仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 
 最近、新型コロナウイルスが問題となっていますが、外国の物や人が国に入るときには検疫があったり、審査があったりします。

何のチェックもなく外国に入れるということはありません。

 信用できる国同士だとチェックを軽くしたり、ということはあるようですがチェックするのが原則。

 

 

 私たち個人も同様に、相手をそのまま信じることはなく、チェックをしています。

健康に発達していれば、言葉を鵜呑みにすることもありません。

 そのまま受け入れるなんて言うのはとても危険なので、必ずチェックが入るのです。
 
 親から受けたしつけや教育についても、わざわざ反抗期というプロセスで一旦否定して、検疫して、翻訳し直して、自分のルールというものにするのです。

 

 

 人間は素直な方がいい、というふうに言われますが、その「素直さ」というのも要注意です。主語をチェックしないといけません。

 素直な方がいいというのは、「(支配する側にとって)」という言葉が隠れていることがしばしばだからです。

 

 「自由貿易とは、強者にとっての保護貿易」という有名な言葉がありますが、国と国との関係でも、「ノーチェックでやりとりしましょう」というのは、強い国にとっては都合が良いのですが、弱い国にとっては実は相手に知らず識らずの間に支配されているということがあります。

 EUでも、結局はドイツのような強い国が得をしている(EU≒ドイツ帝国)のでは?ともいわれています。

 

 

 個人同士の素直さというのも同様に、それは強者にとって都合の良い、ということだったりします。

 もっと言えば、家庭の中での親であったり、配偶者であったり、会社では上司、経営者であったり。過干渉やモラルハラスメントというのは、相手を否定することでノーチェック状態を強制することです。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 反抗期を経て健全に発達した大人であれば、相手の言葉をそのまま受け取ることはありません。

 例えば、会社で会社の上司に言われたことでも、そのまま受け取るなんてしません。

 でも、あからさまに従わないなんてこともしません。

 基本は、「面従腹背(表面的には従っているが、本心はそうではない)」です。

 

 もちろん、業務として決められたことや、しなければならないことはしますが、「心から臣従」なんてしない。

 (個人同士の人間関係で言えば、裏表があるとか、心のなかでいつも相手を悪く思ったりとかそういうことではありません。)

 

 「でも、結構上司と部下が仲が良くて、尊敬されているいい環境の職場もあるよ」と思われるかもしれませんが、それは、それが当たり前なのではなく、環境が整った結果であるということ。

 上司や会社が尊敬されるに値する正統性と役割を果たしている結果、部下がそれに敬意を払い、いい関係になっているということ。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 例えば戦国時代のお侍さんでも、主人の言うことを何でも言うことを聞くなんてことはありませんでした。 主人がそれ相応の力を示して尊敬されなければ、言うことは聞いてくれなかった。

 武田信玄などもそうだったようで、部下から尊敬されることに腐心していた。
 
 

 戦前の軍隊でも、山本五十六(連合艦隊司令長官)の有名な言葉に、

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」
 

というものがあります。

 

 戦前の軍隊という絶対服従のイメージのある職場でも、上官が言ったから部下が何でも聞いてくれる、なんてなかったのです。

 これだけ、丁寧に関わって初めて人は動く。

 人というのは、やはり基本的には「面従腹背」なのです。

 

 ただ、面従腹背なのですが、そのほうが結果として、「素直だ」と捉えてもらえたりする。
 「面従(表面的には従っている)」しているためです。

 人間は心からやり取りをしているわけではなくプロトコル(外交儀礼)でやりとしているので、プロトコルに従っていれば良く評価される。
 

 普段、挨拶しているだけで、罪を犯した人でさえも、「あの人はいつも挨拶してくれて、いい人そうだったけどね~ 残念ね~」とご近所の人から言われるものです。

 

 それに対してトラウマを負った人はどうか?
 「面(反)腹()」という感じで、人の言葉をそのまま受け取りすぎる。心からやり取りしようとしてしまう。

 他者が大きく見えているので、へりくだりすぎてしまったりして、ちょっと言われた言葉を大きく捉えてしまったりする。

 会社の会議でも指摘があると、黙ってしまったり、深刻に受け止めすぎてしまったり。

 
 人に振り回されることに疲れているし、傷ついてもきたので、本当は距離を取りたい、人の言葉に動じない強い自分になりたいと思っています。心からやり取りしたいと思っていたりもする。
 結果、それが表情に現れて「面(反)」となり、上司から「なんだ、気に入らないのか」となって、「あいつは素直じゃない」と悪い評価されてしまう。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 

 本当はめちゃくちゃ素直で柔軟なのですが、それが仇となるのです。

 

