無責任で本当に大丈夫? ~無責任かつ位置と役割があると人間は力を発揮できる

 

 私たちは、責任を引き受けなければならない、物事には責任が不可欠だ、と考えています。

 

 
 しかし、これまで見てきましたように、人間が主体的に動くためには、いったんすべての責任がチャラになることが必要になります。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 人間というのは、クラウド的な存在、社会的な動物であるために、何もしていなくても、いろいろな(ニセの)責任が他者から覆いかぶさってくるものです。
(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 ただ、実は責任という概念は、ローカルルールと親和性がとても高い。際限なく広がり、人を支配するものでもあります。

 

 以前の記事でも書きましたが、私たち人間には、責任という概念は必要なく、「役割」さえあればいい。

 役割があれば、人間は機能するものです。

(参考)→「“責任”は不要~人間には「役割」があればいい。

 

 

 前回見た、マックス・ウェーバーの仮説も、責任という観点で言い直せば、そういうことではないかと思います。プロテスタントの場合は、予定説がその機能を果たしてくれていたわけです。

 神様がニセの責任をすべて引き取ってくれて、安全な環境でスポーツマンのようにのびのび自由と主体性を発揮できるわけです。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 
 その一方で、「本当に責任がなくていいの?」と不安もよぎります。

 お金を払ったのに食べ物が出てこない、
 家を頼んだのに作ってくれない、
 電化製品を買ったのに配達されない、では困ります。

 

 責任と、主体性とを改めてどのように考えればよいのでしょうか?

 ウェーバーだとか、小難しいカッコつけたような考えを持ってこなくても、わかりやすい例で見てみたいと思います。

 

 例えば、元首相の田中角栄のよく知られた逸話があります。

 田中角栄が大蔵大臣になったときの官僚たちへのスピーチで

「私が田中角栄であります。皆さんもご存じの通り、高等小学校卒業であります。皆さんは全国から集まった天下の秀才で、金融、財政の専門家ばかりだ。かく申す小生は素人ではありますが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきており、いささか仕事のコツは知っているつもりであります。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになりますが、お互いが信頼し合うことが大切だと思います。従って、今日ただ今から、大臣室の扉はいつでも開けておく。我と思わん者は、今年入省した若手諸君も遠慮なく大臣室に来てください。そして、何でも言ってほしい。上司の許可を取る必要はありません。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上!」

 

 自由にやってくれ、責任は私が取る。といって、官僚たちは心酔させた。
 官僚たちは田中角栄のために一生懸命働くようになった、という話です。

 

 
 私たちも、会社勤めなどをしていれば、やはり一番働きやすい環境というのは、上司なり、会社が責任をとってくれて、仕事を任せてくれる環境、ではないでしょうか。

 もちろん、自分に責任がないからといっていい加減に仕事をするなんてことにはなりません。 
   

 上司が、「責任は自分が取るから、思い切って頑張って」というとき、ニセの責任はフィルタされ、免責されてピュアな役割意識、信頼関係が残ることがわかります。

 そこには、自分が間違って評価されるとか、自分にはコントロールできない要因に左右されるという恐れがありません。

 
 ただ、純粋に誰かのために、といって頑張ることがどれほど、力になることか。

 仕事のプレッシャーに押しつぶされそうなときは、実は、純粋にプレッシャーを感じていると言うよりは、不安定な愛着ゆえにニセの責任をフィルタしきれずに、誰かに評価されるのでは?見捨てられるのでは?という感覚(ニセの責任)に苛まされている時です。

 

 私たち人間社会はニセの責任が多すぎます。

 例えば、仕事の責任も、「本当の責任」ではなく、単に上司や経営者の「不安」「不全感」を周りにぶつけているだけ、それに周囲が感染しているだけかもしれない。

 

 
 プレッシャーに押しつぶされそうな閾値を超えると、腹がくくれて、仕事に集中できるときがまれにあります。その時は、ニセの責任の幻想が破れて、純粋に役割意識に目が向いたとき、なのかもしれません。

(参考)→「「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。

 

 つまり、無責任とは、ちゃらんぽらんということではなく、ニセの責任がない状態、本来の役割に集中できる状態、ということです。

 

 

 私たちが親に求めているのも結局、「どんなことがあっても私の味方をして。私のことをちゃんと理解して」ということではないでしょうか?

