人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

「言葉には心を越えない~♪」というのは昔大ヒットした歌の歌詞です。

言葉には意味がないのよ、というのは昔から人間が感じていたことです。

 一方、言葉が最初にあった、というように言葉の価値の大きさもわたしたちは知っている。

 

カウンセリングでも、「傾聴」ということが重んじられるわけです。

では、本当の傾聴ってなんだろう?と考えたくなります。

 

 傾聴とは、鵜呑み、真に受けではありません。

 人間が解離しやすく、内的な人格が分かれているという性質を持つ以上、すべて真に受けることはありえません。発せられた言葉を吟味し、選別し、本来の人格の声を見つけること。それも治療者の役割と言えます。

 

 ハラスメントやローカルルールといったものを見るにつけて、強く思うのが、「日常の人間の言葉は本当に意味がない」ということです。

 

 なぜかといえば、繰り返しになりますが人間は容易に解離してしまう存在であり、おかしくなってしまうからです。
 これは誰でもそうです。

 とくに私的環境では簡単に人格スイッチしてしまう。 

 そして、私的な情動(不全感)をもとに、相手を支配しようとしたり、攻撃しようとして、おかしな発言をする。

 

 人間は、公的な環境で、公的な役割を背負ってはじめて理性的でいられる。
 実際に、古代ギリシャでは、公的な役割がなければ完全な人間ではない、と考えられていました。

 
 それは、私的な環境では人間がいかにおかしくなってしまうのか、ということを経験的にわかっていたからかもしれません。

 日常生活で人間は、夜中に食べたくもないラーメンを無性に食べたくなるくらい、本心というのはわからない存在。本心って一体何?と不思議に思います。
 

 言葉はもっといい加減。

 

 日常で発せられる言葉、とくに責任を負わない消費者という立場には、ローカルルールが頻繁に介入してきます。そのため、無駄な買い物をしたり、クレーマーになってみたり、おかしなことだらけ。

 

 臨床の現場でも、言葉を吟味せずに治療者がすべて真に受けては、クライアントさんにとっても危険で本来の人格とローカルルールからきたものとを、よほど吟味しないといけない。

 

 悩みを抱える、とはなにかといえば、ローカルルールを内面化した状態、と定義できます。

 

 
 例えば、クライアントさんが
 「仕事でミスをする人がどうしても許せない」と言ったとしたら、

 それは、「ミスをしてはいけない(ミスをする人は存在してはいけない)」という内面化したローカルルールから来た言葉だとわかります。

 

 その「ミスをしてはいけない」はどこから来るか?といえば、

 養育環境で親などが、イライラする自分の不全感を発散させるために感情を子どものぶつけることを正当化しようとして、「お前がミスをするからだ!」「ミスをしてはいけない、というのは常識だ。だからお前を叱責しているのだ(自分の私的感情からイライラしているのではありませんよ)」ということから始まり、

 それを「期待に応えなければ」と思う真面目な子ども(クライアントさん)が真に受けて、内面化し、忠実に実行してきた。

 そして、親のローカルルールに感染した「ローカルルール人格」が子ども(クライアントさん)の中に形成されます。

 
 そうして長い年月を経て、発した言葉が「仕事でミスをする人がどうしても許せない」ということ。

 

 そうなると、それはその方の本来の発言ではありません。ローカルルールに言わされている、ということです。
 ”ローカルルールの現れ”として捉える必要があります。

 
 そして、治療者が「それ、ローカルルールのようですね」と区分けしたり、本来の自分ではない、とあえて否定したりする必要がある。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 治療者が、まさか「傾聴が大事」なんて真に受けてしまっていたら、クライアントさんは良くならない。
 クライアントさんの本音は、「今私が話している言葉は本来の私ではなく、ローカルルールに言わされているんです~。誰か気づいて、助けて~」と思っているのですから。

 
  
 別の場面で、
 「治療者の言葉や態度が気に入らない」と言ったとしたら、それも内面化したローカルルールから来ている。
 まさか真に受けて、治療者が「態度を改めよう」なんていうことは全く必要ない。勘違いして、もし態度を改めたら、クライアントさんは余計にローカルルールに呪縛されてしまう。
 

 それも、「ローカルルールから来ているようですね」といって、区分けしてあげないといけない。

 

 ローカルルール人格というのはまさに、ウイルスによって、パソコンが乗っ取られているような状態です。社会学者の内藤朝雄氏の本でもいじめに加担した生徒の声が載っていますが、「何かそれ、うつっちゃうんです」という状態。

参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 だから、乗っ取られた状態を真に受けて「そうなんですね~」なんて傾聴で応じていてはいけない。

 しっかりと観察して、区別して、指摘して、ローカルルール人格というものの影響を明らかにしていかないといけない。
 それによって、クライアントさんも本来の自分に戻ることができるようになる。
 

 

 

 繰り返しになりますが、日常で発せられる言葉というのは本当に意味がない。
 

 冒頭に書きましたように、言葉の価値は本来大きいのですが、「言葉が尊い」という場合のそれは本来は「神の言葉」という意味。人間はそれを承るだけの存在だし、完全には理解できない。
 その言葉の価値を悪用しているのがローカルルールです。ニセの神様のようになって、言葉を弄んでいる。