 ノーチェックで相手の言葉を通してしまうことで、公的環境ではなく、私的環境になってしまって、相手の理不尽さ(ローカルルール)を招いてしまう、ということもあります。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 TVや本で取り上げられている活躍しているプロフェッショナルを見ると真に受けて、実際の責任以上に仕事を引き受けてしまう。

 活躍している人は、それを支える環境があったり、負の側面もあるのですが、そのことは見えない。
 (もちろん、TVで取り上げられる人の中には自己愛性パーソナリティ傾向のあるワーカホリックな人もたくさんいますが)
 
 表面だけ真似して、すごく気を利かせたり、何でも自分の責任だと捉えたり。
 

 とても頑張っているのに、
 「~~さんは、最初はいいんだけど、結局は駄目だね」と悪く評価されてしまう。
 

 頑張ってその結果ですから、もうどうしていいかわからなくなる。
 自信をなくして、人や仕事が怖くなったりしてしまいます。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

    →「あなたの人間関係の悩みの原因は、トラウマのせいかも?

 

 

 ちょっとしたことから始まりますが、「面従腹背」と「面(反)腹()」というように、トラウマを負った人と、健康な人とでは、見えている世界が180度違っていたりするのです。

(参考)→「トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。

 

 仕事や対人関係の基本は、「面従腹背」。そして、自分の体の範囲より大きな責任は負わない。 

 しっかり「面従」はする。

 

 「面従」というのは、挨拶であったり、ポイント、ポイントでの愛想であったり、「OK,BOSS(かしこまりました)」といったり、などプロトコルに従うということです。
  

 そうしていれば、自他の区別もちゃんと保てますし、人からの評価を得ることもできます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション

 

 前回の記事を、別の角度から考えてみます。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。」 

 

 人と付き合う際に、相手の気持を考える、というのは、家に例えていうならば、人と付き合う際に、常に「相手のプライベートな部屋、寝室に上がり込むようなことをさせられている」ということでもあります。

(参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く」  

 

 

 普通私たちは、人と付き合う際は、道端や玄関先、あるいは、応接室で話をします。会社でも、自分の個人の机にまで来客を招くことはなく、会議室などでやり取りをします。

 これが正常な付き合いです。

 相手を自分の部屋に上げるようなことはしません。

 

 しかし、理不尽な養育環境、理不尽な親は、いちいち子どもを自分の部屋に招きこむ(自分の気持ちを考えさせる)ようなことをして、子どもに自分を慰めるように命令していた。
 
 
 子どもが嫌だ、というと「お前は悪い子だ」「いい子ではなければ愛さない」と脅して、自分の部屋に連れ込んでいた。

 

 それは、自分の不全感を癒やしてほしいからという独善的な理由でしかなかった。

 ローカルルールで巻き込んで、自分の気持ちをのぞき込ませる、というのは一種の精神的な虐待、ハラスメントと言えるかもしれません。 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 そうした環境に慣れた子どもは、大きくなっても、人と付き合う際に、いちいち「相手のプライベートな部屋に入る」ことや、「自分の部屋に招く」ということが当たり前になっているため、人との距離感がわからない。

 

 自他の区別も曖昧でハラスメントにもあいやすい。
フィッシングメールのような言葉が飛んできて、不全感を抱えた人の部屋に上がりこまされるようなことになる。

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 

 いちいち自分や相手のプライベートな部屋に上がるようなスタイルなので、だんだん人付き合いが億劫になってきたり、怖くなってきたりする。

 
 そうして、人とうまく付き合えずに、自分を責めるような気持ちになってうまくいかなくなる。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 
 人との付き合いは、玄関先や応接室で行うものです。

 いちいち自分の部屋に上げるなんて誰もしていない。

 部屋に上げることが親密さの証でもない。

 
 コミュニケーションも上級になればなるほど、距離も保つものです。

 外交はホテルや迎賓館で行います。それがもてなしということにもなる。

 賓客を山荘や別荘に招く、といっても、自分の寝室(私的領域)に上げるなんてことは聞いたことがない。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

  
 しかし、トラウマを負っていると、こうした当たり前のことでさえ、かなり狂わされていることがわかります。 
 
 そして、常に、相手の部屋に誘い込まれたり、自分の部屋に招くことが当たり前だと思わされて、対人関係の苦労を背負い込むことになるのです。

 
 自分を家に例えたときに、どこで人付き合いをしているのかを、一度チェックしてみると対人関係の苦しさの原因がわかります。

玄関先や応接室でやり取りすることを意識するだけでも、グッと楽になります。

 

あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。

 

 以前も、同様の記事を書いたことがありますが、

(参考)→「まず相手の気持ちや立場を考える、というのは実はかなり変なこと

 

あらためて、

 相手の気持を考えること、相手の心の中を覗き込むことは絶対にしてはいけません。

 

 心の中というのは、私的領域であり、いうなればローカルルールだらけの世界なので、覗き込んでしまうと、そこに巻き込まれてしまう。

 

