「人の話を聞くことは大切」というのは本当なのか?

 

 前回、本のタイトル案の中で、

 言葉をスルーすれば、<世界>が変わる   といった案を上げていました。

 
 言葉をスルーするというと、ついつい、コミュニケーションの問題であると考えます。

 対面する人間や言葉に対して、いかに格闘するか?といったように捉えがちです。

 しかし、そう捉えていると、だいたいうまくいかずに、失敗して自分を責めてしまうようになります。

 言葉をスルーするというのは、コミュニケーションの問題ではなく、構造の問題、世界観の問題です。

 

 前回の記事でも取り上げましたが、まず、「人間」というものを立派なものだと考えていてはその人間が発する言葉をスルーするなんてできるわけがありません。

(参考)→「人間の“実際”とはなにか?

 そして、言葉そのものについても、なにか真実を代弁しているかのような、意味のあるものと捉えていたのではスルーなんて夢のまた夢。

 ここで大事なのは、捉え方の問題、意識の問題ということではない、ということです。

 人間や言葉をどう捉えるか?というのは、物理的な現実の問題です。
 
 
 いろいろな視点はありながらも、素材としての現実というのは、齟齬なく確認していくことができます。

 

 
 言葉というものの価値、というのは、吟味されることなく膨張してしまっているのではないか?というのが筆者の問題意識です。

 
 クライアントさんを見ていてもそうですが、膨張した言葉の価値に怯えてしまっているような方もいらっしゃいます。

 
 他人の言葉がなにか神のお告げのように感じている。

 そして、そうした風潮に対して個人の力では抗うことが難しい。

 なぜなら、「人の話を聞くことは大切」というのは幼少期から社会の中で散々刷り込まれてきたからです。

 

 

 さらに、ここにここ20年ほど普及してきたカウンセリングやコーチングといったものの心理主義や「言葉は現実化する」といったオカルトな言説がもっともらしく流行ったりすることで、ますます言葉は怪物のような存在になってしまいました。

 世の中には「表のルール」と「暗黙のルール」があります、現実的な調整が入らない表のルールは私たちにとって生きづらさを産む毒にもなります。
 「人の話を聞くことは大切」というのは、「表のルール」です。

 その生きづらさを迂回するために、代替策が登場します。それが上記の「言葉は現実化する」といったことなどです。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する」 

 

 

 しかし、代替策は、一時的な癒やしとしては良いのですが、しばらくするとその副作用で苦しむようにもなります。

 こうした「表のルール」と代替策とで二重に拘束された中で、ハラスメントに巻き込もうとする他者の言葉も飛んできますから、多重に縛られた中で皆様は生きているような状態になります。

 そんな中で、単にコミュニケーション術として「言葉をスルーするしよう」「気にしないようにしよう」なんてしてみてもうまくいくはずがありません。

 こうした状況を打破するためには、言葉の“実際”とはなにか?を知る必要があります。

 

 そんな、言葉の“実際”についても書かせていただいています。

 

 

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人間の“実際”とはなにか?

 

・自分をつくるスルースキル
 ~「人間」と「言葉」の実際を知ると、人生が変わる~

・「人間」と「言葉」はすべてザレゴトである

・言葉をスルーすれば、<世界>が変わる

 

 これは、自分で考えていた本のタイトル案の一部です。

 

 本の内容を端的に表し、かつ、手にとってもらえるタイトルを、と思って休みの日も本屋を回りながら、アイデアをひねり出そうとしていたんですが、結果を言えば、これだ!ということには至りませんでした・・・・

 
 ネーミングとか、タイトルを考えるっていうのは、あらためてなかなか難しいですね。

 ただ、ひねり出したタイトル案には、本のテーマは現れています。

 

 

 「人間」と「言葉」の実際を知る となっていますように、まずは、等身大な“人間”っていうのはどんな存在なの?っていうことを明らかにしたかった、ということがあります。

 対人関係の悩みのほとんどといっていいのが、人間が怖い、ということに関係するのではないか、と思います。

 他人が過度に大きく見えてしまっている。

 

 とても立派なものに見えていて、反対に、自分は幼く、弱く、おかしくて、ダメなものと捉えている。

 頭ではそうではないとわかっていても、どうしても、そうではないと思えない。

 他人はとてもしっかりしてて、何かの真実を捉えていて、それを自分に気になる言葉として“予言”してくる。

そして、その予言に縛られるような感覚がして、身動きが取れなくなる。

 さらに、余計に他人が怖くなる、というような悪循環。

 

 

 一方、自分の言葉は他人には届かない。

 なぜなら、自分を取り巻く他人の言葉たちを正しく捉えられているという自信がなく、正確に、客観的にとらえられているとは思えていないので、
 自分が自信を持って何かをいうことが出来ないのです。

 
 まさに、自分の「言葉」が奪われているような状態。
 

 こういう状態を破るためには、まず、人間ってどんなものか、どんな条件で成り立っているのか?というのを、一度整理してお伝えしたい、ということがありました。

 