 人間の言葉はすべて戯言です。

 

 公的な環境になると人間の言葉がかろうじて意味を持ってくるのは、それは公的な役割を通して「一般意志」をいくらか”代表”できるようになるから。
 一般意志とはルソーの概念ですが、社会の普遍的意志のことです。
 (普遍的意志は、近代以前は、シャーマンや聖職者が、神がかって降ろしたりしていました。占いなどもそうですが、なんとかして神の言葉を読み取ろうとしていたのです。)
 

 作家や歌手の言葉が感動を呼ぶのは、普遍的意志を降ろしてくるから。
 でも、それができるのは瞬きのような一瞬で、いつもではない。だから、しばしば薬物に手を出すようなアーティストも出てくる。

 

 一方、日常では「悪貨は良貨を駆逐する」というように、価値のない悪貨だらけの世界であることを知らなければならない。
 東大の安冨歩教授は「世の中はハラスメントでできている」といっています。ハラスメントの言葉だらけ。本当に価値のある言葉が埋もれている状態。

 

 目の前の貨幣(言葉)が本物か偽物かを吟味することをせずに、すべてを受け取らなければならない、という間違ったルールに従わされている。 

 

 

 「傾聴が大事」と思いこまさせられている人たちが、まさにハラスメントの犠牲者になっている。親やいじめっ子や、上司の盲言を真面目に受け止めさせられて、カウンセラー役をさせられてしまっている。
 

 

 反対に、健康な人ほど日常の言葉は意味がないと知っていて、やり過ごしていたりします。

 東大の教授が書いた本はまさにその様になっています。
 (参考:高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」日経ビジネス人文庫)

 やり過ごすことが勢いのあった時代の日本企業を支えていた、というのです。

 

 
 カウンセリングでも、本来大切なのは傾聴ではなく観察。

 治療者であれば、クライアントさんの様子を、よーく観察する。
 言葉は真に受けない。あくまで観察のための材料。基本的にはやり過ごして、聞き流さないといけない。

 良い料理人が目利きをするみたいに、素材を選り分ける。
 良い研究者やジャーナリストみたいに、証拠を吟味して、取捨選択をする。

 

 言葉が1000あれば、そのうち本来の言葉はかろうじて3つあるかないか、かもしれません。
 日常であれば、ほぼ0といってもいいくらい、言葉には意味がない。言葉は本来神のものですから。

 

 ローカルルール人格とはニセの神様になった状態のことです。
 (いじめを行っている人たちや、あおり運転の人たちも、まさに神のような全能感を持って他人を裁いている様が最近であれば動画で記録されています。)

 日常の言葉とは、その方の生育歴からくる雑多な感覚を目の前のものに投影してただ吐き出しているだけ。何も”代表”していない。

 
 悩みを抱えている人にとっても、こうしたこと知るのはとても大事。

 

 自分自身がローカルルールの影響から逃れるためにも、ですが、日常でハラスメントにあわないためにも、です。
 人が発する言葉にはすべて意味がないと知れば、「~~さんって嫌なところがあるよね」みたいな気になる意味深な言葉も、全く意味がないとスルーできるようになります。

 

 日常の言葉は戯れ言としてすべて聞き流す。言葉は何も表していない。
 (聞き流してはじめて本当のコミュニケーションが取れるようになります。)

 

 

 今までは理想化して、恐れていた人が、大したことがない存在であること、「解離しやすいおサルさん」でしかなく、話す言葉も意味深なだけの意味のない言葉であることがわかってきます。人に対する怖さがなくなってきます。

  
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 妻夫木聡さんが主演している「悪人」という映画があります。
 吉田修一さんの小説に基づいたものですが、その映画の中で、登場人物がむしゃくしゃしてラーメン屋を出る際に「ああ、まずかった!」と大きな声で行って出ていくシーンがあります。

 これは明らかにその登場人物が物事がうまくいかない不全感からラーメン屋の店主を傷つけようとして行ったものです。
 
 当然、発言の内容には意味はありません。

 もし、ラーメン屋の店主が真に受けてしまったら、ラーメン屋を廃業する、なんてことが起きるかもしれません。

 

 

 以前、TV番組で、藝妓さんが取り上げられていました。
 伝説的な藝妓さんということで芸も一流ですが、会話の仕方からすべて相手のことを気遣って接していらっしゃいました。
 

 そんな伝説の藝妓さんでも、仕事をしていて辛い体験はあったそうです。
 それはある宴会の席でお座席に呼ばれたときのこと。会話を磨いていた藝妓さんは、相手が盛り上がる話題を提供し、自分では自信を持って接客できた、と思っていたら、後日、「あいつはもう呼ぶな」とお客さんから言われそうなのです。とてもショックな出来事です。

 問題なかったはずだけども、どこか自分に慢心があり、お客さんの気に触ったのではないか、ということだそうです。

 それ以来、会話など接し方を見直して今に至る、というエピソードが紹介されていました。
 

 

 別の例では、ある店員さんが普通に接客していました。そのお客さんは問題なくお帰りになられたと思っていました。
 
 しかし、後日会社のカスタマーセンターに
 「笑顔が嘘くさかった」「親切さが押し付けがましかった」とか、
 「上から目線に感じて不快だったから、二度と利用しない」とのクレームが入った旨の連絡が来て驚いたそうです。