 理不尽な親は、自分の不全感を癒やすために、「私の心を覗き込め」といって、様々な言葉(フィッシングメール)で巻き込もうとしてきます。

 その中には、「あなたはだめな子だ」とか、「あなたは冷たい」とか、様々なものがあります。

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 

 それらには深い意味などなく、単に自分の不全感を紛らわすために子どもを巻き込みたい、ということでしかなかった。

 
 しかし、真面目な子どもは、「相手の気持を考える」ということが良いことであると思わされたために、学校や会社でも、同じことをしてしまうようになる。

 

 「相手の気持を考える」ということが癖になってしまって、相手の私的領域、ローカルルールに巻き込まれてしまうようになっている。

 

 例えば、仕事でミスをした、というケース。

 ミスというのは誰にでもあります。ミスは起きます。

 

 しかし、ミスをしたことで、相手は私のことを能力のない人間だと思うだろう、とか、相手は私を変な人間と思うかもしれない、というように、相手の気持を覗き込んでしまうと、ローカルルールに巻き込まれて、実際に不当な評価をされるような理不尽な目に合うことが起きてしまう。

 

 とりわけ、顧客や上司が自己不全感のあるような方だと顕著におきます。

 一方で、相手の気持をのぞき込まずに、淡々とミスを謝り、仕事をしていると、そうした事は起きなかったりする。

 

 絶対に、相手の気持を考えてはいけない。

 
 そうすると「相手の気持を考えてはいけない、のであれば、思いやりのない冷たい人間になるのではないか?」と疑問が湧いてきます。
 
「相手の気持を考える」とは社会でも良いこととされていると耳にしているから。

 

 しかし、「相手の気持を考える」と一般に言われていることは、「相手の気持を覗き込むことではない」のです。

 例えば、一流ホテルのホテルマンは顧客の気持ちを考えて接客しています。

 
 では、どの様に接客しているかといえば、相手の気持を覗き込んだりはしていません。

 まず、相手のプロフィールを知り、外形的な様子を観察します。

 国籍、年齢、利用の目的、同伴者の有無、荷物、特別なニーズなど。

 身体が悪ければ、エレベーターで椅子を案内するかもしれません。

 誕生日であれば、ケーキを手配するかもしれません。

 近くのお土産物店をお教えするかもしれません。

 常連になると、時候の話題で軽妙な会話を交わすかもしれません。
 

 

 そうしたものの積み重ねで、「心のこもったサービス」が構成されていますが、いずれも、相手の気持を覗き込んだりはしていないのです。

 

 すべて、

 1.外形的な情報の観察からはじまり、

次に、

 2.「職業的な経験」「常識」を参照して、

 3.サービスを提供しているのです。

 

 そうしたほうが、顧客にとっても心地が良い。

 反対に、気持ちをのぞき込まれるような対応は、重く、気持ち悪いものになります。
 (自己不全感を抱えた人にとっては、その気持ち悪さが心地よいと錯覚していますが) 

 

 以上のように、相手の気持に立ち入らず、相手の状態をよく観察して、常識を参照し、外形的に対応することが健康なコミュニケーションです。

 そのことを社会では、「相手の気持を考える」と表現してきた。

 もし、仕事でミスをしても、相手がどう思うか、など考える必要はない。

 1.状況を把握し、

 2.常識を参照しに行き、

 3.必要な対応をするだけ。

 
 理不尽な相手が、フィッシングメールのように、「私の気持ちを考えろ」と巻き込もうとしてくることがありますが、それはおかしいとスルーする。

 

 ローカルルールとは、因縁をつけて、私的領域の中に巻き込まなければ成立しないくらいにおかしく脆いということ。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 私たちは、ローカルルールによって、「相手の気持を考える」の意味や内容を勘違いさせられてきた。

 

 それによって、自他の区別が曖昧になり、結果自分の感覚や考えもあやふやになって、ストレスにも弱くなるなどの弊害も被ってきました。

 でも、ローカルルールというもののメカニズムを知って、常識に還ることで、自他の区別が明確になり、その呪縛から抜け出すことができます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 歴史学の世界では、「史料(資料)批判」という言葉があります。

歴史の史料も、それが本当なのか、適切なものなのかを吟味する、取捨選択することを言います。

 歴史学以外の学問でも同様で、研究で得た素材をそのまま無批判に受けるということはありません。その史料がどういった性質のものか?誰がなんのために残したものなのか、その意図や、内容が虚偽ではないか、を確認していきます。

 史料として集めても、極端に言えば、9割以上は使えずに捨てるという結果になります。

 

 理系での実験データなどでも同様に、その内容は徹底的に吟味されます。統計でいろいろと数字を出してみても大半は意味のあるものではなく、試行錯誤して、ようやく意味のあるデータを拾い出す、という感じです。
 

