「介護」にまつわる呪縛によって自分の人生を失わないために

 

 例えば、現代であれば、親の介護といった問題で沸き起こる、「親孝行」や「家族愛」といったものです。

 
 クライアントさんでも、親の介護に関連して、呪縛にかかるケースもよく見られます。

 介護では、通常でも、安全基地(愛着の対象)であるはずの親が老いていく姿に認知がついていけず、また、「自分が頑張ればなんとかなる」という自己の規範から親に怒りが湧いてしまって、親にイライラ、暴言、暴力を振るってしまうこともよくあることとされます。

 

 まさに、下記の本では、「親孝行の罠」として、そうしたことへの対処が書かれています。

 プロの介護士は、自分の親の介護はできない、ということを一番最初に習うそうです。つまり、介護とは親自身の人生、日常の営みであり、子どもや家族が親孝行や家族愛といった規範から行うものではない、ということです。

 「家族は、自分の家族の介護はできない」

 これは、決して裏技でも、トリッキーな割り切りでもなく、介護の世界では“常識”“本質”とされることです。
 
 
 しかし、「基本は家族が面倒を」というような俗な規範は世の中位を徘徊していますので、それにとらわれると「罪悪感」や「親への怒り」に心が呪縛されて、やられてしまいます。

 先日の記事でも取り上げましたヤングケアラーとなってしましまう。

(参考)→「なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 介護は社会の力を借りて行うものであり、自分の人生を捧げて行うものではありません。
 子どもや家族は自分の人生や仕事を普通に過ごしながら、社会制度やプロの力を借りて行うことはできます。

 まさに、専門家は「家族だけで行おうとしないでください」「介護のために仕事をやめたりしないでください」と啓蒙しています。
  

 俗な規範にまつわる領域では、不全感(トラウマ)が触発されて正常な判断ができなくなります。
 専門家に相談できず、あるいはしても見たいものしか見れず、「内を守り、外を疑う」というようなことになりがちです。

 (参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 「他の家ではそうでも、うちだけは事情が違って、自分で面倒を見るしかないんです」と思っている場合ほど、ぜひ、お読みいただくとよいかと思います。

 

山中 浩之, 川内 潤「親不孝介護 距離を取るからうまくいく」日経BP

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川内 潤 「わたしたちの親不孝介護 「親孝行の呪い」から自由になろう」日経BP

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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言葉やルールが適用される状況はかなり限定的なものである。

 

 世の中には、さまざまな道徳があります。

 例えば、「全て自分の責任だと思え」といったようなこと。
 会社の経営者は全て自分の責任だと思わなければならない、街のポストが赤いのさえ自分の責任だと思え、みたいな考え方があります
 

 そうした経営者が、武勇伝のように本を書いたりして、「自分はこれで成功してきた」「駄目な社員とできる社員の違い」みたいなことを書いたりしている。
 あるいは自己啓発の本や、ポップ心理学の本にも「全ては自分の選択」みたいなことが書いてある。

 

 よりよくありたいという意識が高い人は、そんな本を読んで「たしかにそうだ」と考えてしまう。

 

 しかし、実は真に受けるとうまくいかなくなります。
 それどころか、パフォーマンスが下がってしまう。

 一瞬うまくいくような高揚感があるのですが、だんだん上手くいかなくなって苦しくなって、追い込まれる。

 そうして、決定的な瞬間を迎えます。

 それは、自分が心がけていることと真逆の評価をされてしまうことです。

 「~~さんは、自分ごととして仕事をしていない」とか、
 「コミットできていない」とか、
 「人のせいにしている」といったようなこと。

 なんで??と気が動転するようになりますが、
 トラウマを負った人にはよくある光景です。

 

 

 あるいは、プライベートな場面などでも「家族は大切にしなければならない」「人に嫌なことをされても、許すことが大切だ」
「嫌な人でもいいところを見つけなければならない」など

 それを守れば良さそうな気がしますし、当初は良いかもしれませんが、やはり、徐々にうまくいかなくなって、追い込まれていき、しまいには、反対の評価をくだされて ガーンとなってしまう。

 

 

 なぜ、このようなことが起きてしまうのでしょうか?

