「人の意見を聞く」とはどういうことか?

 

 トラウマを負っている人に共通する意識として、「自分の言葉で話すと、自分はおかしなことを話してしまう」「自由に行動するとおかしなことをしていまう」という恐れ、自信のなさです。

 これがベッタリと心に張り付いていて、行動が制限されている。

(参考)→「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。

 
 自分が信頼できないから、外側にある基準に従うしか無い。

 

 
 自分の問題の原因が他者からのローカルルールの支配にある、とわかったとしても「ローカルルールがなくなったとして、じゃあ、自分で判断できるか?といえばできない」
「だって自分の判断で行動するとやらかしてしまうから」「自分がやりたいことをやる姿が想像できない」となってしまう。

 そして、また馴染みのあるローカルルールの世界へと引き戻されてしまう、という悪循環になっています。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 そこに、「言葉偏重」など様々な要因が重なって、なかなか脱出できなくなってしまいます。

(参考)→「「言葉」偏重

 本当は自分で判断して良いはずなのですが、そのことを心底わかるようになるにはなかなか時間がかかります。

 
 こうしたトラウマティックな世界は脇においておいても、私たちは外からの情報も吸収しながら生きています。
そうでなければ生きていくことはできません。

 ただ、外から情報を得る、人の意見を聞くとはどういうことなのか?についてはあらためて考えてみる必要がありそうです。

 

 

 

 筆者は休日にテニスのスクールに通っているのですが、例えばコーチから、「スロトークのときは腕はこうしてください。ボレーの構えはこうしてください」と言われます。

 テニスは“再現性のスポーツ”、“繰り返しのスポーツ”と言われて、正しい構えとか、身体の使い方というのがあります。

 だいたい、私たちが素朴に感じる身体の使い方とは反対の方向に身体を使います。コートにボールを落としたいのであれば、スイングは下から上にする。ボレーではラケットは振らないとか・・

 

 

 初心者の頃から同じアドバイスを何回も聞いていますが、身体が納得してそのとおりにするためには何年もかかります。頭でわかっているのですが、どうしても自分が慣れた打ち方、動かし方を選んでしまう。

 でも、ある時期が来ると、身体が納得したように動き方が変わる(これが上達のタイミング)。

段が上がるようになるわけですが、段が上がるそこでもまた同じようにアドバイスを耳にしてもそのとおりにはせず、身体が納得するまで時間がかかる、というようになります。

 別に聞いていないわけでも、頑固なわけでもありません。
 後から頭で思えば「もっと早くに言うことを聞いていれば・・」とおもうのですが、なかなかそのとおりにはならない。

 テニスのスクールのコーチとスクール生徒の関係というのは利害関係がなく、支配=被支配みたいなややこしいこともありません。 
とても程よく距離が取れている関係で、アドバイスを受け入れることに何のマイナスもないはずです。

 

 

 落ち着いて周りを見てみると、スクールに参加している人達を見ると、身体の使い方は本当に人それぞれです。お年を召した方や、若くても腰や膝が悪いという方もいらっしゃいます。

 だから、皆が同じようには動けない。

 身体は大きなシステムなので、腕の振りを変えるにも、下半身も含めて全体の調整が必要になる。
 そのシステム調整にけっこうな時間がかかるのだと思います。

 ですから、耳からのアドバイス脇においておいて、実際に身体を動かす中で身体で吸収して、コーチの動きを見て、自分でもいろいろ失敗しながら体験して、身体全体のバランスを整えて、変化する準備ができてから具体的な変化として現れる。
 
 
 人間というのは、耳から聞いたアドバイスで動いているのではなく、身体で吸収して、経験して、内側から必然性が湧いてきたときに初めて変化する、行動する生き物である、ということではないかと思います。

 
 私たちは、(特にトラウマを負っていると)「人の話を聞かなければ、自分は暴走してしまう」とか、「自分は独善的でおかしなことをしてしまうのでは?」と考えてしまいがちです。
(親が自分の言うことを聞かせるために、「あなたはわがまま」とか、「人の話を聞かない」と決めつけて、刷り込んだりすることも影響しています)

 

 しかし、そんなことはありません。
 身体は日常でも、様々な経験を通して、膨大な情報を吸収しています。そして、さらに私たちはそれぞれ社会を「代表」しています。  
(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能」 