 

 このように、得られた史料、データや素材をそのまま用いることはなく、厳しくチェックした上でエビデンス(証拠)として採用されていきます。虚偽が混じっていたり、解釈のできないデータが入っていたりして、論文などはかけませんし、ちゃんとチェックをしなければ信用を失ってしまいます。

 

 

 
 「目利き」という言葉があります。
 例えば、宝石商の人が宝石の価値を鑑定したり、偽物かどうかを見極めたりします。

 最近は中古品買い取りが一大ビジネスになっていますが、ブランド物のバッグもマニュアルを作ったり、訓練を受けた係員が値打ちを判断し、買取額を判定します。
 

 鑑定せずすべてをホンモノだとして買い取ったりしたら会社は大損をしてしまいますし、顧客の信用を失ってしまいます。

 
 世の中は偽物も多く、まだ騙そうとする人もいます。そのため、それを選別したその判断をすることで秩序が保たれています。

 

 

 

 そんな中、私達の日常に視点を戻してみると、あれ?と思うことがあります。

 それは、「人の話をよく聞かなければならない」という考えが正しい、とされていることについてです。

 

 トラウマを負っている人たちに顕著ですが、「人の話はよく聞かなければならない、受け止めなければならない」という考えを私たちの多くは持っています。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 特に、
 「耳の痛い話ほど、受け止めなければならない」ということを私たちは独りよがりにならない戒めとして信じています。

 

 しかし、これはかなりおかしな、そして危険な考えです。

 

 

  
 例えば、私たちは、食べ物でも、毒のあるものは食べません。長い歴史の中で、人類は毒のあるものとそうではないものとを見分けてきました。キノコなどは猛毒のものもあります。間違って食べたら即死してしまいかねません。

 腐っているものも食べません。お腹を下してしまいます。
 だから親切に消費期限や賞味期限という情報が提供されています。

 食べ物は選り分けるのが普通で、なんでもかんでも食べるなんてことはしていません。体に悪いものは食べない。そうしなければ健康的な生活をおくることができなくなります。

 

 
 この世界で健康的に生活したり、事実を掴むためには、接する事物を吟味し、そして多くを捨てなくてはならないのです。まず受け入れることの前に、チェックし、捨てることが最初にあります。

 

 

 そうした常識の中、
 私たちは、なぜか、「人の話はすべて受け止めなければならない」という考えを信じています。

 そして、過去に言われた家族や友人知人たちからの言葉を、あたかも神からの託宣のように受け止めて、その呪縛に苦しんでいます。

 

 なぜ、このような考えが、正しいと受け止められて、広まってしまったのでしょうか?

 

 

 臨床などでわかってきたことで、このブログでも度々ご紹介していますが、人間というのは容易に解離します。ちょっとした刺激で人格がスイッチする生き物です。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 最近問題となっている、あおり運転をみればよくわかります。ちょっとした刺激で人格が変わります。並走車に割り込まれたり、相手がゆっくり走っていたりしただけで、不全感を刺激された人格が豹変して相手の車をあおり、暴力や、果ては殺人まで起こすということが起こります。

 

 DVもそうです。仕事では優秀な社員とされている紳士的な人が、家では人格が変わり、暴力を振るう。そして、常識からはわけのわからない理屈をこねて、暴力を正当化します。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策
 

 

 いじめもそうで、かわいいはずの子どもたちが、同級生をいじめて、最悪は死に追いやる。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 そこにもおかしな行為を正当化する勝手な理屈があります。

 その勝手な理屈をローカルルールといいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 人間社会にはそこここにローカルルールというものが存在します。不全感から起きるネガティブな感情を正当化して、人を攻撃したり、支配したりすることです。

 

 ローカルルールは人から人へと感染していきます。
 特に私たちの中の人格に感染し、感染した人格は刺激を受けて前に出てきます。普段はまともなひとが、急におかしなことを言い出すのはそのためです。

 

 

 また、立場が近い人ほど互いに嫉妬に巻き込まれることもわかっています。 
嫉妬というものは厄介で、いくら理性で抑えようとしても抑えることは叶わず、嫉妬を刺激されると破壊的な人格に変身して、他者を惑わす言葉を吐いたり、攻撃したりします。

 こうしたことから自由な人は誰ひとりいません。
どんな立派な人でも嫉妬は沸き起こります。

 

 

 
 人間は、公的な環境では、本来の自分でいられますが、私的な環境におかれると解離しやすく、すぐにおかしくなってしまうのです(ローカルルール人格にスイッチするのです)。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 
 ローカルルール人格は、支配欲や不全感を発散させたいというネガティブな感情から、思わせぶりな発言をしたり、意味深なことをいったり、非難してみたり、そして、それを常識だとして騙ったり、様々なことをして、他者を惑わせています。 

