前々回の記事で、トラウマを負った方の特徴として、核心を言語化できなくなる、ということをお伝えしました。
(参考)→「王様は裸だ、と言えない。核心の外をループさせられてしまう。
」
それは、ハラスメントであったり、場合によってはストレスによる脳の失調(※もちろん、治ります)であったり、といったことが影響します。
実は、振り返ると、臨床心理学やトラウマに対する研究自体が、この「王様は裸だ」といえない時代が続いていたことに気づきます。
もともと、現代心理学の祖の一人であるフロイトは、ヒステリーの原因として心理的なトラウマというものを想定していました。
つまり、トラウマは臨床心理の中核にあったはずのものでした。
中核であるはずなのに、しかし、トラウマは、いつのまにか扱う人も限られるような特殊なテーマとなっていました。
「トラウマだ!」と核心をつければ良いはずの問題を、核心を突くことが出来ず、その代わりに、「パーソナリティ障害だ」「HSPだ」と、その周辺をループするような状態が続いてきたのが、ここまでの数十年でした。
まさに、トラウマを負ったクライアントが通るような道を、臨床心理学やトラウマ研究、トラウマ理解の歴史もなぞってきたようです。
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服」
フロイトは、性欲に原因を求めたりというようなことが必ずしも受け入れられず、また、社会自体も、性的な虐待、あるいは児童虐待という問題を直視できない、ということ。
あるいは、戦争においても、PTSDの症状は第一次大戦などで注目をされていましたが、本格的に取り上げられるのはベトナム戦争以降を待たなければなりませんでした。
フロイト以降も研究はいまいち厚みをまさない中、ハーマンという女性の医師が「複雑性PTSD」という概念を提起しましたが、激しい反発も産んできました。
拙著(『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』)にも書かせていただきましたが、愛着研究、ACE研究など周辺に様々なエビデンスが揃い、さすがに逃げ場のない状況になって、ようやく認められるようになったのがトラウマという事象です。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、メカニズム」
そんなこともあってか、トラウマについての本は、つい数年前までとても分かりづらいものが多かった(『嫌われる勇気』などトラウマを否定するような本もありしました)。
専門家が読んでも分かりづらいのですから、当事者や一般の方が読んでもピンと来るはずもありません。
そのために、多くの方が自身がトラウマと気がつけずに来ました。
なぜなら、書いている著者、研究者自体も核心がわかるようでわかっていない、うまく言語化できなかったからです。
そのために、書いている内容が衒学的、あるいはポストモダン的な表現になってしまったり、PTSD=トラウマとなっていたり、重い事例の紹介に終止したり、特定の理論の紹介や開発したセラピーの解説だったり、ということが起きていて、当事者をますます遠ざけることになっていました。
中核を捉えられない空白の時代に、当事者や治療者の困惑に対して仮の答えを提示して、隙間を埋めてくれていたのが、「パーソナリティ障害」や「発達障害」といった周辺の概念たちです。
(参考)→「パーソナリティ障害の正しい理解と克服のための7つのポイント」
しかし、周辺の概念はあくまで”代用“に過ぎませんから「そうかもしれない」けど、「いまいち、解決には繋がらない」というものでもありました。
(バターの代わりのマーガリン、お酒の代わりにルートビア、というような趣でしょうか?)
トラウマというものへの忌避感、嫌悪感が強かったり、あるいは言語化出来ない、というような経緯を振り返ると、「人はみな、トラウマ(不全感)を負っている」ということは、比喩ではなくまさに妥当ではないか、ということを感じます。
核心を言語化出来ないのは、トラウマを負った人だけではなく、社会に暮らす人々全体がそうなのではないか?と捉えても大げさではありません。※トラウマというのは、よほど経験、体験、知識が揃って核心を捉えないと、専門家でさえ、言語化できずモヤッとぼやけてしまうものなのかもしれません。
今年発売しました本は、トラウマという事象に対して、できる限り核心を捉え、言語化し、当事者や治療者、読者の皆様も「王様は裸だ」と言えるようにするための本です。
みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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