トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる

 

 社会に出ると、いろいろなフィードバックをもらいます。

「君は、こうしたほうがいい」
「君は、こういうところがある」

などなど、

仕事であれば、
そうしたことを承って、仕事の仕方を修正したり、ということが必要になります。

ただ難しいのは、当たり前ですが、世の中に絶対客観的な評価などない、ということです。

 

 嫉妬、やっかみ、支配欲など
いろいろな濁りが混ざって、フィードバックは飛んできます。人間の社会では避けられない。

 

 建前上は公正で、部下を指導、教育するはずの上司、先輩からやっかみも含んだ評価や指導が飛んでくるなんてことは、日常茶飯事。

 

 家族や配偶者同士でもそう。たとえば、オリンピックがありましたが、スポーツ選手同士、兄弟間でもどちらかが活躍すれば嫉妬や葛藤は避けられない。

 「あなたは~~人間ね」ということが的を得ておらず、無意識に相手をコントロールしたい、という欲求からのものであることもしばしば。

 

 ですから、人から言われたことはあくまで意見として承って、反映させるかどうかを吟味する必要があります。

 

 

いわゆる、「愛着」が安定していれば、
支持してくれる親や友人などの存在を内面化しているので、それらが参照元になって、真偽のほどを吟味する作業を支えてくれます。

 

 トラウマを負ったりして、それらがないと、他人の意見に流されたり、あたかも、それらが客観的な事実であるかのように真に受けてしまいます。

(参考)「「過剰な客観性」」

 

 また、トラウマを負った人は、向上心(問題解決意欲が)が高い傾向があります。見た目はかたくなに思われたりもしますが、基本的には「素直でありたい」と願っているので、他人の意見は素直に聞こうとします。それが裏目に出てしまって、まともに影響され、心が傷つき、ダメージを負ってしまいます。

 

 筆者が担当させていただいているクライアントさんたちが、よくおっしゃられるのは、
「人の意見を聞かずにかたくなに自分の態度を変えないような、(意識の低い)人間にはなりたくない」
ということです。

 

 もしかしたら、わからずやの親への違和感も手伝っているのかもしれません。(「ああは、なりたくない」)

 

ただ、「学校スキーム」と違い、
社会に出たら、“素直”さの中身が違うのです。

(参考)→「「学校スキーム」を捨てる」

 

 

 “素直”とは、真に受けることではありません。

理想を言えば、あたかも、自然科学者が自然を見るように、意見と事実はわけて、ありのままに見ようとする姿勢のこと。

 

 ただ、普通の人はさすがにそこまでの姿勢は難しいので、
適度にペンディング(保留)したり、おかしいなと思ったら、「なによ、あの上司!失礼なことを言ってきて!」と愚痴を言ったりして、バランスを保ちます。

 また、“太鼓持ち”として、うまくおべっかをつかって、先輩、上司に合わせることもします。それは悪いことではありません。必要なことです。

 

 人材が集まり、制度も整った大企業(中央官庁)でも客観的な評価など難しいですし、さらに中小企業、零細となれば、会社の体制、人材の充実度もどうしても下がります。荒っぽい職場もあります。そこで、客観的で素晴らしいフィードバックを期待するのは、幻想といえるかもしれません。

 

 筆者も子供のころを思い返すと、
悪ガキたちは、大人のいうことなんて、真には受けていなかった。適度に合わせますが、「それはそれ」として流したり、聞いているふりをしたりしていました。

でも、世の中ではそういう人のほうが、素直と評価され、
真面目に相手をしようとするとつぶれてしまう。

 

 本屋に並ぶビジネス関連の書籍ではよく、「社員は素直なほうがいい」と書いてありますが、あれは著者たちが主に経営者たちだからです。経営者から見て都合の良いことが書いてあります。経営者から見たら、社員は素直なほうがいいに決まっています。

 

 しかし、その経営者自身が素直か?といえば、はなはだ疑わしい。経営者は自己愛性パーソナリティ傾向の強い人が多いとされますが、他人に厳しく、自分にはどこか甘い人たちが書いた本だったりするのです。

 でも、真面目な人は、それを真に受けてしまう。

 

 

