人はコミュニティや人間関係を更新・移動するもの~更新の際は悪く言われて当然

 

 前回もお伝えしたように、目の前にある、今ある共同体や関係の中に適応しなければならない、適応できない自分はダメだ、適応している人はすごい、と、私たちはつい幻想にとらわれてしまいます。

 実はそうではない。

(参考)→「適応できることがいいことではない~“不適応”というフィードバック

 

 
 自分はあの会社ではうまくいかなかったが、他の人(例えばAさん)はうまくやっている(だから自分はダメだ)

 他の人はあのグループで仲良くやれている、でも自分は馴染めなかった(だから自分はダメだ)

 
 と思いがちです。

 私たちは、実験を重ねるようにして、ここが合わない、ここも合わない、と試行錯誤(不適応)しながら、自分の道を見つけていきます。

 人はどんどんと共同体を移動していくものです。

 もともといた共同体に属し続け(うまくやり続け)なければいけないというのは幻想でしかありません。

 

 特に、生まれた場所、地域だからそこが自分にとって良い場所(故郷)とも限りません。
 地方などは典型的ですが、閉鎖的で、同調圧力が強い地域もよくあります。

 

 

 さらに、そんな場所から、卒業したり、抜け出したりして、自分の道を見つけていく際は、決して、キレイに移行、卒業できるというわけではありません。

 例えば、中学や高校で、つるんでいた友達と離れて、勉強や部活に熱心になったら、「あいつは付き合いが悪い」と言われて陰口をたたかれることになります。

 自分のやりたいことを見つけて進む中では、地元の友達関係とは距離を取ることになります。

 その際も、「あいつは変わった」「何、調子に乗ってんだ!」と悪口を言われるかもしれません。

 

 

 生まれた地域も同様です。

 地元の消防団などの会合や、寄合には出ないという選択肢を取ったり、転居したりする。「あそこの家の娘、息子はおかしい」「付き合いが悪い」と言われるかもしれません。

 

 会社も同様です。
「あいつは仕事ができない」「あいつは使えない」と言われたりします。

 

 パートナーとの付き合いも、別れるときはものすごいストレスがかかります。相手から罵倒されるかもしれません。

 

 問題のある父や母、親族とは距離を取らなければなりません。その際にも、とても嫌な呪いの言葉を浴びるかもしれません。 強い罪悪感、自責の念を感じる。

 そんなストレスを経ながら私たちはところを得ていきます。

 

 

 それぞれから離れる際には、

「なんで、あんな態度をとってしまったのか?」

「うまいことを言っておけばよかったのに。私は本当にバカだ」

「ほかの人ならうまくやれた(自分はうまく付き合えなかった)」

なんて、自分の不器用を呪うこともあります。

 

 これらは、すべて「不適応」です。

 

 しかし、「適応しなければ」と、中にはその不適応から生じるストレスを避けたいがために、あるいは「すべての場所で適応しなければならない」「過去に失敗したから今回は同じことはできない(同じようにケンカ別れになったら、自分だダメな人間であると確定されてしまう)」「すべての環境、人から合格点をもらえなければ、次に進んではいけない」という間違った観念、幻想を元に、適していない環境に居続けてしまう、というケースがあります。
 

 まさに”適応幻想”による呪縛と言うしかありません。

 
 私たちは、どんどん環境を変え、移動を続けていくものです。

そうやって人生を作っていきます。
  

 家族にも良い子と呼ばれ、今でも地元の友達とも付き合いがあり、人生で出会うあらゆる人から好かれ、地域でも覚えがめでたく、勤めた会社では惜しまれて転職、なんて、そんなことは実際にはあり得ません。
 いつも旅行やグルメを楽しんでいる姿をアピールするようなYoutubeやインスタと同じくらい作られた幻想です。

