人の言葉が戯言だと、何も信じられなくなるのでは?という不安を持つかもしれません。
その不安自体がローカルルールなのですが、これについては、以前、「代表」という観点で不安になる必要がない、ということをまとめてみました。
(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能」
「言葉が戯言だと不安だ」というのは、実は普通の人からするとかなり変な感覚だったりします。
いままで神のように奉っていた人の言葉を相対化して、解体した先になにがあるのか?
難しい理屈を言わなくても普通の人は、「自分でわかるでしょ?」という感覚なのです。
(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」
普通の人は、基本的に自分に中心軸があって、そこから判断できているのです。ローカルルールを離れ、徐々にそうした感覚に着地していく必要があります。
そのために、戯言だと気づくことの意味についてもうひとつ別のポイントも知っておくことは有益なことです。
その意味、ポイントとはなにかといえば、戯言だとわかることで「世界に対する主権、主導権が自分に戻る」ということです。
トラウマを負う、というのは、人の言葉を神からの託宣さながらに「事実そのもの」として受け取っているという状態です。
言葉に真剣に耳を傾け、深刻に受け止めて、それに対応する。
「あなたは~~な人ね」「~~は~~だ」と言われたら、事実そうなのだと受け取ってしまう。
言葉が「完成した事実」「完成品」として、自分に突きつけられる、といった感覚です。
戯言に過ぎない他人の言葉が完成品だと思わされ、事実そのものである言葉に対して何か手を加えられる権限も力も奪われているような状態です。
「言葉は事実そのもの」なのだから、手を加えたら歪曲であり、そのまま真に受けることが誠実なのだ、と思わされている。
(参考)→「真の客観とは何か?」
世界に対する主導権が自分にない、常に人の口から出る言葉に振り回されているような状態です。
対して、人の言葉が戯言だというのは、バラバラの部品、素材が目の前に置かれるという感覚。
バラバラの素材ですから、自分で吟味、判断し、都合よく利用することができる。自分で組み立てることができる。
つまり、言葉が戯言だと気づくことは、世界に対する主権、主導権が自分に宿るということです。
こうしたことは通常は、発達の過程でなされるものです。
人間は発達の過程で、神のようであった親のイメージが等身大となり、自我のサイズも等身大となる。
そして、反抗期で親の言葉を戯言として相対化して、自他の区別が明確になり、社会に出ていく。
トラウマを負うような理不尽な環境では、こうした健全な発達過程が阻害されていた。
親があれこれと言い訳をして子どもに対する主権を手放さずにいた。
「私の言葉を真実として聞け!」と強制し、それに子どもも真面目に応えていた。
でも、それは違います。まさにローカルルールそのもの。
言葉が戯言だとわかるというのは、主権を自分のものとして、自他の区別を明確にすること。
「言葉が戯言だと不安だ」などと不安に感じる必要などはまったくない。
普通の人からしたら「自分に主権が戻るのに、なんで不安なわけ?」という感覚です。
不安に感じる場合は、親のローカルルールを守らされていないか、チェックする必要があります。
(参考)→「すべてが戯れ言なら、何も信じられない?!」
ニセの神様がもっていた言葉を操る権利を自分に取り戻すだけ。
人間の言葉は戯言であり、何の意味もありません。言葉は、単なる道具です。
言葉が戯言だと知るというのは、言葉を道具、部品として自由に組み立て、戯れに遊び、自分の世界を作っていく、ということなのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
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