「逃げる」ことは、私たちの安心・安全のためには欠かせない

 

 理想(ローカルルールやファンタジー)へと回避せずに現実へと入っていく、と聞くと、「逃げてはいけないのか」と感じて苦しくなる方がいらっしゃるかもしれません。
 実は逆で、現実へと入っていくことは、「現実の場面で、逃げられること」であり「逃げてOK」ということが必ず含まれなければならないということです。
 

 動物は、危機に直面したときは、「闘争」か「逃走」とどちらかの反応を示して対応します。

 ライオンに襲われればシマウマは逃げる。立ち向かっても勝てないので。一方、小動物なら立ち向かう。サイや象の場合は群れで立ち向かうこと(闘争)もあるようで、ライオンが必ずしも百戦百勝ではないようです。この場合はライオンのほうが諦めます(逃走)。
 

 

 「逃走」というのは、善悪の判断でとらえるようなものではなく、動物にとっては基本的な反応であるということです。常に立ち向かわなければならないというのは、あり得ません。「闘争」「逃走」を場合により使い分けて生きています。

 

 対して、人間の世界では、「逃走」というと悪いニュアンスでとらえられることが多いです。

 私たちはほぼ全員と言ってよいかもしれませんが、「努力が必要」と並んで「逃げてはいけない」ということが頭の中にあって、行動を縛っています。

 実は精神障害や、依存症などは、「逃げれない」という環境で起こることが多い。本人は、ぎりぎりまで頑張って、それで対処できなくなり、自己治療として問題症状が起こると考えられます。

 本来であれば「逃げてOK」なのですが、逃げることが必要な場面でも逃げることができない。逃げる先(ホーム)がない。

 

 愛着の研究では、子どもは、不安になると親のものとに駆け寄って抱きしめられます。これも、親の元に“逃げて”いるわけですが、逃げる先があるということはとても重要です。

 愛着とは言い換えれば、世界への安心感があると同時に、危険があった場合に“逃げる先があること”とも言えます。
 

 逃げる先があるからこそ、現実に正面から向き合える。
 逃げることはとても大切。

 「孫氏の兵法」でも、勝算がなければ戦わず、ということが書かれているように、自分にとって対処できなければ積極的に逃げるものです。
 

 悩みにある人は、世の中の俗なイメージでは、現実から逃げている印象がありますが、実は反対で、現実から逃げることができない状況に追い込まれてしまった人たち、といえます。

 現実の世界で逃げることができないから、想像(ファンタジー)の世界へ逃げ込んだり、回避、防衛反応を起こして守るしかなくなっている。

 さらに、逃げる先がないということと同時に、「逃げてはいけない」という呪縛が私たちを縛ります。

 

 ハラスメントの研究では、ハラスメントを仕掛けてくる人は、「逃げるな!」といってバインドをかけてくるとされます。

 「(この苦しい状況から)逃げるな」というのは、とても強力な呪縛であり、それ自体が虐待的な言葉なのです。

 本来であれば、対処できなければ、積極的にポジション(居場所)を変えて、対処する。そうすることが正しいのです。

 

 しかし、「関係性の呪縛」は強烈で、私たちは対人関係を壊さないよう「適応」しようとしてしまいます。さらに、その関係がなくなったらやっていけないのではないか、という不安がある場合、レイプ、虐待といった状況の中にあっても、その関係にとどまることを余儀なくされてしまう。

 その場の人間関係を壊すくらいなら黙ってひどい目にあったほうがまし、というほどに現実の中にとどまってしまいます。そして、意識だけファンタジーの中へと仮に逃走することで自分を守るようになります。

 いじめでも、いじめられている側は、「(こんな自分でも)仲良くしてもらっている」として、理不尽な指示に従ったり、どうすれば仲良くしてもらえるか、教えを請うたりしてしまいます。
 (参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 トラウマを負うということはどういうことかというと、ストレスに対処する際に逃げれなかった、ということです。

 愛着が安定していると、逃げる先(ホーム)があるため、人間関係での呪縛にとらわれにくく、呪縛にさらされそうになると瞬間的にホームに逃げ込んで、安全なところから対処していると考えられます。
 