 もし実際に、うまくやり続けてきたとしたら、「何かがおかしい(本当の自分が殺されていないか? ほかの人や何かを犠牲にして成り立っていないか?)」と見ないといけません。学歴もキャリアもプライベートもうまくいっているように見える人が実際には本当は自分の人生を歩んでいない、という例はとても多いのですから。

 

 

 共同体にとっては自分たちの共同体の正統性を維持するために、脱退されることを防ぐためにも逸脱する人を悪く言うという動因もあります。

 
 そんな恐れから、共同体にとどまったりしてしまってはいけません。

 そして、悪く言われることをもって、自分がダメな人間だと思うことも必要ありません。仲良くできるのも、無用なあつれきを賢く避けることも、もちろん愛着(生きるため)の力ですが、時に仲違いをしたり、必要なけんかをすることも、生きていくのに必要な力です。

 

 そうして必要な際は腹をくくり、自分の気質、持ち味が持つ、必要な流れに沿って、更新し続けることこそが大切なのです。

 

 

 

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適応できることがいいことではない~“不適応”というフィードバック

 

 どこのコミュニティも、そつなくこなしているように見える人はいます。とても関係づくりがうまく、うらやましいように見える人が。 

 

 例えば、幼い時は公園で友だちができて、お母さんたちとも馴染める。

 小学校では友達がたくさんいる。いろんな友達とうまく付き合える。

 中学校以降になると、部活で先輩ともぺこぺことうまくやりとりができる。

 大学に進むと、研究室の先生にも目をかけられ、院生ともうまく付き合いができる。

 就職した先では、上司に取り入り、得意先とうまく付き合いができる。

 結婚したら、パートナーとうまく関係が築ける。

 地域では、ご近所付き合い、ママ友、学校などとの地域の活動がうまくできる。

 

 こうしたことが「標準」「正常」であるというイメージを私たちは持っています。そして、これらのことからずれること、うまくいかないことは「異常」であり、自分が劣っている証拠であると考えてしまいます。

 そうして自分を責める。劣等感を持ってしまう。

 

 

 私たちは適応できることが善で、不適応を悪だと考えています。
 実際に、カウンセリングにおいても、適応を目指します。
 私たちは、最終的には社会に適応するしかない、とされます。
それは確かにその通りで、“社会”に適応するしかありません。 

 

 だから、一見すると「適応」はやはり善に見えます。

 これらは本当なのでしょうか?正しいのでしょうか?

 実はもっともに見えますが、まったく正しくありません。

 

 正しく言えば、適応するためには、「不適応」を起こさなければならない、もっといえば、自己を確立するためには、積極的に不適応を起こす必要がある、と言えるのです。

 適応しなければならないけど、不適応も必要? どう考えればいいのだろうか??頭が混乱しそうですが、難しい話ではありません。

 

 生物の世界、植物でも、動物でもどんな環境でも適応できる種は存在しません。必ず、生息に適した環境があります。 それを「ニッチ」というそうです。

 淡水魚は海水では生息できませんし、百獣の王とされるライオンも適した地域はかなり限られます。
 

 つまり、それぞれ適した場所でこそもともとの生命力を発揮できると言えます。

 

 

 人間でも同様のことが言えます。

よく言われるのは、企業や軍事での戦略の世界です。

 企業での戦略は、自分たちが得意な分野(ポジショニング)はどこか?を探すことだとされます。大企業であったとしても不得手なところにうって出ると必ず失敗します。

 

 軍隊でも、得意な状況は実は限られていて、
例えば、“最強”とされたモンゴル軍でも、自分たちが得意な平原から離れてくると力を発揮できなくなって、日本や東南アジアでは敗退しています。
 20世紀に世界最強とされたアメリカもベトナムで撤退するなど、実は適した環境は限られています。

 どんなところでも適応できなければならない、勝てなければならない、などと言うのは本当に幻想だということがよくわかります。

 

 スポーツ選手も、同じ競技でもチームが変わるだけで全く活躍できなくなるなんてことは珍しくありません。
 チームの戦術や、監督のパーソナリティ、リーグのスタイルでもかなり左右されます。

