Doingとして世の中が見えるようになると、趣味も仕事も勉強でも、主権がもてる。

 

 筆者の個人的な話ですが、正月に親戚の子どもと将棋をしていたら、ふと、また暇なときに将棋をやるのもいいかも、と思い、スマホのアプリや本を買ったりしていました。

 ロールプレイングゲームみたいに時間がかかるものは大変だし、手軽にできるものとしてあらためて将棋はいいかも、なんていうことからです。

 

 もともとは、筆者は将棋が苦手で、いろんな手を読んだり、考えたりすると頭が疲れるし、うまくできないと自分の劣等感も刺激されるし、ということで、「自分は向いていない」と思っていました。

 

 特に、小学校の頃は、将棋をしても、自分勝手に駒を動かしては、うまい相手に取られる。動かしたいところには敵の駒が効いていて動かせない。角や飛車の筋を見逃す、嫌になる、ということの繰り返しだったと思います。

 

 本来、将棋も手筋とか、定跡といわれるものがあって、つまりはスポーツなど他の趣味と同様に、基礎があって、その基礎のもとに行うものです。
 ゴルフなどでも上達にはものすごく時間とお金がかかります。

 
 よほど天才でもなければ、いきなりやってうまくできるものではありません。

 人間はいろいろなことを同時には検討できませんから、ある程度決まった手順を体で覚えて、思考を省略することが普通です。 
 

 

 ただ、子供の頃の私は、将棋を「自分が頭が良いかを証明するもの」みたいなふうに考えていた部分があって、なにも基礎を身に着けないまま、将棋をやって、うまく行かないと「ああ、自分はアタマが悪いんだ・・」みたいに捉えて、自己否定的になっていたように思います。
 

 

 将棋というのは、あくまでDoing(行為) の世界のもの、Doing(行為) の世界で基礎を見つけて、行うゲームでしかありません。

 それを、Being(存在、才能)の証明みたいにとらえて、ドン・キホーテのようにむかっていって頓死する。

 基礎を身につけるのも、Beingの証明の邪魔になる、くらいに素朴に捉えていたのかもしれません。

 勉強も似たところがあって、算数の問題が解けないと、自分の Being(存在、才能)の否定と捉えて、嫌になる。

 

 勉強も、本来は Doing(行為) の世界です。
 極端に言えば、数学オリンピックに出るのであれば才能というBeingの世界があるかもしれませんが、東大に入るという段階まで、つまり入試という世界であればすべて答えや解き方も明らかで、あくまでDoingの世界なのです。  

 

 安全な環境が整っていれば、勉強も自然とできるのだとおもいます。
 なぜなら、目の前の失敗をBeing に結び付けず、Doingとして淡々とトライ・アンド・エラーができますし、「答えはかならずある」という安心安全のなかで、対応できるからです。
 これが「愛着」というものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 しかし、トラウマを負っていて、愛着が不安定だとこうはいかない。
 勉強の問題が、なにやら落ち着かない、自分のBeing(存在)にバッテンを付けてくる審判のような気がして嫌になる。
 「答えがかならずある」という感じがしない。
 問題と答えの間のつながりが、魔術のように感じられてしまって、自分にだけ意地悪されて正解の位置が変わるような感じさえする。
 

 そうして嫌になる、勉強が嫌いになる。という感じがします。

 

 本来は、あくまでDoingの世界ですから、淡々とすれば必ず結果が出るものです。

 

 しかも、日本のお勉強の業界は、戦後だけでも80年近い歴史があります。
 その間延べ何千万人という人が取り組んできて、解法でも、勉強法でもノウハウが蓄積されているので、求めれば必ず自分にあった勉強法が得られます。

 

 筆者が昔、高校3年の担任の先生に言われた言葉で印象に残っているものがあります。
 それは、3者面談のときに、「努力がわかりやすく結果に出るのは受験の時くらいですからね」といった言葉でした。

 話の流れで何気なく言った言葉でしたが、強く印象に残っています。

 確かに、社会に出ると、将棋や勉強と違って、範囲も答えも決まっていないので、努力が結果となって出るかどうかはわからない。
 勉強は範囲や答えが決まっているのだから、今にして思えばこれほど結果が出やすいものはありません。

 

 勉強ができるかどうかは、早くそのことに気がつけるかだけ、いいかえれば、BeingとDoingの切り離しが早々にできているかどうか、ではないかと思います。
 言い切ってしまえば、頭の善し悪しは入試レベルではほぼ関係ありません。