 

 対応している側としてはそれで他のお客さんからは文句もないし、普通に接している。ただ、なぜか1年に1~2回は必ずそうしたお客さんが現れたりする。

 気にしなくて良いとはわかりながらも、店員としてはやはりショックを受けて傷つく、徐々に萎縮する感覚を感じてしまう。 
 
 「自分に問題があるのでは」という気持ちが拭えなくなってしまったそうです。

 

 

 冒頭からの3つの例について、ここで起きていることは、実は全てローカルルール人格が引き起こした現象です。

 (参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 顧客が自己の不全感から何かの引き金でローカルルール人格にスイッチします。すると、普通にサービスを提供しているのにもかかわらず、クレームを寄せてきて、言い返せない相手を傷つけるだけ傷つけます。

 

 一流のホテルや旅館、レストランでもクレームのないところはありません。

 
 もちろんミスからクレームになることはありますし、それに対応して改善することは当然ですが、多くのものが、要は「自分を大事に扱っていない」という過剰な(ニセモノの)クレームだったりします。

 

 飛行機の中では豹変してローカルルール人格になる人はとても多い。いい大人が駄々っ子のようになって、CAさんを相手に文句を言っている場面をよく目にします。

 CAさんなどの仕事は「感情労働」と呼ばれていますが、そのストレスは大変なものです。

 

 人間はどれだけしっかりと接していても、仕事などでローカルルール人格に変身した方に遭遇します。サービス業であれば必ずある一定の割合と頻度で、ローカルルール人格に変身した人たちが訪れてきます。ローカルルールに相手を巻き込むためだけにサービスに申し込む人もいます。

 

 サービス業などを中心に生じるクレーム(ローカルルール)というものは、「お客様は神様です」「お客様の言うことはどんなことでも応えなければならない」「お客様の方が正しい」といった観念を悪用して成り立っています。
  

 最近は、それを「カスタマーハラスメント」というそうですが、もしかしたら日本では特に生じやすいのかもしれません。
 

 

 以前記事に書いたことがありますが、海外だと、お店に入ってもスマイルもないし、店員さんも無愛想にしています。

(参考)→「社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」
  
 良いサービスを受けるためには、その分のお金を払わないといけない。ただでサービスは求めることができない。

 対価と提供するものとがしっかりと対になっている。

 

 実はこれが本来の姿ではないかと思います。

 一方、日本だと、安くてもサービスは良かったりするので、ついつい当たり前に思っていますが、お金も出していないのに、良いサービスを当たり前としているのはどこかおかしい。
 

 

 例えば、コンビニやファーストフードの店員に笑顔がなかった、といってクレームをつける人がいたとしたら、どこか勘違いをしています。
 わずか数百円しかお金を払っていなければ、それだけのサービスしか受けれません。

 

 「いつでもどこでも、一流のホテルマンみたいな対応をしろ!それが常識だ。ただし、追加のサービス費用は払わないから、タダでお願いね」
 
 と言っているということですから。

 

 もし、本来いただいている費用によって提供を約束しているものを厳密に定義したとすれば、正当なクレームというのは半分にも満たないかもしれません。

 

 多くのクレームは、「お客様は神様です」という慣習にタダノリして、自分の不全感を発散しているだけ。

 一般の店員さんに対して、チップを渡しているわけでもないのに、一流の接客を求めるなんて冷静に考えれば変なことです。

 海外でチップが必要なのは、日本人から見たらドライですが、とてもフェアなことではあります。

 

 そう考えると、
 例えば、
 タクシーの運転手が道がわからないとすぐに腹を立てる人もいますが、(もちろん、道を知っていてほしいのはやまやまですが)特別料金を払っているわけではなく流しのタクシーを安く利用しているのであれば、稀にそうした事があるのはやむなしとしてある程度は許容しないといけないのでしょう。 

 

 

 以前、習い事のグループレッスンで先生が自分にアドバイスをくれなかった、と怒っている方がいらっしゃいましたが、それも、もちろん丁寧に対応してくれるに越したことはないのですけれども、グループレッスンであるために割安で利用できているのであればぼちぼちで許容しないといけない。
 手厚く対応してほしいのであれば、本来はマンツーマンのレッスンを申し込まなければいけないということなのでしょう。

 

 

 本来提供を約束しているものと期待のミスマッチ。その間を「お客様は神様です」という気合・慣習を背景に「自分だけは特別に優遇してもらえるはず」という幻想が生まれ、「自分は大事にされていない」という失望がきっかけでそこにローカルルールが付け入って炎上(クレーム)を引き起こす、という構図と言えます。

 

 

 その点、日本は異常かもしれない。

 同様に、個人同士でもさながら日本人全員が伝統芸能の弟子さんにでもなったかのように、過剰な礼儀や気遣いを求められることもおかしなことです。日本はあまりにも細かなことにうるさすぎて、それが自分にも返ってきて、互いに拘束しあっている。もはやローカルルール化している。

 そのために、「対人恐怖症」というのは、日本独自の悩み(文化依存症候群)とされるまでになっています。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック

 

 

