしたら、搾取されただけではなく、馴染めず、出世できなかったのかもしれません。

 
 しかし、適応した幹部たちは果たして真に幸せなのでしょうか?

 社会問題となるような集団ですから、「こんなところはおかしい」と不適応を起こすほうが自然ではないでしょうか。

 そこに適応して出世までできたというのは、良い適応では全くありません。

 私たちは、不適応、不適応、不適応のフィードバックの中で自分を作り、そして持ち味を発揮できる場所や人、自分にとっての“社会”に適応していくものなのです。

(参考)→「変化しない人、フィードバックがかからない人は存在しない

 

 

 

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“あいまいな”マルトリートメント(虐待)②

 今回は、前回ご紹介した『精神の生態学へ』(岩波文庫)に紹介されている母子の話についての続き、です。

参考)「“あいまいな”マルトリートメント(虐待)①」

 ダブルバインドによって精神障害(統合失調症)を発症し、で入院していた息子のところに、問題の母親が見舞いに来ます。息子は入院によって体調はかなり回復をしていました。

 

 しかし、母が来たことを喜んで息子が母の肩に抱き着くと、母は身をこわばらせます。

 それで、息子がとっさに手を引っ込めると

 母は「もう、私を愛していないの?」と言います。

 顔を赤らめる息子に対しては母は、「そんなまごついてはいけないわ。自分の気持ちを恐れることはないのよ」といいます。

 そうして、母が帰った後、息子は暴れ出し、ショック療法の部屋に連れていかれました。。。

 

 
 もし、息子が「母は僕が肩に腕を回すと落ち着かないんだ。僕の愛情表現を受け入れられないんだ」とでも表現できれば、暴れ出すような破滅的な事態は起きず、状況は少しは改善したかもしれません。

 しかし、息子は、強度の束縛(ダブルバインド状況)の中で、母親のコミュニケーションの真実を言語化することができない状況に育ってしまっているのです。
 

  
 一方で母親は息子の状況にもっともらしい論評を加え、自分の解釈を息子が受け入れることを強要しています。

 さらに、息子は医師からも「統合失調症」の烙印を押され、「暴れた」という事実もあるために、その診断は“医学的にも”合理的とされることになっています。

 自分がもしこの息子だとしたらと思うと、本当に恐ろしい状況です。

 前回も書きましたが、統合失調症として現れるか? 複雑性PTSD(発達性トラウマ)として現れるかは、単なる体質の差です。
 パニック障害、解離性同一性障害、うつ病、依存症としてもあられることがあり、気質の違いによります。ベイトソンは、統合失調症の原因としてこれを書いていますが、複雑性PTSD(発達性トラウマ)でもそのまま当てはまります。
 

 

 恐ろしいのは、では、この母の言動は、社会的に虐待と認定されるようなものなのか?といえばそうではありません。まったくもって“あいまいな”ものです。  

 しかし、この“あいまいな”虐待は、社会的認定されている虐待以上の恐るべきダメージをもたらしています。

 

 

 では、ここで取り上げた見舞いの際の母のコミュニケーションをベイトソンが解説していますから、その詳細も紹介させていただきます。

 

●母親は、腕を引っ込めた息子の反応を「もう、私を愛していないの?」などとあげつらうことで、自分の拒絶を隠ぺいしています。
 さらに、息子も母の非難を受け入れて自分の感覚、状況理解を否定しています。 (これが、母が帰った後で暴れたことにつながります。)
 

●「もう愛していないの?」という言葉からは、以下の含みがくみ取れます。

 a)「わたしは愛するに値する」という前提。

 さらに、
 b)「お前は私を愛するべきだ。愛せないお前が悪い。それは間違っている」という非難の含み。

 

 c)「もう」の一言が、「以前はわたしを愛していたのに、今は愛していない」という含みを添える。
  それによって、息子が愛を表現できるか否か、ではなく、愛情を抱くことができるか否かに焦点が移ります。
  しかし、息子は過去に母を憎んだこともあるのだから、この葛藤において母の優位は揺るがなくなります。
 息子は過去も十分に母を愛せていなかったことに罪悪感を感じます。