 

 さらに、人生2,3周回って今思うのは、社会や仕事においても、勉強や将棋と違って範囲や条件は圧倒的に広くなりますが、それでも、Doingとして捉えられる状態になっていれば、必ず答えはあるでしょうし、ノウハウとして考えることはできるのだろうと思います。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 日本の経営コンサルタントの草分けとも言える大前研一という人がいますが、実は、コンサルタントになった当初は活躍できず、どうしたものかと思ったいたら、どうやら、パターンがあることに気がついて、過去の事例を社内の倉庫で読み漁って、コンサルタントとしての方法を身に着けた、ということを読んだことがあります。

 すごく頭のいいとされる人ですが、そういう人でも、種を明かすと頭の良さで仕事をしているわけではなくて、仕事をDoingとして捉えて、手筋や定跡を身につけていた、ということです。

 

 近年、話題のAIなんかも、コンピュータの能力のみによってではなく、膨大なデータをパターン化して予測しているわけですから。
 AIは、世の中を究極にDoing化するものといえます。
 

 

 仕事でうまく行かなかったり、職場で問題が生じるのは、Doing仕事に Being が乗っかかってしまっていたり、ハラスメントによって、Being とDoing が一体化させられたりということから来ます。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 冒頭に筆者の将棋についてのエピソードを書きましたが、また将棋をやってみてもいいかも?と以前とは違う感覚になったのも、筆者の中で、Being と Doing が切り離されてきたためかもしれません。
 目の前にあるものがDoing として捉えられ、失敗してもBeingには影響がない。
 Doing として世の中が見えるようになると、自分でコントロール可能な、自分に主権のある感覚を感じられるようになります。
 
 

 

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人の言葉はやっぱり戯言だった?!

 以前の記事で、
 健康な人ほど日常の言葉は意味がないと知っていて、やり過ごしている、ということを書きました。

 その中で、やり過ごすことが勢いのあった時代の日本企業を支えていた、ということを書いた元ソニーの社員が書いた本をご紹介したことがありました。
 (参考:高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」日経ビジネス人文庫)

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 健康な人ほど人の話をスルーしているということ?!それって本当なの?と思います。

 でも、色々と現実を見てみると、やはり本当らしいということが見えてきます。

 

 

 例えば、先日、日本経済新聞で、NEC(日本電気)の社長のインタビューを目にしました。

 その中で、NECの社長は、合理主義者ということで、「仕事の上で無数に来る要望や指示の8割はやらなくても良い」と割り切り、着実に早く仕事をすることを心がけてきた。 ということが書かれていました。

 

 聞き漏らさないように、すべての指示を叶えることが優れていると思いがちな、仕事においても、8割はスルーして良い、と言っています。 

 大手の会社の社長になるような人ですから、仕事で評価されてきたわけですが、そのほうが評価される。 

 

 トラウマを負った人は、全てを叶えようとして、さらにはファインプレーをすることを意識して気を張ってがんばって、結果、頭が加熱して、ぼーっとしてしまう。 結果、無理やミスが生じて、過大な努力にも関わらず評価されない、ということが生じている。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 トラウマを負った人と健康な人では実は価値観、世界観が全く違うことがあります。当たり前と思っていることが実はそうではなかったりします。でも、それが言語化しにくいために、尋ねても明確に答えは帰ってこない。でも、よくよくみてみると全く異なったりします。

(参考)→「トラウマチックな世界観と、安定型の世界観」 

 

 仕事上の要望や指示ということですから、「意味がある」と思いきや、ほとんどが意味がない。
 仕事でさえ8割スルーして良いのであれば、プライベートの言葉なんて、ほぼ戯言といって間違いありません。

(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

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他人の感情や言葉は他人の責任

 

 前回の記事で見ましたように、私たちが力を発揮するためにはニセの責任から自由であることが必要です。

(参考)→「無責任で本当に大丈夫? ~無責任かつ位置と役割があると人間は力を発揮できる

 

 そういう観点で見ると、 
 
 仕事で活躍できる人、というのはニセの責任を免責することがとてもうまい、といえるかもしれません。

 さっと自分の責任の範囲を自然に感じとるところができる。

自分の責任が「これだけ」ということを感じて、役割に集中することができる。

 ニセの責任が飛んできても、「ニセ物だな」と感じて、さっと免責してしまう。

 

