前回の記事で少し触れましたが、人間は、「ポリス的動物(社会的動物)」と呼ばれています。
わたしたちは、規範(ルール)を求め、秩序を欲しています。
自然と、ルールに従おう、そしてネットワークにつながろうとする性質があります。
ローカルルールとは、その性質を悪用したものです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
わたしたちは、「これはルールだ」「常識だ」という言葉にとても弱くできている。
ハラスメントを行う側も社会的であり、単に理不尽に振る舞いたくない、わけがわからない行動は取りたくないと感じているため、自分の私的情動に対して、「これは常識なのだ」と騙ろうとする。
「これは嫉妬なんです」とか、「これは私の不全感の表明です」と正直に言ってくれればこちらも影響されずに住むのですが、面倒なことに「これは仲間内の常識なんです」「あなたのせいなんです」と正当化の理屈をかぶせてくるから厄介です。
そして、「私の心の中を覗きなさい」と変なネットワークに巻き込もうとフィッシングメールを送ってきたりもする。
(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている」
私たちの身近には、このようなローカルルールがウヨウヨとはびこっています。
では、「世の中はローカルルールに支配される暗黒社会だ。」「ローカルルールだらけでは何も信用できない」というわけではありません。
「パブリックルール(グローバルなルール)」という大きな川が流れており、“普遍的な何か”、物理的な現実というのは確実に存在しています。
(参考)→「常識、社会通念とつながる」
人類の営みは、“普遍的な何か”を代表させようとする努力の歴史でもあります。
昔、中国の皇帝も、自身の即位の根拠は「天命を受けた」ということですが、つまり“普遍的な何か”(天命)を代表している、ということ。皇帝だから何でもできるわけではなく、“普遍的な何か”(天命)を代表していることを示し続けなければならないし、それに反したことはできない。
代表できなくなったり、ローカルルールで統治していると、そのうち革命が起きて、王朝が交代する、ということになる。
私たち現代日本も取り入れている民主主義も、選挙や世論調査を通じて、不完全ながら、“普遍的な何か”を代表させようとしています。“普遍的な何か”をルソーは天命ではなく、「一般意志」と呼んでいる。
(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能」
わたしたち個人も、そうした“普遍的な何か”を代表する、自然に感じ取る力があります。それが「直感」と呼ばれたり、「ガットフィーリング」と呼ばれたりする、身体で感じる感覚です。
(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」
特別なことではなく、わたしたちは誰でも感じています。
トラウマを負うというのはローカルルールの呪縛によって、焦燥感や、不安感、体調不良から、そうした身体感覚を邪魔されている状態のことを言います。
身体感覚が撹乱された状態で、ポリス的動物の特徴である、「ルールに従う」「ネットワークに繋がる」ということをうまく利用されて、「ローカルルール」という“ニセの何か”に従わされてしまう。
ポリス的動物であるわたしたちからすれば、「ルールがないくらいなら、ニセモノでもルールがほしい」と思わされてしまうのです。
さらに、ルールとは単に頭に知識として入るのではなく、人格レベルで内面化されるものです。
人格レベルで内面化とは、「まさにそのものになるようにして、受け入れる」ということです。
ですから、刺激を受けると「(人が変わったように)ルールに従わない人を非難したりする」のです。
これは、人格がスイッチしているということです。
人格というのは、スマホに例えればアプリのことです。 スマホは物理的には1台でも、アプリ(プログラム)は複数入っていますが、そうした構造に人間もなっていると考えられます。
(参考)→「変な設定のスマートフォン」
ただし、解離性同一性障害(多重人格)でなければ、人間には人格を統合しているという感覚(錯覚)が働いていますから、「ローカルルール人格の言動も自分のものだ」と思わされていますし、別人格だとは感じることが難しいのです。
(参考)→「解離性障害とは何か?本当の原因と治療のために大切な8つのこと」
この「ローカルルール」そして「人格」という発見の意味はとても大きいと感じています。
例えば、これまでセラピーを受けても、何をしても、自分の自信のなさや、自己否定感がどうしても拭えなかったという方はとても多い。
しかし、「ローカルルール」という観点をもつと、自分が信じてきたことがいかにおかしな仮想の世界でしかなかったのか根本からわかるようになる。
それらにはなんにも根拠がなく、単なる他者の私的情動でしかなかった、ということ。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
いままでは、すごいと思っていた人たちが、解離しやすいおサルさんでしかないこと。人間には、人格というものがあって、スイッチしている、ということ。どんな立派な人でも解離してしまう。
そのため、私的環境での発言はすべてが戯れ言でしか無い、ということ。
こうした事がわかってくると、これまで苦しんできた世界がかなり変わってくる。
筆者も自分で自分にやってみても、従来のトラウマケアだと動かなかった自分の悩みも変化していく感覚があったりします。
例えば、発達障害、といったような人たちは、「暗示にかかりやすい」「真面目さ」「言葉を真に受けやすい」ということが挙げられています。ローカルルールの特徴からすれば、ローカルルールにもっとも影響されやすい人たちであると言えます。
発達障害の方の生きづらさや、問題を引き起こす認知も、じつはローカルルール人格のもので、それに気がついた途端に軽快した、というケースも実際にあります。それまではどうしても否定的な認知が拭えなかったものがガラッと変わったりする。
(参考)→「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴」
「ローカルルール」というのは、おそらく、健全な発達の過程では反抗期などを経て自然となされる人間へのイメージや規範の相対化をあとからでも促してくれる視点なのだと思います。
「ルール」と「ネットワーク」という「ポリス的動物(社会的動物)」の性質を悪用され、拭えない強い呪縛を解きほぐしてくれる。
人間は成長する過程で社会の規範、常識というものを、ローカルルールなポイントを通じてインストールされるわけですが、そのローカルなポイントが不全感を抱えていた場合は、おかしな設定(ローカルルール)が紛れ込む。
発達の過程でそうしたことを一旦否定して、「人間ってみんな限界があって等身大で、個人的な感情で動いていて、言っていることも戯言に過ぎない」と体感してくるわけですが、それがうまく得られない場合には、ローカルルールに長く呪縛されることになります。
従来のカウンセリングだと、ローカルルールをそのままにしておいて、あるいは、ローカルルール人格が訴えることに治療者も真に受けさせられ、共感させられて、ローカルルールの枠を超えることができないままにさせられることも多かったのかもしれません。
ローカルルールがそのままになった上で、認知なり、感情なり、トラウマなりを扱おうとしているのでうまくいかなくなかったのかもしれない。
さらに、「人格」という視点も重要で、人格が変わると体質も変わるということが知られています。(F・パトナム他「多重人格障害-その精神生理学的研究」(春秋社))
内的に複数の人格(脳科学ではモジュール、作家の平野啓一郎さんは分人と呼んでいますが)が存在するのだ、と認めて捉える。
(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?」
昔漫画で、ニセの世界に誘い込んで主人公を出れなくしたり、人格や体質をいろいろと変えることで主人公の攻撃を無化したりみたいな敵が登場することがありました。ニセの世界と気が付かずに「こっちのほうがいい」と惑わされたり、効くはずの攻撃が効かずにピンチになったり。
しかし、最後は、ニセの世界などの正体を見破ることで敵を撃破する、といったストーリーだったかと思いますが、「ローカルルール(人格)」という視点でセッションをしていると、そんな感覚、手応えを感じることがあります。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。