 簡単に言えば、こうしたことをただただ求めていただけ。

 

 いま生きづらさの渦中にある方も、その苦しみは、ニセの責任による苦しみです。たとえ、発達障害だとか何か他の要因があったとしても、愛着が安定している方、つまりニセの責任を背負っていない方は生きづらさを抱えたりはしません。

 

 「誰か、私に罪はない、責任はない、と言ってくれ!!」という心の叫びを抱えています。

 

 

 結局はニセの責任を免責するための機構を外部(内部)にもちたい、という切実な欲求です。

 

 先日の記事にもかきましたが、一般の私たちの場合、「愛着」や「ストレス応答系」がその役割を果たしてくれます。 
 ニセの責任をフィルタしてくれるために、純粋に役割に集中できるようにしてくれているわけです。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 あらためて人間が悩みから解放されて、主権を持って生きるためには、いったんすべての責任がチャラになる機構を持つことが必要になるのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ルールは本来「破ること」も含んで成り立っている。

 

 ルービック・キューブという玩具があります。ある面にある色が移動して6面体を完成する。

 著者の子供の頃にはすでに流行ったあとで、はじめてみたときはどういうからくりになっているのか、と不思議でした。

 一つの色を動かすと別の面の色も動いてしまうので、子どもには難しかった思い出があります。
 

 

 世の中もルービック・キューブ以上に、多面体で多次元でできています。

 一面だけではありません。多次元のバランスで成り立っている。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 しかし、流行りのダイエットみたいに、ある一面を取り上げて「これが正しい」とやると、とても大きな変化が出るように見えることがあります。
 (全体主義とかファシズムなどです。個別に言えばハラスメント、ローカルルールもそうです)
 
 その効果は一時的で結局元に戻ってしまいます。

 

 ある一面のルールを取り上げて、これが正しい、として押し付けるのは、その背後には私的な情動が潜んでいて、ローカルルールと呼ばれる現象ですが、とても効果があって、正しいように見える。

 それは正しいから効果があるのではなく、極端だから一時的にバランスが崩れて変化あるように見えるだけ。

 

 いじめで、「お前は~~だ」という決めつけも、一面的だから、その場では効果がある。
 たしかにそのとおり、だと思えてしまう。

 そのことを真に受けると、ローカルルールの呪縛にかかってしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 特にトラウマを負っている人の特徴には「真面目さ」というものがあります。

(参考)→「過剰な「まじめさ」

 真面目さ、というのは、実はその方の気質による、というよりも「安心安全の欠如」からきます。
 安心安全を奪われると、目の前にあるルールを守らざるを得なくなる。

 発達障害の方などが融通がきかなかったり、真面目なのも、“そういう人だから”ではなく、身体の安心安全感が低いからです。

(参考)→「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴
 

 

 トラウマの場合は、マルトリートメント(不適切な養育)によって安心安全を奪われ、そこに、同時に、親のローカルルールを強いられる。

 過干渉、過保護も同様です。本来の気質に反して親の意向(ローカルルール)を強いられることはトラウマを生む持続するストレスに当たります。

 
 さらに、自分の気分でルールを押し付けてくる親を見ていますから、
ルールを守らないことはそんな親みたいになる(親みたいになりたくない)、という反感を持つようにもなります。
  
 
 それがかえって、ルールを守らされることにも繋がります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 ローカルルールは単に知識としてではなく内面化していますから、内は守り、外は敵視されたりもします。 

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。」 

 

 親への反感は潜在的に持ちながらも、ほんとうの意味での反抗ということには全くならず、なぜか内を守らされている。

 

 いろいろな自己啓発本を読んだりとか、すごいとされる人の言葉を真に受けては、それも半ば、破ったら悪いことが起こるのでは、というジンクスのような捉え方をしてしまう。

 

 何気ない他人の言葉でさえも、神からの託宣かのように、真に受けてしまう。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 いつしか、ルールは自分の中心にはなく、外側にあって、自分を支配するかのようになってしまっているのです。