 ですから、必要な変化というのは実は内側から自然と湧き出てくるようになっている(内的必然)。そして、それはおかしなことでも、やらかしてしまうことにもなりません。

 もちろん、「頭が固い」ということが頭が身体の気づきを邪魔するということはあるのですが、身体感覚に意識を向けて信頼することをしていれば、内側からくる変化の衝動は誰でも捉えることができます。

 

 

 

 「でも、内側から湧くことを待たずに、人のアドバイスを聞いてすぐに変化すればいいじゃない?」と思うかもしれませんが、
2つの面で、どうしてもそれはできません。

 

 一つは、上にも書きましたが、私たち人間は巨大なシステムとして心身がなりたっているということ。

 近年、人間そっくりのロボットを制作しようとしていますが、最新の科学で作られたロボットでさえもごく限られた行動を表面的に再現することしかできていません。複雑な人間をロボットとして作り出すことはまだまだ先の話です。それだけ人間は複雑だということです。

 メガバンクがシステム障害を起こしたことが新聞で報道されていますが、巨大なシステムになるとちょっとした変更でも不具合を誘発することがあります。
 (そのシステムを更新するだけで4000億円をかけて20年近い時間がかかっています。)

 もし、自分が乗る宇宙ロケットの仕様を打ち上げ直前に変更します、といわれたら「大丈夫?」と心配になると思います。何気ない変更でも思わぬ事故に繋がる恐れがあるからです。

 

 それは人間でも同様で、何かのアドバイスを聞いてすぐに変更するということはできないのです。あまりにも巨大なシステム過ぎるからです。

だから、変更するまでにはなかなか時間がかかる。

 

 「でも、職場では注意されたらすぐに行動を変えられる人がいるよ」と思うかもしれません。実はその人は、ダイレクトにアドバイスを聞くことができるのではなく、“(変化への消化吸収が終わっていて)準備が整った人”だということです。スポーツも同様です。
 
 だから、全く異なった次元への変化を求められるとすぐに対応することはできません。それなりに時間がかかります。
 プロのレベルになると、スポーツ選手等が下手にフォームを変えると何年も不調に陥ってしまうことも珍しくありません。

 

 

 人のアドバイスを聞いてすぐに変化することができないもう一つの理由は、人の意見というのはあまりにも信頼性が低い、ということです。信頼性が低すぎて聞きたくてもそのまま聞くことがどうしてもできない、ということです。
(参考)→「「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬」

 

 
 そのまま聞くにはあまりにも危なすぎるのです。

 
 人間はすぐに解離する、支配欲もある。
 仮に人格が安定しているときでさえ、たった一人の意見だけではそのまま真に受けることができない。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 さらにそのアドバイスは本当に自分というシステム全体のバランスを考慮に入れたものなの?というと怪しい。

 
 だから、人の意見はまずはスルーするのが基本なのです。
 言い換えれば、人の意見は聞いてはいけない。そのまま聞くと毒気に当てられるか、全体のバランスを崩してしまうのです。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 では、人の意見をスルーしたら独善的な人間になって、「やらかしてしまう」のかといえばそうではありません。

 上でも見ましたように、身体がそのアドバイスも含めて様々なことを吸収して、免疫でチェックして、濾過して、整えて、内側から湧き上がらせてくれています。

 

 本当の意味での「人の意見を聞く」というのは、耳から聞くのではありません。人の意見は無視して、そこらへんに散らかしておく必要がある。無視して散らかしておくと、それを身体が吸収して整理して必要なものだけ自分の言葉としてくれる。
 さらに、「代表」という機能も働いてくれています。
 

 それこそが本当の「人の意見を聞く」ということです。

 
 だから、「(人の意見を聞かなければ)自分は独善的でおかしなことをしてしまうのでは?」と恐れる必要は全くないのです。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

哲学者カントは、Doingの限界とBeing の限界のなさを論理的に証明してみせた

 

 今まで、Doing とBeingを分けること、Doing は不完全でみんなおかしいけど、Being は完全で大丈夫なんだよ、ということをお伝えさせていただいてきました。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 

 実は、そのことを論理的に証明した哲学者がいました。それが、イマニュエル・カントです。

 カントは「実践理性批判」「純粋理性批判」「判断力批判」などを記した哲学者です。

誰でも、名前は聞いたことがあるかと思います。

 

 