 
 ローカルルールは、社会で一見正論のようでいておかしな慣習を悪用して、生き永らえようとします。

 例えば、いじめは、「学校の中は自治が行われる聖域で、外の社会とは違い特別だ」といった観念、慣習を悪用をして、社会の常識や法といった外部の介入がなされないまま、被害者が命を断ったり、消えがたいトラウマを負ってしまうということが起きてきました。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 
 DVやパワハラもそうで、「家庭や職場の中は特別(私的領域)」「私がおかしいと判断した相手を指導して良い」という意識がハラスメントの温床となります。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 

 外で人と殴ったり暴言を吐いたら警察に捕まります。しかし、「家や職場の中では良いのだ」といっているのですからおかしなことです。
 外でダメなことは家や職場の中でも当然ダメなのですが、ローカルルールは、内密な関係から外れたら生きていけないような気にさせて、常識がわからなくさせてしまいます。

 本来それぞれ独立した人間ですから、正当な権限でもなければ、相手を指導することなどできません。
 会社でも指導できるのはあくまで業務の改善だけです。人格に触れることはできません。

 

 ローカルルールがはびこりやすいのは、権限の範囲などが曖昧にされていて、曖昧さから生まれる不具合が個人の人格の問題とされたり、擬似的な私的領域が生まれやすい状況といえます。
 
 日本の職場は、仕事の権限や責任が明確ではありません。
 そのために、「これは私の仕事ではありません」「人格に関わることについて言われる筋合いはありません。」とは言えず、曖昧さの隙間にハラスメントが生じます。 

 

 会社と顧客の間にも同様に曖昧さは生じます。

 
 サービス業の方が身につけているのは、当たり障りなく、そうした曖昧な隙間を埋めて、ローカルルール人格にスイッチする確率を減らすための所作やあるいはそれを鎮めるための方略や身を護る術、と言えるかもしれません。

 

 人間は公的な環境では本来の状態でいることができます。
 「礼儀」というのは公的環境を作り出すには最適なものであるためです。

(参考)→「親しき仲にも礼儀あり

 

 しかし、ローカルルール人格の言っていることを真に受けてしまうのであれば、それは全くの間違いです。ふりまわされているだけになります。

 結果、世の中のビジネスはクレームを恐れて過剰に設計されていて余計なコストを負担している。野菜などの食品がわかりやすい。クレームが来そうなものは食べれるものでも廃棄されている。過剰防衛になっていると言えます。 
 

 本来、おかしいのはローカルルール人格の側なのですから。

 

 かつては、ローカルルール人格の言うようなことも意味があるとして受け止める風潮はありました。

 理不尽な部活の先輩や監督の要求に耐える。

 弟子は師匠の気まぐれに応える。

 会社上司の言うことはすべて受け止める。

 などなど

 「理不尽を受け止めたり、耐えることで成長することができました!」というスポ根的な美談は数多くありました。
 (特にトラウマを負った人にとっては、理不尽なことは全て自分の責任であり、応えて当然、と思いがちです。)

 

 
 でも、それらは全く意味がなかったのかもしれない。その事に気がついた人たちが、最近は、モラルハラスメントだとして告発するようになりました。

 告発された側が地位を失うような自体になっています。

 「ハゲ~!」と絶叫していた国会議員は、まさにローカルルール人格に変身した姿を記録されて、失職してしまいました。

 

 冒頭の藝妓さんも、クレームを受けてそれに応えたということで美談となっていますが、現代の基準で言えば、それに応えなくても良かったのかもしれません。
 もちろんクレームに応えて成長できた部分もあることは否定しませんが、受け止めた結果、萎縮して抑えてしまった本来の自分の良さもあるでしょうから。

 

 例えば、好きな芸能人のランキングに上る人が、同時に嫌いな芸能人のランキングにも登場することがしばしばあります。

 その芸能人は、嫌いと言っている人のクレームを聞いて、改善しなければいけないのでしょうか?
 この世には万人に好かれる人はいないのですから、改善したら確実に良さが失われてしまいます。

 

 

 プロ野球の投手は打たれても反省することはありません。

 反省するような性格であれば、投手としてはやっていけない。
 では、独りよがりになるか、といえばそんなことはなく、自分の感覚を信頼して改善していきます。
 
 

 世の中にあるクレームのおそらく9割はローカルルール人格がからむニセクレームで、真のクレームというのは1割といってもよいのでしょう。 

 あおり運転などを見ればわかります。
 並走している車へのクレーム行為ですが、いかに異常であるかがよくわかります。

 

 あおり運転の加害者は異常だとはっきりわかりますが、日常のクレームについてはなぜか真に受けてしまいがちです。
 それは「お客様は神様です」といった慣習が邪魔をしているから。

 世の中には、ローカルルール人格というものが存在するということ、そして世の中はニセのクレームだらけだということを知る必要があります。

 

 ニセのクレームがあるということについてわかりやすいのは、モラルハラスメントを行う会社の上司、DVを行うパートナー、いじめっ子、虐待する親などの発言です。
 私的感情を隠すために彼らは理屈をこねますが、言っている内容が耳を傾けるに値しないことは明らかなことです。

 

 

 虐待死事件で、死に追いやられた子供が痛ましい反省文を書かされていましたが、あれも、親のニセのクレームにさらされ、本来改善する必要のないものを改善するように強いられていたわけです。