「ローカルルールなのだから、破ってしまおう」とはできなくなってしまう。守らされてしまう。

 

 悪法でも法は法だ、とでも言わんばかりに、ローカルルールの呪縛というのはなかなかに強力です。

 罪悪感や真面目さなど、さまざまな要素を悪用してきます。

 特に「ルールを破る」ことへの抵抗感は、なかなかのものです。

 

 ローカルルールを打ち破るために、本来のルールとはなにか、について知っておくことは役にたちます。
 

 

 社会学者の宮台真司氏が書いた「子育て指南書 ウンコのおじさん」という本があります。
 子育て指南書 ウンコのおじさん

 

 

 

 

 

 

 

 タイトルの通り、子育てについて書いた本です。 

 その中に、こんな言葉が出てきます。

法を守るよりも、むしろ法を破ったときの共通感覚によって、仲間とそうでないものとを分けるのが人類のもともとのあり方です。

 

昨今は、そんな共通感覚が消え、誰が仲間か不明になりました。だから、法を少しでも破った人をみんなで名指しして「炎上」し、擬似仲間を演出するのです。

 

大人になるとは昔から、社会に生きるのに必要な共通感覚を身につけることでした。」 
 

法を破っていいから「殺していい」にはならない。これはやりすぎです。」「どこまで法を破っていいか、つまり「許されるの法外はどこまでか」「どこまでが共通感覚のうちか」とも言いかえられます。これは経験から学ぶしかありません。

 

親が「殺していい」と言ったから殺すのなら、子どもはクズです。親ごときの言葉を真に受けているからです。

 

法に過剰適応した人は、自動機械みたいにコントロールされます。母の肯定に過剰適応した人が、自動機械みたいにコントロールされるのと同じです。

 

法への依存や母への依存をやめれば、言葉の自動機械であることをやめられます。そのことで「もっと人になれる」のです。

 「僕たちの本体は法の外にあります。」「仲間かどうかは、法外のシンクロでわかります」「仲間を守るために法を守り、法を破ります。」「本当の正義は、法外にあります。
 

 

 

 筆者も最近読んだのですが、ローカルルールの嘘や、それを破るためのヒントが隠れている、と膝を打ちました。

 上記の本によれば、法(ルール)とは、それを「守る」という片側だけではなく、「破る」という反対の片側と、両側で成り立っている、というのです。

 

 たしかにそのとおりで、私達は日常では、そうした破ることも含んだ裁量の中で生きています。

 特に、「ここまでは破っていい」というまさに安心安全を背景にした共通感覚で、そこにこそ社会とのつながりが生まれていってよい。

 

 反対に、「ルールは絶対に破るな」というのは、まさにローカルルールの命じるところで、そうしたことは嘘であることがわかります。

 

 なぜなら、社会とは多元的であり、多様であって、一元的に「こうするべき」とは決めることができないからです。

 

 刑法や民法などは、日常の外苑を囲うもので、健全な社会であれば、個々人の思想信条や生き方には口をだすことはしませんし、できません。

 そこにルールを張ろうとするのはかなりおかしいのです。

 私たちが苦しむローカルルールは刑法や民法といったものではなく、
 身近な人達によって都合よく架けられた、私達の生き方を縛るルールです。

 嘘だというさらなる証拠として、そこには安心安全もないし、温かな共通感覚がありません。
 

 

 ローカルルールとは、片側だけの、映画のセットのようなものです。
  
 本物であれば、それを「破ってもいい」ということとセットで両側でなりたっているもの。

 あるルールを守るというのは、多元的、多面的な社会の中で、ある一面に閉じ込められることを意味します。
 多様さを感じることができない。

 ローカルルールに呪縛されている人にとっての社会とは、一面的で自分を拘束する恐ろしい存在として感じられます。

 本来、社会はローカルルールの呪縛から解き放つためのフィールドでもあります。
 
 しかし、そこにアクセスできない。
  
   
 そのためにローカルルールに留めさせられてしまいます。
 (いわゆるひきこもりという現象などもこうした背景があると考えられます。)

 

 