 実は会社も同様で、同じ業界でも、会社が違えば活躍できなくなることはあります。

 

 

 「あの人は、どんな世界に行っても活躍できる」というのは、比喩(そんな気がするだけ)であって、本当にどんな世界に行っても活躍できる人などは、人類史上一人も存在しません。

 もしいたら、その人を題材に、生物学(人類学?)の世界で論文を書けばノーベル賞を取れるかもしれません。
 
 絶対にありえないからです。

 

 私たちにとっての適応とは、「自分の持ち味を発揮できるところを得ること」です。

 自分にとっての強み、持ち味を発揮できる場所や人間関係はどこか?を見極めて、早くそこに立つことです。

 大谷翔平が事務職をしても不幸でしかありませんし、卓球やゴルフではきっと野球ほどには活躍できないでしょう。
(バスケットボール選手の天才的な選手であるマイケル・ジョーダンが、野球に行ってうまくいかなかったことはよく知られたことです)

 

  
 
 私たちが、各所で見る、「うまくやっている人」というのは、そこでうまくいっているだけで、実際に、すべての場所でうまくいくわけではありません。
 
 
 私たちの脳は、自分を否定するために、都合よく、それぞれの場所で「うまくいっている人」を取り上げては、それらと自分とを比較してダメ出しをしてきます。

 しかし、そんなご都合主義の比較に意味があるでしょうか?

 ガントチャートで、すべての項目がMAXでなければ人としておかしい、なんてそんなことありえるでしょうか?

 ライオンが、スズメみたいに空は飛べない、水の中では魚に勝てない、モグラのように土の中では、だからライオンはダメだ、などと都合よくダメなところを比較して、意味があるでしょうか?

 

 

 多くの場合、私たちは、親などや養育環境の中での間違った比較やこうあるべきを押し付けられて自信を失っている場合もよくあります。

 

 確かに、いろいろな場所で相対的にうまくいってそうな人はいるかもしれません。そつのない人もいます。

 しかし、器用であるが故の不幸もあるのです。

 以前、ブログで紹介した、なんでも器用に100点の回答をしてくる東大生たち。彼らは果たして幸福でしょうか?

(参考)→「世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。

 

 その器用さゆえに、壁(不適応)に当たらないことで、本来の自分の場所が見つからない、という恐ろしいことも生じるのです。

 実際にそつがないゆえに、会社などで出世していって、でも、本来のその人の人生を生きてはいない、なんていうことはたくさん存在するのです。
 

 たまたま数字のある部署に配属されて、それで役員(子会社の社長)まで行く、なんていうのは大企業ではよくある型です。良いことのように見えますが、それも本当に幸せなのか?
 

 どこかで「この仕事は合わない」「この組織は合わない」というシグナルが来て、別の会社や職に就くことが、その人の本来のいる場所、かもしれません。

 しかし、器用に適応したがために、自分の本来の道を見つける機会はついぞ失われてしまうわけです。

(参考)→「誤った適応

 

 

 例えば、印象的なのは、以前、社会問題となった宗教団体でネクタイを締めたスーツ姿の幹部たちが会見をしている場面をテレビで見たことがあります。

 あの人たちは、その宗教団体という組織の中で適応し、出世した人たちです。

 おそらく、仕事もできるのでしょう。
 その組織の中で覚えめでたく、上司にも好かれ、だから出世したのでしょう。

 一方その宗教団体を訴える人たちは、その団体で搾取されてきた人たちです。
もしかしたら、搾取されただけではなく、馴染めず、出世できなかったのかもしれません。

 
 しかし、適応した幹部たちは果たして真に幸せなのでしょうか?