 もし、親にインタビューしたら、もっともらしい理屈を語るでしょうけどもたわごとであることは自明です。

 同様のことが、じつは私たちの身近な仕事の現場でも起きています。

 

 ニセのクレームを真に受けて心に傷を負ってしまう人や、場合によっては仕事を辞めてしまう人もいるでしょう。(以前ご紹介したカウンセラーの例もその一つです)

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 ニセのクレームだということと、そのことが世間でも浸透し、会社全体でも真に受けなくなれば、過剰防衛によるムダも減るかもしれないですし、トラウマを負ってしまう人も少なくなるかもしれません。
 「カスタマーハラスメント」という言葉が出てきたのは良いことです。

 

 

 こうした前提から考えると、

 仕事において、普通にサービスを提供して、普通に応対していて、それでもクレームが来るなら、それはすべて相手がおかしい、と捉えて間違いではない。
 いじめられっ子が、いじめっ子の理屈を真に受けないでいいのと同様。ローカルルール人格が絡んでいるということ。  

 (会社の中での上司の叱責や、学校や家庭の中での心のない言葉もです。)

 

 

 冒頭のラーメン屋の例であれば、もちろん受け止める必要もなく、店主がその失礼さを叱りつけて、「二度とのれんをくぐるな~」と、水をまいても良いくらいかもしれません。
 叱責によって公的環境にいると目が醒め、人間はローカルルール人格への変身から目が覚めやすくなります。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 万が一、提供すべきサービスが提供できていなければ、それは謝罪し、改めたものを提供し直すということは当然のことですが、

 私たちは、自分の立ち位置は、常に日の当たる側、常識の側においておく。
 そして、しっかり普通に仕事をする、予定されたサービスを提供する。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 それでもクレームが来たとしたら、それはニセのクレームだと知る。
 

 

 本当のクレームというのは、意識を向けていれば身体で自然とわかるものです。 

 

 お客さんと会話していく中で、改善のヒントにハッと気がついたり、仕事をする中で不意にアイデアが降りてきたり、といったことがおきます。それが本来のカタチ。 

(参考)→「真の客観とは何か?

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 「本来の自分」同士のやりとりというのは、安心安全で創造的なものです。

 私たちはもっと、常識を背景とした自分の感覚を信頼しても良いのかもしれません。そうすると、何を受け止めるべきことかは自然が教えてくれます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 「自分探し」といったことをよく耳にするようになって、かなり経つでしょうか。

 それに対して「探したって、理想の自分なんてないよ」といった揶揄や、お説教もよく聞きます。

 

 確かにそれはその通りで、自分というのは、どこか彼方にはなく、日常の「関係」の中にしかないものです。

 

 

 ただ、「自分探し」をしなければならないほど、生きづらいし、生き苦しい社会であることは変わりません。

 揶揄されても「自分探し」はやめられない。

 直感が、今の自分が本当ではない、ということを告げてくれるからです。

 

 

 では、どこにあるのだろうか?本当の自分とは。
 

 

 例えば、
 セラピーなどを用いて、自分の内面を探ってみる方法はどうでしょうか。

 インナーチャイルド、トランスフォーメーション、前世療法などなど、様々なワークがありますから、探ってみること自体は可能です。

 

 それぞれは有効なものだと思います。

 

 例えば、自分の「女性性の部分に気が付けた」「意外な部分に気づけた」とかそういうことは起こりますけども 
主催者側の宣伝は別にして、それだけで「本当の自分がわかった」という人に残念ながら出会ったことはありません。

 

 仏教の悟りにしても、仏陀を除いて、悟りを得られた人は本当に一握りで、凡人には難しい。 

 

 自分の内面を探る、というのは「私的な領域」を掘り下げる作業ですが、そうしたものからは結局本当の自分は得られないのではないか?

 

 もちろん、一瞬、「悟ったような気になる」ことはしばしばありますが、それを維持することは難しいですし、悟ったということを表現しようとすると俗世の垢にまみれる必要があって、そこでまた元に戻ってしまう。
 

 

 
 筆者も経験がありますが、世間との関係は脇に置いて、自分の内面を掘り下げて磨けばよい、改善すれば生きづらさはなくなるのではないかと取り組んでみます。

 途中までうまくいくような気がするのですが、結局頭打ちになってしまう。

 

 そして、 結局、気がつくのは、哲学や脳科学といった知見などもしめすように、人間はクラウド型であり、「社会」や「関係」を離れて自分を知るということはできない、ということ。

 

 スタンドアロン(自分だけで)で変わるのは難しい。

 

 スマホでいえば、本来の中身(コンテンツ)は、端末の外にあるということ。

 クラウドの世界で生きるというのは、公的なネットワークの中で生きるということ。

 

 私的な情動のままでは通信をすることはできないので、
公的に決められたプロトコルに沿った形でデータは整えられ表現される。
 
 それが人間であるということ。

 

 実際、古代ギリシャでは、公的な領域こそが市民の本来の姿であり、私的な領域というのは、未熟で野蛮なものとされたそうです。

 

 
 現代の私たちの多くが誤解しているのは、「私的な領域こそが本来で、公的な領域は取り繕った偽りである」という考え。
  
 
 これは全くの逆であることが見えてきます。

 

