“責任”は不要~人間には「役割」があればいい。

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 “責任”にはニセモノが多い。
その蓄積が、私たちの苦の根源にあるものだ、としてきました。

 ニセモノがあるのであれば、ホンモノの責任があるのか?ということについて、ですが、便宜的に、ホンモノがあるということはできます。

 本物の責任だけを背負って、そうではないものは背負わないことがポイントといえます。

 

 ただ、いろいろと調べてみると、“責任”という概念は、とても曖昧で、納まりが悪い言葉であることが見えてきます。

 哲学とか、法学とかで責任ということについていくつか研究されているようですが、どうやらイマイチピンとくるものがない。

 

 『“責任”はだれにあるのか』という本を書いた国士舘大学客員教授の小浜逸郎氏は、「本書を書き終えた感想をひとことで率直に言うと、「やっぱり責任て、なんだかよくわからない概念だなあ」というところです。」
 と述べています。

 

 

 なぜ、よくわからないか、というと、
簡単に言えば、責任の主体と、問われる責任そのものとがどう理屈をつけても一致しない、ということ。 

 

 責任とは、自由意志を持つ主体が、その行為の結果について問われる、ということです。

 しかし、人間ってそもそも自由意志など持っていない。自由意志を持っている、といってもあくまでそれは理想の話。
 実際の人間は、外的、内的環境の影響を受ける存在で、否応なしに追い込まれるように反応しているだけ。

 

 哲学者のスピノザも述べていますが、人間には自由意志などなく、行為の原因をたどると環境に還元されてしまう。

 

 

 今日朝ごはんになぜパンを食べたか、といえば、前に見たTV番組のせいか、メーカーのマーケティングのせい、スーパーの価格決定のせい、親の教育のせい、意図しないホルモンバランスの乱れのせいか、政府の政策のせいか・・・
 など原因はきりがありません。
 何にも影響されず、自由意志で選んだ、とは言えない。
 

 「いやいや、そんなへ理屈を言って。パンは自分で選んだでしょ」と思うかもしれませんが、自分の行動を説明できないのは、私たちがよく知っている。
 買いたくない買い物をしたり、やりたくないことをしてしまったり、自分の行動で説明できることのほうが少ない。

 

 街頭でいきなりインタビューを受けて、「その服はなぜ買ったのですか?」と聞かれたら、スッキリ答えることはできない。
 「たまたま通りかかって」とか、「バーゲンをしてて安かったから」とか、
 「いや、デザインが気に入ったので」と、それはわかりやすい理由を探して言うだけ。本当の原因とは言えない。

 

 マーケティングなどの研究では、そうした答えは本当の答えではなく、真に受けると痛い目に合うことはよく知られている。
 本当の理由はもっと奥にあるけど、当人は気が付けない。第三者もそれを導くためには、正しく設計された調査と統計的な手法が必要になる。
 その際明らかにするのは、自由意志というものではなくて、環境の要因とか、無意識に潜む因子といったものです。

 

 こうしたことを考えると、人間には完全な自由意志などはないし、そこから導き出される“責任”という概念はまったく似合わない。

(パリ大学の小坂井敏晶教授も、『責任という虚構』という本の中で責任ということが人間にとってふさわしくないことをまとめています。)

 

 

 実際、“責任”という概念を持ち出して議論すると紛糾しています。
 納得できず、納まりが悪いので、いつまでたっても結論が収束しない。

 犯罪といったような明らかにその人が起こした問題であっても“責任”という言葉で語り始めると、居心地が悪くなってくる。

 例えば、ある国でマイノリティの人たちは犯罪率が高い、といったときに、では、犯罪はその人たちの責任か、といえば、そもそも構造的に貧しいから、教育水準が低いから、差別にさらされているか、となる。

 では、現場で起きた窃盗の責任はだれにあるの?と突き詰めていくと、訳が分からなくなってくるのです。

 『反省させると犯罪者になります』という本にもあるような理不尽さを人間は正しく感じるようになります。

 

 

 

 筆者は、“責任”という言葉は不要で、廃止してしまったほうが良いのではないか、と思っています。

 とっても扱いづらいし、納得性も低い。実用性も低い。なくても全然困らないからです。

 

 
 「責任っていう言葉がなくなったら、無責任な人が増えて困るのでは?」と思うかもしれません。 

 
 しかし、“責任”という言葉は、日本においては、実は明治になり外から入ってきた言葉です。

 それ以前は“責任”という言葉は現代でいう意味ではありませんでした。
 でも、困ることはなかった。  

 私たちが教科書なんかで習った「御恩と奉公」だとか、儒教の「仁」だとか、別の言葉が代わりにあったと考えられます。

 

 
 現代でいえば、「役割」という言葉がそれにあたるのかな、と思われます。

 

 使いにくい“責任”という言葉は廃止して、「役割」を用いたほうがよほどすっきりする。

 

 

 なぜかというと、これまで述べたように、“責任”というのはありえない自由意志と対になっていることから、そもそも範囲が広くなりすぎる性質があるため。

 
 “責任”はその範囲を制限していても、結局、「道義的な責任」といったようなものも含んで、当人の人格や存在そのものにまで浸透して、否定して消し去ろうとする傾向がある。

 
 “責任”が想定する自由意志とは環境も含んだ要素から成り立っているため、環境という自分ではコントロールできないものまで、自分のせいにされてしまうのです(社会学では、「関係性の個人化」といいます)。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 だから、皆、“責任”という言葉には理不尽さを感じて、しり込みをしてしまうし、それが私たちを苦しめる。

 

 あるいは、本来、 責任のない人まで責任を感じて、「ニセの責任」引き受けてしまう、という不思議な現象も起きてしまう。

 
 例えば、子どもが、夫婦の不和の原因を、自分の責任だと思う、といったようなこと。そして、それがおかしいことだと気が付きにくい。

 

 

 しかし、「役割」だったらどうでしょうか? 
 