 筆者も、昔働いていた職場でモラハラを行う人達を見ましたが、共通する手口が、「ここまでは破って大丈夫」ということで成り立っていた共通感覚を壊すということ。
 
 それまでは裁量で良しとされてきたことを、「これはルールだぞ」ということで衝立をたてるようにして、相手を追い込む。

 突然のことで驚いた被害者は、確かにルールを破っているので反論できずにマウンティングされてしまう。
(「あなたはルールを守れない人だ」とでも言われて、ウッとなったらもう抜けれなくなります。「さあ、私の指導に従いなさい」となります)

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 家庭でも同様で、本当は破ることも含めてしつけは存在する。

 子どもは賢いですから、守破離というように、しつけを守らせたあとは、破って離れてしていいわけですが、ローカルルールによって縛る親は、「絶対破るな」として片側だけのものにしてしまう。

 しつけも、本来は「破ってもいい」という反対サイドも含めて両側で成り立っているはずなのです。

 

 職場でも、活力のある職場は、破ってもいいということを含めて文化、風土は成り立っているはずで、そこに自発性、自律性も存在しているのです。

 「宗教のような職場だ(家庭であれば)機能不全家族だ」と言われるかそうではないかの差は、そこで展開されるルールが片側だけか、両側も含めてのものか、にあるのかもしれません。

 

 

 本来のルールというのものは、全て一度破るためにある。
 ルールは破らないと自分のもの、そして共同体のものにはならない、ということです。

 個人の発達のプロセスでもそれが二度あります。反抗期です。

 反抗期を経た人が、法を破って反抗すると愚連隊になるわけではありません。大人になる。
 むしろ、反抗期を経ないと大人として発達しきれないように、ルールはまず破る必要がある。

 破ることで両側から支えられる、多元性を獲得できる。
 

 

 
 ローカルルールをどうしても守らせられて、
 「ルールだから破るとなにか良くないことが起こるかも」と思ったら、とりあえず全て破ってみる。

 
 「~~しなければならない」と頭に浮かんだら、中指立てて、「NO」といってみる。

 もし、偽物(ローカルルール)だったら、壊れるし、
 本物だったら、共通感覚が生まれて、腑に落ちる感覚が芽生えますから、安心しておいて良い。

 (いずれにしても頭の中にあるルールは基本すべて偽物ですけれどもね。)

 

 

評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 ローカルルールとは、私的な感情に基づくニセの常識の世界です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

「ルール」と名前がつくように、そこにはルールに基づく評価や評判が必ず伴います。

 「あなたはこんな人だ」
 「この行動はだめだ」

 といったように。

 

 ニセの常識ですから、物理的な現実には全く根ざしていません。

 ある切り口を取り上げて、単要素が世界のすべてだと偽っています。
だから、かなりおかしいのですが、ローカルルールにハマってしまうとそれが見えなくなってしまいます。

(参考)→「“作られた現実”を、さらに解体する。

 

 

 いつしか物理的な現実から切り離されて、「評価」「評判」がすべてであるかのようになります。

 とくにトラウマを負った人にとっては、「評判≒自分そのもの」になっています。

 悪い評価、評判があれば、自分そのものが汚染されたような感じになり、まさに自分がその評判通りであるように感じてしまいます。

 反対に良い評価をされても、その評価どおりになってしまう。

 つまり、自分と他人の区別がなく、人の言葉は事実そのものと受け取っている状態です。

(参考)→「自他の区別がつかない。」「「自他未分」

 

 
 人からの評価や評判というのは、実は客観的な指標のふりをした「私的な情動」です。

 ですから、人からの評価や評判を気にするということは、人の私的な領域を覗き込まされてしまっているということ。
巻き込まれてしまうということを意味します。

 巻き込まれてしまうと、私的領域(ローカルルール)という不思議世界が現実であるように思い込まされて、容易には抜けれなくなります。
 

 「評価」「評判」というのは、客観的な何かを表しているように思わされていますが、これもすべて戯言であるということです。戯言なのに、「評価」という形を取ることで正統性を偽装している。

(参考)→「人の考えも戯れでしかない~考えや意見は私的領域(生育歴)の投影でしかない。

 

 