 

 

 ローカルルール人格が発する言葉や理屈というのは、全く意味がありません。
 なぜなら、実態は個人的な感情だからです。

 以前の記事でも書きましたが、クレームについても9割はローカルルール人格が行っているニセのクレームです。あおり運転を行う人の文句と同じです。

(参考)→「世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 ローカルルールというのは、もっともらしい理屈を言ってみても、意味深な内容に見えても、中身は空っぽです。
 ですから、切って捨てないといけない。真に受けてはいけない。
 人間のコミュニケーションには相手を支配したり、呪縛したりして、拘束する側面もある。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 真に受けると、その方の本来の自分が蔑ろにされてしまうからです。
 

 

 

 世の中ではローカルルール人格による巻き込むためのニセの本音が飛び交っています。それらは、まともに相手にするようなものではないのです。 

 そうした環境に生きている中、「人の話はよく聞かなければならない」という考えは果たして適切なのでしょうか?

  
 当然ながら、全く正しいものではありません。

 

 人の話には、そのまま受け止めるのはあまりにも不純物が多すぎる。

 

 

 食べ物に置き換えてみれば、 
 「すべての食べ物はチェックせずにそのまま食べなければならない」といっているようなものです。毒や腐ったものにあたって死んでしまいます。

 

 実際に、人の話をよく聞かなければ、と真面目に考えている私たちは、人の話を受け取って、頭が真っ白になったり、体が固まったり、相手の発言が気になってぐるぐる回ってどうしようもなくなったりしています。

 人から言われた言葉を真に受けて、答えを探そうと私たちは何年もその事を考え続けてしまいます。

 本当は意味などなかったのです。切って捨ててよかった。

 

 

 これまでの心理療法では、話を受け取ったあとにいかに頭が真っ白になったり、ぐるぐる周りが起こらないか?ということに取り組んできましたが、よくよく考えれば、受け取る時点で、チェックして受け取らない必要があります。
 毒を食べてからでは遅いのです。

 

 そのためには、当たり前と信じてきた「人の話を受け取らなければならない」という考えを疑わなければなりません。
 

 

 正しくは、

 「人の話は聞いてはいけない(基本はすべて捨てて良い)」

 

 もっといえば、
 「よく吟味して、怪しいものはすべて捨てて、本当に大丈夫なものだけ、自然と伝わって来たものを吸収する」ということになります。

 

 特にローカルルール人格が発する発言は、全く意味をなしません。
 聞く価値はありません。

 以前の記事のも書きましたように、いじめっ子の身勝手な論理に耳を傾けるようなもので、本来は、一刀両断に切って捨ててしまわなければならないのです。 

 間違って寄り添うと
 「誤った共感」になってしまいます。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 意味深で、なにか意味があるのかも、とおもったり、人の話を聞かないと独りよがりな人間になってしまう、と考えてしまうとおかしな呪縛にかかってしまいます。 

 

 

 学問における、「優秀な研究者」とは、資料やデータを徹底して疑う人たちです。

 「良い目利き」とは、疑い、ニセモノや価値の無いものを捨てていく人たちのことです。

 

 同様に、「聞き上手」とは、人の話を真に受けない人のこと。人の話を聞かない人のことです。

 世の中で、「ちゃんと私の話を聞いてくれる」とか、「共感してくれる」という人は、実は、「人の話を聞いていない」のです。

 人の話を聞かないことで聞き上手になっている、というのは、ニセモノを見極め除いて、本物を受け取ってくれる、ということです。

 

 

 トラウマを負っている人たちは、
 「人の話をよく聞かなければならない」ということを強く信じている傾向にあります。

 それは、養育環境の中で、理不尽にさらされていたから。
 理不尽な家族や友人知人が、ローカルルールを強制する環境にいたために、「何を捨てるのか、何を捨てないのか」を混乱させられた環境で生きてきたから。
 

 直接的に「あなたは人の話を聞いていない(もっと私の話をありがたく聞け)」といった叱責を浴びてきた人もいるでしょう。
 
 あるいは、機能不全に陥った家族をなんとかしようとして、真面目に一生懸命、理不尽なものを全部を受け止めさせられてきたからです。

 恣意的にゴールポストを動かされて作り出された事実を客観的なものだと信じさせられてきた人もいます。
  
 トラウマとは、まさにローカルルールの毒気にあたった、中毒状態と言えるかもしれません。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 ここで書いてあることも、健康で、世慣れた人にとっては、実は常識といえるもので、「(人の話をいちいち真に受けて聞かないなんて)そんなの当たり前じゃない」ということだったりする(言葉には出さないけど実は常識という“裏ルール”)。

(参考)→「“裏ルール”が分からない

 でも、トラウマを負った人にとっては、わざわざ拭わなければならないくらいの枷となっていることでもある。

 