 社会問題となるような集団ですから、「こんなところはおかしい」と不適応を起こすほうが自然ではないでしょうか。

 そこに適応して出世までできたというのは、良い適応では全くありません。

 私たちは、不適応、不適応、不適応のフィードバックの中で自分を作り、そして持ち味を発揮できる場所や人、自分にとっての“社会”に適応していくものなのです。

(参考)→「変化しない人、フィードバックがかからない人は存在しない

 

 

 

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他者の領域に関わる資格、権限がない以上、人間の言葉はやっぱり戯れでしかない。

 

 私たちは、人から干渉されることをとてもおそれます。
それは、過去に似たような状況で干渉されてきたトラウマによるものです。

 人が人に干渉することが当たり前だと思っています。

 しかし、実際はそうではありません。

 人間は社会的動物です。

 責任や権限、道理、根拠の有無にはとても敏感です。

 道理があるところで、それを超えることはかなりむずかしい。

(参考)→「自他の壁を越える「筋合いはない」

 

 さらに、人間というのは、誰もが弱く、だらしがない生き物でもあります。

「強く、しっかりした人もいる」と思うかもしれませんが、それは見かけだけです。

 実態は見栄を張って隠しているだけ。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 見かけだけをそうしているだけで、本当はそうではありません。誰しもが弱く、だらしがない。
(「男はやせ我慢」みたいな台詞というかキャッチコピーがありましたが、我慢しているということは、内面はそうではないということ)

 だから、人はだれも他人のことを裁く権利のある人はいない。
 

 1.他者に干渉する権利もない、2.他者を裁く資格もない、というのが大原則です。

 

 

 大前提なのですが、

 この前提を見えなくさせるものがあります。
 それが「不全感」というものです。
 
 不全感というのは、要は「承認がない状態」「安心安全がない状態」のことです。

 
 不全感を癒やすためには、他人を巻き込んでむりやり自分に関わらせるか、他人のNOを突きつけて自分をYESと浮き上がらせるか、しかありません。

 そのためには、社会的動物である人間を巻き込むためにむりやり因縁をつける必要があり、「ルール」を騙り、ローカルルールを作り出すことになります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 その際、自分が干渉する権利もない、裁く資格もない、という原則は脇にやられ、さながら自分が神様のような存在になります(エセ神化)。

 

 
 エセ神化すると、その瞬間だけはニセの責任、罪悪感にまみれていた自分を解放することができます。
 でも、すぐに苦しくなるので、ローカルルールの状態を続けていく必要があります。
 
 さながらアルコール依存、薬物依存のように、抜けられなくなってしまいます。
 依存症の人も人格がスイッチしたようになりますが、まさにスイッチした状態がローカルルール人格とも呼べるモードです。 

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 
 「じゃあ、不全感を抱えた人に関わると干渉されるのでは?」と不安に感じてしまいます。

 でも、不安には及びません。

 よく見ればわかりますが、不全感を抱えた人も干渉するためには、偽のルールが必要なように、やはり人間は社会的動物であることには変わりがない、ということです。 

 

 つまり、道理をわきまえているところでは、干渉することはできない、ということです。

 ヤクザでさえそうです。道理を越えることができない。
 だから、因縁をふっかけて問題を起こして、自分のしのぎを確保するわけです。
 因縁がなければ反社会的な人格であるヤクザでも他者に干渉できない、ということでもあります。

 以前書きましたように、人間は公的環境ではまともでいられるが、私的環境ではおかしくなりやすい、というのもこうしたことを反映しています。

(参考)→「

 

 

 特に、「私は~と思う」「私は~と感じる」といって私を主語にしていると自他の区別が明確になり、公的環境が生み出されて、他人は干渉することはできません。どう感じるか、考えるかはその人の問題だからです。

(参考)→「自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム

 

 しかし、私を脇において、「人間とは~」「世の中とは~」といった話し方をしていると、他者を主語に置いていますから、他人がその内容に干渉する道理が生まれてきます(だって、他人の話ですから、他人も口出しできる余地があるように受け取られるのも理解できます)。

 だから、トラウマによって、対人不安、社会不安になって、自分を隠して自己開示できなくなると、余計に他者からの干渉を受けやすくなるのはそのためです。(まさに、「私」、そして主権が奪われた状態。)