 カウンセリングでは、セッションの中でこうしたことを個別に打ち破っていくことをしているのですが、各個撃破では及ぶ範囲に限りがありますから、臨床の経験からわかったことは集合知として、あたかも集団免疫となるように書籍にしてお伝えしたいということがありました。

 もちろん、私の見解でしかなく、仮説なのですが、それを臨床心理はもちろん、歴史学や社会学などの知見の力も借りて、わかりやすく、皆様が抵抗できる視点を提示しようというのが、今回の本の狙いの一つです。

 

 簡単に言えば、人間っていうのは、偉人も人格者もすべての人が弱いもので、エヴァンゲリオンの機体ではありませんが、まともでいられるのはごく限られた条件のもとでしかない。ちょっと条件が狂うとおかしくなってしまうもの。

 そんな人間が言葉を発しているわけですから、そんな言葉をそのまま受け取っていいわけがない。

 

 おかしくなるから怖い、というのではなく、それがわかれば、「ああ、そんなものだったのか」と怖さが下がってくる。

 怖いというよりは、面倒、という感じにスライドしていく。
  
 その面倒さに愛着がブレンドされると、人間が好き、という感覚がなんとなく分かるようになってくる。

 

 ここには、よくあるヒューマニズムなどにある「人間って素晴らしいものなんだ、本来ひとつなんだ」といったような理想はどこにもありません。

 (そんな理想から入っても、なんの結果も得られず、結局自分がしんどくなって終わるだけです。)

 

 みんな違う、みんな弱い、いろいろと面倒くさい、でもそれもご愛嬌かな、というような、ただ現実だけがある。

 

 以前も書きましたが、現実の力はとても強く、一度積み上がれば、容易には崩れることがありません。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「防御壁」

 

 “実際”(現実)を知るというのは、私たちが悩みから抜け出し自分を作るための土台となってくれるものです。
 
 
 そんな、人間の“実際”について書いてみました。

 

 

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つねに常識に足場を置く

 

 年末に、M-1グランプリが開催されていました。 
 このブログでも、よく、お笑いのツッコミのようにアウトプットする感覚は参考になるとお伝えしてきました。

(参考)→「アウトプットする習慣をつける

 

 お笑いの中でも、特に漫才は巻き込んでくる相手とそれに対してツッコんで距離感を守る関係をデフォルメしたようなものでわかりやすいです。

 ボケは、ボケのおかしな世界、狂気の世界を作り出して笑いを誘います。

 ツッコミも、汗を書きながら振り回されます。

 しかし、振り回されても、その世界に一緒に呑み込まれたり、巻き込まれることはありません。

 
 常に、常識の側に足を置きながら、突っ込んでいく。

 そこには対等に関与しながらも、相手への暖かさがある。
 

 落語でも、ツッコミみたいな存在がいますが、「何いってんだい、あんた」「朝からボケてしまって、寝言は夢の中だけにしておくれよ」「も~、しようがないね~」というような感じで(有限の)愛想が尽きない範囲で付き合う。常識に足場を置いています。

 愛想が尽きたら、関係は終わりになります。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”」 

 

 

 反対に巻き込まれたり、イネーブリングと言う状態はどういったものか、といえば、相手の世界に足場を置いてしまう。相手の異常さを先回りして忖度して、秘密を飲み込んでしまう、というものです。

(参考)→「忖度とはなにか? 相手の負の世界を飲み込んでしまう。黙ってしまう。」  

 

 

 
 相手の狂気の世界を取り込んで、ズーンと重くなってしまう。

 そして、無限に相手について行ってしまう。

 口が重くなって、思考も暗くなってしまう。

 もし、漫才においてそんな事になってしまったら、漫才になりません。

 

 もっといえば、漫才は応答し合う、「対話(ダイアローグ)」です。
 それぞれが応答し合いながら高めあって、クライマックス(オチ)に持っていきます。

 

 
 一方、トラウマの世界、ローカルルールの世界は、「独話(モノローグ)」です。
 仮に、複数人がいたとしても、ある人物のトラウマ、ローカルルールに支配されて、その他の人物もそれを飲み込んでしまって、単一の言葉、モノローグになってしまう。

 自分本来の言葉が失われて、そこには闇以外に何も無くなってしまう。

 

 トラウマがあると、自分がよって立つ足場に自信がない。自分こそおかしいのではないか?と疑う必要のないことを疑ってしまう。そんなことは必要がありません。

(参考)→「足場もないのにすべてを疑おうとする~「自分を疑う」はローカルルール

 

 

 

 常識の世界というのは、多元的多様である、常に複数の声(ポリフォニー)で成り立っているのが特徴です。

 そのため、いろいろな人や考え、感情を包摂する力があります。

 私たちは、つねにそこに足場を置く必要があります。

 

 ユーモアというのはセラピーにおいても大切だとされ、本来の自分に戻るきっかけになるものですが、バラエティを見ながら、常識に足場を置いているか?相手の世界を飲み込んでいないか?と上記のような要素を自分に当てはめてみると、自分の状況のおかしさに気づくきっかけになるかもしれません。

 

 

 

