「理屈」を一度否定して、自分の感情を感じることの大切さをお伝えしてきました。
(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング」
自分の感情、考えから発したことについては、「ただ自分がそう思う」「そう感じている」ということですから、基本的に他人を侵害しないし、他人からも侵害されることはない。
自分の感情、たとえば、「私はそれは嫌い」「私はそれが好きだ」「それが怖い」といったことは、その人が感じていることで、他人が「そんなふうに思うんじゃない!」とか、「それはおかしい!」とは言えないものです。そんな謂れはない。
「ふーん、そうおもうんだね」というふうに本来しかならない。
(おかしいというのは、因縁をつけないとできません。)
一方、「理屈」がついた場合は違います。
「それは、~~だからおかしい」とか、「それは、~~するべきだから、なくさないといけない」といったことについては、「理屈」を通じて他人を侵害し、その「理屈」に反論されたりして、侵害されるおそれがあります。
なぜなら、「理屈」によって、人間一般のことに話題が持ち上げられているから。「自分は人間一般(という架空の概念)から見て正しい存在だ。反対にあなたはおかしい」という争いになってしまうのです。
自分の感情から発しているだけであれば、「人はそれぞれ違う」という前提があり、各人が独立した領域を保った状態で互いに越境し合うことがありません。
※国と国とが互いに異なる文化があり、どっちがいいとは言えないのと似ています。どちらが優れているというためには一般化する理屈が必要で、たとえば昔であれば「中華思想(華夷の別)」であったり、近代以降であれば「啓蒙思想」「人種主義」であったり。
感情から発しているように見えても、言語化されていないだけで、暗に「理屈」がついている場合もあります。たとえば、相手を攻撃するために、「私はそれが嫌い」という場合。言葉には出していませんが、「私はそれが嫌い」ということのあとに、(あなたはおかしい)という言葉がついていたりする。
この場合も、相手を侵害し、さらに相手から反撃される余地があります。なぜなら一般化してこき下ろそうとする「理屈」がついているから。
相手を侵害する、あるいは、相手から侵害される ことを分けるポイントはなにかといえば、それは、“自分の”ということであるかどうか、ということがあります。
相手を侵害する感情、あるいは理屈とは、ほぼ他者の感情や理屈をそのままにしている、ということがあります。
それはなにかといえば、生きてきた中で受けた他者からの理屈や感情(≒ローカルルール)です。親や兄弟や友人など。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
しかもその理屈、感情は不全感によるものであるために、「You’r NOT OK」や「I’m OK」を得るために、比較するなどして他者を巻きこまざるを得ず、越境を引き起こします。
それが、他者への支配、干渉といったかたちであらわれるのです。
(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」「「You are Not OK」 の発作」
セラピーを受けたり、「理屈」を切り離し、自分の感情を感じるトレーニングなどをしていると、「自分のものと思っていた価値観は、実は親のものだったんだ?!」ということをしばしば経験します。
“他者の”価値観、理屈、あるいは感情は、自他の別を越境し、他者を侵害していく。越境しているために反対に他者からの干渉、支配も呼び込みやすくなります。
反対に、 “自分の”価値観、感情、は、他者を侵害する根拠(因縁)がそもそもありません。
なぜなら、それらが成立するために「Im OK」と自己で完結しているためです。外に求める必要がないのです。
アサーションのトレーニングでは、「Iメッセージ」で伝えましょう、というものがあります。「私は~ 」といった形で始める伝え方です。
「Iメッセージ」だと、伝えにくいことも伝えられたり、相手の同意や共感を得やすくなったりするとされます。
自他の区別が保たれて、越境しないからです。
さながら、アイデンティティや基本的な物資が自足している国同士のように。
それぞれ、「私は私」「あなたはあなた」といったかたちで、自他の別が保たれていることは、安心安全を生みます。
安全が保たれた中でのコミュニケーションですから、安心して意見を交わすことができるのです。
多くの場合、相手が反対したり、同意しないのは、意見の内容についてではなく、自分の安全が脅かされるからです。同意すれば侵害される、と感じている。
自分の中にある、直訳された他人の理屈や感情 を一旦すべて否定する。必要なものは自分で翻訳し直す。
そして、常に、自分の「感情」からスタートする。自分の考えというときも、「好き嫌い」からスタートする。「理屈」からスタートしない。
(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング」
理屈で考えるとされる職業でも、実は「好き嫌い」からスタートしていたりします。
将棋や囲碁の棋士も、最初に「直感」が降りてきて、後で検証するそうです。
ビジネスの現場でも、コンサルタントや経営者なども、「ピンとくる」かどうかで判断していたりする。「理屈」はそれを検証するための道具でしかなかったりする。
「理屈」からスタートすると多くの人を巻き込めなかったり、「理屈」に溺れたりするものです。
自分の感情から発すれば、自然と「自他の区別」がついてきて、他者との関わりも侵害されない安全なものになってきます。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
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