言葉やルールが適用される状況はかなり限定的なものである。

 

 世の中には、さまざまな道徳があります。

 例えば、「全て自分の責任だと思え」といったようなこと。
 会社の経営者は全て自分の責任だと思わなければならない、街のポストが赤いのさえ自分の責任だと思え、みたいな考え方があります
 

 そうした経営者が、武勇伝のように本を書いたりして、「自分はこれで成功してきた」「駄目な社員とできる社員の違い」みたいなことを書いたりしている。
 あるいは自己啓発の本や、ポップ心理学の本にも「全ては自分の選択」みたいなことが書いてある。

 

 よりよくありたいという意識が高い人は、そんな本を読んで「たしかにそうだ」と考えてしまう。

 

 しかし、実は真に受けるとうまくいかなくなります。
 それどころか、パフォーマンスが下がってしまう。

 一瞬うまくいくような高揚感があるのですが、だんだん上手くいかなくなって苦しくなって、追い込まれる。

 そうして、決定的な瞬間を迎えます。

 それは、自分が心がけていることと真逆の評価をされてしまうことです。

 「~~さんは、自分ごととして仕事をしていない」とか、
 「コミットできていない」とか、
 「人のせいにしている」といったようなこと。

 なんで??と気が動転するようになりますが、
 トラウマを負った人にはよくある光景です。

 

 

 あるいは、プライベートな場面などでも「家族は大切にしなければならない」「人に嫌なことをされても、許すことが大切だ」
「嫌な人でもいいところを見つけなければならない」など

 それを守れば良さそうな気がしますし、当初は良いかもしれませんが、やはり、徐々にうまくいかなくなって、追い込まれていき、しまいには、反対の評価をくだされて ガーンとなってしまう。

 

 

 なぜ、このようなことが起きてしまうのでしょうか?

 それは、言葉やルールというのは本来、適用される場面がかなり限定的で、適用されるのには条件が必要だからです。

 
 クスリに置き換えればわかりやすいのですが、クスリも、適用される症状や、飲むタイミングにはかなり条件があります。

 症状に合わなければ効果がありませんし、飲みすぎれば副作用が起きますし、タイミングを間違えば効きが悪くなります。

 どんな人にもどんな状況にも効果がある万能薬などは存在しません。

 

 

 言葉やルールも同様です。
 適応される症状や状況はかなり限られる。

 
 例えば、「全て自分の責任だと思え」というのも、あくまで、それは、そう思ったほうが効果が出る場面だからそれを用いるのであって、絶対のルールでもなんでも無い。

 「許し」などというのも、それが効果を発揮する場面でのみ使うのであって、いつもではない。

 それどころかそれぞれ副作用が出る危険性のある要注意の言葉です。

さらに、教条的に守っていることを突かれて心理的な支配の道具として悪用されることもある。
 

 

 

 先日も社員に厳しいと有名な経営者が記者会見で、目標未達になったのは部下が悪いからだ、とすごく「言い訳」をしていました。

 「あれ?言い訳せずに必ず成果を出すんじゃなかったの??」というところですが、当人は、なんの疑問も持っていません。

 場面場面で、自分に都合よく使っているだけで、パフォーマンスが上がればそれでいい、ということなのかもしれません。巻き込まれる社員の側は大変ですが。

 「あなた、以前、言っていたことと違うじゃないの?」と言われても、
 「だって、状況や場面が違うんだから違って当然でしょ?逆にあなたはなんでいつも同じなの?」という感じです。

 これは、あるいみ健康な人がもつ感覚です。

 言葉やルールがどんな場面にも遍く適用されるというのは、トラウマを負った方が持つ特徴と言えます。

 さらに、いい加減な他者を反面教師にしているために、自分はそうはならない、なりたくないとさらに真面目にルールを徹底しようとしてしまい、柔軟性を失ってしまう。

(参考)→「“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 

 

 キリストが言葉が方便であることを言っていたといったように、言葉やルールとは、適用される状況はかなり限定的であり、本来融通無碍に使うものだということも、言語化されていない暗黙のルールかもしれません。