 以前も紹介しましたが、東大教授が書いた
「できる社員はやり過ごす」という本がありましたが、
活気のある職場は、やり過ごす文化がある、というものです。適当に流したり、やり過ごしたりすることは、ズルでも何でもない。

 

 結局、トラウマを負った人が見る“素直さ”と、実際の世の中のありのままの“素直さ”の実態とは違うようです。

 

 知っている人からすると当たり前のことなのかもしれませんが、これも、世の中の1階部分の裏ルールといえそうです。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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過剰な「まじめさ」

 

 トラウマを負った人のもう一つの特徴(症状)は、「まじめさ」です。過剰なほど「まじめ」なのです。
 なぜまじめかと言えば、「一元的価値観」で、さらに「過剰な客観性」を持っていて、「世界には善悪、正誤の基準がある」という感覚があるからです。

 

 

 そのため、目の前にあるものを相対化して受け取ることができないのです。相対化とは、もっと簡単に言えば、「茶化したり」「諧謔(面白い気のきいた冗談。しゃれ。ユーモア)」をもって接することです。

 それができません。


 なぜなら、目の前にあることが客観的に事実だと思い込まされているから。

 人の言動も真に受けすぎてしまいます。

 とても傷つきやすいのです。

 なぜなら、人の言葉も事実だと思い込まされているから。

 

 

 もう一つの理由は、トラウマを負った出来事によります。

 自分勝手な親のふるまい、人によってはレイプといった理不尽な出来事によってトラウマを負いますから、そうした勝手な人間の行動については嫌悪しますし、自分はそうはなるまいとかたくなに考えています。それもまじめさを後押しします。

 

 まじめさは、学校の勉強など決められた線路を進む場合は強力な推進力になりますが、広い世の中を渡る場合には、足かせになることが多く、生きづらさの原因にもなります。

 

 人生の意味や目的を考えすぎて、虚無的になり、人によっては自ら死に至る、というケースもあります。

 

 

 本来の人生は、「ただ生きるだけでよいもの」

 

 価値観も多元的で、落語の人物たちのような人生観(業の肯定≒人間とはどうしようもないもの)です。


「借金を負えば自己破産すればいいじゃないか」

「ひどい家族なら捨てればいいじゃないか(仏陀もキリストも家族を捨てているし)」

「仕事も変えればいいじゃないか」

 

 

 でも、なぜかそうは考えられない。

 トラウマを負ったゆえの「まじめさ」ゆえに「人生とは立派に生きるもの」と考えさせられてしまっているからです。

 

 社会とは、「自分が楽しく生きるためなら、少々のズル賢さがあったり、グダグダしてもいいじゃないか」という価値観でぼちぼちと進んでいくものですが、それがありません。

 

 残念ながら、会社などに入ったり、社会に出ると、実は暗にそのように生きている人たちにいいようにされてしまうのです。

 

 

 トラウマを負った人たちは、その苦難に際してどうするか?と言えば、自分を見つめなおして、自分を高い精神性へと高めることで生きづらさを乗り越えようとします。
 しかし、ほとんどの場合は破れてしまいます。
 なぜなら、それはトラウマを負ったニセ成熟の夢、幻想だからです。

 

 トラウマによって幼いまま時間が止まり、青くウブなままなのです。そのウブで清廉潔白な自分が好きでもあり、とても辛くもあるのです。

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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単純化された目標は依存症状態にする

 

 摂食障害という病気があります。

 拒食症、あるいは過食症などのことですが、痩せることにすべてをかけてしまって、ガリガリになり、入院にまで至ったり、我を忘れて大量の食事を胃に詰め込み嘔吐したり、という症状です。

 

 思春期の女性が発症することが多く、愛着不安などを背景にしていると考えられます。思春期特有の複雑な人間関係や人生の悩みを自分の体重をコントロールすることで、絶対の安心や自信を得ようとします。「自己への不信や不安の病」という性質があります。

 

 複雑な自分や世界を、「体重」というわかりやすい指標にすべて置き換えて、安心を得ているわけです。

 

 

 摂食障害にはある種の依存症という側面もあります。依存症はある限られたことにしか頼れなくなることを言います。その限られたことにすべてを集約して、自己を癒したり、人生をシンプルにしようとしているとも言えます。
 