 以前の記事にも書きましたが、
 実際に、あるクライアントさんが、活動量計(スマートウォッチ)をつけて生活していたところ、一人で家にいるときが一番緊張していて、外でたくさんの人と接しているほうが緊張は少なくリラックスしていた、ということです。※最近は、歩数計といったことだけではなく、睡眠の状況から血圧まで簡単に測ることができます。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 もちろん、その方は人とのかかわりが得意、というわけではなく、むしろストレスになることのほうが多いと感じていました。でも、実際に計測してみると逆であることが明らかになりました。

 

 家で一人でいるというのは、まさに「私的な領域」であるわけですが、余計に緊張が増して、自分らしくいれなくなる。「一人で家にいて、好きなことをしている」から、自分らしい、という風に思いこまされているだけで、実際はそうではない。

 

 

 本ブログでも何度も言及していますが、統合失調症の方も、治療のために部屋にずっといて、薬さえ飲んでいたら良いかといたら全く逆であって、ドアに鍵をかけず、仕事(役割)を与えて過ごしていると、メキメキ改善していくことが知られています。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 実は社会の中で「位置と役割」がないために幻覚(症状)が必要になるのではないか、とも言われています。

 「公的な環境」が維持できなくなって、「私的な領域」に陥ってしまうと、やはりおかしくなってしまう。幻覚、幻聴を用いてまで「公的な環境」を作り出してしまう。
 

 

 
 こうしたことからわかることは、

 

 私たち、人間にとっては「公的な領域」こそが本来の自分がいる居場所ではないか、ということです。

 

 私的な環境にいるとどうなるか?といえば、偏った家族の価値観(ローカルネットワーク)とつながってしまう。

 
 そこでは、多様性がなさすぎて、私的情動を昇華するにはリソースがまったく足りない。極端に言えば、特定の誰かに依存(支配)されることを余儀なくされてしまう。

 

 私たちは、生まれてきて、まずは“機能している”親の助けを借りて、自分の中にある「私的な領域」を「公的な環境」で表現することを学びます。学校での教育や友人関係も(正しく機能してくれれば)その助けとなります。
 

 

 最も大きなポイントは「就職」です。

 

 仕事を通じて「位置と役割」を得てはじめて人間は「公的な環境」に安定して身を置くことができるようになる。

 働いた報酬としてお金を得ることができますが、お金の力があることで、他者からの支配から自由になることができる(経済的に他者に依存していて自由を得ることは難しい)。お金というのは価値を数字で置き換えたものですから。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 昨今は社会情勢のせいで仕事に就きたくても就けない人が増えています。
 これは、精神的な健康の観点からも大問題です。
 (仕事ができないのは基本的にその方のせいではありません。社会の責任です。)

 

 「恒産なくして、恒心なし」といいますが、一人部屋にいて仕事をしない状態のままでは、世界一の医師やカウンセラーであっても、その方を「自分らしく」生きていただくようにすることは難しい。

 

 上に書きました統合失調症の例もそうですが、やはり、徐々にでも仕事をして、社会に出て何らかの活動をしていくようにしていかないと本当の回復はできない。
 (※家にいて家事をするのは立派な社会的な仕事です。また、家庭は一時的な避難場所でもあります)

 

 

 「生きづらさ」の背景にあるものは、「関係の個人化(私事化)」であるといわれます。社会に原因がある問題が、すべて個人に還元されてしまうことを指します。

 例えば「引きこもり」でも、そこには家族の問題がある、経済の問題があるわけですが、すべて、個人の性格の問題、やる気の問題、精神の問題とされてしまってはたまりません。

 つまり、生きづらさを「私的な人格」の問題とし、そこで解決しようとすることはさらなる生きづらさを生むということです。

 自己啓発も最初は癒される気がしても、まわりまわって最後は「問題を解決できないのは、あなたのせいだ」と突き付けてくるわけですから。

  

 人間はクラウド的存在です。クラウドから切り離されると機能しなくなる。
 ローカルネットワークの呪縛から解き放ち、「ワールドワイドウェブ」につながらないと機能回復は果たせない。

 

 緩やかな「関係」を構築して、社会に位置と役割を得て「公的な環境」を築いていく。そこで世の中の常識や社会通念をバックボーンにして生きていく。すると、多元性や安心安全を感じるようになります。
 自分にかかる苦しみも、まわりまわって社会に還元されていきます。

 

 そうしてはぐくまれる「公的な人格」こそがローカルな呪縛を離れた本来の自分であることが見えてきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 近年、ブラック企業や組織内のパワハラ、モラハラなどがニュースでも取りざたされることが多くなってきています。人が持つハラスメント、といった負の傾向に焦点が当たるようになってきたことは、健全な傾向かもしれません。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 筆者も会社員の経験がありますが、モラハラ、パワハラが横行していた職場をいくつか経験しています。そんな経験をしていると、会社や仕事って嫌で、億劫なものだと、思えてきます。

 引きこもりなどで、働くことができていない方などはいらっしゃいますが、そうした方たちにとっても、社会や特に会社というのは「恐怖の対象」でしかないようです。

(参考)→「ひきこもり、不登校の本当の原因と脱出のために重要なポイント

 

 