 仕事においても、愛着が安定していると、ブラックな職場と見るやあっさりと転職していったりします。夫婦でも、安心安全が保てない場合は、さっと離婚したりします。そこに躊躇はありません。

 
 では、愛着の安定している人は現実に立ち向かわず逃げてばかりいるか、といえば、もちろんそんなことはありません。立ち向かうところではちゃんと立ち向かう。ただ、どこで逃げなきゃいけないか?どこで立ち向かうか?をしっかりと把握している。シマウマやライオンのように。 

 愛着が不安定だと、「自分にも悪いところがあるのでは?」とか、「ここで頑張れなければどこに行ってもやっていけない」とか、「愛情から厳しくしてもらっているのでは?」「収入が不安」などとを考えてしまって、動けなくなってしまいます。

 以前の記事にも書きましたが、学校スキームと異なり、社会に出たら、どこで戦うか?何が目標か?も自分で見極めなければなりません。学校のように単線で目の前のことを逃げずに頑張ればいいというルールとは全く異なります。

(参考)「「学校スキーム」を捨てる」

 

 「逃げる」という言い方を積極的に言い換えれば「ポジショニング」です。
 

 本来であれば、学校でも「逃げ方(≒ポジショニング)」を教えてあげたほうがいいのでは?とさえ思います。立ち向かうことばかり教えているのはどうか。特に日本では、立ち向かう潔さを美徳する傾向は強いかもしれません。
 人生では勝負所を見極め、それ以外はさっと逃げること(ポジション替え)がとても大切です。もしかしたら、これも裏ルールかもしれません。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 例えばカウンセリングの治療でも、積極的に治そうとしない人を逃げているとして、その人のせいにしたり、立ち向かうように勧めたりする傾向がありますけど、実際は逆で、「逃げる場所がないまま、戦うことを余儀なくされてきた人」ととらえれば見方は変わります。
 
 結局、現実で逃げる場所がないから、ファンタジーに頼るしかなくなる。事実、統合失調症などでは、現実社会で役割があると治りはぐんと早くなるとされます。それ以外の精神障害でも、やはり仕事(位置と役割)があるほうがよい。

 

 トラウマを負った人、生きづらさを抱えた人は、さながら逃走という選択肢のないシマウマのようになってしまっています。

 「逃げる」ということは、私たちの安心・安全のためには欠かせないものです。

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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「ホーム(自陣)」がなく、いつも「アウェイ(敵地)」

 筆者が学生のころ、ローマでサッカーを観戦しに行った時です。スタジアムはすごい熱気で、あちらこちらで発煙筒がモクモクとたかれていました。チャント(応援の掛け声)が唸るように飛び交い、選手が激しくプレーしています。

 

 しばらく観ていると筆者の後ろから発煙筒が飛んできて足元に転がってきました。そして、足元に置いてあったペットボトルが溶けてしまいました。ほかにも、特殊ガラスの観客エリアを区切る壁を乗り越えるファンがいたり、すごい雰囲気の中で試合するものだな、と思った経験があります。女性や子どもを連れては、ちょっと心配ですね。

 試合している選手たちも、もしかしたら、グランドになだれ込んできて自分がどうなるか?って不安に思うかもしれません。

 

 そこまでのことがなくても、相手のファンからヤジが聞こえたり、精神的にタフではないとなかなか耐えられないな、と思います。
 日本のプロ野球でも甲子園で試合するのはビジターチームは嫌でしょうね。

 

 スポーツでは、ホームゲームは有利で、アウェイ(敵地)は不利だとよく言われます。
 そのため、例えば、海外サッカーでは、アウェイは引き分けで良しとするようなところがあります。国際試合では特にそうです。

 ホーム-アウェイの勝率の違いですが海外では顕著で、日本のJリーグなどは差は緩やかなようです。
(Jリーグ開幕当初は、アウェイのほうが強いチームもあったそうです。)

 その違いは何か?といえば、「安心・安全」感の差と考えられます。
 (家族連れでも安心して見れるというのは、Jリーグの特徴だそうです。)

 

