「言葉には心を越えない~♪」というのは昔大ヒットした歌の歌詞です。
言葉には意味がないのよ、というのは昔から人間が感じていたことです。
一方、言葉が最初にあった、というように言葉の価値の大きさもわたしたちは知っている。
カウンセリングでも、「傾聴」ということが重んじられるわけです。
では、本当の傾聴ってなんだろう?と考えたくなります。
傾聴とは、鵜呑み、真に受けではありません。
人間が解離しやすく、内的な人格が分かれているという性質を持つ以上、すべて真に受けることはありえません。発せられた言葉を吟味し、選別し、本来の人格の声を見つけること。それも治療者の役割と言えます。
ハラスメントやローカルルールといったものを見るにつけて、強く思うのが、「日常の人間の言葉は本当に意味がない」ということです。
なぜかといえば、繰り返しになりますが人間は容易に解離してしまう存在であり、おかしくなってしまうからです。
これは誰でもそうです。
とくに私的環境では簡単に人格スイッチしてしまう。
そして、私的な情動(不全感)をもとに、相手を支配しようとしたり、攻撃しようとして、おかしな発言をする。
人間は、公的な環境で、公的な役割を背負ってはじめて理性的でいられる。
実際に、古代ギリシャでは、公的な役割がなければ完全な人間ではない、と考えられていました。
それは、私的な環境では人間がいかにおかしくなってしまうのか、ということを経験的にわかっていたからかもしれません。
日常生活で人間は、夜中に食べたくもないラーメンを無性に食べたくなるくらい、本心というのはわからない存在。本心って一体何?と不思議に思います。
言葉はもっといい加減。
日常で発せられる言葉、とくに責任を負わない消費者という立場には、ローカルルールが頻繁に介入してきます。そのため、無駄な買い物をしたり、クレーマーになってみたり、おかしなことだらけ。
臨床の現場でも、言葉を吟味せずに治療者がすべて真に受けては、クライアントさんにとっても危険で本来の人格とローカルルールからきたものとを、よほど吟味しないといけない。
悩みを抱える、とはなにかといえば、ローカルルールを内面化した状態、と定義できます。
例えば、クライアントさんが
「仕事でミスをする人がどうしても許せない」と言ったとしたら、
それは、「ミスをしてはいけない(ミスをする人は存在してはいけない)」という内面化したローカルルールから来た言葉だとわかります。
その「ミスをしてはいけない」はどこから来るか?といえば、
養育環境で親などが、イライラする自分の不全感を発散させるために感情を子どものぶつけることを正当化しようとして、「お前がミスをするからだ!」「ミスをしてはいけない、というのは常識だ。だからお前を叱責しているのだ(自分の私的感情からイライラしているのではありませんよ)」ということから始まり、
それを「期待に応えなければ」と思う真面目な子ども(クライアントさん)が真に受けて、内面化し、忠実に実行してきた。
そして、親のローカルルールに感染した「ローカルルール人格」が子ども(クライアントさん)の中に形成されます。
そうして長い年月を経て、発した言葉が「仕事でミスをする人がどうしても許せない」ということ。
そうなると、それはその方の本来の発言ではありません。ローカルルールに言わされている、ということです。
”ローカルルールの現れ”として捉える必要があります。
そして、治療者が「それ、ローカルルールのようですね」と区分けしたり、本来の自分ではない、とあえて否定したりする必要がある。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
治療者が、まさか「傾聴が大事」なんて真に受けてしまっていたら、クライアントさんは良くならない。
クライアントさんの本音は、「今私が話している言葉は本来の私ではなく、ローカルルールに言わされているんです~。誰か気づいて、助けて~」と思っているのですから。
別の場面で、
「治療者の言葉や態度が気に入らない」と言ったとしたら、それも内面化したローカルルールから来ている。
まさか真に受けて、治療者が「態度を改めよう」なんていうことは全く必要ない。勘違いして、もし態度を改めたら、クライアントさんは余計にローカルルールに呪縛されてしまう。
それも、「ローカルルールから来ているようですね」といって、区分けしてあげないといけない。
ローカルルール人格というのはまさに、ウイルスによって、パソコンが乗っ取られているような状態です。社会学者の内藤朝雄氏の本でもいじめに加担した生徒の声が載っていますが、「何かそれ、うつっちゃうんです」という状態。