(参考)→「トラウマ的環境によって、裏ルールを身に着けるための足場を失ってしまう

 

 

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 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

暗黙のしくみを知るためには、物事や情報を基礎、応用と分けて考える

 

 スポーツなどでは、プロが行っていることを初心者がそのままやると正しい方法身につかない、ということがあります。

 特にプロがやっていることは、見た目には「基礎」とは逆に見えたりします。

 プロは基礎がもちろんしっかりあるわけですが、試合などで行っているのは、基礎に基づく応用だったりします。 

 応用として展開されることは、ときに基礎と真反対に見えます。

 

 

 これが私たちが、生きづらさを克服する際にも当てはまります。

 例えば、人との関わりを回復させるためには、心を開く のではなく、しっかりと閉じなければいけません。 
 

 他人との区別をしっかりと付けて、境界線を明確にする必要がある。

 社交的な人ほど、実は心が閉じています。

 統合失調症の方は、境界線が薄く、それゆえに幻聴などに悩むと言われますが、ある患者さんが、「この病院の中で誰が一番心が閉じていますか?」と聞かれた際に、いちばん人当たりのいい看護婦さんの名前を挙げた、というエピソードを目にしたことがあります。

 

 

 家と同じで、外出するためにはしっかりと鍵がかけられていなければならない。

 しかし、一見するとこれが逆に見えてしまいます。

 社交的になるためには、心を開かなければならない、
 社交的な人は心が開いている、と。

 
 全く逆です。

 しっかりと閉じる習慣ができているから、社交的にすることができる。

 
 社交とは、心を閉じるという基礎ができていてはじめてできる応用であるということです。

 

 

 トラウマを負うと、こうした物事の段階がわからなくなってしまいます。
 すべて一元的で、「どちらが正しいか」と考えてします。

(参考)→「トラウマを負うと一元的価値観になる

 

 ほとんどの場合、基礎、応用と分けて考えれば、両立するものだったりする。

 しかし、基礎というのは暗黙のしくみとしてあり、言語化しにくいため言葉にされることがありません。
 よほど注意深く観察されなければ言葉にできません。

 いっぽうで、応用は言葉にしやすい。見たままに言葉にすればいいわけですから。

  
 本屋に並ぶようなポップ心理学や自己啓発の本の多くは、「応用」が書かれています。

 ですから、いきなり、「応用」から入ってしまい、その気になっているうちはうまくいきますが、「基礎」がないために続かなくなって、それどころか、むしろ調子を崩す、ということが起きてしまうのです。

 
 物事は、基礎と応用とを分けてみれば、世の中の暗黙のしくみがわかるようになります。
 

 

 

 ↓「基礎」を書いてみました。

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言葉はスルーしてはじめて、命が宿る

 

 情報化社会といわれるように、パソコン、スマホ、などIOT機器は身近になりました。

 通信では、パケットなど無機質な情報単位でやり取りをしています。

 パケットロスなどがなく、できるだけ正確にやり取りが出来ることが正確な通信としては求められます。

 そんな情報観からすれば、言葉も正確に受け取ることが必要に思えてきます。

人の言葉もロスがなく、そのまま受け取らなければいけないのだ、と。

 

 

 しかし、人間が使う言葉というのはそういうものではありません。

 
 人間の使う言葉とはナマモノで、そこにはいろいろなバイキンもついている、歪みもあるものです。

 だから、言葉を受け取るためには必ず“選り分け”や“調理”が必要。

 しかも、言葉を“生きて”受け取るためには、受け手の側も対等な位置で、言葉に対して能動的に関わることが必要になります。

 
 能動的に、言葉を選別し、毒を抜き、抜いた言葉に解釈を与え、自分の文脈の中で位置づけを与えて受け取る。

 こうした事があって、初めて意味(命)が宿る。

 反対に、言葉を正確受け取ろうとすることは、口を開けて、生の食材を口に突っ込んで、そのまま飲み込むようなものです。
 
 そうした行為は、「食材が死んでしまう」と表現されることになるかもしれません。

 調理するということが、食材を活かすということと似ていますね。
 

 