 

 d)「もう愛していないの?」と言うことで、つまり息子が母の肩を抱いたことについて「お前が今表現したことは、愛情ではなかった」という一方的なラベルを貼っています。
  そのラベルを息子が認めるとき、これまで社会的に学んできた愛情表現の方法(肩を抱く、など)は愛情表現ではないと否定されます。
  すると息子は、過去に自分が行った愛情表現が表現として不適切だったのだ、相手がそれを受け入れたと思えたことまでが疑わしい、と不安を感じるようになります。
  ここで彼が経験するのは「支えの喪失」です。
  過去の経験が自分の支えとしての機能を失ってしまう、疑わしいものになるということです。

 

●「そんなまごついてはいけないわ。自分の気持ちを恐れることはないのよ」

 このメッセージには以下の意味を含んでいます。
 a)「普通の人は自分の気持ちを表現するのにお前はそうしない、できていない。だからお前は他のきちんとした正常な人間とも違う」

 
 b)「自分の気持ちを恐れることはない」ともっともなことを言い、「お前の感情自体は問題ない。問題はお前がその感情を容認できていないことだ」としていますが、しかし、自分が母に触れた時に母が示したこわばりが自分に現れた感情を母が容認しないと示している以上、彼は過去の葛藤に追いやられることになります。 
 母が勧めるように、自分の感情に恐れを感じないでいるならば、母への愛の感情も素直に表現して当然です。

 しかし、そうしてしまえば、恐れているのは母のほうだを気づかずにはいられない。しかし、気づいてはならない。
 息子はこれまで母との関係や母の幻想を壊してしまわないように、自分が感じた感情(つまり、母は私を拒絶している)を認めないようにして来たわけです。母は自分の欺瞞のために息子を協力させてきたのに、ここではそれがおかしいと非難をしているわけです。言葉では「自分の気持ちを恐れることはない」とキレイ事を言っていますが、構造としては、私の幻想と私との関係を壊すなとしているわけです。

 

 この見舞いの場面では母に愛情を示さなければ母を失う、でも、示した愛情はおかしいとされる、自分の気持ちに率直になることは、母の幻想や関係を壊すためにできない、こうした解決不能のジレンマに息子はおちいっているわけです。

 

 ベイトソンの解説は秀逸だと思います。

 こうした構造の状況は、トラウマ、複雑性PTSDの相談において実際によくあります。

 

 繰り返しになりますが、母の会話がもし音声で録音されていてもおそらくすぐには「虐待!」とは認定されないでしょう。よほど、家族関係やハラスメントの専門家が見なければ正しくアセスメントはしてくれません。

 

 ましてや本人は呪縛の中にいますから、気が付きようもなく、しかし、心身に症状だけが生じていて、社会でもうまくいかず、人間関係も作れず、その“事実”から自分はおかしいと責めるようになります。

 前回でも書きましたように、
 「いや~、親がそれほどひどかったとは思えないんです・・」
 「親のせいにするなんて自分がそう思いたいだけかもしれません??」
 「実際に、社会でうまくいっていない自分のほうがおかしい。だって他の兄弟は何ともありませんし。。」などとなってしまうのです。

 社会的にもあいまいだからこそ、それ自体が、第4、第5の拘束のメッセージともなりさらなる拘束となります。
 

 まさに、あいまいなマルトリートメント(虐待)の恐ろしさです。
そして、あいまいなマルトリートメント(虐待)は、決して稀ではなく、そこここに存在しています。

 

 母子に単純化していますが、これが、親族、学校、会社などでも様々な場面でも起こりえます。

 生まれつきそうではないか?天才的!?と思うくらいに、絶妙のタイミングで私たちの些細な行動を弱点として取り上げて、あげつらう(ハラスメントをする)のが得意な人というのはいたりします。
 あるいは、普通の会話、やり取りなのに、なんとも言えない嫌~な気にさせるような人などもいますし、皆様もそうした人に出会うことがあるのではないでしょうか?
 (それは、もちろん生まれつきではなく愛着不安やトラウマによる不全感を抱えたことを土台として、その人の気質が合わさって生じるものです。)

 そうしたことは表面では現時点では、虐待ともハラスメントとも、されないかもしれませんが、ベイトソンが明らかにした視点から精緻に分析すれば、それは、私たちを縛る欺瞞的なコミュニケーションなのです。

 このことに対して私たち社会全体も、もうさすがに気がつかなくてはなりません。
 不全感に基づく欺瞞的なコミュケーションについて賢くなり、明らかにしていく必要があります。

 

 