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もっとセルフィッシュ(我)であって良い

 

 少し前に本を読んでいると、昔、漫画家の水木しげるの事務所で働いていたことがある人が、水木しげるについてのエピソードを語っているのを目にしました。

 その方いわく、水木しげるは妖怪などは全く信じていなかったそうです。

 漫画家になってからも、散歩で墓地などにいくと、途中で墓石に立ち小便をして帰ってくるような感じだったそうです。

 バチが当たるとかそんな事は全く考えていなかったということですね。

 
 極端な例かもしれませんが、でも、俗の世界で生きる人間としては、そのくらいの感覚はまっとうではないかな、と思います。

 

 それに引き換え、神社に入るときは鳥居を迂回したり、参拝の仕方を妙に気にしたり、いつからこんな事を気にするようになったのだ、と筆者もふと自分を振り返ってみました。

 トラウマを負っていると、自分の努力が空回りした結果、スピリチュアルなルートで迂回しようとするようになる、ということはこれまでに触れたことがあります。

 あまりにもうまくいかなくなると、そんなものにも頼りたくなる、という感覚です。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 聖の領域というのは、本来は社会の周縁にあるものです。
 だから、日常では必要がない。

 そこに頼ってみても、うまく機能しない。
 頼ると裏切られたりする。

 聖の領域は、祭りのときだけか、命の危機とか、にっちもさっちもいかない、というときや最晩年に関わるようなもの。
 (水木しげるというと、太平洋戦争では南方に送られて、そこでマラリアに罹ってジャングルをさまよった挙げ句、ぬり壁みたいなものに出会ったエピソードを自伝で見たことがありますが、そんな経験をしても、スピリチュアルな方向には行かなかったということですね。)

 

 日常では、自分というものでログインして生きていくのですから、水木しげるほど極端ではないけども、妖怪や神様なんているものか、自分こそ主人公だ、というくらいのある意味どこか罰当たりなセルフィッシュ(自己中心的、わがまま)な感覚でちょうどよくて、そのくらいでないと、うまく自分というものは立ち上がらない。

 もちろん、そのセルフィッシュさは、発達の過程で成熟していきます。
 特に、「しごと」をすることで、社会の中での「位置と役割」を得ることで、丸くなって、公的人格(にんげん)となっていきます。
(参考)本当の自分は、「公的人格」の中にある」 

 

 セルフィッシュな私的な人間(我)のままでは人としては完成していないのですが、素材としては必要ということです。

(参考)→「「私的な領域」は「公的な領域」のエネルギー源

 

 トラウマを負っていると、良い人間という“側(がわ)”“殻”だけをもってきて生きていますが、その中を埋めるセルフィッシュな素材(我)がないために、うまくログインができないまま生きているのです。
 (それどころか、他人の我(ローカルルール)を自分に詰め込んで、膨張して生きていたりします。)

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 俗の世界で生きているのであれば、仮にスピリチュアルなものを利用する際も、戯れとしてかあるいは功利主義的に利用するものです。

 

 

 事実、日本史などを見てもそうで、邪馬台国からヤマト王権や律令国家、王朝国家、武家政権などなど、スピリチュアルなものは、功利主義的に選別されてきました。
  
 力のない呪術や宗教はどんどんと力を失って、捨てられていったのです。

 ある時期の(室町時代頃?)そうした転換点を描いた作品が宮崎駿の「もののけ姫」だと言われています。
 力のない古い神様は人間に殺されていったのです。

 

 

 実際の社会で役に立たなければ廃れていく。人間が主体でシビアに選別がなされてきていく。
 現代でも、それが進んでいて、傍からは盛んに見えるイスラム圏でさえ宗教の力はいまも低下していっているそうです。
 
 
 俗に生きる人間としてはそれで良くて、自分を主体にして、「役に立つの?どうなの?」という感覚が必要です。

(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる

 

 例えば、手首にパワーストーンをつけたりしてもよいですが、それに負けて、恐れを持ってつけているのではなく、役に立つと自分で選んだからつけているんだ、という主体的な感覚が大切。役に立たなければあっさり捨てる。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」 

 

 水木しげるみたいに、墓に立ち小便すると聞くと、トラウマを負った人間からすると、「バチが当たるかも?」とか、「嫌なものを引き寄せたらどうしよう?」とか、「そんなところで立ち小便をする人間にだけはなりたくない」とか思ったりしてしまいます。

 

 しかし、私たちは、目に見えないものの力を恐れすぎています。
俗の中にもそこはかとなく聖を感じるといった健全なあり方ではなく、ただただそれに負けている。振り回されている。

 そのことが、まわりまわって、人の言葉に振り回されて、真に受けて、人にやられるということになるのです。
 以前の記事ではないですが、失礼なことをされたら「殴ろうか?」でよい。

 「殴ろうか?」というのと、立ち小便することには根底でどこか通じるものがあります。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 目に見えないものを感じたり、キレイに生きようとしたりというのは、人生のずーっと先の話で、本来私たちは、もっともっとセルフィッシュ(自己中心的、わがまま)で良いのです。

 

 

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