 哲学って何か?といえば、宗教に代わって神の存在証明を試みたり、人間は真理を知ることができるか(人間の認知の仕組みとは)? といったことを考える学問のことです。

 その中でもカントは、人間のDoingって完全なのか?ということを検討した人です。

 理性批判とはそいう意味です(理性≒Doing、批判≒吟味、検討する)。

 

 

 結論から言えば、「Doingは不完全でした」ということがわかりました。
 私たちの実感からすれば当たり前ですが、そこを論理的に証明してみせたわけです。 

 

 

 ただ、Doing がダメなら、人間は真理も何もわからず、グダグダなのか?となってしまいます。

 しかし、カントはDoing とBeing を分けて、Doingには限界があるけど、Being には限界はないよ、といったのです。

 

 

 近代に向かっていく上で、この証明はとても重要でした。
この裏付けがあることが、近代の社会を作る上での土台となったのです。

 Doingの不完全さと、Beingの限界のなさがあることで、Doingに集中できて、どんどんトライアンドエラーができる。
 
 失敗しても、それはBeingには影響しない。Doing と Being とが切り離された。まさに近代的なアグレッシブさを支えています。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 トラウマを負っていると、カントの言っていることの全く逆になります。

 自分のBeing は限界があるように感じて、一方で、Doingの完璧を求めてファインプレーを目指してガムシャラになって、自分を責めたり、他人にも憤る。
  
 そして、Doing とBeing は癒着して、不完全なDoingをみて、「ああ、自分はなんておかしな存在なんだ」と絶望してしまう。他者の中に幻想を見て支配されてしまいます。

(参考)→「Doingは誰しも、もれなく、おかしい

 

 

 カントは、さらに、限界のないBeingがDoingへと反映するためにどうすればいいか?ということも考えてくれています。

 それが、カントの有名な言葉で「なんじの意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」というものです。

 定言命法と呼ばれるものです。

 簡単に言えば、「ローカルルールではなく、普遍的でパブリックなルールに沿って行動しろ」ということです。※

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 もっと意訳すると、パブリックなルールに沿うと人間は機能する。限界のないBeing が Doing にも現れるようになる(代表される)、というわけです。

 

 以前も書かせていただきましたが、人間はプライベートな空間では容易におかしくなります。反対にパブリックな空間では機能する存在です。
 人間とは社会的な動物で、社会を何かをそれぞれに代表する時、はじめて人として十全に生きていることを実感できるのです。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 

※注:「ローカルルール」がなぜ「“ローカル”ルール」というのか? 

 「ブラックルール」でも、「ハラスメントルール」でもよさそうですが、特に「ローカル」とついているのは、「普遍的なルール」の反対ということです。ブラックルールとしていると、ローカルルールであっても一見まともなもの、良さそうなものは「良いルール」とされてしまいます。その場面で、ある人の都合ででっち上げたローカルなルールらしきものは、普遍的なもの(普遍的立法の原理)を代表しておらず、それ自体が他者に悪い影響がある、ということです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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自分が見透かされている、という暗示

 

 以前の記事で、Doing と Beingの分離 や言葉は物理に影響を及ぼさない、ということを取り上げました。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの」「言葉は物理に影響を及ぼさない。

 

 悩みがなかなか抜けない場合、魔術的なものが介在していて、自分に影響しているという感覚がどうしても拭えなかったりします。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する

 

 

 その際によくあるのが、「自分の心や考えは、人から見透かされている」というもの。

 特に親や、あと年上の人や偉い人には隠しても見透かされてしまう、という感覚。

 

 自分はおかしな存在、異常な存在であって、それを隠さなかればならない。

 穏やかな人やいい人であれば隠せるし、少しバレても目をつぶってくれるが、ちょっと鋭い人や、口の悪い人にはバレて指摘されるのではないか?という感覚。
(参考)→「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。」 

(参考)→「バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚

 

 過去に実際に親などから、「あなたの考えていることなんかお見通し」みたいなことを言われたり、態度で示されたりした経験がある場合もあります。

 それは、相手を支配するために行っているトリックでしかなく、相手のすべてを見抜ける人、見透かすことができる人はこの世には存在しません。

 「でも、一瞬で相手の才能を見抜いたり、みたいなエピソードを聞いたり、読んだりしたことあるよ」と思うかもしれません。

 それは、限られた条件下のことであったり、誇張された話でしかありません。

 