 対話(ダイアローグ)という考え方や効用が近年、注目されていますが、対話とは、話し手=受け手双方が相手を尊重しながら対等にやり取りするもの。

 そこでは、互いに言葉を解釈して応答し合います。

 言葉はどんどん変成していく。
  
 そして、そんな対話を用いたセラピーはとても高い効果があることも知られています。
 それは言葉に命が宿るから、と考えられます。

 言葉に命が宿るとは、言葉が公的な領域のものへと昇華されるということでもあります。
(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 そうすることで、社会的な生き物としての私たちに言葉を通じて命が伝えられるようになるのです。

 

 

 反対に、一対一の関係で、相手が自分の言葉をそのまま飲み込め!と要求することは、言葉を殺すことであり、飲み込んだ相手も毒気に当てられて、その人らしさは失われてしまうことになるのです。

 そうした状態が「生きづらい」ということであったり、「トラウマ」ということのもう一つの説明かもしれません。

 トラウマを負うとは、他人の言葉をそのまま飲み込んでしまった状態である、とも言えるのです。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服

 

 今回の本で果たそうとしているのは、そうした言葉の膨張した価値を一旦ゼロにしようというもの。

 漠然と流布している「人の言葉を聞くのは大切だ」「言葉には価値がある」という言説をまずは徹底的に疑ってみようということです。
 おそらくそれらは単なる表のルールか、ローカルルールでしかないものです。

 その上で、私たち中心で言葉に命を宿すために必要なことはなにか?ということを具体的に考察しています。

 そんな、“言葉”を切り口にしてトラウマの呪縛から抜け出すのための本でもあります。

 

 

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Doingとして世の中が見えるようになると、趣味も仕事も勉強でも、主権がもてる。

 

 筆者の個人的な話ですが、正月に親戚の子どもと将棋をしていたら、ふと、また暇なときに将棋をやるのもいいかも、と思い、スマホのアプリや本を買ったりしていました。

 ロールプレイングゲームみたいに時間がかかるものは大変だし、手軽にできるものとしてあらためて将棋はいいかも、なんていうことからです。

 

 もともとは、筆者は将棋が苦手で、いろんな手を読んだり、考えたりすると頭が疲れるし、うまくできないと自分の劣等感も刺激されるし、ということで、「自分は向いていない」と思っていました。

 

 特に、小学校の頃は、将棋をしても、自分勝手に駒を動かしては、うまい相手に取られる。動かしたいところには敵の駒が効いていて動かせない。角や飛車の筋を見逃す、嫌になる、ということの繰り返しだったと思います。

 

 本来、将棋も手筋とか、定跡といわれるものがあって、つまりはスポーツなど他の趣味と同様に、基礎があって、その基礎のもとに行うものです。
 ゴルフなどでも上達にはものすごく時間とお金がかかります。

 
 よほど天才でもなければ、いきなりやってうまくできるものではありません。

 人間はいろいろなことを同時には検討できませんから、ある程度決まった手順を体で覚えて、思考を省略することが普通です。 
 

 

 ただ、子供の頃の私は、将棋を「自分が頭が良いかを証明するもの」みたいなふうに考えていた部分があって、なにも基礎を身に着けないまま、将棋をやって、うまく行かないと「ああ、自分はアタマが悪いんだ・・」みたいに捉えて、自己否定的になっていたように思います。
 

 

 将棋というのは、あくまでDoing(行為) の世界のもの、Doing(行為) の世界で基礎を見つけて、行うゲームでしかありません。

 それを、Being(存在、才能)の証明みたいにとらえて、ドン・キホーテのようにむかっていって頓死する。

 基礎を身につけるのも、Beingの証明の邪魔になる、くらいに素朴に捉えていたのかもしれません。

 勉強も似たところがあって、算数の問題が解けないと、自分の Being(存在、才能)の否定と捉えて、嫌になる。

 

