所有(私は~)を宣言したほうが、恐れに反して、干渉は止まる、と前回の記事でお伝えしました。
(参考)→「自分のもの(私が~)と言えないから、他人に干渉される。」
ここでさらに疑問がわきます。
あくまで上のはたとえ話として展開した話ですが、実際の場面で、自分の持ち物を「センスが悪い」だとか言われて嫌な思いをしたことがある、と。
「わたしの」ということで本当に干渉されにくくなるのか?
そのことについて続けて考えてみたいと思います。
前回の記事で見たように、
「その派手なエンピツ誰の?」と尋ねられて、
「わたしのです」と答えると、
↑相手との距離感にもよりますが、普通はここで止まります。
ただし、相手が踏み込んできたとします。
「なんか趣味が悪いんじゃない?」
「そう、わたしは気に入っているの」
「そうなんだ・・」
で終わります。
趣味が悪いと考えるのは、「相手の考え」です。
気に入っているとか、それを選んだのは、「わたしの考え」です。
所有権がはっきりしているので、それ以上は突っ込めなくなってくるのです。
その上で「いじってくること」はあります。
これは、互いに所有権はわかった上で、「戯れ」ている、じゃれあっているということです。
一方、
「なんか趣味が悪いんじゃない?」という際に
恐れが湧いて
「そう? 趣味悪いのかな~?」
といった答え方をした場合はどうでしょうか?
それは、「わたしの考え」を曖昧にしてしまっています。
すると、話が「一般的なセンスやルール」の話にすり替わってしまいます。
もちろん「一般的」とはほんとうの意味での一般的ではなく、架空の一般です。
だから、
「一般的なセンスやルール」はどうか?という話になり、相手にも干渉する権利があるようになってしまい、一般的なセンスから見て、「趣味悪いよ~」とさらに、相手は干渉してくることになります。
架空の常識を持ち出すのは、まさにローカルルールの構造そのものです。
(参考)→「ローカルルールは「(ニセの)人間一般」という概念を持ち出す」
権利の所在が明確なものには踏み込めませんが、おそれから権利を離してしまうと、誰のものかわからないのだから、あるいは一般のものだから「では、わたしのものでもあるのね」として踏み込まれてしまう。
「わたしが~」「わたしの~」と堂々と主張している方が、結局は嫌な目には合いにくいのです。
もちろん、それでも、不全感が強い人は、因縁をつけて巻き込もうとしてくる場合はあります。しかし、それは、干渉する権利がない状態で、なんとか巻き込もうとしているだけです。
「わたしの~」ということを明確にしていると、「踏み込む筋合いがない」状態で因縁をつけていることは明らかですから、巻き込まれずにしばらくいれば、次第に相手は引き下がっていきます。人間は社会的な動物です。関与する筋合いのないものには優位性を持って関われないのです。
(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由」
もともと、「私の~」と主張することに恐れを抱いている場合はなぜか?といえば、それは、機能不全で私的領域のままの家庭環境で、親が子どもを支配しようとしたり、尊重しない環境、ストレスの高い環境などにいたから。
私的領域の中でやり取りして、相手から干渉されることが当たり前になってしまっている。そこで恐れが条件付けられてしまった。
(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション」
自分の考えを放棄しても、社会で生きていく上では考えや価値観が必要になります。いつの間にか、親などの他者の考え、価値観を自分のものとして、頭を乗っ取られるようになってしまいます。
他人を乗っ取るような価値観というのは、単なる個人の私的情動であるにも関わらず、あたかも常識であることように振る舞っています。
真に受けるといつの間にか自分もローカルルールを代表するようになり、他者の干渉も受けやすくなります。
「あなたが主張していることは“一般的なルール”と言いたいわけね?
あなたのものではない一般的なルールなんだから、私が口を出してなにが悪いわけ?」
「あなたはそれを誰にでも当てはまる“常識”といいいたいのでしょう? 私にも影響するから、おかしなところについては反論させてもらうよ」
というわけです。
批判されないように、一般的な常識(実はローカルルールなのですが)を持ち出していると、結局は干渉されやすくなります。
(参考)→「自分の意見ではなくて、世の中こうあるべきという観点でしか意見や不満がいえない。」
「自分の考え」で話をしている方が、相手は干渉しにくい。なぜなら、その人のものだから。
なぜか自分だけが、他者から批判されやすかったり、なぜか人から賛同されない、文句を言われて嫌な目に会いやすい、ということの裏にはこうしたメカニズムがあると考えられます。
反対に、ワガママに自分の考えを言っている人が、なぜ人から受け入れられているのか?かも同様の背景からだと考えられるのです。
(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる」
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
“自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム” への1件の返信
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