参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」
だから、乗っ取られた状態を真に受けて「そうなんですね~」なんて傾聴で応じていてはいけない。
しっかりと観察して、区別して、指摘して、ローカルルール人格というものの影響を明らかにしていかないといけない。
それによって、クライアントさんも本来の自分に戻ることができるようになる。
繰り返しになりますが、日常で発せられる言葉というのは本当に意味がない。
冒頭に書きましたように、言葉の価値は本来大きいのですが、「言葉が尊い」という場合のそれは本来は「神の言葉」という意味。人間はそれを承るだけの存在だし、完全には理解できない。
その言葉の価値を悪用しているのがローカルルールです。ニセの神様のようになって、言葉を弄んでいる。
人間の言葉はすべて戯言です。
公的な環境になると人間の言葉がかろうじて意味を持ってくるのは、それは公的な役割を通して「一般意志」をいくらか”代表”できるようになるから。
一般意志とはルソーの概念ですが、社会の普遍的意志のことです。
(普遍的意志は、近代以前は、シャーマンや聖職者が、神がかって降ろしたりしていました。占いなどもそうですが、なんとかして神の言葉を読み取ろうとしていたのです。)
作家や歌手の言葉が感動を呼ぶのは、普遍的意志を降ろしてくるから。
でも、それができるのは瞬きのような一瞬で、いつもではない。だから、しばしば薬物に手を出すようなアーティストも出てくる。
一方、日常では「悪貨は良貨を駆逐する」というように、価値のない悪貨だらけの世界であることを知らなければならない。
東大の安冨歩教授は「世の中はハラスメントでできている」といっています。ハラスメントの言葉だらけ。本当に価値のある言葉が埋もれている状態。
目の前の貨幣(言葉)が本物か偽物かを吟味することをせずに、すべてを受け取らなければならない、という間違ったルールに従わされている。
「傾聴が大事」と思いこまさせられている人たちが、まさにハラスメントの犠牲者になっている。親やいじめっ子や、上司の盲言を真面目に受け止めさせられて、カウンセラー役をさせられてしまっている。
反対に、健康な人ほど日常の言葉は意味がないと知っていて、やり過ごしていたりします。
東大の教授が書いた本はまさにその様になっています。
(参考:高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」日経ビジネス人文庫)
やり過ごすことが勢いのあった時代の日本企業を支えていた、というのです。
カウンセリングでも、本来大切なのは傾聴ではなく観察。
治療者であれば、クライアントさんの様子を、よーく観察する。
言葉は真に受けない。あくまで観察のための材料。基本的にはやり過ごして、聞き流さないといけない。
良い料理人が目利きをするみたいに、素材を選り分ける。
良い研究者やジャーナリストみたいに、証拠を吟味して、取捨選択をする。
言葉が1000あれば、そのうち本来の言葉はかろうじて3つあるかないか、かもしれません。
日常であれば、ほぼ0といってもいいくらい、言葉には意味がない。言葉は本来神のものですから。
ローカルルール人格とはニセの神様になった状態のことです。
(いじめを行っている人たちや、あおり運転の人たちも、まさに神のような全能感を持って他人を裁いている様が最近であれば動画で記録されています。)
日常の言葉とは、その方の生育歴からくる雑多な感覚を目の前のものに投影してただ吐き出しているだけ。何も”代表”していない。
悩みを抱えている人にとっても、こうしたこと知るのはとても大事。
自分自身がローカルルールの影響から逃れるためにも、ですが、日常でハラスメントにあわないためにも、です。
人が発する言葉にはすべて意味がないと知れば、「~~さんって嫌なところがあるよね」みたいな気になる意味深な言葉も、全く意味がないとスルーできるようになります。
日常の言葉は戯れ言としてすべて聞き流す。言葉は何も表していない。
(聞き流してはじめて本当のコミュニケーションが取れるようになります。)
今までは理想化して、恐れていた人が、大したことがない存在であること、「解離しやすいおサルさん」でしかなく、話す言葉も意味深なだけの意味のない言葉であることがわかってきます。人に対する怖さがなくなってきます。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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