 物理的な現実はどうか?というと、
 人が人を評価するというのは基本的にはできない。

 本来、人間は違う文化、世界同士ですから、ものさしが違いすぎる。それぞれがあたかも小宇宙のように独立しています。

 
 人が人を評価するというのは、どの立場でもできない。とっても僭越な行為です。それ自体便宜的な虚構です。

 個々に独立したものを評価するというのは本来はムリなことで、とても変なことなのです。

 相手の中にニセの感情(罪悪感、不安感など)を揺り動かすなりして、巻き込まなければ成立しない。
 (ヤクザが大きな音をたてるみたいに)

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 

 日常で、私たちは「あの人は~~だ」とか「あれは~~だ」と人のことをとやかく言っていますが、あくまで戯れにおこなっていることで、本来は成り立たないことをしている。

 仕事など、公的な実務においては、その実務の都合上、技能やパフォーマンスについて便宜的に評価をしますが、その人そのものがどんな人かを評価することは誰にもできない。大企業でも試行錯誤していますが、客観的な評価はなかなか難しいのはそのため。

 

 仕事も本来は他者の評価を目指すものではなく、技能や経験を通じて普遍的な何かにつながることが目標になります。 

 お客さんの評価や評判を集めてもいい商品はできない、と言われるように、物理的な現実に根ざし、普遍的な何かに繋がり、というのが仕事でも本来の姿です。
 

 普遍的な何かとは偶然に得られることもありますし、先端を行く人の感性による場合もあります。

 (参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 いずれにしても他者の私的領域に巻き込まれては、こうしたことは得られない。

 

 仕事においても健全な発達というのは存在し、仕事の技能や役割とは、私的領域に巻き込まれないための柱として存在しているのだと言えそうです。
  
 技能や役割も与えられず、数字だけで評価される環境というのは、機能不全家庭の子供のように、自他の区別が曖昧で、公的なふりをした私的領域(ローカルルール)が支配する世界です。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。」 

 

 

 プライベートな環境においても、「評価」や「評判」が気になるというのは、自他の区別が曖昧になっていて、相手の私的領域を覗き込まされてしまっている、巻き込まれているということ。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。」

 

 本来であれば、反抗期などを経て、そうしたものは一旦全て否定して、自分の軸(自他の区別)を獲得するものなのです。不適切な環境の場合は、それが得られずに苦しむことになります。 

 

 私たちはポリス的動物ですから、ルールに弱い。
また、「評価」「評判」には「耳を傾けなければ」と思わされていたりする。

(参考)→「「ポリス的動物(社会的動物)」としての性質を悪用される

 

 とくに、理不尽な目にあってきた人は、「ルール無用に理不尽に振る舞う人と同じ様になりたくない」という意識も手伝って、相手の気持を覗き込もうとしてしまう。過度に客観的であろうとしたり、ニセの「評価」「評判」を真に受けてしまいがちです。

(参考)→「ニセ成熟は「感情」が苦手「過剰な客観性」

 

 

 
 「評価」「評判」というだけで、巻き込まれる要素があるのです。

 そこにはローカルルールが存在している、ということに気づく必要があります。

 

 人の評価が気になったら、「あっ、巻き込まれている」「人の頭の中を覗き込まされている。これがローカルルールというものなんだ」と立ち止まってみる。
   
 とくに、人の評価が自分そのものになっている場合は完全に巻き込まれているので要注意。

 
 頭の中で、親の評価や価値観と同一化している、ということもとてもよくあります。

 親が「あの人は~だ」とか、「あんな人はだめだ」といったことを真に受けている。その価値観通りに動かされている。

 これも結局はローカルルールでしかないもの。

(参考)→「「汚言」の巣窟

 

 そうやってチェックしていくだけでも、結構楽になって、自他の区別がついてきます。
 (反抗期で自然に起きるはずのものを意図的になぞって、主権を自分に取り戻す作業といえます。)
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

「言葉には心を越えない~♪」というのは昔大ヒットした歌の歌詞です。

言葉には意味がないのよ、というのは昔から人間が感じていたことです。

 一方、言葉が最初にあった、というように言葉の価値の大きさもわたしたちは知っている。

 

カウンセリングでも、「傾聴」ということが重んじられるわけです。

では、本当の傾聴ってなんだろう?と考えたくなります。

 