 責任が自分のものだけに限定されるから、腹をくくれて、「逃げない」「言い訳しない」なんて人から見られる。

 反対に、トラウマを負っている人は、それがとても難しい。

 相手の機嫌も、相手の頭の中で起こることも、職場の雰囲気も、何もかもが自分の責任だと思っている。

 その裏には、すでに過去に背負ってきたニセの責任の山があって、それが投影されていることは言うまでもありません。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる」

 

 ニセの責任でいっぱいいっぱいになってしまっているために、目の前の役割に集中できず、膨らんだニセの責任に恐怖を感じて、及び腰になり、結局「仕事に入り込めていない」とか、「当事者意識がない」だなんて反対の悪い評価をくだされて、本人もどうしていいかわからなくなる。

 

 仕事以外でも同様です。

 日常生活でも、あまりストレスなく人と付き合える人というのは、責任の範囲の見極めが自然とできている。

 基本的に相手の頭の中にあることや相手の機嫌は、自分の責任ではない、という感覚があります。  

 行うのは、自分ができる範囲を守って、公的な環境を作り出すことくらいまで。

 あとは気楽に言葉と戯れている。相手の言葉は相手のものなので、責任を持たない。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 

 

 特にポイントは、「感情と言葉」です。 
  

 その人の感情や言葉の責任はその人のものです。

 確かに、その勢いに圧倒されることもありますが、結局は因縁をつけているだけです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 その人の感情や言葉はその人のものだ、とわかっていると、巻き込まれにくくなります。すると、感情的になっていたり、気になる言葉が飛んできても、スルーすることができて、相手もトーンダウンしてきます。

 

 理不尽な環境では、特に家族が自分の感情を子どものせいにして、子どもはそれを真に受けてしまって、巻き込まれてしまう。そして、ストレス障害(トラウマ)になる。
 
 
 自他の区別がつかなくなり、責任の分解点がわからなくなってしまう。

(参考)→自他の区別がつかない。

 

 

 いつしか、家族以外の人についても、相手の感情も自分の責任と思い、常にビクビク、と相手の感情や言葉を自分のものとして、気を回してへとへとになってしまうのです。

 基本的に相手の感情や言葉はその人のもので、その人の責任です。

 

 たとえば、“言葉”で「あなたの態度が悪いから、私はイライラしている」「あなたが悪いから、私は怒っている」といっても、真に受けてはいけない。

 不良やヤクザが「おうおう、メンチきってんじゃねえよ」と因縁つけて絡んでくるのと同じことです。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 
 愛着が安定している人は、免責の仕組みがうまく働きますから、無意識に「それはあなたの責任ですよね」というメッセージが働いています。
 

 

 ポジティブな感情について、例えば、相手の「期待」なども同様です。
 

 相手がどのようにこちらに期待を持つか、ということもあくまで相手の勝手、責任です。

 たまたま、こちらのパフォーマンスや条件がよくて、期待に応えれることもあれば、そうではないときもある。その見極めがうまくできる。

 トラウマを負っていると、ニセの責任でいっぱいいっぱいですから、相手の期待も自分の責任だと思い、逃げ出したくなってしまいます。

 

 ちゃんと免責の仕組みが機能すると、ニセの責任を取り除くことができますから、仕事でも日常生活でも、本当に自分の役割だけに限定して、集中することができるのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 

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無責任で本当に大丈夫? ~無責任かつ位置と役割があると人間は力を発揮できる

 

 私たちは、責任を引き受けなければならない、物事には責任が不可欠だ、と考えています。

 

 
 しかし、これまで見てきましたように、人間が主体的に動くためには、いったんすべての責任がチャラになることが必要になります。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 人間というのは、クラウド的な存在、社会的な動物であるために、何もしていなくても、いろいろな(ニセの)責任が他者から覆いかぶさってくるものです。
(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 ただ、実は責任という概念は、ローカルルールと親和性がとても高い。際限なく広がり、人を支配するものでもあります。

 

 以前の記事でも書きましたが、私たち人間には、責任という概念は必要なく、「役割」さえあればいい。

 役割があれば、人間は機能するものです。

(参考)→「“責任”は不要~人間には「役割」があればいい。

 

 

 前回見た、マックス・ウェーバーの仮説も、責任という観点で言い直せば、そういうことではないかと思います。プロテスタントの場合は、予定説がその機能を果たしてくれていたわけです。

 神様がニセの責任をすべて引き取ってくれて、安全な環境でスポーツマンのようにのびのび自由と主体性を発揮できるわけです。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 
 その一方で、「本当に責任がなくていいの?」と不安もよぎります。

 お金を払ったのに食べ物が出てこない、
 家を頼んだのに作ってくれない、
 電化製品を買ったのに配達されない、では困ります。

 

 責任と、主体性とを改めてどのように考えればよいのでしょうか?

