ローカルルール(ニセの責任)は誰にでも飛んでくる

 

 たまたまネットのニュースを見ていましたら、「嫌いな男優(女優)ランキング」というのを目にしました。

(参考)→「「嫌いな男優」2020 アンケート結果発表(文春オンライン)

 

 すると、例えば、菅田将暉さんについては、「嫌いというより演技が薄っぺらくて浮いて映って見える」(女・34)「持ち上げられすぎて苦手」(女・35)とか、

 大泉洋さんについては、「ネチャネチャした喋り方が大嫌い」(男・45)とか「失礼だけど、“あざとい感”がどうしても拭えず、作品の感動が半減してしまう。トークもしつこいし、“喋りは任せて感”も鼻につくときがあります」(女・51)とか、

 二宮和也さんについては、「ジャニヲタの敵。嵐の番組を観てても、彼が映ると萎える」(女・43)とか、「器用なのかもしれないが、演技や表現力に小手先感がある。大人の俳優としての魅力に欠ける」(女・49)とか、

 ディーン・フジオカさんについては、「イケメンだけど歌も演技も微妙」(女・31)「上から目線な物の言い方に腹が立つ」(男・20)とか、

 木村拓哉さんについては、「年相応な落ち着きもなく言葉遣いが酷い。CMでの若作りは寧ろ滑稽」(女・59)「裸の王様状態が気の毒なくらい。『キムタク今幸せ?』と聞いてみたい」(女・53)とか、

 福山雅治さんでも、「あの自信たっぷりな表情が嫌い」(女・69)とか、「自分はイケメンだとうぬぼれ感が身体じゅうからあふれているいやらしさ」(女・72)

 

 

 

 女優さんでも、同じように、テレビで目にする女優さんについて同じように嫌いだ、苦手だ、ということが書かれていました。

(参考)→「「嫌いな女優」2020 アンケート結果発表

たとえば、

 新垣結衣さんについては、「30超えてもアイドル女優で、演技力や演技の幅やストイックな努力は感じられない」(女・54)とか、

 

 綾瀬はるかさんについては、「計算されて演じているようにみえる。出過ぎてもうあきた」(男・57)「普段は普通に話せるのに、CMなどの甘えた喋り方が苦手」(女・55)とか、

 本田翼さんについても、「あざとい演技に、見ていてイライラする」(女・20)「CMを観ててもどこか投げやりな感じがあって苦手」(女・36)とか、

 橋本環奈さんは、「笑い方が下品。もともとハスキーな声もますますハスキーになった」(男・36)「態度がデカい。インタビュアーや共演者の先輩に敬語を使わず話していた」(女・30)

 

 

 これを見ていると「おいおい、何をやっても批判されてきりがないぞ」と感じてしまいます。

 

 福山雅治さんなんかは筆者から見ると完璧な感じがしますし、大泉さんも人に好かれてうらやましく見えるのですが、それでも嫌いな人は嫌いということです。

 

 これらは、このブログでも紹介しています私的領域(ローカルルール)が投影されたものです。そこにもっともらしい理屈をつけているので根拠のあるように見えますが、個人の内面にある不全感が表出したもので、全く意味がありません。すべて戯言です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 意見を言っている人も、それぞれ親などの影響で内面化されたローカルルールを目の前にいる人に投影しているだけです。

 私的領域とは、「Your NOT OK」で成り立っていますから、何かを批判していなければ存在することができないものなのです。

 批判とはその人のローカルルールが自身を維持するために「言いたいだけ」「吐き出したいだけ」という域を出ません。

 読んでいる自分のローカルルールと近いものがあると、「わかるわかる」なんてうっかり思ってしまいますが、それも本来の自分の意見、感覚ではありません。

(参考)→「人の考えも戯れでしかない~考えや意見は私的領域(生育歴)の投影でしかない。

評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 

 俳優さん以外でも、例えば、東大を出て言いようが、医師や弁護士であろうが、MBAを取ろうが、金メダルを取ろうが、容姿が良かろうが、それぞれに批判する切り口はかならずあります。

 
 クライアントさんの中でも、誰からも批判されないように、勉強や仕事で頑張ってきました、という方がいらっしゃいますが、ローカルルールの世界観を真に受けている限り、誰からも批判されない安住の地はどこにもありません。
 
 どれだけ容姿が良くても、資格やキャリア、実績を積んでも、批判はついてきます。

 「ニセの責任」がボンボンと飛んできます。

 それらに応える義務は当然ながら全くありません。

 

 冒頭の、俳優さんへの批判の宛先が自分になったと思ってみるとどうでしょうか?

