私たちが重いものを持ち上げるとき、自分の体を支える足場が必要になります。
足場がグラグラしていたら持ち上げることができません。
宇宙のように無重力だと、力を入れると自分の体自体が浮いてしまうことになってしまいます。
それと同様に、私たちが生きていく上でも足場が必要になります。とくに何かを考えたりするときは。
西洋(欧州大陸)の哲学とは、人間は真理を認識できるか、人間の認識とはどこまで可能なのか?を主要なテーマにしてきました。
近世ごろからキリスト教が明らかな限界を迎えて、代わりに「世の中はどうなっているのか?(神はいるのか?)」を人間の認識(理性)を使って知ろうとしたのです。
そこで大切になるのは、はじめに私たちの認識(理性)はどこまで正しいのか?を疑う(批判)ということ。
もしかしたら、今この現実は夢かもしれない。幻覚かもしれない。その恐れがあるわけです。
夢だとしたら、認識したものも幻となり、考えたことも意味がなくなってしまいます。
そこで哲学者たちは、人間はどこまで疑えるのか?(可疑性)を検討しました。
デカルトの「我思う故に我あり」というのもその一つで、「徹底的に疑っても、思っている私まで疑ったら疑うことさえ成立しなくなる。」ということ。
たとえ、夢であったとしても、この思っている私、ということを疑うことは意味がない、としました。
カントは人間の理性の限界を示しました。
現象学のフッサールなどもどこまで疑ってよいのかを研究していました。
「私たちが物事を認識する志向性自体については疑うことは意味がない」としたのです。
そうして、思考の「底(足場)」を定めてから、哲学を組み立てていきました。
ちょっと難しそうな話からスタートしましたが、私たちが疑うためには「足場」が必要です。足場がなければ疑えません。
日常に生きる私たちは哲学者ではありませんから、そもそも深く疑う必要はありません。自分の存在は是認、肯定した上で具体的な行為や思考のみを疑います。これが健康な状態です。
しかし、トラウマを負った人は、疑いえないもの、疑う必要のないものまで疑わされてしまっている。
それは、「自分」というもの。
「自分はそもそもおかしいのではないか?」とか、「自分の考えは異常なのでは?」といったような感覚にとらわれさせられてしまっている。
これは養育環境で理不尽なコミュニケーションを繰り返された結果です。
例えば、人からなにか気になることを言われたら、自分の存在までさかのぼって疑わされてしまう。
仕事でちょっと失敗したら、自分の存在や前提まで疑う。
そうやって、疑ってすべてを相対化して焼け野原のようになるまで疑わされてしまう。
その結果、世の中を見通す最高の哲学者になれればよいのですが、そういうわけでもない。
徹底した相対化とは、実は暗黙の前提の絶対化を意味します。
つまり、焼け野原を支配しているのは実はローカルルールということです。
何もない状態には人間は耐えられませんから、自分を疑って無になる、のではなく、実はおかしなものを絶対化してしまう。
自分を疑う、ということは、イコール、ローカルルールを信じさせられる、ということです。
健康な状態の私たちは、自分を疑う、ということ自体、原理的にできないし、する必要がない。
「自分」という足場をもとに、「行動」や「考え」を修正したりすることはありますが、そもそも「自分」を疑うようなことはできない。
ハラスメントや虐待というのは、このできないはずの行為ができるかのように錯覚させること。
そして、それを通じて、ローカルルールで支配することです。
洗脳セミナーなどでは、罵倒や睡眠不足などを通じて、「自分」そのものを疑わせるようなことをして、主催者の都合の良い考えを刷り込みますが、まさに原理的には同じことです。
親などが「あなたはだめな人間だ」「根本的におかしい」というメッセージを出すのは、「自分」を疑わせて、親にとって都合の良いメッセージを刷り込みたいということ。それによって「自分の不全感を発散させたい」ということです。
しかし、ローカルルールを真に受けてしまった人は、自分を疑うことがあたかも正しく、誠実で、客観的な行為だと錯覚させられたまま、大人になっても、自分を疑う、ということを当たり前としてしまう。
(参考)→「「過剰な客観性」」
仕事や勉強においても同様で、「定理」や「公式」や確認された「事実」はお約束(前提)として、考えるものですが、それができなくなる。
前提を前提とすることができず、いつも疑いを向けて、不安になります。
疑うということで真理に到達するわけではなく、反対にローカルルールに絡め取られる。
計算ミスがあったら、計算ミスをしたポイントに立ち返って再度間違えないようにして答えにたどり着きますが、計算ミスがあったら、「自分はだめだ」と足場まで疑い始めて、不安になり、絶望的になり、勉強が嫌になる。
公式や定理そのものへの信頼も持つことができない。何か不思議な力によって、不意打ちのように間違いが起こるような気がして安心できない。
さながらこの世の中が自分を駄目にする不思議な力が支配しているようなオカルトのみたいな感覚にとらわれるようになります。
安心してコツコツと積み上げていくことができなくなる。コツコツとは、一度確かさが確認できたものは再度疑わない、ということです。
それができなくなる。すべてを再度疑わなければならなくなる。頭はヘトヘト、仕事も勉強も嫌になってしまう。
その結果、「自分はだめだ」「世の中は不確かだ」というローカルルールの世界に陥ってしまうのです。
足場がないまま、根性で努力をして頑張ってそこそこに成功する人もいますが、エネルギーは続かなくなり、壁にぶつかることになります。
「巨人の肩を借りる」といいますが、私たちは、先人たちの知恵(前提)にうまく乗っかかり、答えにたどり着くものです。
さらに言えば、他者に代わりに確認してもらうなど協力してもらえばもっと楽に生きることができます。
私たち人間は本来、「自分」というものは原理的に疑うことができない。その必要もないし、意味もない。
デカルトも言うように、思っている「私」を疑っては疑うことさえできなくなってしまうのですから。
「自信がない」という現象それ自体が論理的にはありえず、実はローカルルールの産物なのです。
ローカルルールによって本来は疑うことができない自分を疑うという作業を強いられている。
「自分」というものを疑っているときは、実はその足場は「ローカルルール」に置かれているということなのです。
足場 疑う
(通常) 自分※ → 実際的な行動・思考
※自分というのは原理的に疑えない
足場 疑う 疑う
(トラウマ) ローカルルール → 自分 → 実際的な行動・思考
ローカルルールがひどい場合になると、関係妄想などにとらわれて、事実も歪められてしまい、戻る足場がどこにあるのかさえもわからなくさせられてしまうのです。
(ひどい場合) ローカルルールが自分のように振る舞う(いわゆるローカルルール人格にスイッチ) → 世界や他者はひどいと捉え、疑い否定する → ローカルルール世界を肯定する
(参考)→「ローカルルール人格が感情や記憶を歪める理由」
生きていると、フィッシングメールのように「自分を疑え(あなたは変だ)」と言われることがありますが、論理的にも成立しないことを要求されているということです。
(裏のメッセージは「私のローカルルールに服従せよ」ということ。)
(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている」
私たちは本来、無前提に、自分を肯定していてよいのです。
(足場は常に自分において、疑いを向けるべき対象はローカルルールです。)
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。