 スポーツ選手も、「安心・安全」な中で試合ができるとパフォーマンスは上がりますが、ないとどうしても力を発揮することはできません。「安心・安全」感というのは、食事、睡眠など生活面からも影響します。そのため、オリンピックでも自国開催の選手はやはり有利になります。

 

 ホーム-アウェイのパフォーマンス差の現象は、生きづらさ、トラウマといった悩みを抱える人にも当てはまります。悩みの中にある人は、「ホーム(自陣)」がないか、あっても少ないという特徴があります。

 

 世の中が常に「アウェイ(敵地)」であるという感覚。

 

 自分の家でさえ「ホーム(安心・安全)」ではない。口うるさい家族がいて、心ないことを言われないか?とびくびくしている。

 

 職場などは「アウェイ(敵地)」そのもので、おどおどしてしまう。

 能力を発揮するためには、「ホーム」であることがとても大切です。

 たとえば、自分の地元、自分が知ったお店だと、余裕をもって応対することはできますね。でも、知らない場所だと、途端に借りてきた猫みたいになります。

 トラウマを負った人は、力がないわけではありません。「ホーム」感覚がないだけです。
 「アウェイ」だから、全体を把握できず、判断にも自信がなく、行動も遅くなるのです。
 

 ただ、周囲の人は、頭の中で起きていることを理解してくれません。「あの人は能力がない」として否定的な評価をしてきます。直観的には自分はできる、と思うのですが、「ホーム」ではないため力が発揮できずにいつも負けたり、良くても“引き分け”で悔しい思いをしてしまいます。(「クソ!これがホームだったら、バカにしたやつら、コテンパンにしてやるのに!」って思います。)

 でも、どんなに頭を「ホーム」にしようと頑張っても、どうにもならず、スキル、経験が積みあがらないのです。

 

 前回、学力についても書きましたけども「ホーム」感覚が高い方は、余裕があり、判断や行動が的確に動くことができます。
 わからないことがあっても、世の中には秩序があって、適切に対処すれば、必ず解決策を導くことができる、という信頼感があります。自分が知った環境であれば、余裕をもって対応することができます。

(参考)→「世界に対する安心感、信頼感

 

 
 ただ、トラウマを負った人は、本来は「ホーム」であるはずの現実の世界が、負の暗示によって「アウェイ」に変えさせられてしまい、うまく付き合えなくなる結果、さらに「アウェイ」感は深まり、怖くてどうしようもなくなります。

 「ホーム」感覚を取り戻したくても、手掛かりがない。

 「ホーム」感覚が、現実の世界でうまく作れないと、どうなるか?
 スピリチュアルなど、ファンタジーの中に「ホーム」をこしらえて、そこを拠点に活動するようになってしまいます。
 (人によっては、希死念慮で、死によって「アウェイ」から去りたい、と思って不幸にも試みる方もいます。)

 ただ、ファンタジーはファンタジーに過ぎませんから、一時の避難所たりえても、根本的な解決にはなりません。

 

 悩みの中にある方は、片足は、負の暗示で「アウェイ」にさせられた現実に、もう一つの足は空想の中のファンタジーに、とにまたがって苦しみながら人生をサバイバルをしています。

 

 ホーム、アウェイというと、オセロを思い出します。安定型愛着の方は、四隅のいくつかがすでに自分の陣地なので、どこに行っても、比較的容易に「ホーム」にすることができます。余裕をもって仕事をしたり、人と接することができます。これがいわゆる「非認知能力」というものかもしれません。

 

 でもトラウマを負った人は、四隅に自分の陣地がありません。毎回、自分で「ホーム」にしなければならないので、ヘトヘトです。だから、一見、人見知りで、人が怖くて、人が億劫です(本当は対人恐怖でも人見知りではないんですけどね。ただ毎回のオセロがとても面倒なんです)。やっぱり、内心くやしさをいつも感じているし、自分の本来の力を直感しています。「クソ、ホームだったら、こんなことにはならないのに!」と。

 

 カウンセリング、セラピーというのは、ある意味、仮の「ホーム(自陣)」を提供するものです。その石は小さくちっぽけですが、うまくいけばじわじわと「ホーム(自陣)」を広げていくことを助けてくれます。

 
 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

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