 その恐怖の場所に、家族などから、無理矢理、「働きに行け」とけしかけられることはとても恐ろしいことです。
養育環境に問題があった場合は、「家庭という地獄」から、「社会(会社)という別の地獄」へと、理解のない家族に追い立てられるというとても理不尽な図に見えます。

 

 「働く」という言葉自体に拒否反応があって、例えば、医師やカウンセラーから「働きに行くにあたって、どんなことが妨げとのなっていますか?」とニュートラルな質問されただけで、「この治療者は暗に仕事に追いやろうとしているのではないか?!」「何もわかっていない」とラポールが途切れてしまうこともあるくらいです。
 

 

 そういうネガティブなイメージもありますが、一方で、「仕事」は、悩みからの回復では要になるものです。統合失調症でもそうですが、「仕事」や「役割」があると、症状が軽快することが知られています。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 反対に、ずっと部屋にこもっている、家にこもっている状態ではなかなかよくなりません。
 やはり、人間はクラウド的であり、社会的な動物であるために、他者からの期待、そして社会の中での位置づけがなければ十分には生きていけないのです。

 

 

 

 ただ、多くの人にとって、「会社」や「仕事」っていうのは鬼門であり、厄介なもの。そうすると、そもそも「会社」や「仕事」とは何か? について捉えなおす必要があるようです。
 

 

 

 あまり知られていませんが、実は、現代の「会社」というのは、それを機能させることで「自由を守るための場所」「反支配の砦」として構想されました。
 

ピーター・ドラッカーという経営学の祖とされる人がいます。十年ほど前に「もしドラ」という本が流行りましたが、日本でも著名で、経営者の中にもファンが多いです。

 
 ドラッカーは、1909年にオーストリア、ウィーンで生まれました。大学教授の父を持ち、子どものころからフロイトやシュンペーター著名な知識人たちとも面識があったそうです。ナチスが政権を取った後、イギリス、アメリカへと移住し、「マネジメント」など現代の古典ともいうべき著作を発表していきました。

 

 ドラッカーが仕事を始めたころは、商業社会から産業社会(大規模な工業や企業が主役となる)への転換点であり、その混乱の中でナチス、共産主義など全体主義が台頭しはじめた時代でもありました。

 そうした時代で、来るべき産業社会の中で自由を守るために必要なものとしたのが「マネジメント(とそれによって適切に運営される会社)」だったわけです。

 なかなか難解で、実際にその著書を読んだ人は少ないとも言われる本ですが、そこに書かれていることは、極端に言えば「人が人を支配しあわないような組織の作り方のメソッド」でした。

 ※支配というのは、経営者から従業員、だけではなく、従業員同士、従業員から経営者への支配も含みます。
  

 

 そのためにドラッカーの本には、経営者の心得、組織作り、マーケティング、給与の設定の仕方などまで細かく書かれています。時代を先取りしたような、時代を超えた本質を示しているため、今でも高く評価されています。

 特に戦後の日本企業は、ドラッカーの経営論の申し子ともいうべき存在でした。

 
 ブラック企業などが取りざたされる一方で、働きがいのある会社としてしられたり、生き生き働いている人たちがいるのも事実です。

 

 家族に置き換えればわかりますが、機能している家族は、安全基地としてメンバーにとってはなくてはならないもの。反対に、機能不全家族というのは、ストレスに満ちた環境になる。ちょっとした運営の仕方の違いで、機能するかしないかは大きく分かれる。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 「会社」も、ドラッカーが考えたように「反支配」という視点で適切に運営されれば、実は私たちが受ける社会や家からの圧力やハラスメントの砦となってくれる場所でもあるのです。

 近代化するプロセスでの会社というのは家父長的な「家」の呪縛から逃れる場所でもありました。
 個人が一人ではできない力をふるうことができる。事業によっては何千万、場合によっては何億、何十億という単位のプロジェクトにかかわれるのは、会社という組織があるためです。

 

 「仕事」「用事」もそれがあることで、人同士をつなげる媒介となったり、私たちを守ってくれるものです。   

(参考)→「100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 

 会社に属するメンバーにとって、機能する会社の第一のポイントは何かといえば、「位置と役割」を提供してくれるかどうか?にあります。会社の中にいれば、自動的に働き甲斐があるというわけではありません。

 そのなかで自分にふさわしい「位置と役割」が与えられていなければ、潜在的に失業しているのと、何も変わりません。

 

 高度成長期の会社は、いろいろと問題はありながらも、メンバーがやりがいを持ってモーレツに働けたのは、日本全体が成長期で、働けば働くほど会社も結果が出たからです。そして、成長がもたらす豊さが「位置と役割」を自然と与えてくれました。

 「売り上げはすべてを癒す」という言葉がありますが、社内で細かな問題はあっても、好業績で結果が出ているうちは皆幸せなのです。

 

 反対に、精緻にマネジメントしているような会社でも、業績が悪い会社はメンバーのやる気も下がるし、雰囲気はギスギスするし、ブラック企業として問題になるような問題も起きやすい。
 特に、社会全体の成長率が下がっているときに、売り上げ至上主義で厳しく社員にあたるような会社は最悪で、結果は出にくいのに、メンバーには厳しいものだから、
社員に自殺者が出たりといったような問題を引き起こしてしまいます。
 

 

