これまで書いてきましたように、 人の言っていることがすべて戯れ言 です。
(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。」
特にプライベート(私的な領域)な場面では100%戯れ言と考えて間違いない。
公的環境では、心身のコンディションが良ければ、人の発言は信じられる余地があります。
それは公的な役割をまとって、“普遍的な何か”を代表しているから。
「すべてが戯れ言なら、何も信じられなくなってしまうのでは?!」 と不安になる方もいらっしゃいます。
「医師やカウンセラーの言っていることも戯れ言ということになる」
と。
たしかにそうです。
すべてが戯れ言というなら、そうなります。
治療者が「私の言うことは正しいですよ」といえば、宗教になってしまいます。そんな事を言う人の言葉は信じてはいけない。
このブログの言葉でさえ、戯れ言です。
本に書いてあることも戯れ言です。
ローカルルールから逃れるために、自分の感覚、常識に立ち戻るのではなく、スピリチュアルなものやカリスマセラピストと言った、別のローカルルールにただ移ってしまう人も多い。
(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する」
健全な成長を遂げた人というのは、反抗期を経て、世界というのは等身大なのだ、でもなにやら普遍的な何かというのがあることもなんとなく感じています。
そのために、目の前の情報を真に受けたりはしません。特に人の言葉は。カリスマなんて言うのは胡散臭いと感じる。
なぜなら、人は等身大だと知っている。言葉が戯れ言と知っているから。
では、「この世には正しいものはなく、すべては無意味だ」といって虚無的になるかといえば、そうではありません。
自分に軸を持ち、普遍的な何かを感じて生きていくことができる。
言葉を吟味して、信用度を体感で測り、専門的な知見などをうまく利用できたりする。人の意見の背後にある普遍的な何かを感じ取ったりすることができる。
特別なことではなく、普通の生き方です。
トラウマなどで悩んでいない人に、この話をすれば、おそらく
「そんなの自分でチェックして、判断すればいいじゃん」「なんとなくわかるでしょ?」とかえってきます。
もちろん、絶対の正しい判断というものはありませんが、生きていくのに支障のないレベルで、真偽を分けることができる。
(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」
一旦全てを疑うことを「方法的懐疑」といいます。
あくまで、「方法的(手順として行うこと)」なので、その手順が終わったら、次は信用できるものを受け入れることになる。
これは普通のことです。
「全ては戯れ言」と聞いて、虚無的になったり、不安になったりするのは、トラウマを負っているケースに多い。
これは、もちろん、「寄る辺がなくなるのでは?」「ローカルルールとはいえ、それがなくなったあとに信頼に足る世界はあるの?」という不安のためであることがまず挙げられます。
安心安全がなく、世の中が自分にとって危険と感じられている以上、まず疑って、吟味して、なんて悠長なことはできない。
トラウマの処理で頭がいっぱいですから、「これ以上負担になるような考え事はしたくない」のです。
とにかく信じられるものを、ということで「絶対のもの」を探そうとしています。
その結果、ローカルルールというニセモノを掴まされてしまう。
そして、次には、
ローカルルールがもたらすニセの相対主義に陥っているためでもあります。
ニセの相対主義とは何か? といえば、それは隠れた呪縛のことです。
つまり、「すべてを相対化する」といいながら、ローカルルール自身は「絶対化」している。
全ては戯れ言なんでしょ、と言い、外部のものすべてを否定したまではいいですが、そのまま「自分の感覚も信じられない」と自己も否定し、不安になった暁に、「結局、これしか信じられない」と、これまで慣れ親しんだローカルルールを絶対化してしまうのです。
具体的に言えば、世間(外)にある様々な知恵や自分の感覚は相対化(否定)したあとに、内面化した親の教えや言葉は絶対化してしまう。
親から「あなたはダメな人間だ」「良い子であれ」という価値観は絶対化してしまう、というようなことです。
迷ったときは、
「相対化の果に、結局ローカルルールに戻っていないか?」をチェックする必要があります。
方法的懐疑(すべてを戯言だといったん否定し)のあとに、自分自身の軸、常識に戻ることができているか?
を見ることがとても大事です。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
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