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“あいまいな”マルトリートメント(虐待)①

 臨床においては、明らかに家族の影響によって生きづらさが生じているにもかかわらず、相談者自身も「別に、虐待されたわけではないし・・」といったように、家族がもたらす影響が自覚できない、わからなくなる、というケースが珍しくありません。
 
 
 明らかな暴言、暴力などはないけども、親のおかしな接し方が子どもの生き生きとした気質を削ぎ、力を奪い、子ども自身も自分はダメだ、とおもうようになる、ということは実はよくあります。

 
 今回は、そうした“あいまいな”、でも深刻な虐待についてグレゴリ・ベイトソンの『精神の生態学へ』(岩波文庫)の内容を紹介しながら、詳しく解説してみたいと思います。

 人類学者のベイトソンは、ダブルバインド(二重拘束)が統合失調症の原因、という仮説を提示したことで有名です。特に近年はあらためてその妥当性、慧眼が注目されています。
 

 

 そのベイトソンが書いた『精神の生態学へ』の中巻の中で、ある母子の例が紹介されています。

 それは、子どもが近づくと母は不安を感じて身を引いてしまう、というケースです。

 

具体的には、

 その母は、子どもと親密な関係になると不安と敵意を感じるという問題を抱えています。

ベイトソンは、その不安の原因として、例えば

母が、
 ・自分と家族との関係に不安を感じている
 ・子どもが、男の子か、女の子かということだけで不安を感じる
 ・その子の誕生日が身内の命日と重なるから、という理由から不安を感じる
 ・その子の兄弟の中での位置が自分と重なる
 ・母の感情的な問題が理由で、その子を特別視している
などいくつかの可能性を挙げています。
 実際のカウンセリングの相談でもよくありそうなものばかりです。

 

 母親はそうした自分の中の不安や敵意を否定しようと、子どもを愛していることを強調する行動をとります。
(母が自分の愛を子どもに強調する行動とは、優しい言動だけではなく、子どもをいい子にしつけることも含みます。)

 その行動に対して子どもが母を愛情に満ちた母として見ないと、母はさらに身を引いてしまうのです。

 

 さらに、父の存在の欠如、希薄さがこの状況を増幅させます。
本来ならば、父が洞察力をもって、こうしたおかしな母子関係に割り込み、子どもの支えになることが父の役割なのですが、その存在がいない、あるいは子を支えるにはあまりに存在が薄い。
 父の存在の欠如、薄さはこうしたケースのつねだ、とベイトソンは述べています。(実際のケースでは、父以外でも祖父母など関係する大人の機能不全があります)

 

 簡単に言えば、たったこれだけのことが統合失調症のような重い精神疾患を生じさせる、というのです。
 たったこれだけのことが、です。

なぜか?

 これが有名なダブルバインド(二重拘束)と呼ばれる作用によるものです。

 

 ダブルバインド(二重拘束)とは、矛盾するメッセージを受け入れさせられることが人間にとって非常なダメージになるということを明らかにした理論です。

 

 このケースに即して具体的に言えば、

 母は、自分が子どもと親密になると不安や敵意を感じてしまいます。
子どもは、母の不安や敵意の反応を無意識に感じとります(第1のメッセージ)。

 しかし、母は、子どもに対する自分の不安や敵意を受け入れることができず、愛情を溢れる母親を演じることになります(第2のメッセージ)。

 その結果、子どもは矛盾する2つのメッセージを投げかけられることになります。これが、矛盾するメッセージによる拘束です(ダブルバインド

 

 

 これだけならまだ抜けることはできますが、さらに、ダブルバインドから抜けられない第3のメッセージが飛んできます。

 それは、母との関係を維持しなければならない、母の幻想を壊してはいけない、というものです。

 

 子どもは母との関係を維持するために、真実を見破ることが許されない状況に陥ることになります(逃げてはいけない、拘束を壊してはいけない、という第3のメッセージ)。見破ってしまったら、母子関係がもたないからです。

 そして、子どもは、素朴に感じた自分の感覚を否定する、歪める必要性に迫られます。

 

 別の場面で、例えば、母が子どもに対して不安や敵意を感じた時に、それを否定するために「もうおやすみなさい。私はあなたにゆっくり休んでほしいの」と愛のメッセージを発しますが、その裏には、「お前はうんざりだ、お前はもう目の前から消えておしまい」というメッセージが含まれています。

 

 そのことに子どもは気づいても、それを見破ってしまっては、
「母は自分を疎ましく感じ、しかも優しい素振りで騙そうとしている」ということに直面しなくてはなりません。

 