 

 私たちが、日常生活において、特にプライベートな空間でかわされる言葉の9割(99%?)以上は、真に受けず捨てて良い。ローカルルールが飛び交う中で、まともにうけるには人の話はあまりにも危険だからです。

 

 聞くべき話があるとしたら、お金を払って専門家からアドバイスを貰うか、信頼できる書籍の中からなどしかありません。つまり、ローカルルールが入る余地を排除した公的な状況でなければ人からは真に受けて良い情報は得られないのです。

 

 それでは安心して日常会話ができなくなってしまう、と思うかもしれませんが、会話が持つ役割が違うということです。
 日常におけるプライベートな会話とは、”戯れる(たわむれる)”ためにあるもので、真に受けるためにあるものではない、ということ。

 

 “戯れ”として接することができれば、リラックスして会話を楽しむことができます。稀にローカルルール人格が前面に出て失礼な発言があった際には、ツッコミをいれて、公的な状況を作り出して相手を我に返す。

 日常でおしゃべりを楽しんでいる安定型の人は実はこれができている。

 

 仕事(や学校)は公的な場ですが、社風(校風)にもよりますが、残念ながら特に社内というのも、どちらかといえばローカルルールがはびこりやすい私的環境に当たります。嫉妬や不全感と言ったものが顔を出しハラスメントが横行することもあります。

 真に受けられるのはどちらかといえば信用できるのは、お金のやり取りがある取引の場面での会話のみで、職場の会話も戯れとして聞く必要があるのでしょう。

 

 

 元ソニーの社員が書いた「できる社員は「やり過ごす」」という本でいわれているのは、まさに人の話は戯れとして真に受けず大事な仕事を見極めて打ち込め、ということなのだと思います。 

 反対にトラウマを負った人は、人からの話はすべて客観的な事実であり、神からの託宣のように受け取って、意味などないそのない意味をずっと考え続けさせられています。
  

 日常における人の言葉はまったく意味がない。戯れ※として楽しみ、流す。
 すると、自然と本当に受け取るべき本質が見えてきます。
 

 

 ※「戯れ(たわむれ)」とは、「遊び興じること。ふざけること」ですが、「戯言」と書くと「ざれごと」と読み「たわけた言葉。ばかばかしい話」という意味になります。

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 物事には、前提となるステップや要素というものがある。

 いきなり実現することが難しいことでも、前提が整えば、それを組み合わせれば宇宙にまで行くことができる。

 宇宙に行く技術も、物理学の研究と、工業化された製品の組み合わせ。

 極端に言えば、子どもでも、要件さえあれば、ロケットを飛ばすことだってできるようになる。
 

 

 目の間にあるパソコンも汎用品の組み合わせ。
 アポロ計画などの時代ではオーダーメイドで何千億円もした機能の何倍もの物が格安で手に入るし、誰でも組み立てられる。

 さらにそれで組み立てたものでプログラムを打てば、大きな資本がなくても新しいサービスを作ることもできる。

 

 でも、もし、パソコンが手に入らなければ、それも不可能になる。それ以前に、そもそも文字が読めなければ、計算ができなければ、チャンスさえつかめない。

 だから、人類は、教育などを通じて、社会全体で補助をしたりして「足場」を作ろうとしてきた。

 人間は環境の影響を強く受ける生き物で、そこからはだれも逃れられない。
 
 だから、前提(土台)を整えるために補助が必要になる。

 

 器械体操も、もし、安全対策や補助マットがなければ、上達することは難しい。

 補助輪(コマ)というものがこの世になければ、自転車に乗れる人はもっと少ないかもしれない。

 安全装置があるから、何百キロで走る車や電車、飛行機をたくさんの人が利用できる。

 スマホも、要件が積み重ねられて、誰でも使えるインターフェースがそなえられ、全世界の人が利用できるようになっている。

 

 

 「要件」が整うと人間は大きなことができるようになる。 
 反対に、整わないと、とてつもないハンデキャップを背負うようにもなります。
 

 人間も同様に、様々な要件を整えながら発達していきます。基礎(要件)が整っていると、その後の発達もスムーズで、トラブルにも強い。

 要件に問題があると、のちの時期にはそれを取り戻すことにはとても苦労します。

 それを「発達課題」と呼び、先達たちが、様々な仮説を打ち出してきました。

 中でも最も大切なのは、生後半年~1歳半の時期です。
 この時期に、「愛着」と呼ばれるものが形成されていきます。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 愛着とは、安心安全を身体のレベルから感じられることであり、社会的な発達の要件の「パッケージ集」とでもいうべきものです。パソコンでいえばプリインストールされたOS(オペレーションシステム)にあたります。

 