 実は、自分にとって良い会社を選ぶときには、相性云々も大事ですが、会社や属する業界自体が業績が良いかどうかは大切なポイントです。業績が良いというのは、その会社が社会から必要とされている(位置と役割がある)ということであり、当然そのメンバーもそのように評価されているということだからです。
 反対に業績が悪い常態が続くと、「不要」として社会から退場(倒産)させられてしまいます。
 

 

 さらに、可能であればなんらかの「技術」を身に着けられるようになると、業績などの変動に対して、自分の位置と役割をまもりやすくなります。

「技術」や手に仕事があるということは、仕事の主体性を自分中心にすることができるということ。

 実際、筆者の経験でも、会社内で社内で自分の位置を守るためには、業績の良い部署にいるか? あるいは自分だけの経験、技術が必要でした(エキスパート職)。
それがないと、年とともに厳しくなっていき、「位置と役割」を奪われて、生殺与奪を他人にゆだねてしまうことになるのです。
 

 

 社会学者なども指摘していますが、
 「生きづらさ」の問題というのは、本来は社会、経済的な問題でした。
 現在は、個人の心の問題とされてしまう(私事化、個人化)。でも、それは間違いで、やはり構造の問題であることに変わりはありません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

「生きづらい」と感じているならば、それはまず第一に、「経済・社会問題」であり、次に「人間関係」であり、最後の最後が自分の問題ということが常識です。

 

 今、状況から抜け出せないのは、当人の問題というよりは、社会構造の問題であったり、その中でうまく社会の階段を上ることをアシストできなかった家族の機能不全問題であります。

 社会は低成長、ゼロ成長の時代ですから、成長の果実を得て、自分たちの「位置と役割」を実感しにくい。
 IT化やグローバル化で、かつてはあったような単純な仕事は日本にはなくなりつつある。
 会計士や税理士のような資格が必要な仕事でも、IT化されたり価格競争などでかつてのような仕事はなく、仕事にあぶれてしまう。
 さらにAI化の波が来ているため、将来安泰な仕事はどこにもない。

 

 現代は、私たちが人間らしく生きるために必要なもの、人づきあいの要件でもある「用事」「仕事」が徐々に失われていく社会です。かなり難しい時代の中で揉まれて生きているのが私たちです。

 
 そんな私たちが感じる不安や恐れを、「個々人の意識、心の問題だ」なんていう人がいたら、どうかしています。

 先に取り上げたドラッカーは、
 「位置と役割を持たない者にとって、社会は不合理に満ち、計算できず、かつとらえどころのない存在である。位置と役割を持たなければ社会からつまはじきにされる。根無し草の目に社会は見えない。彼らにとって社会は半分しか見えない。半分しか意味がなく、半分は暗闇という予測不能な魔物の世界にすぎない。自らの意思ではその生活の糧さえどうすることもできない。何がどうなっているかを理解することもできない。」

 

 「魔物の世界」とは、まさに、引きこもりで苦しんでいる人が感じる、社会への恐怖の感覚をそのまま言い当てているようです。

 仕事や会社とは、「位置と役割」がなければ、計算できない、不合理で、おそろしい魔物として立ちはだかりますし、「位置と役割」があると、「支配」の防波堤ともなります。

 私たちは、自分の尊厳、自由を守るためには、何とかして自分の「仕事(位置)」を獲得する必要があります。

 機能している「職場」や「仕事」というのは、「家」や「養育環境」からの悪影響から自由になれる場所になりえるのだ、ということを知ることはとても大切です。

 

 もちろんトラウマ(ストレス障害)などの影響で、社会恐怖が先行している場合もありますが、実は、「位置と役割」がないことが、生きづらさの原因の一つとなっている。「卵が先か鶏が先か」というようにねじれ合っている。そのため、「生きづらさ」から逃れるためには、家にずっといても解決は訪れず、社会の中で「位置と役割」をなんとか獲得していく必要があります。

 

 成人した後の家(実家)とはあくまで緊急避難先で、長期の滞在には適さないのです。家族の呪縛にとらわれたり、仕事に就けない期間が長くなることで条件は悪化し続けていき、身動きが取れなくなるためです。
 中国古典でも「恒産なくして恒心なし」といいますが、本当の“安全基地”である「自分の家」は、自ら経済的に自立して築く必要があります。

 

 上にも書きましたように大変な時代なので、なかなか長期に安定した仕事を得ることはだれにとっても難しい。
 それでも、就職支援、就労支援、カウンセリングなどもうまく活用して、働くためのスキルを身に着け、したたかに経験を積み重ねていく。
実際に、それまでうまく働けなかった方が、就労支援を経て、生き生きと活躍しているという例はたくさんあります。

 

 また、仕事を得たことで、それまでの悩みが緩和していった、というクライアントさんがいます。
 (以前にも書きましたが、人とのかかわりの中にいるほうが実は悩みは軽くなる)

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 

 もちろん、職場はうまく選んでいく必要はありますし、右から左へと容易なものではありませんが、生きづらさの解決のためには、避けて通れないものです。

 医師やカウンセラー、そして公的サービスと連携していくことで、徐々に「位置と役割」を得て、悩み、支配から自由になる階段を上っていくことができます。
言葉を変えれば、一人で悩んでいた状態から、大変な時代に生きる私たちと共に悩めるようになっていきます。

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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