 これと似たようなことに、仕事などにおける、過度な「動機付け」があります。

 

 ある種の会社は、会社の単純化された目標に社員の人格などもすべてを集約して、動機付けて業績を上げようとしています。本来仕事とは総合的で複雑なものです。社員の能力も複雑ですが、単純化することで疑似的に依存症状態を作り上げます。


 シンプルに絞られた目標めがけて、社員が馬車馬のように働かせます。

 

 自己愛性障害の社長が作ったしくみの中で そうした社員たちも愛着不安を抱えていることが多く、まさに、摂食障害の患者のように、極端に単純化された目標(数字)を猛烈に追いかけようとします。

 

 問題なのは、「単純化された目標」が人格のすべて、だという極端な動機付けをしているために、それが達成できない人がいた場合、苛烈に否定し、こき下ろしてしまうのです。

 

「あんな、仕事のできないやつ。いなくなればいいのに」

「なんで、会社に来ているんだ」

 といったような暴言や陰口が飛ぶようになります。同じ職場で働く人も、「仕事ができるかできないか」だけで判断しようとします会社もそれを暗に肯定します。会社におけるモラハラ、パワハラの背景にもなっています。

 


 人間というのは総合的なものであり、単一の目標で表すことなどできません。いろいろな面があり、多元的です。

 

 しかし、特定の数字や“達成動機”という一側面に、人格も何もかもすべてを代表させて、それを追いかけさせることで、結果として会社の業績は急成長します。

 

 ただ、社員はボロボロになったり、成功したとしても、どこか違和感のある「意識高い系」の人として他の会社に行くと宇宙人扱いされたり、するようになります。

 

 世の中で社員のモチベーションが高い、と言われる会社でも、内実を見てみると、上記のように、パフォーマンスが低い同僚に平気で暴言を吐いたり、バランスを欠いていたり、宗教的な雰囲気があったり、といったことがあります。満足して会社を評価しているのは、そうした雰囲気にハマった人たちだけ。

 

 そうした会社でたまたま働かされて、心に傷を負ってしまった人も多くいます。実際に社員が自殺してしまって問題なったり、ということも生じています。

 

 大切なのは、バランス。人間とは総合的なものである、価値観も多元的である、という観点です。

 

 戦後の高度成長期の猛烈なワーカホリックな風土は、もしかしたら、戦争の傷を仕事という極端な行為で癒そうとしていた、ある種の依存症的な現象だったのかもしれません。

 

 昨今の、ワークライフバランスの重視や働き方改革といった動きは、社会の成熟化を示しているといえそうです。

 

 

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”やる気が高い”は要注意

 
 やる気が高い人、モチベーションが高い人は優れているといわれています。確かに仕事でも、情熱をもって働くことは良いことです。

 

 しかし、実は、臨床心理の専門家からは、やる気が「極端に」高い人は、実は自己愛性パーソナリティ障害ではないか?とされます。

 

 愛着が安定している方であれば、「そこにいるだけで承認されている」という感覚があり、物事全般にバランスが取れていますから、極端に何かを達成しなければならない、という感覚はないからです。

 

 ほどほどにやる気がありますが、一定以上働くと疲れるし、飽きも来るし、やりすぎることはありません。

 

 しかし、愛着が不安定だと、それを仕事で埋めようとしてしまいます。その結果、極端なやる気となって表れて、疲れも知らずに働こうとしてしまうのです。

 

 会社の経営者(特に創業者)などに多いとされます。

 
 もちろん、愛着が不安定であることが必ずしも悪いことではありません。社会的成功のエンジンともなります。

 しかし、ある期間を過ぎたら、どこかでバランスを保つようにシフトをする必要があります。そうして大成していく方はいらっしゃいます。

 

 それが上手くいかないと、家庭が壊れたり、会社でも行き過ぎて破綻してしまったり、ということが起きます。

 

 昨今のブラック会社として話題になるような会社は、自己愛の強い経営者によって創業されて、そうした経営者の価値観でなりたっていますので、通常のやる気や働き方、そして「ただ存在しているだけではだめだ」として、過度な労働を強要されることで起きているように思われます。

 

 現在の職場で生きづらい、と思っている方は、もしかしたら、そうした職場の「環境」に問題があるのかもしれません。

 

 

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