 ウェーバーだとか、小難しいカッコつけたような考えを持ってこなくても、わかりやすい例で見てみたいと思います。

 

 例えば、元首相の田中角栄のよく知られた逸話があります。

 田中角栄が大蔵大臣になったときの官僚たちへのスピーチで

「私が田中角栄であります。皆さんもご存じの通り、高等小学校卒業であります。皆さんは全国から集まった天下の秀才で、金融、財政の専門家ばかりだ。かく申す小生は素人ではありますが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきており、いささか仕事のコツは知っているつもりであります。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになりますが、お互いが信頼し合うことが大切だと思います。従って、今日ただ今から、大臣室の扉はいつでも開けておく。我と思わん者は、今年入省した若手諸君も遠慮なく大臣室に来てください。そして、何でも言ってほしい。上司の許可を取る必要はありません。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上!」

 

 自由にやってくれ、責任は私が取る。といって、官僚たちは心酔させた。
 官僚たちは田中角栄のために一生懸命働くようになった、という話です。

 

 
 私たちも、会社勤めなどをしていれば、やはり一番働きやすい環境というのは、上司なり、会社が責任をとってくれて、仕事を任せてくれる環境、ではないでしょうか。

 もちろん、自分に責任がないからといっていい加減に仕事をするなんてことにはなりません。 
   

 上司が、「責任は自分が取るから、思い切って頑張って」というとき、ニセの責任はフィルタされ、免責されてピュアな役割意識、信頼関係が残ることがわかります。

 そこには、自分が間違って評価されるとか、自分にはコントロールできない要因に左右されるという恐れがありません。

 
 ただ、純粋に誰かのために、といって頑張ることがどれほど、力になることか。

 仕事のプレッシャーに押しつぶされそうなときは、実は、純粋にプレッシャーを感じていると言うよりは、不安定な愛着ゆえにニセの責任をフィルタしきれずに、誰かに評価されるのでは?見捨てられるのでは?という感覚(ニセの責任)に苛まされている時です。

 

 私たち人間社会はニセの責任が多すぎます。

 例えば、仕事の責任も、「本当の責任」ではなく、単に上司や経営者の「不安」「不全感」を周りにぶつけているだけ、それに周囲が感染しているだけかもしれない。

 

 
 プレッシャーに押しつぶされそうな閾値を超えると、腹がくくれて、仕事に集中できるときがまれにあります。その時は、ニセの責任の幻想が破れて、純粋に役割意識に目が向いたとき、なのかもしれません。

(参考)→「「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。

 

 つまり、無責任とは、ちゃらんぽらんということではなく、ニセの責任がない状態、本来の役割に集中できる状態、ということです。

 

 

 私たちが親に求めているのも結局、「どんなことがあっても私の味方をして。私のことをちゃんと理解して」ということではないでしょうか?

 簡単に言えば、こうしたことをただただ求めていただけ。

 

 いま生きづらさの渦中にある方も、その苦しみは、ニセの責任による苦しみです。たとえ、発達障害だとか何か他の要因があったとしても、愛着が安定している方、つまりニセの責任を背負っていない方は生きづらさを抱えたりはしません。

 

 「誰か、私に罪はない、責任はない、と言ってくれ!!」という心の叫びを抱えています。

 

 

 結局はニセの責任を免責するための機構を外部(内部)にもちたい、という切実な欲求です。

 

 先日の記事にもかきましたが、一般の私たちの場合、「愛着」や「ストレス応答系」がその役割を果たしてくれます。 
 ニセの責任をフィルタしてくれるために、純粋に役割に集中できるようにしてくれているわけです。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 あらためて人間が悩みから解放されて、主権を持って生きるためには、いったんすべての責任がチャラになる機構を持つことが必要になるのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ルールは本来「破ること」も含んで成り立っている。

 

 ルービック・キューブという玩具があります。ある面にある色が移動して6面体を完成する。

 著者の子供の頃にはすでに流行ったあとで、はじめてみたときはどういうからくりになっているのか、と不思議でした。

 一つの色を動かすと別の面の色も動いてしまうので、子どもには難しかった思い出があります。
 

 