 反対に、この時期に強いストレスを受けたり、身体的な愛護が十分ではないと、愛着が形成されず、その後の発達にも支障をきたすことがわかっています。

 パソコンで例えていえば、トラウマを負っているというのは、一からパソコンを組み立てて、動くために必要なソフトを自分で一からインストールしていかないといけない状態にあるということ。
 さらに、インストールも時間がかかったり、途中で不安定になったりして何度もやり直しをしないといけないということ。
 その間、パフォーマンスが上がらず低い評価に耐えないといけない、ということ。こうしたことが支障ということです。

 

 

 

 もちろん、1歳半~2歳以降の環境も大切です。

 家庭の中が安定しているか? 親や親族が機能しているか?といったことはとても大切。

 夫婦喧嘩などはもってのほか。現在では、「面前虐待」といい虐待と認定されてしまいます。一発レッドカードでトラウマになってしまいます。
 (参考)→「夫婦げんかは一発レッドカード」 

 

 あと、よくあるのは、ストレスにはけ口に子どもに親族の愚痴を言ったり、など母親(父親)が悪口が止まらない、というケース。
 小さい頃は本人もあまり何とも思っていないように感じていますが、成長するにつれて蓄積されたダメージは計り知れないものになります。
 自信がなく、人間関係が億劫に感じられるようになります。

 

 ストレスを受けると身体の恒常性が低下しますから、外部からのストレスにも一層弱くなります。

 

 

 環境が不安定でも、人間関係がシンプルな小学校低学年まではまだよいのです。何とか乗り切れます。
 

 問題なのは、小学校高学年以降。多感で複雑な人間関係の測り方、乗り越え方を体得していくには、「安心安全」という土台が不可欠。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

  特に、
   ・人間とは解離しておかしくなる生き物であることや、ローカルルールの存在
   ・常識や社会への信頼感
   ・関係の作り方、コミュニケーションの作法
   ・公的環境の維持の仕方(礼儀やマナーといったプロトコル)
   ・常識とローカルルールの区別

  といったことを身に着けていきます。

 

 

 例えば、同級生や先輩が理不尽なことをしてきた。
 相手が急に不機嫌になった。その原因を自分にせいだとしてきた、といったようなことでも、安心安全という土台があれば、
 
 「あれ?自分のせいではないのにおかしい」
 「そうか!人間というのは、体調やストレスで、急におかしくなる生き物なのだ。」
 「相手が言っていることは理不尽だ(ローカルルールだ)」

 と直感して、理不尽さの背景を冷静にとらえて、ストレスをキャンセルすることができます。

 でも、安心安全がなければ、それができない。

 

 相手の理不尽さの原因は自分にあると勘違いして、傷ついて落ち込んでしまったりする。それどころか、相手の理不尽さに応えて、合わせてしまうようなことが起きる。

 極端な場合は、「理不尽なことは実は愛情なのだ」といった歪んだ理解をしてしまい、理不尽な行為や人に従ったり、執着したりしてしまうことにもなる。

 常識とローカルルールの区分けがうまくできなくなってしまう。

 

 常識とローカルルールとの区別化できるかどうかで、社会や人間が「信頼できる存在」と感じるか、「恐ろしいモンスター」と感じるか、大きくわかれる。
 
 

 
 本来の親や大人というのは、個人のパーソナリティを超えて、社会を流れる歴史や常識を代表する存在であり、それを公的人格として体現して、子どもを保護して伝達していくのが「機能」であると考えられる。

 ネガティブな私的情動が入ると機能不全になってしまう。
 

 

 特に、人間関係というのは、じゃれ合うようなコミュニケーションを通して、学び取る部分がある。

 そして、敬意やマナーや礼儀といった公的環境を整えるためのプロトコル(手順)を身に着けていく。
 私的環境に置かれると人間はすぐに発作を起こし、解離しておかしくなる。
 礼儀やマナーというのは、公的環境を維持して人間をおかしくさせないための装置である。

 

 礼儀というのは、固定されたものではなくて、学習され、更新されていく動的なもの。

 意味を理解して、時と場合に合わせてうまく使っていくもの。

 

 

 安定型の人であれば、こうしたことを、「安心安全」を基盤としながら、地域、学校といった場所で、身に着けていく。

 
 しかし、安心安全を奪われたり、養育環境が機能不全を起こしていると、それができなくなる。特に、相手と距離を詰めて、じゃれ合うようにコミュニケーションを学ぶことは安心安全なしにはできない。
 
 

 

 もちろん、本人のせいではありません。

 本人も知らず知らずに負った気質、体質が問題であるケースや(内的環境)、
 養育環境が問題であるために起きる(外的環境)。

 

 

 本人はむしろ、人よりも苦労をし、もがき、努力をしている。

 安心安全の足場がないために、本来であれば身に着けるはずのものが身につかない。学ぶ機会が奪われてきた。

 

