情報化社会といわれるように、パソコン、スマホ、などIOT機器は身近になりました。
通信では、パケットなど無機質な情報単位でやり取りをしています。
パケットロスなどがなく、できるだけ正確にやり取りが出来ることが正確な通信としては求められます。
そんな情報観からすれば、言葉も正確に受け取ることが必要に思えてきます。
人の言葉もロスがなく、そのまま受け取らなければいけないのだ、と。
しかし、人間が使う言葉というのはそういうものではありません。
人間の使う言葉とはナマモノで、そこにはいろいろなバイキンもついている、歪みもあるものです。
だから、言葉を受け取るためには必ず“選り分け”や“調理”が必要。
しかも、言葉を“生きて”受け取るためには、受け手の側も対等な位置で、言葉に対して能動的に関わることが必要になります。
能動的に、言葉を選別し、毒を抜き、抜いた言葉に解釈を与え、自分の文脈の中で位置づけを与えて受け取る。
こうした事があって、初めて意味(命)が宿る。
反対に、言葉を正確受け取ろうとすることは、口を開けて、生の食材を口に突っ込んで、そのまま飲み込むようなものです。
そうした行為は、「食材が死んでしまう」と表現されることになるかもしれません。
調理するということが、食材を活かすということと似ていますね。
対話(ダイアローグ)という考え方や効用が近年、注目されていますが、対話とは、話し手=受け手双方が相手を尊重しながら対等にやり取りするもの。
そこでは、互いに言葉を解釈して応答し合います。
言葉はどんどん変成していく。
そして、そんな対話を用いたセラピーはとても高い効果があることも知られています。
それは言葉に命が宿るから、と考えられます。
言葉に命が宿るとは、言葉が公的な領域のものへと昇華されるということでもあります。
(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある」
そうすることで、社会的な生き物としての私たちに言葉を通じて命が伝えられるようになるのです。
反対に、一対一の関係で、相手が自分の言葉をそのまま飲み込め!と要求することは、言葉を殺すことであり、飲み込んだ相手も毒気に当てられて、その人らしさは失われてしまうことになるのです。
そうした状態が「生きづらい」ということであったり、「トラウマ」ということのもう一つの説明かもしれません。
トラウマを負うとは、他人の言葉をそのまま飲み込んでしまった状態である、とも言えるのです。
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服」
今回の本で果たそうとしているのは、そうした言葉の膨張した価値を一旦ゼロにしようというもの。
漠然と流布している「人の言葉を聞くのは大切だ」「言葉には価値がある」という言説をまずは徹底的に疑ってみようということです。
おそらくそれらは単なる表のルールか、ローカルルールでしかないものです。
その上で、私たち中心で言葉に命を宿すために必要なことはなにか?ということを具体的に考察しています。
そんな、“言葉”を切り口にしてトラウマの呪縛から抜け出すのための本でもあります。
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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