(参考)→「自分のもの(私が~)と言えないから、他人に干渉される。

 

 ただし、それも、あくまで言葉の内容に対してであって、その人の「存在」に対しては干渉することはできません。
(干渉というのは、結局は、かなり無理を敷いた幻想の中でのこととも言えます。だから、抜け出すこともできる。)

 健全な状態であれば、人間は相手に干渉する権利がない以上、言葉とは、発する側に、ではなく、受け取る側に主権があります。  

 どう受け取るかは、受け手が決めるということです。

 コミュニケーションは、相手に何かを伝えたり、相手から情報を得たり、
 さらに内容を踏み込んで相手のことを述べたり、評論したりします。
 それは相手に干渉する道理がなく、受け手に主権がある以上、やはり、すべての言葉とは「戯れ(たわむれ)」でしかない、ということです。

(参考)→「人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 それぞれの道理、領域が自他の区別のもとに明確にされた上で、戯れに言葉をやりとりする、というのが人間の交流のスタイルと言えます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション

 

 前回の記事を、別の角度から考えてみます。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。」 

 

 人と付き合う際に、相手の気持を考える、というのは、家に例えていうならば、人と付き合う際に、常に「相手のプライベートな部屋、寝室に上がり込むようなことをさせられている」ということでもあります。

(参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く」  

 

 

 普通私たちは、人と付き合う際は、道端や玄関先、あるいは、応接室で話をします。会社でも、自分の個人の机にまで来客を招くことはなく、会議室などでやり取りをします。

 これが正常な付き合いです。

 相手を自分の部屋に上げるようなことはしません。

 

 しかし、理不尽な養育環境、理不尽な親は、いちいち子どもを自分の部屋に招きこむ(自分の気持ちを考えさせる)ようなことをして、子どもに自分を慰めるように命令していた。
 
 
 子どもが嫌だ、というと「お前は悪い子だ」「いい子ではなければ愛さない」と脅して、自分の部屋に連れ込んでいた。

 

 それは、自分の不全感を癒やしてほしいからという独善的な理由でしかなかった。

 ローカルルールで巻き込んで、自分の気持ちをのぞき込ませる、というのは一種の精神的な虐待、ハラスメントと言えるかもしれません。 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 そうした環境に慣れた子どもは、大きくなっても、人と付き合う際に、いちいち「相手のプライベートな部屋に入る」ことや、「自分の部屋に招く」ということが当たり前になっているため、人との距離感がわからない。

 

 自他の区別も曖昧でハラスメントにもあいやすい。
フィッシングメールのような言葉が飛んできて、不全感を抱えた人の部屋に上がりこまされるようなことになる。

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 

 いちいち自分や相手のプライベートな部屋に上がるようなスタイルなので、だんだん人付き合いが億劫になってきたり、怖くなってきたりする。

 
 そうして、人とうまく付き合えずに、自分を責めるような気持ちになってうまくいかなくなる。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 
 人との付き合いは、玄関先や応接室で行うものです。

 いちいち自分の部屋に上げるなんて誰もしていない。

 部屋に上げることが親密さの証でもない。

 
 コミュニケーションも上級になればなるほど、距離も保つものです。

 外交はホテルや迎賓館で行います。それがもてなしということにもなる。

 賓客を山荘や別荘に招く、といっても、自分の寝室(私的領域)に上げるなんてことは聞いたことがない。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

  
 しかし、トラウマを負っていると、こうした当たり前のことでさえ、かなり狂わされていることがわかります。 
 
 そして、常に、相手の部屋に誘い込まれたり、自分の部屋に招くことが当たり前だと思わされて、対人関係の苦労を背負い込むことになるのです。

 
 自分を家に例えたときに、どこで人付き合いをしているのかを、一度チェックしてみると対人関係の苦しさの原因がわかります。

玄関先や応接室でやり取りすることを意識するだけでも、グッと楽になります。