 親の不和を仲裁したり、気にかけることが子どもの「役割」とまでは、ふつうは思えない。もし、アダルトチルドレン状態でそのように錯覚していても、落ち着いて眺めれば、「それは自分の役割ではない」と気が付きやすい。

 

 「役割」にはあいまいさが少なく、範囲も限定されやすい。
 人格や道義的なことまで広がることもない。
 役割は、自由意志などといった過大な前提がないからです。

 

 職場でも、“責任”というと、道義的、人格的なことも含めてどこまでも広がっていくようなところがありますが、「役割」というとはっきりします。
 「それは私の役割ではありません」といえます。
 反対に、“責任”といわれると、「責任逃れ」という言葉の悪い印象から
 「私の仕事じゃないけど、道義的には申し訳なく思わなくては・・・」となってしまう。
 
 
 「自分のことじゃなくても、人としては責任を感じるのが正しいんじゃないのか!」なんて、怒る教師や上司もいたりする。悪用する人も出てくる。
  まさに、「関係性の個人化」を表すような言葉です。

 

  実は「罪悪感」という言葉には、“責任”が裏に潜んでいる。
 “責任”が潜んだ「罪悪感」には終わりがない。無限に広がって、終わりなく自分を責めてくる感じがあります。

 

 でも反対に「役割」であればどうか、といえば、そうしたことが少ない。限定的です。
  

 対人関係で、「罪悪感を植え付けてくる」ような人がいても、“責任”という観念を当たり前としていると、「私が悪いのかも」「道義的に責任を引き受けなければ・・」と考えてしまいますが、「役割」といえば、「相手を気分良くさせるのは私の“役割”ではない」とピンときます。立て直しやすくなる。
 

 

 また、“責任”は無限定であいまいなために、反対に具体的な機能が果たされていない場合にも、そのことが気づかれにくい。

 例えば、「親の責任」というと、ほとんどの親は「親の責任を果たしている」と漠然と答えたり、子どもを思っていれば、責任を果たしたことになる、と自己愛的にとらえる人も出てきます。
 しかし、具体的に「ちゃんと役割を果たしているか?」と問われると、怪しくなってくる。

 「役割」とは、機能不全家族でいう、「機能」という言葉に近いですが、具体的であるため、何が欠けていて、何が欠けていないかが確認しやすい。
 “責任”だと、ふわっとして、訳が分からなくなってくる。

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 「役割」というのは、物理的な量感、身体感覚を伴った言葉であるため、それが実際背負える量に対して、過大であることも感覚的にわかりやすい。具体的で、等身大で、個人が何をしなければいけないかが明確。場によって生じ、場を離れればなくなる。時間が経てば自然となくなります。

 

 “責任”というと、とても自己愛的で、空想的な言葉で、自我肥大するかのように、過大なものを背負っていても、違和感なく受け取ってしまう。またプライベートとパブリックとがあいまいにもなりがち。場が変わってもずっと呪いのようについてくるような概念。時間がたっても消えにくい。
 

 

 「法律に違反したという場合は?」というと、それは法令順守という市民の「役割」を果たさなかったということで、それに付随した罰則が来る、という理解になります。

 

 
 このように考えると、“責任”なんて言葉はまったくいらない(明治以前にはなくても困らなかったのですから)。
 「愛」と同じで、人間にはまったくサイズが合わない。おそらく、それは、神様しか使えない言葉です。

 (参考)→なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 私達の世の中には、人間の身の丈に合わないために、私達を苦しめる結果となる言葉、概念がいくつかあり、“責任”もその一つ。
 私たちはよりよく生きるためには、必ず等身大の身体感覚からスタートする必要があります。
 

 

 私たちが生きていく上では、“責任”という言葉は棄て、「役割」を採用することが大切。 

 

 “責任”という言葉が浮かんで来たら、「役割」という言葉に変換して、そして、「実際、今私の役割って何?」と確認すればいい。

 友達同士の付き合いなどの場面であれば、自分の「役割」などほとんどないことがわかる。
 「ゲシュタルトの祈り※」が、きれいごとじゃなくて、本当にそうだな、ということが実感できる。

 だから、「相手を不快にさせたかな?」なんて思いは全く浮かんで来ることがなくなります。

 

 「相手を気持ちよくさせるのは私の役割ではない」と。
 

 

 
 迷ったり罪悪感が湧きそうになったら、仕事でも、プライベートでも、自分の「役割」を確認する。
  
 
 そうすると、ニセの責任に振り回されることが少しずつなくなっていきます。

 

 

 ※ゲシュタルトの祈り  フリッツ・パールズがセッションの前に読み上げたとされる詩のこと

「われはわが事をなさん。汝は汝の事をなせ。わが生くるは汝の期待に沿わんがために非ず。汝もまた我の期待に沿わんとて生くるに非ず。
 汝は汝、われはわれなり。されど、われらの心、たまたま触れ合うことあらば、それにこしたことなし。もし心通わざればそれもせんかたなし」

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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