 傾聴とは、鵜呑み、真に受けではありません。

 人間が解離しやすく、内的な人格が分かれているという性質を持つ以上、すべて真に受けることはありえません。発せられた言葉を吟味し、選別し、本来の人格の声を見つけること。それも治療者の役割と言えます。

 

 ハラスメントやローカルルールといったものを見るにつけて、強く思うのが、「日常の人間の言葉は本当に意味がない」ということです。

 

 なぜかといえば、繰り返しになりますが人間は容易に解離してしまう存在であり、おかしくなってしまうからです。
 これは誰でもそうです。

 とくに私的環境では簡単に人格スイッチしてしまう。 

 そして、私的な情動(不全感)をもとに、相手を支配しようとしたり、攻撃しようとして、おかしな発言をする。

 

 人間は、公的な環境で、公的な役割を背負ってはじめて理性的でいられる。
 実際に、古代ギリシャでは、公的な役割がなければ完全な人間ではない、と考えられていました。

 
 それは、私的な環境では人間がいかにおかしくなってしまうのか、ということを経験的にわかっていたからかもしれません。

 日常生活で人間は、夜中に食べたくもないラーメンを無性に食べたくなるくらい、本心というのはわからない存在。本心って一体何?と不思議に思います。
 

 言葉はもっといい加減。

 

 日常で発せられる言葉、とくに責任を負わない消費者という立場には、ローカルルールが頻繁に介入してきます。そのため、無駄な買い物をしたり、クレーマーになってみたり、おかしなことだらけ。

 

 臨床の現場でも、言葉を吟味せずに治療者がすべて真に受けては、クライアントさんにとっても危険で本来の人格とローカルルールからきたものとを、よほど吟味しないといけない。

 

 悩みを抱える、とはなにかといえば、ローカルルールを内面化した状態、と定義できます。

 

 
 例えば、クライアントさんが
 「仕事でミスをする人がどうしても許せない」と言ったとしたら、

 それは、「ミスをしてはいけない(ミスをする人は存在してはいけない)」という内面化したローカルルールから来た言葉だとわかります。

 

 その「ミスをしてはいけない」はどこから来るか?といえば、

 養育環境で親などが、イライラする自分の不全感を発散させるために感情を子どものぶつけることを正当化しようとして、「お前がミスをするからだ!」「ミスをしてはいけない、というのは常識だ。だからお前を叱責しているのだ(自分の私的感情からイライラしているのではありませんよ)」ということから始まり、

 それを「期待に応えなければ」と思う真面目な子ども(クライアントさん)が真に受けて、内面化し、忠実に実行してきた。

 そして、親のローカルルールに感染した「ローカルルール人格」が子ども(クライアントさん)の中に形成されます。

 
 そうして長い年月を経て、発した言葉が「仕事でミスをする人がどうしても許せない」ということ。

 

 そうなると、それはその方の本来の発言ではありません。ローカルルールに言わされている、ということです。
 ”ローカルルールの現れ”として捉える必要があります。

 
 そして、治療者が「それ、ローカルルールのようですね」と区分けしたり、本来の自分ではない、とあえて否定したりする必要がある。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 治療者が、まさか「傾聴が大事」なんて真に受けてしまっていたら、クライアントさんは良くならない。
 クライアントさんの本音は、「今私が話している言葉は本来の私ではなく、ローカルルールに言わされているんです~。誰か気づいて、助けて~」と思っているのですから。

 
  
 別の場面で、
 「治療者の言葉や態度が気に入らない」と言ったとしたら、それも内面化したローカルルールから来ている。
 まさか真に受けて、治療者が「態度を改めよう」なんていうことは全く必要ない。勘違いして、もし態度を改めたら、クライアントさんは余計にローカルルールに呪縛されてしまう。
 

 それも、「ローカルルールから来ているようですね」といって、区分けしてあげないといけない。

 

 ローカルルール人格というのはまさに、ウイルスによって、パソコンが乗っ取られているような状態です。社会学者の内藤朝雄氏の本でもいじめに加担した生徒の声が載っていますが、「何かそれ、うつっちゃうんです」という状態。

参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 だから、乗っ取られた状態を真に受けて「そうなんですね~」なんて傾聴で応じていてはいけない。