「あなたのその喋り方が大嫌い」
「あなたは仕事の仕方に、小手先感がある」
「あなたは態度がデカい」

 など、

 このように見ていくと、これまで家庭や学校、職場で私たちにいわれてきた批判、意見に責任を感じて真に受けて悩んできましたが、どれだけ意味があったのか?

 批判する個々人の不全感からくるもの、投影でしかなく、ベタに言えば「あなたが好き/嫌い」ということでしかなかったということかもしれません。

 その「好き/嫌い」も内面化した他者の価値観(ローカルルール)でしかないものだったのかもしれないのです。

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 

 冒頭に紹介した記事も週刊誌の企画ですから、読む人も常識から「まあ信憑性なんてない」と思いながら戯れに読むものです。日常での批判や心無い言葉も、結局はその程度のものでしかありません。

 

 いじめなどハラスメントの本当の影響とは、相手の戯言やローカルルールの責任を自分が負ってしまうこと。
 
 

 そのためにはその戯言が、「自分だからだ」と思い込まされること(個人化)が必要になります。「自分だから批判される」「批判されるということは、自分に欠点があるからだ」「努力しなければ」と。

(参考)→「“たまたま”を「因果、必然」と騙る~「自分だからハラスメントを受けた」はローカルルール

 

 しかし、冒頭の俳優さんへのダメ出しを見てもわかるように、ローカルルールにかかれば、どんな人でも批判されるということ。

  ローカルルールとはウイルスのようなもので、社会を飛び回っていて、不全感を抱えている人や真に受ける人のところで長く留まるようになっている。

 

 

 私たちが子どもの頃に親から心無い言葉を浴びせられて、「自分が悪い子だから」「自分は本性として愛されない」と思っていたことは、単にローカルルールの因縁によってそう思わされていただけだった。

 

 

 ただ、批判する相手は、まさか自分が不全感、ローカルルールに動かされているだなんて絶対に認めませんので、もっともらしい理屈をこねます。  しばしば他の人を称賛してみせたり、仲良くしたりして「個人化」をもっともだと見せようとします。
 (「私の判断がおかしいというけれども、他の人は褒めているということは、ちゃんと善悪の区別がついているし、まともだよ。~~という理屈だ。やはり、あなたがおかしい」と)

 

 私たちもしばしば、批判する人が人望があったり、社会的な実績があると、「やっぱり、その人のほうが正しいのでは?」と思いがちですが、不全感や嫉妬から自由な人はいません。社会的な地位のある人や人格者に見える人が、案外シンプルに、嫉妬に動かされているなんてことはよくあります。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 

 気がつくとなんだかんだと根拠を集めてきて、「自分だから」と自分がニセの責任を負わされてしまっている。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 そして、素直に相手の批判に応えて、努力をしてきた。しかし、蓋を開けてみたら、その批判は全く意味がありませんでした。 

 

 意味がないことの理由として、実際に、批判に答えて努力してみても楽にならないし、ほんとうの意味で自分がより良くなるという実感がありません。

 

 そこから逃れる方法は、努力して批判されないようにするのではなく、ローカルルールのニセの責任(因縁)については戯言と知り、「知~らない」「私の問題ではありません」と責任を放棄(スルー)することです。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 ウイルスのように誰もが世の中を生きていると因縁をかけられることがありますが、それらを区別し、免責するメカニズムがあれば、日々新に主体性を持って生きていくことができるのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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