 それを避けるために、子どもは、自分の本来の感覚よりも、例えば「自分は疲れている」ことにしてしまうようになります。

 そうして、子どもは自分の感覚を欺くようになり、母の欺きに加担することになります。

 

 母以外の他者との関係においても、子どもは、自分の感覚について誤った識別を行うように動かされることになります。

 

 さらに、母親は、“子ども本人になり代わり”「思いやりのあふれたメッセージ」で子どもの感覚を言語化することで、子どもの問題はさらに深まることになります。

 具体的には、母親は、子どもの「疲れ」について気遣いを表明する。
 これは、母が子どもの感覚を制御し、返答も制御していることになります。
(もし、子どもが自分の感覚から批判的なことを口にしても「あなたは間違っている」「それは本気ではないわよね?」などと言う)

 そして母は、自身のことよりも子どもを気遣っているのだということを主張して譲りません。
 
 子どもは、真実を捉えようとする欲求を挫かれます。

 子どもは母の愛を装うことに反応して、愛を求めて母に近づこうとしては親密さを恐れる母から咎められ(子どもは自分の愛情表現が適切ではないのかも?として混乱し)、かといって、求めに行かなければ愛を装う母に咎められる。母は愛を装うために子どもに寄って行くが、子どもが近づいたことで母は不安になり、、、と混乱を極める。

 こうして、子どもは母の状況を正確に認識したことで罰せられ、不正確に認識したことでも罰せられるというダブルバインドに陥ります。

 

 同じようなことが成長の過程で長い年月をかけて何度も何度も繰り返し再現されることになるわけです。
(これは、現代の知見で言えばもちろん「発達性トラウマ」に該当します。)
参考)→「トラウマ(発達性トラウマ)、PTSD/複雑性PTSDとは何か?原因と症状

 

 こうした矛盾する状況をさらに修正するためには子どもは自分の「認知」、さらに「自己認識」を操作する必要があります。矛盾を整合させるために子どもが自身を「おかしな子ども」「ダメな自分」として、自己を規定することも起こるのです。 そして、そのゆがめた自己規定を追認するような出来事も起きます。

 

 具体的には、そのような呪縛にあっては、当然、パフォーマンスも下がりますし、対人関係もうまくいかなくなります。
(自分の感覚についても誤った識別を行うように動かされていますから)
その結果、コミュケーションがうまくいなくなり、学校でもカーストの下位に陥ったり、いじめられたり、運動や学業もうまくいかなくなることで「ダメな自分」は”確定”となります。
 家の中だけではなく、外でもうまくいかない自分に直面して「やはり、母の言っていたことは正しかったのだ」と、母が自分の感覚を偽るための取っていた言動、それに気づいた子どもの感覚をおかしいとする欺きの言動のほうが正しいと認識されることになるわけです。

 そうして、自分はダメだ、という“(家以外の複数箇所でも)証明された”自己規定を基にその後の人生を進むようになるのです。

 

 また、矛盾する状況を修正するためには、子どもが自分の「感情」を歪めるといったことも起きます。ネガティブな感情が起きてもそれを無いことにしたり、自分の感情を操作するのです。操作とは文字通りのことで、気分や気持ちの切り替えといったような軽いことではありません。実際に、感情を無いことにするのです。そんな感情の操作などができるのか?あり得るのか?と信じられないことですが、そんな感情操作を行うことを子どもが身に着ける、ということも生じます(もちろん、その副作用は生きづらさや他の問題として生じることになるのですが)。

 さらに感情にまつわる別の例としては、親の不安や恐怖を子が抱え込むということもあります。親子の距離が近くなり自他の区別がなくなることも手伝い、親の不安や恐怖を子ども肩代わりするかのように自分のものとして抱え、その結果として、成人してもなぜかよくわからない不安や恐怖にさいなまれ続けることも起こります。

 

 

 以上のように、親などの家族の矛盾する状況を整合させるために賢い子どもが自分の認知、感覚を歪めてまで、親との関係や、家族の調和を維持しようということは珍しくないのです。人間はかように高機能なために、それが逆用されると、長く深刻な影響を引きずるのです。

参考)→「家族の中で一番利発でまともな子が頭がねじれて病んでしまう

 

