私たちは、責任を引き受けなければならない、物事には責任が不可欠だ、と考えています。
しかし、これまで見てきましたように、人間が主体的に動くためには、いったんすべての責任がチャラになることが必要になります。
(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。」
人間というのは、クラウド的な存在、社会的な動物であるために、何もしていなくても、いろいろな(ニセの)責任が他者から覆いかぶさってくるものです。
(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの」
ただ、実は責任という概念は、ローカルルールと親和性がとても高い。際限なく広がり、人を支配するものでもあります。
以前の記事でも書きましたが、私たち人間には、責任という概念は必要なく、「役割」さえあればいい。
役割があれば、人間は機能するものです。
(参考)→「“責任”は不要~人間には「役割」があればいい。」
前回見た、マックス・ウェーバーの仮説も、責任という観点で言い直せば、そういうことではないかと思います。プロテスタントの場合は、予定説がその機能を果たしてくれていたわけです。
神様がニセの責任をすべて引き取ってくれて、安全な環境でスポーツマンのようにのびのび自由と主体性を発揮できるわけです。
(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。」
その一方で、「本当に責任がなくていいの?」と不安もよぎります。
お金を払ったのに食べ物が出てこない、
家を頼んだのに作ってくれない、
電化製品を買ったのに配達されない、では困ります。
責任と、主体性とを改めてどのように考えればよいのでしょうか?
ウェーバーだとか、小難しいカッコつけたような考えを持ってこなくても、わかりやすい例で見てみたいと思います。
例えば、元首相の田中角栄のよく知られた逸話があります。
田中角栄が大蔵大臣になったときの官僚たちへのスピーチで
「私が田中角栄であります。皆さんもご存じの通り、高等小学校卒業であります。皆さんは全国から集まった天下の秀才で、金融、財政の専門家ばかりだ。かく申す小生は素人ではありますが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきており、いささか仕事のコツは知っているつもりであります。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになりますが、お互いが信頼し合うことが大切だと思います。従って、今日ただ今から、大臣室の扉はいつでも開けておく。我と思わん者は、今年入省した若手諸君も遠慮なく大臣室に来てください。そして、何でも言ってほしい。上司の許可を取る必要はありません。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上!」
自由にやってくれ、責任は私が取る。といって、官僚たちは心酔させた。
官僚たちは田中角栄のために一生懸命働くようになった、という話です。
私たちも、会社勤めなどをしていれば、やはり一番働きやすい環境というのは、上司なり、会社が責任をとってくれて、仕事を任せてくれる環境、ではないでしょうか。
もちろん、自分に責任がないからといっていい加減に仕事をするなんてことにはなりません。
上司が、「責任は自分が取るから、思い切って頑張って」というとき、ニセの責任はフィルタされ、免責されてピュアな役割意識、信頼関係が残ることがわかります。
そこには、自分が間違って評価されるとか、自分にはコントロールできない要因に左右されるという恐れがありません。
ただ、純粋に誰かのために、といって頑張ることがどれほど、力になることか。
仕事のプレッシャーに押しつぶされそうなときは、実は、純粋にプレッシャーを感じていると言うよりは、不安定な愛着ゆえにニセの責任をフィルタしきれずに、誰かに評価されるのでは?見捨てられるのでは?という感覚(ニセの責任)に苛まされている時です。
私たち人間社会はニセの責任が多すぎます。
例えば、仕事の責任も、「本当の責任」ではなく、単に上司や経営者の「不安」「不全感」を周りにぶつけているだけ、それに周囲が感染しているだけかもしれない。
プレッシャーに押しつぶされそうな閾値を超えると、腹がくくれて、仕事に集中できるときがまれにあります。その時は、ニセの責任の幻想が破れて、純粋に役割意識に目が向いたとき、なのかもしれません。
(参考)→「「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。」
つまり、無責任とは、ちゃらんぽらんということではなく、ニセの責任がない状態、本来の役割に集中できる状態、ということです。
私たちが親に求めているのも結局、「どんなことがあっても私の味方をして。私のことをちゃんと理解して」ということではないでしょうか?
簡単に言えば、こうしたことをただただ求めていただけ。
いま生きづらさの渦中にある方も、その苦しみは、ニセの責任による苦しみです。たとえ、発達障害だとか何か他の要因があったとしても、愛着が安定している方、つまりニセの責任を背負っていない方は生きづらさを抱えたりはしません。
「誰か、私に罪はない、責任はない、と言ってくれ!!」という心の叫びを抱えています。
結局はニセの責任を免責するための機構を外部(内部)にもちたい、という切実な欲求です。
先日の記事にもかきましたが、一般の私たちの場合、「愛着」や「ストレス応答系」がその役割を果たしてくれます。
ニセの責任をフィルタしてくれるために、純粋に役割に集中できるようにしてくれているわけです。
(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。」
あらためて人間が悩みから解放されて、主権を持って生きるためには、いったんすべての責任がチャラになる機構を持つことが必要になるのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
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