 しっかりと観察して、区別して、指摘して、ローカルルール人格というものの影響を明らかにしていかないといけない。
 それによって、クライアントさんも本来の自分に戻ることができるようになる。
 

 

 

 繰り返しになりますが、日常で発せられる言葉というのは本当に意味がない。
 

 冒頭に書きましたように、言葉の価値は本来大きいのですが、「言葉が尊い」という場合のそれは本来は「神の言葉」という意味。人間はそれを承るだけの存在だし、完全には理解できない。
 その言葉の価値を悪用しているのがローカルルールです。ニセの神様のようになって、言葉を弄んでいる。

 人間の言葉はすべて戯言です。

 

 公的な環境になると人間の言葉がかろうじて意味を持ってくるのは、それは公的な役割を通して「一般意志」をいくらか”代表”できるようになるから。
 一般意志とはルソーの概念ですが、社会の普遍的意志のことです。
 (普遍的意志は、近代以前は、シャーマンや聖職者が、神がかって降ろしたりしていました。占いなどもそうですが、なんとかして神の言葉を読み取ろうとしていたのです。)
 

 作家や歌手の言葉が感動を呼ぶのは、普遍的意志を降ろしてくるから。
 でも、それができるのは瞬きのような一瞬で、いつもではない。だから、しばしば薬物に手を出すようなアーティストも出てくる。

 

 一方、日常では「悪貨は良貨を駆逐する」というように、価値のない悪貨だらけの世界であることを知らなければならない。
 東大の安冨歩教授は「世の中はハラスメントでできている」といっています。ハラスメントの言葉だらけ。本当に価値のある言葉が埋もれている状態。

 

 目の前の貨幣(言葉)が本物か偽物かを吟味することをせずに、すべてを受け取らなければならない、という間違ったルールに従わされている。 

 

 

 「傾聴が大事」と思いこまさせられている人たちが、まさにハラスメントの犠牲者になっている。親やいじめっ子や、上司の盲言を真面目に受け止めさせられて、カウンセラー役をさせられてしまっている。
 

 

 反対に、健康な人ほど日常の言葉は意味がないと知っていて、やり過ごしていたりします。

 東大の教授が書いた本はまさにその様になっています。
 (参考:高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」日経ビジネス人文庫)

 やり過ごすことが勢いのあった時代の日本企業を支えていた、というのです。

 

 
 カウンセリングでも、本来大切なのは傾聴ではなく観察。

 治療者であれば、クライアントさんの様子を、よーく観察する。
 言葉は真に受けない。あくまで観察のための材料。基本的にはやり過ごして、聞き流さないといけない。

 良い料理人が目利きをするみたいに、素材を選り分ける。
 良い研究者やジャーナリストみたいに、証拠を吟味して、取捨選択をする。

 

 言葉が1000あれば、そのうち本来の言葉はかろうじて3つあるかないか、かもしれません。
 日常であれば、ほぼ0といってもいいくらい、言葉には意味がない。言葉は本来神のものですから。

 

 ローカルルール人格とはニセの神様になった状態のことです。
 (いじめを行っている人たちや、あおり運転の人たちも、まさに神のような全能感を持って他人を裁いている様が最近であれば動画で記録されています。)

 日常の言葉とは、その方の生育歴からくる雑多な感覚を目の前のものに投影してただ吐き出しているだけ。何も”代表”していない。

 
 悩みを抱えている人にとっても、こうしたこと知るのはとても大事。

 

 自分自身がローカルルールの影響から逃れるためにも、ですが、日常でハラスメントにあわないためにも、です。
 人が発する言葉にはすべて意味がないと知れば、「~~さんって嫌なところがあるよね」みたいな気になる意味深な言葉も、全く意味がないとスルーできるようになります。

 

 日常の言葉は戯れ言としてすべて聞き流す。言葉は何も表していない。
 (聞き流してはじめて本当のコミュニケーションが取れるようになります。)

 

 

 今までは理想化して、恐れていた人が、大したことがない存在であること、「解離しやすいおサルさん」でしかなく、話す言葉も意味深なだけの意味のない言葉であることがわかってきます。人に対する怖さがなくなってきます。

  
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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