 そんな状況について、父に助けを求めようにも存在が薄い、あるいは状況を洞察する力がない(機能不全)、介入したらヒステリックになるであろう母(妻)について関わろうとしない。仕事に忙しいことを半ば言い訳にかかわれない(単身赴任なども)場合もあります。さらに、母は外面は良いので、学校の先生や、親族も問題に気が付けない

 

 

 このようなダブルバインドの状況になると、子どもは、状況をメタ認知で言語化することができなくなります。

メタ認知とは、わかりやすく言えば、状況を俯瞰して、つっこみを入れることです。

 「それって、どういう意味?」「マジかよ?!」「なんでそんなことしたの?」といったようなことです。

 おかしな状況に水をかけるような言葉です。
 

 つっこみとは、自分の感覚から発する言葉でもあります。

 母親は否定のメッセージを発しているときにメタの言語化をされるのは脅威ですから、それを子どもに禁じます。

 すると、子どもは、真に相手の意図を組み、真に自分の思いを表現するという、正常な関係にとって基礎的なコミュニケーション能力の欠けた人間に育っていくのです。それどころか、自分の感情や考え、本心が何かもわからなくなるのです。

 

 以前、このブログで、トラウマが重いと「壊れたラジオ」のようになる、ということを書きましたが、トラウマを負った方は、まさに自分の感覚や、メタを言語化することが苦手です。

 自分の本心を言うことに制限がかかっているので、えんえんと壊れたラジオ、あるいは酔っ払いが管を巻くように話続けたり、自分の状況を尋ねられても自分のことをうまく言葉にできないということがあります。そもそも自分が何を考え、感じてて、何を言いたいかも自分でわからなくなるのです。
参考)→「”壊れたラジオ”のように

 

 なぜこうなるか?といえば、頭の中に家族との歪んだコミュニケーションで負った矛盾した状況を内面化していて、さらに、「自分(の考え、感覚)はおかしい」という不安が強固に思ったまま、会話しようとしているからです。

 おかしな連立方程式を解きながら会話しようとしていて、さらに解けない自分は他人よりも劣っている、欠陥がある、と自己否定しているからです。

参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 こうした生育歴で成人した場合、非常な生きづらさを感じることになります。

 ベイトソンは、統合失調症を例としていますが、統合失調症になるか、複雑性PTSD(アダルトチルドレン、ヤングケアラー状態)となるかは、その人の体質や気質によります。
 パニック障害として現れる場合も珍しくありませんし、多重人格となる場合もあります。うつや不安症、強迫性障害、俗にいうパーソナリティ障害、依存症としても現れます。

 それぞれは、ダブルバインド状況の中で葛藤から発症し、発症によって何とかその状況から抜け出そうとする心身の働きです。
   

 しかし、本人は生きづらさを抱えてカウンセリングなりにかかったとしても、はっきりと自分を表現することもできず、「明確に親が自分を虐待したという事実」も見つけることができず、「いや~、親がそれほどひどかったとは思えないんです・・(だから、ただただ自分がおかしいのでは?)」と言うことになります。

 さらに、症状が出ているのは自分で、家族は社会的には問題ないとされています。同じ環境で育った兄弟は見た目には病んでいなかったりもする(本当は同じではないのですが)。パフォーマンスが上がらない、たまに耐え切れずに親に暴言を吐くような自分のほうがおかしいとされる“客観的な”状況がそろっており、そのことも苦しめます。

 まさに、“あいまいな”マルトリートメント(虐待)です。

 

 実はここでご紹介した“あいまいな”状況こそが一番深刻とさえ言えます。
 わかりやすい虐待のほうが、相手が悪で被害者が善であると認識しやすく、社会の承認も得られてよほど良い、とさえ言えます。

 そして、治療者も、ダブルバインドなどの知識がなければ、状況を洞察できず、バランス感覚を重視して根拠もなく決めつけるようなことを避けたいという心理も働きますから、治療者自身もその欺きに少なからず加担させられるなどという恐ろしいことにもなりかねません。

 仮に、良い治療者に出会っても、子どもは家族を守るために内(家)の文化をどこか守ろうとします。場合によっては、医師やカウンセラーに対して家のおかしさを理知的に語るかもしれません。しかし、その物腰は本当に家族の文化にどっぷりつかった人のそれで、どうしても核心に迫れない、本当の解決策につながれないということも起こるのです。

参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 ※ここで表現したのは母子関係に単純化したもので、実際のケースではここに兄弟、父や祖父母などが複雑に関係してきます。

 

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