前回の記事で見ましたように、私たちが力を発揮するためにはニセの責任から自由であることが必要です。
(参考)→「無責任で本当に大丈夫? ~無責任かつ位置と役割があると人間は力を発揮できる」
そういう観点で見ると、
仕事で活躍できる人、というのはニセの責任を免責することがとてもうまい、といえるかもしれません。
さっと自分の責任の範囲を自然に感じとるところができる。
自分の責任が「これだけ」ということを感じて、役割に集中することができる。
ニセの責任が飛んできても、「ニセ物だな」と感じて、さっと免責してしまう。
責任が自分のものだけに限定されるから、腹をくくれて、「逃げない」「言い訳しない」なんて人から見られる。
反対に、トラウマを負っている人は、それがとても難しい。
相手の機嫌も、相手の頭の中で起こることも、職場の雰囲気も、何もかもが自分の責任だと思っている。
その裏には、すでに過去に背負ってきたニセの責任の山があって、それが投影されていることは言うまでもありません。
(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる」
ニセの責任でいっぱいいっぱいになってしまっているために、目の前の役割に集中できず、膨らんだニセの責任に恐怖を感じて、及び腰になり、結局「仕事に入り込めていない」とか、「当事者意識がない」だなんて反対の悪い評価をくだされて、本人もどうしていいかわからなくなる。
仕事以外でも同様です。
日常生活でも、あまりストレスなく人と付き合える人というのは、責任の範囲の見極めが自然とできている。
基本的に相手の頭の中にあることや相手の機嫌は、自分の責任ではない、という感覚があります。
行うのは、自分ができる範囲を守って、公的な環境を作り出すことくらいまで。
あとは気楽に言葉と戯れている。相手の言葉は相手のものなので、責任を持たない。
(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない」
特にポイントは、「感情と言葉」です。
その人の感情や言葉の責任はその人のものです。
確かに、その勢いに圧倒されることもありますが、結局は因縁をつけているだけです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
その人の感情や言葉はその人のものだ、とわかっていると、巻き込まれにくくなります。すると、感情的になっていたり、気になる言葉が飛んできても、スルーすることができて、相手もトーンダウンしてきます。
理不尽な環境では、特に家族が自分の感情を子どものせいにして、子どもはそれを真に受けてしまって、巻き込まれてしまう。そして、ストレス障害(トラウマ)になる。
自他の区別がつかなくなり、責任の分解点がわからなくなってしまう。
(参考)→「自他の区別がつかない。」
いつしか、家族以外の人についても、相手の感情も自分の責任と思い、常にビクビク、と相手の感情や言葉を自分のものとして、気を回してへとへとになってしまうのです。
基本的に相手の感情や言葉はその人のもので、その人の責任です。
たとえば、“言葉”で「あなたの態度が悪いから、私はイライラしている」「あなたが悪いから、私は怒っている」といっても、真に受けてはいけない。
不良やヤクザが「おうおう、メンチきってんじゃねえよ」と因縁つけて絡んでくるのと同じことです。
(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの」
愛着が安定している人は、免責の仕組みがうまく働きますから、無意識に「それはあなたの責任ですよね」というメッセージが働いています。
ポジティブな感情について、例えば、相手の「期待」なども同様です。
相手がどのようにこちらに期待を持つか、ということもあくまで相手の勝手、責任です。
たまたま、こちらのパフォーマンスや条件がよくて、期待に応えれることもあれば、そうではないときもある。その見極めがうまくできる。
トラウマを負っていると、ニセの責任でいっぱいいっぱいですから、相手の期待も自分の責任だと思い、逃げ出したくなってしまいます。
ちゃんと免責の仕組みが機能すると、ニセの責任を取り除くことができますから、仕事でも日常生活でも、本当に自分の役割だけに限定して、集中することができるのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
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