トラウマや愛着障害について記事や情報をお伝えすると、その生きづらさや悩みを表現する際に、どうしても健康な人という、物差しを設定して、それとくらべて「トラウマを負った人は~」「愛着不安を抱えた人は~」という書き方になってしまいます。
それを間違って捉えると、トラウマを負った人はハンデを負ってて、今働けている人、仕事で活躍できている人、主婦(主夫)でも幸せに暮らせている人は問題なくて、それが出てきていない人はおかしい、損をしている、というような見方になります。
しかし、実はそうではありません。
世の中で活躍できている人が万全、健全というではないのです。
順調故に間違った適応をしてしまい、そのまま定年くらいまでは行ってしまう、ということは珍しくありません。
東大の安冨歩教授が書かれた本に『幻影からの脱出 原発危機と東大話法を越えて』というものがありますが、その中で、熱心に授業を受ける学生たちと、テストだけ要領よくこなす学生たちがいるといいます。
安富教授の経済学の講義や課題図書などは決して簡単なものではなく、一夜漬けでなんとかできるようなものではないそうです。
当然、熱心に授業を受けた学生が高得点、満点を取りそうですが、実際はそうではなく、テストだけ要領よくこなす学生たちが、要点を捉えた完璧な答案を書いてくるというのです。
反対に、授業を受けた学生たちは、色々と考えてしまうからか、7~8割の点で止まってしまいがちです。
安富教授も「なんでもかんでも100点を取ってくる東大生という人々は、想像を絶する人種です」と述べています。
まさに、官僚や企業エリートになったら、「できる社員(官僚)」として称賛されるパフォーマンスを発揮できるでしょう。
反対に自分で色々考えるせいか、7~8割の点しか取れない学生たちはどうでしょうか?
上司の指示に対しても、色々考えるあまり、さっと動けなかったり、自分の意見を入れるためにビジネスで称揚されるフレームワークやロジカル・シンキングのセオリーからも外れ、「自分の意見と事実は分けなさい」と、上司から作った資料に駄目だしされそうです。
かく言う私も、あきらかに後者で、いろいろと自分で空想や妄想を考えて盛り込んで怒られるようなタイプです。
そうこうしている間に如才ない同期や先輩は、簡潔な資料をまとめて合格点を取っている、というような場面は実際にありましたし、大学(院)でも発表で勢い込んで大恥をかいた経験があります。
仕事においても、ほんとうに脇目もふらずに目標達成に向けて邁進できる人を横目に、目標の意味とか、自分にしっくり来るかこないか、といった余計なことを感じるようなタイプでもありました。
大企業の一部などにはいますが、目標達成に完璧なまでにフォーカスして全くぶれないような人は、私などからすると宇宙人のように見えます。
そういう人は、会社でも出世しますし、評価されます。
じゃあ、その人達は本当に万全なのでしょうか?
話は戻り、安富教授は、何でもかんでも100点を取ってくる東大生について、「なぜそういうことが可能か、理解に苦しみました」と言います。そして「色々と考えた結果、それは、自分というものがないからではないか と思い至りました」と述べています。
どういうことかというと、例えば「わかる」というのは、自分の身体で反応すること、自身も学習に伴い変化することで、当然そこには、身体にとって違和感のあるものは違和感として反応することは多々あります。
すべてを受け入れるなどはありえない。他者同士なのですから、なんらかの違和や差分が生じて当然です。だから、いつも100点を取るほうがよほどおかしい。
さらに言えば、「暗黙知」が働く見えない次元を通じた学びというものによって人間は了解していきます。それが豊かさに繋がります。
一方、なんでもかんでも100点を取る人というのは、ただ情報を箱に出し入れして処理しているだけで、そこには自分の身体を通じたやりとりも、自身の変化もありません。暗黙知も働かず、表層的な情報処理にとどまります。
そうした芸当は、自分を失ったままのほうがむしろ効率的(コスパ、タイパよく)できるものです。
自分の“意見”もはっきり言うこともできるでしょう。
「あの人は自分の意見をはっきり言うことができる」と評価されるかもしれません。
そのうえで「立場」「役職」に身をおくことで、さらに自分は脇において置くことが合理的となります。
ここまで極端ではなくても、現代の会社などの組織はよくできていますから、
立場・役職をまとえば、自分を脇においたままに、定年くらいまではそのまま行くことはできます。
会社では周りを理不尽さの犠牲にするような、そうした人ほど出世したりもします。そうした人が果たして幸せか?はわかりません。
あるいは、専業主婦(主夫)でも、自分を脇においたままに、子供が成長するくらいまでは行くことができます。
しかし、その後はそうはいかなくなります。
自分を置き去りにしてきた問題が押し寄せてきて、不調となって現れたり、一人前の人間として人生の問題に対処できない、といったことが生じてくるのです。
万全に見えること、万全に見せることが、自分というものをもっと深刻に失わせてしまうのです。
トラウマを負った人のほうがよほど自分という問題に向き合うことができている。周回遅れに見えて、実は先頭に立っているということがあるのです。
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