 それは、言葉やルールというのは本来、適用される場面がかなり限定的で、適用されるのには条件が必要だからです。

 
 クスリに置き換えればわかりやすいのですが、クスリも、適用される症状や、飲むタイミングにはかなり条件があります。

 症状に合わなければ効果がありませんし、飲みすぎれば副作用が起きますし、タイミングを間違えば効きが悪くなります。

 どんな人にもどんな状況にも効果がある万能薬などは存在しません。

 

 

 言葉やルールも同様です。
 適応される症状や状況はかなり限られる。

 
 例えば、「全て自分の責任だと思え」というのも、あくまで、それは、そう思ったほうが効果が出る場面だからそれを用いるのであって、絶対のルールでもなんでも無い。

 「許し」などというのも、それが効果を発揮する場面でのみ使うのであって、いつもではない。

 それどころかそれぞれ副作用が出る危険性のある要注意の言葉です。

さらに、教条的に守っていることを突かれて心理的な支配の道具として悪用されることもある。
 

 

 

 先日も社員に厳しいと有名な経営者が記者会見で、目標未達になったのは部下が悪いからだ、とすごく「言い訳」をしていました。

 「あれ?言い訳せずに必ず成果を出すんじゃなかったの??」というところですが、当人は、なんの疑問も持っていません。

 場面場面で、自分に都合よく使っているだけで、パフォーマンスが上がればそれでいい、ということなのかもしれません。巻き込まれる社員の側は大変ですが。

 「あなた、以前、言っていたことと違うじゃないの?」と言われても、
 「だって、状況や場面が違うんだから違って当然でしょ?逆にあなたはなんでいつも同じなの?」という感じです。

 これは、あるいみ健康な人がもつ感覚です。

 言葉やルールがどんな場面にも遍く適用されるというのは、トラウマを負った方が持つ特徴と言えます。

 さらに、いい加減な他者を反面教師にしているために、自分はそうはならない、なりたくないとさらに真面目にルールを徹底しようとしてしまい、柔軟性を失ってしまう。

(参考)→「“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 

 

 キリストが言葉が方便であることを言っていたといったように、言葉やルールとは、適用される状況はかなり限定的であり、本来融通無碍に使うものだということも、言語化されていない暗黙のルールかもしれません。

(参考)→「トラウマ的環境によって、裏ルールを身に着けるための足場を失ってしまう

 

 

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 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

暗黙のしくみを知るためには、物事や情報を基礎、応用と分けて考える

 

 スポーツなどでは、プロが行っていることを初心者がそのままやると正しい方法身につかない、ということがあります。

 特にプロがやっていることは、見た目には「基礎」とは逆に見えたりします。

 プロは基礎がもちろんしっかりあるわけですが、試合などで行っているのは、基礎に基づく応用だったりします。 

 応用として展開されることは、ときに基礎と真反対に見えます。

 

 

 これが私たちが、生きづらさを克服する際にも当てはまります。

 例えば、人との関わりを回復させるためには、心を開く のではなく、しっかりと閉じなければいけません。 
 

 他人との区別をしっかりと付けて、境界線を明確にする必要がある。

 社交的な人ほど、実は心が閉じています。

 統合失調症の方は、境界線が薄く、それゆえに幻聴などに悩むと言われますが、ある患者さんが、「この病院の中で誰が一番心が閉じていますか?」と聞かれた際に、いちばん人当たりのいい看護婦さんの名前を挙げた、というエピソードを目にしたことがあります。

 

 

 家と同じで、外出するためにはしっかりと鍵がかけられていなければならない。

 しかし、一見するとこれが逆に見えてしまいます。

 社交的になるためには、心を開かなければならない、
 社交的な人は心が開いている、と。

 
 全く逆です。

 しっかりと閉じる習慣ができているから、社交的にすることができる。

 
 社交とは、心を閉じるという基礎ができていてはじめてできる応用であるということです。

 

 