 世の中もルービック・キューブ以上に、多面体で多次元でできています。

 一面だけではありません。多次元のバランスで成り立っている。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 しかし、流行りのダイエットみたいに、ある一面を取り上げて「これが正しい」とやると、とても大きな変化が出るように見えることがあります。
 (全体主義とかファシズムなどです。個別に言えばハラスメント、ローカルルールもそうです)
 
 その効果は一時的で結局元に戻ってしまいます。

 

 ある一面のルールを取り上げて、これが正しい、として押し付けるのは、その背後には私的な情動が潜んでいて、ローカルルールと呼ばれる現象ですが、とても効果があって、正しいように見える。

 それは正しいから効果があるのではなく、極端だから一時的にバランスが崩れて変化あるように見えるだけ。

 

 いじめで、「お前は~~だ」という決めつけも、一面的だから、その場では効果がある。
 たしかにそのとおり、だと思えてしまう。

 そのことを真に受けると、ローカルルールの呪縛にかかってしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 特にトラウマを負っている人の特徴には「真面目さ」というものがあります。

(参考)→「過剰な「まじめさ」

 真面目さ、というのは、実はその方の気質による、というよりも「安心安全の欠如」からきます。
 安心安全を奪われると、目の前にあるルールを守らざるを得なくなる。

 発達障害の方などが融通がきかなかったり、真面目なのも、“そういう人だから”ではなく、身体の安心安全感が低いからです。

(参考)→「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴
 

 

 トラウマの場合は、マルトリートメント(不適切な養育)によって安心安全を奪われ、そこに、同時に、親のローカルルールを強いられる。

 過干渉、過保護も同様です。本来の気質に反して親の意向(ローカルルール)を強いられることはトラウマを生む持続するストレスに当たります。

 
 さらに、自分の気分でルールを押し付けてくる親を見ていますから、
ルールを守らないことはそんな親みたいになる(親みたいになりたくない)、という反感を持つようにもなります。
  
 
 それがかえって、ルールを守らされることにも繋がります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 ローカルルールは単に知識としてではなく内面化していますから、内は守り、外は敵視されたりもします。 

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。」 

 

 親への反感は潜在的に持ちながらも、ほんとうの意味での反抗ということには全くならず、なぜか内を守らされている。

 

 いろいろな自己啓発本を読んだりとか、すごいとされる人の言葉を真に受けては、それも半ば、破ったら悪いことが起こるのでは、というジンクスのような捉え方をしてしまう。

 

 何気ない他人の言葉でさえも、神からの託宣かのように、真に受けてしまう。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 いつしか、ルールは自分の中心にはなく、外側にあって、自分を支配するかのようになってしまっているのです。

「ローカルルールなのだから、破ってしまおう」とはできなくなってしまう。守らされてしまう。

 

 悪法でも法は法だ、とでも言わんばかりに、ローカルルールの呪縛というのはなかなかに強力です。

 罪悪感や真面目さなど、さまざまな要素を悪用してきます。

 特に「ルールを破る」ことへの抵抗感は、なかなかのものです。

 

 ローカルルールを打ち破るために、本来のルールとはなにか、について知っておくことは役にたちます。
 

 

 社会学者の宮台真司氏が書いた「子育て指南書 ウンコのおじさん」という本があります。
 子育て指南書 ウンコのおじさん

 

 

 

 

 

 

 

 タイトルの通り、子育てについて書いた本です。 

 その中に、こんな言葉が出てきます。

法を守るよりも、むしろ法を破ったときの共通感覚によって、仲間とそうでないものとを分けるのが人類のもともとのあり方です。

 

昨今は、そんな共通感覚が消え、誰が仲間か不明になりました。だから、法を少しでも破った人をみんなで名指しして「炎上」し、擬似仲間を演出するのです。

 

大人になるとは昔から、社会に生きるのに必要な共通感覚を身につけることでした。」 
 

法を破っていいから「殺していい」にはならない。これはやりすぎです。」「どこまで法を破っていいか、つまり「許されるの法外はどこまでか」「どこまでが共通感覚のうちか」とも言いかえられます。これは経験から学ぶしかありません。

 

親が「殺していい」と言ったから殺すのなら、子どもはクズです。親ごときの言葉を真に受けているからです。

 

法に過剰適応した人は、自動機械みたいにコントロールされます。母の肯定に過剰適応した人が、自動機械みたいにコントロールされるのと同じです。

 

法への依存や母への依存をやめれば、言葉の自動機械であることをやめられます。そのことで「もっと人になれる」のです。

 「僕たちの本体は法の外にあります。」「仲間かどうかは、法外のシンクロでわかります」「仲間を守るために法を守り、法を破ります。」「本当の正義は、法外にあります。
 

 