 実際に、例えば、大企業などでも、人材採用などで、面接の方法などを工夫したりしていますが、未だに完全に相手を知るような方法は開発できていません。
 心理テストなども、ほとんどが科学的根拠がない、ともされます(村上宣寛「心理テストはウソでした (講談社+α文庫)」)。 

 見抜けている、というのは、そんな気がするだけで、実際にはそうはなっていない。

 

 たとえば、ベテランの精神科医や、心理カウンセラーは、クライアントの雰囲気や体感から瞬時に相手の状態を見抜いたりすることはあります。
 「におい」で感じ取ったりもします。
 
 「じゃあ、見抜ける人がいるんじゃないですか!?」と思うかもしれませんが、実は違います。

 見抜いているのは、“症状”という限られた領域だけで、その人の人格全般についてはわかりません。心の中もわかりません。

 

 プロ野球の選手がバットを振っただけで実力を見抜く、みたいなエピソードも、それはあくまで、野球についてだけで、その人全体のことはわかりません。見抜く力もいい加減なこともあります(ドラフト1位で採った選手も活躍しない人は多いし。。。)。
 

 会社の評価がいい加減、と感じるのは、働いている方であればよくよく感じていることです。
 全然実力を見抜けてなんかない。 

 トランプさんみたいな人でもアメリカの大統領になることができます。

 

 

 これまで挙げた例でわかるように、要は、人が人についてわかるのは、Doingの、さらに一部分だけ(野球のバッティング、とか、病気の症状とか)、ということです。Beingについてはまったくわかりません。

 そもそも、相手のBeingを云々すること自体が、恐れ多いし、おかしなことなのです。
 相手のBeingを評価したい、相手のBeingが見抜ける、という気持ちにとらわれたら、どこか問題を抱えていることになります。

 

 
「でも、自分の親は、私のことを見抜けるんです・・」「私は見透かされるんです」と感じるかもしれませんが、もし、親に本当にそんな力があったら、もっと出世してるし、偉くなっているでしょう。
 

 相手を支配しようという意図や、自分の不全感を癒やしたいという気持ちからくる、単なる暗示でしかありません。

 まず、痛めつけておいて自信を奪って、「あなたは自信がないでしょう?わかるのよ」とやっているだけです。

 「他の人はDoingが完璧なのに、あなたのDoingは失敗ばかり、それはBeingが不完全な証拠」
 「言われたくなかったら、Doingを完璧にしてからいいなさい。Doingが完璧にならなければ、Beingは完璧とは認められない」という論法です。

 

 

 

 前回もかきましたように、人間というのは誰でもズルくて、スケベで、いい加減なものです。

(参考)→「Doingは誰しも、もれなく、おかしい

 芸能人がスキャンダルで仕事を失ったりしますが、叩かれている芸能人が特別おかしな人なのではなく、バレていないだけでみんな同じようなものだ、ということです。

 「あんなキレイで、かっこよくて、しっかりしていて、自身に満ち溢れているのに、なんで?!」

 みんなそんなものです。

 でも、それらはすべてDoing の問題です。Beingは関係ありません。

 
 だけど、Doing の問題を目をつけられて、「ほら、あなたはこんなに汚れたおかしな人間なのよ!(=Being)」とされて、Doing とBeing を魔術的なものでくっつけられてしまう。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する

 

 でも、人間のDoing は誰でもいいかげんであり、間違いもするものであることは変わりませんから、日常でミスや間違いをするたびに、「見透かされている!?」「やっぱり自分はおかしい、なぜなら証拠があるもの」と感じて、その暗示から抜け出せなくなってしまうのです。

 

 

 

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Doingは誰しも、もれなく、おかしい

 

 昨年11月、サッカーのスーパースター、ディエゴ・マラドーナさんがなくなりました。

 ワールドカップでの5人抜きは有名ですが、イタリアのナポリなどクラブチームでもマラドーナがいるだけで優勝させることができた、というように、神がかりの活躍を見せた選手です。
(現代であればバルセロナのメッシ選手が有名ですが、一人で優勝させることができるか?といわれればちょっと難しいということを考えると、マラドーナの凄さがわかります)

 ディエゴと背番号10をもじって、DIOS(神)と呼ばれるような選手です。

 

 その活躍の一方、私生活では、コカインの使用、マフィアとの交流、愛人問題、などスキャンダルは数しれず、明暗がはっきりした人物でした。

 そうしたことを描いた映画も最近公開されています(「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」)。
 