 トラウマを負うと、こうした物事の段階がわからなくなってしまいます。
 すべて一元的で、「どちらが正しいか」と考えてします。

(参考)→「トラウマを負うと一元的価値観になる

 

 ほとんどの場合、基礎、応用と分けて考えれば、両立するものだったりする。

 しかし、基礎というのは暗黙のしくみとしてあり、言語化しにくいため言葉にされることがありません。
 よほど注意深く観察されなければ言葉にできません。

 いっぽうで、応用は言葉にしやすい。見たままに言葉にすればいいわけですから。

  
 本屋に並ぶようなポップ心理学や自己啓発の本の多くは、「応用」が書かれています。

 ですから、いきなり、「応用」から入ってしまい、その気になっているうちはうまくいきますが、「基礎」がないために続かなくなって、それどころか、むしろ調子を崩す、ということが起きてしまうのです。

 
 物事は、基礎と応用とを分けてみれば、世の中の暗黙のしくみがわかるようになります。
 

 

 

 ↓「基礎」を書いてみました。

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言葉はスルーしてはじめて、命が宿る

 

 情報化社会といわれるように、パソコン、スマホ、などIOT機器は身近になりました。

 通信では、パケットなど無機質な情報単位でやり取りをしています。

 パケットロスなどがなく、できるだけ正確にやり取りが出来ることが正確な通信としては求められます。

 そんな情報観からすれば、言葉も正確に受け取ることが必要に思えてきます。

人の言葉もロスがなく、そのまま受け取らなければいけないのだ、と。

 

 

 しかし、人間が使う言葉というのはそういうものではありません。

 
 人間の使う言葉とはナマモノで、そこにはいろいろなバイキンもついている、歪みもあるものです。

 だから、言葉を受け取るためには必ず“選り分け”や“調理”が必要。

 しかも、言葉を“生きて”受け取るためには、受け手の側も対等な位置で、言葉に対して能動的に関わることが必要になります。

 
 能動的に、言葉を選別し、毒を抜き、抜いた言葉に解釈を与え、自分の文脈の中で位置づけを与えて受け取る。

 こうした事があって、初めて意味(命)が宿る。

 反対に、言葉を正確受け取ろうとすることは、口を開けて、生の食材を口に突っ込んで、そのまま飲み込むようなものです。
 
 そうした行為は、「食材が死んでしまう」と表現されることになるかもしれません。

 調理するということが、食材を活かすということと似ていますね。
 

 

 対話(ダイアローグ)という考え方や効用が近年、注目されていますが、対話とは、話し手=受け手双方が相手を尊重しながら対等にやり取りするもの。

 そこでは、互いに言葉を解釈して応答し合います。

 言葉はどんどん変成していく。
  
 そして、そんな対話を用いたセラピーはとても高い効果があることも知られています。
 それは言葉に命が宿るから、と考えられます。

 言葉に命が宿るとは、言葉が公的な領域のものへと昇華されるということでもあります。
(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 そうすることで、社会的な生き物としての私たちに言葉を通じて命が伝えられるようになるのです。

 

 

 反対に、一対一の関係で、相手が自分の言葉をそのまま飲み込め!と要求することは、言葉を殺すことであり、飲み込んだ相手も毒気に当てられて、その人らしさは失われてしまうことになるのです。

 そうした状態が「生きづらい」ということであったり、「トラウマ」ということのもう一つの説明かもしれません。

 トラウマを負うとは、他人の言葉をそのまま飲み込んでしまった状態である、とも言えるのです。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服

 

 今回の本で果たそうとしているのは、そうした言葉の膨張した価値を一旦ゼロにしようというもの。

 漠然と流布している「人の言葉を聞くのは大切だ」「言葉には価値がある」という言説をまずは徹底的に疑ってみようということです。
 おそらくそれらは単なる表のルールか、ローカルルールでしかないものです。

 その上で、私たち中心で言葉に命を宿すために必要なことはなにか?ということを具体的に考察しています。

 そんな、“言葉”を切り口にしてトラウマの呪縛から抜け出すのための本でもあります。

 

 

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