 足場がなく、本来のものが身に着かない結果、他人の理不尽な言動に巻き込まれてしまい、2次的なトラウマを負ってしまったりする。

 礼儀やマナーといったプロトコルがわからず、公的環境を維持できず、
 その結果、相手が解離して、ローカルルールで呪縛してきたり、いじめられたりもする。(解離したとしても、相手が100%悪いのですが)
 

 やがて、自分にとっての社会や人間関係が「ローカルルール」そのものとなってしまう。困惑し何が問題かもわからず、自分はダメな人間だ、受け入れられない、と自分を責めてしまう。
 そして、人が恐ろしく、こわくなる。化け物のように感じるようになります。

 

 さながら、何のサポートもないまま異国の地に一人放り込まれたような状態。
 そして、誤解から差別され、土台がないから抜け出すこともできない、といった状況。さらに、社会への恐怖、対人恐怖を負ってしまい、その3次被害をケアするのにも四苦八苦で、しっちゃかめっちゃかになる。

 

 社会や人間関係は、ストレスをうまくガードしてキャンセルできれば、心地よい空間になりますが、ガードできなければ、途端にひどい所になってします。

 

 同じ国に旅行をしても、犯罪に遭えば「ひどい国」になるし、

 用心の結果、遭わずに過ごせれば「楽しかった」ともなる。

 日本のように比較的安全な国でも、ドアに鍵をかけることを知らなければ、泥棒にも入られて嫌な思いをします。防犯の対策ができていれば、「安全」と感じて安らかに過ごすことができる。

 

 環境を整備する機能が、関係構築するための手順であったり、礼儀やマナーといったプロトコルだったりする。
 基本的な、安心安全(愛着)が欠如すると、身に着ける機会を失ってとても苦労することになる。

 かつての時代であれば、「しごと」が媒介して、関係作りや公的環境を維持するためのプロトコルを身に着ける機会は多かった。
 でも消費社会である現代は、その媒介が少なく、新自由主義的な風潮もあって、個人のせいにされやすい。
 核家族化が進んだ結果、地域の様々な大人が親の機能を担ったりして、機能不全を補う共同体の支えも弱いこともあり、足場を失い、生きづらさを感じやすい。それがニートやひきこもり、といったことが目立つ原因であると考えられる。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 加えて、人間関係、とくに親との関係がさらにこじれたり、いじめに遭遇したりしていて、社会や人への恐怖が「恨み」や「不信感」となる「こじれ」を起こしてしまうと、問題はさらに難しくなります。

 身近な人のなんでもない言動まで、自分への非難として受け取ってしまう、
 「関係念慮」にさいなまれてしまう人も少なくありません。

 「関係念慮」とは、ちょっとしたことでも自分への非難や攻撃のサインとして捉えてしまうようなことです。
   何気ない表情で自分はつまらないと思われている、と感じてしまう。
   相手が少し笑顔を見せただけでバカにされた、と捉えてしまう。
   少し声が大きくなっただけで罵倒された、と受け取ってしまう。
   少し体が触れただけで暴力を振るわれた、と記憶してしまう。
  などなど、

 

 人間は、「関係」の中で守られ、回復していくのですが、「関係」が作れなくなって、さらに孤立させられてしまう。自尊心は傷つき、さらに自分を責めて追い込んでいくことになる。

 
 なぜ自分がそのようなことになっているのか訳が分からなくなるため、目に見える、「容姿」「学歴」「職歴」といったわかりやすい要因に問題の原因を帰属して考えるようにもなります。
 でも、それらは本当の原因ではないので、真の解決にはならない。
 

 さらに、サポートを受けるはずの、医師やカウンセラーといった人に対しても些細なことで不信感を持ったり、トラブルになるなどして、
 回復を支える足場さえなくなってしまいます。
 

 自分という成長の糸がもつれにもつれてしまっているような状態です。

 これも、本人に責任はなく、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶ場、足場を奪われてきたために起きていることです。

 
 安心安全という足場さえあれば、なんでもないことが、ないために身につかない。身に着ける機会が奪われ、
 それどころか、理不尽さに巻き込まれて「ローカルルール」を社会そのもののと思わされてしまうことも起きてしまうのです。

 
 「足場」がないつらさは計り知れず、
 「足場さえあれば、自分はもっと大丈夫な状態になれるはずなのに」というまっとうな直感と、でも、現実には「足場」がないために惨めな状態が続くギャップを誰も理解してもらえない。

 自分で「足場」を作ろうにも作れず、それどころか人間や世の中への不安や恐怖が襲ってきて動けなくなる。
 そんな自分の状態をうまく言葉にすることもできず、理解されず孤独を生きづらさにあえぐ、そんな状態にもがき苦しむ方は少なくありません。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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