 

 マラドーナは極端に見えますが、それはそれだけエネルギーと才能があったためで、明暗が併存する姿は人間としては“普通”ともいえます。

 
 このブログでも何度も書いていますように、人間は公的環境だと機能しますが、私的環境ではその人らしさは失われる、というものです。
 マラドーナさんであれば、サッカーをしているときがそうですね。

 

 日本でも、容姿端麗で、しっかりしてそうな芸能人が、ある日突然、週刊誌に不倫疑惑を報じられる。
 
 そこで書かれる内容は目を覆いたくなるような内容ですが、事実行われている。

 

 芸能人だけではなく、会社の社長とか、政治家も同じくスキャンダルが報じられ、失脚することがあります。日産のゴーンさんも海外に逃亡してしまいましたし、有名なベンチャー企業の社長が社内でセクハラをしていてやめさせられた、なんてこともあります。

 

 アメリカの大統領はホワイトハウスで不倫に及んで、追求されたりもしています。
 専門家によると、歴代大統領がホワイトハウスで情事に及ぶというのはよくあることで、従来は問題にもされなかったそうです。

 キリスト教の聖職者の間では性的虐待が横行していて、問題になったり。

 

 

 ・・・と、書いていてだんだん嫌になってきましたが、これが人間というものです。

 Doingはみんなみんなおかしい。みんなある意味、変態なのです。

 ミスもするし、頓珍漢なこともするものです。 ズルいし、怠けたいし、スケベだし。

 

 

 

 でも、なぜか他人のことになると「そんなことをしてはいけない」「おかしい」「自分は大丈夫ですけど・・」と見栄を張ったりするのも人間です。

 人間というのは、基本的に自分を棚上げして捉えて、かなり勘違いして生きている存在だということです。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 あくまで動物ですから、環境や自然の波に従って生きているのが当たり前なのです。

 たまたま環境や自然の波が適したらしっかり動けますが、そうでないと途端に動けなくなる。

 できるかぎり、内的・外的環境を整えて、「公的環境」とすることで人は機能する、ということです。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 機能したとしても、それはDoing が完全であることは意味しません。不完全ながら機能している、ということです。私的環境では、Doingはもうグダグダです。

 それは不完全だけど、異常でもなんでもなく、まあ人間はそんなもの。愛着的世界観の世界です。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 

 ただ、他人の見栄を真に受けて、自分の中にあるDoingのおかしさを、異常視するようになると、他人から支配されるきっかけを提示することになります。

 トラウマを負っていると、「自分だけがおかしい」と思ってしまう。

 「ほら、あなたはおかしい、なぜなら、頭の中でおかしなことを考えているでしょう?」「あのときにミスをしたでしょう?」とやられると否定できなくなる。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 指摘している側だって、Doing はよほどおかしいのにも関わらず、見栄を張っているのでそのことは見えない。

 さらに、ストレス障害で自律神経が機能不全に陥っていたり、解離も生じていたりすると、Doingは余計に機能しなくなっているので「自分だけがおかしい」という感覚は一層強く感じられます。

 「でも、トラウマのせいでもDoingが機能不全なら、やはり自分はおかしい」と思いたくもなりますが、ただ、それもあくまでDoing の不全であって、Being は常に無垢で問題はありません。

(参考)→「「素晴らしい存在」であるべきと「弱さ、不完全さ」を隠していると、いつのまにかローカルルール世界にとらわれるようになる

 

 Doing についても、上に見ましたように、トラウマがなくても、だれでもおかしいのです。
 
 トラウマを負っている状態と健康な状態との違いは、環境からのサポートを得られるかどうか、取り繕う力の差でしかありません。

(参考)→「「いい人」には意識してなるものではなく、環境の集積である。

 

 

 人を理想化したり、自分をこき下ろしたりしているために、そういう人間の実態、相場がわからなくなることも、暗示が拭えなくなる大きな要因となります。

 人格が成熟するというのは、「みんなDoingは大したことないんだよ」「大したことがあるように見える人は見栄を張っているか、ステージの上だけなんだよ」ということがわかるということで、Doing とBeing は分けて捉えられるようになるということでもあります。 

(参考)→「Doingとして世の中が見えるようになると、趣味も仕事も勉強でも、主権がもてる。

 

 

 

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