 

 筆者も最近読んだのですが、ローカルルールの嘘や、それを破るためのヒントが隠れている、と膝を打ちました。

 上記の本によれば、法(ルール)とは、それを「守る」という片側だけではなく、「破る」という反対の片側と、両側で成り立っている、というのです。

 

 たしかにそのとおりで、私達は日常では、そうした破ることも含んだ裁量の中で生きています。

 特に、「ここまでは破っていい」というまさに安心安全を背景にした共通感覚で、そこにこそ社会とのつながりが生まれていってよい。

 

 反対に、「ルールは絶対に破るな」というのは、まさにローカルルールの命じるところで、そうしたことは嘘であることがわかります。

 

 なぜなら、社会とは多元的であり、多様であって、一元的に「こうするべき」とは決めることができないからです。

 

 刑法や民法などは、日常の外苑を囲うもので、健全な社会であれば、個々人の思想信条や生き方には口をだすことはしませんし、できません。

 そこにルールを張ろうとするのはかなりおかしいのです。

 私たちが苦しむローカルルールは刑法や民法といったものではなく、
 身近な人達によって都合よく架けられた、私達の生き方を縛るルールです。

 嘘だというさらなる証拠として、そこには安心安全もないし、温かな共通感覚がありません。
 

 

 ローカルルールとは、片側だけの、映画のセットのようなものです。
  
 本物であれば、それを「破ってもいい」ということとセットで両側でなりたっているもの。

 あるルールを守るというのは、多元的、多面的な社会の中で、ある一面に閉じ込められることを意味します。
 多様さを感じることができない。

 ローカルルールに呪縛されている人にとっての社会とは、一面的で自分を拘束する恐ろしい存在として感じられます。

 本来、社会はローカルルールの呪縛から解き放つためのフィールドでもあります。
 
 しかし、そこにアクセスできない。
  
   
 そのためにローカルルールに留めさせられてしまいます。
 (いわゆるひきこもりという現象などもこうした背景があると考えられます。)

 

 

 筆者も、昔働いていた職場でモラハラを行う人達を見ましたが、共通する手口が、「ここまでは破って大丈夫」ということで成り立っていた共通感覚を壊すということ。
 
 それまでは裁量で良しとされてきたことを、「これはルールだぞ」ということで衝立をたてるようにして、相手を追い込む。

 突然のことで驚いた被害者は、確かにルールを破っているので反論できずにマウンティングされてしまう。
(「あなたはルールを守れない人だ」とでも言われて、ウッとなったらもう抜けれなくなります。「さあ、私の指導に従いなさい」となります)

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 家庭でも同様で、本当は破ることも含めてしつけは存在する。

 子どもは賢いですから、守破離というように、しつけを守らせたあとは、破って離れてしていいわけですが、ローカルルールによって縛る親は、「絶対破るな」として片側だけのものにしてしまう。

 しつけも、本来は「破ってもいい」という反対サイドも含めて両側で成り立っているはずなのです。

 

 職場でも、活力のある職場は、破ってもいいということを含めて文化、風土は成り立っているはずで、そこに自発性、自律性も存在しているのです。

 「宗教のような職場だ(家庭であれば)機能不全家族だ」と言われるかそうではないかの差は、そこで展開されるルールが片側だけか、両側も含めてのものか、にあるのかもしれません。

 

 

 本来のルールというのものは、全て一度破るためにある。
 ルールは破らないと自分のもの、そして共同体のものにはならない、ということです。

 個人の発達のプロセスでもそれが二度あります。反抗期です。

 反抗期を経た人が、法を破って反抗すると愚連隊になるわけではありません。大人になる。
 むしろ、反抗期を経ないと大人として発達しきれないように、ルールはまず破る必要がある。

 破ることで両側から支えられる、多元性を獲得できる。
 

 

 
 ローカルルールをどうしても守らせられて、
 「ルールだから破るとなにか良くないことが起こるかも」と思ったら、とりあえず全て破ってみる。

 
 「~~しなければならない」と頭に浮かんだら、中指立てて、「NO」といってみる。

 もし、偽物(ローカルルール)だったら、壊れるし、
 本物だったら、共通感覚が生まれて、腑に落ちる感覚が芽生えますから、安心しておいて良い。

 (いずれにしても頭の中にあるルールは基本すべて偽物ですけれどもね。)