 勉強も、本来は Doing(行為) の世界です。
 極端に言えば、数学オリンピックに出るのであれば才能というBeingの世界があるかもしれませんが、東大に入るという段階まで、つまり入試という世界であればすべて答えや解き方も明らかで、あくまでDoingの世界なのです。  

 

 安全な環境が整っていれば、勉強も自然とできるのだとおもいます。
 なぜなら、目の前の失敗をBeing に結び付けず、Doingとして淡々とトライ・アンド・エラーができますし、「答えはかならずある」という安心安全のなかで、対応できるからです。
 これが「愛着」というものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 しかし、トラウマを負っていて、愛着が不安定だとこうはいかない。
 勉強の問題が、なにやら落ち着かない、自分のBeing(存在)にバッテンを付けてくる審判のような気がして嫌になる。
 「答えがかならずある」という感じがしない。
 問題と答えの間のつながりが、魔術のように感じられてしまって、自分にだけ意地悪されて正解の位置が変わるような感じさえする。
 

 そうして嫌になる、勉強が嫌いになる。という感じがします。

 

 本来は、あくまでDoingの世界ですから、淡々とすれば必ず結果が出るものです。

 

 しかも、日本のお勉強の業界は、戦後だけでも80年近い歴史があります。
 その間延べ何千万人という人が取り組んできて、解法でも、勉強法でもノウハウが蓄積されているので、求めれば必ず自分にあった勉強法が得られます。

 

 筆者が昔、高校3年の担任の先生に言われた言葉で印象に残っているものがあります。
 それは、3者面談のときに、「努力がわかりやすく結果に出るのは受験の時くらいですからね」といった言葉でした。

 話の流れで何気なく言った言葉でしたが、強く印象に残っています。

 確かに、社会に出ると、将棋や勉強と違って、範囲も答えも決まっていないので、努力が結果となって出るかどうかはわからない。
 勉強は範囲や答えが決まっているのだから、今にして思えばこれほど結果が出やすいものはありません。

 

 勉強ができるかどうかは、早くそのことに気がつけるかだけ、いいかえれば、BeingとDoingの切り離しが早々にできているかどうか、ではないかと思います。
 言い切ってしまえば、頭の善し悪しは入試レベルではほぼ関係ありません。

 

 さらに、人生2,3周回って今思うのは、社会や仕事においても、勉強や将棋と違って範囲や条件は圧倒的に広くなりますが、それでも、Doingとして捉えられる状態になっていれば、必ず答えはあるでしょうし、ノウハウとして考えることはできるのだろうと思います。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 日本の経営コンサルタントの草分けとも言える大前研一という人がいますが、実は、コンサルタントになった当初は活躍できず、どうしたものかと思ったいたら、どうやら、パターンがあることに気がついて、過去の事例を社内の倉庫で読み漁って、コンサルタントとしての方法を身に着けた、ということを読んだことがあります。

 すごく頭のいいとされる人ですが、そういう人でも、種を明かすと頭の良さで仕事をしているわけではなくて、仕事をDoingとして捉えて、手筋や定跡を身につけていた、ということです。

 

 近年、話題のAIなんかも、コンピュータの能力のみによってではなく、膨大なデータをパターン化して予測しているわけですから。
 AIは、世の中を究極にDoing化するものといえます。
 

 

 仕事でうまく行かなかったり、職場で問題が生じるのは、Doing仕事に Being が乗っかかってしまっていたり、ハラスメントによって、Being とDoing が一体化させられたりということから来ます。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 冒頭に筆者の将棋についてのエピソードを書きましたが、また将棋をやってみてもいいかも?と以前とは違う感覚になったのも、筆者の中で、Being と Doing が切り離されてきたためかもしれません。
 目の前にあるものがDoing として捉えられ、失敗してもBeingには影響がない。
 Doing として世の中が見えるようになると、自分でコントロール可能な、自分に主権のある感覚を感じられるようになります。
 
 

 

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