「理屈」と「感情」を分けるトレーニングのお話をしていましたら、5月1日付の日本経済新聞で、一橋大学教授の楠木健さんのコラムが載っていました。楠木教授は経営学の先生です。
(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング」
そのコラムでは、「大人の幼児化」が取り上げれられいました。
簡単にご紹介しますと、
近年よく使われるようになった言葉に「イラッとする」というものがあり、
それは、大人の幼児化を象徴する言葉だとしています。
楠木教授は、幼児性には3つあるといいます。
1つ目は、「世の中は思い通りになる」と思ってしまっていること。
2つ目は、独立した個人の「好き嫌い」の問題を「良し悪し」にすり替えてわあわあ言うこと
3つ目が、他人のことに関心をもちすぎるということ。
楠木教授は、子供がイラっとするのは、本来比較する必要のない他人に興味を向けて、嫉妬であることが少なくない、としています。
さらに、その他人への興味も本当に関心があるわけではなく、自分の不満や不足感の埋め合わせという面が多いのでは、としています。
(まさに、ローカルルールですね)
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
本来人はそれぞれの自分の価値基準で生きているわけで、他人と比較しないのが大人である、ということであり、自分は全てに優れるわけでもない。社会は相互補完しあってできている。
これが社会の実態だから、全て自分の思い通りに、ということはなく、「他人を気にせず自分と比べず、いいときも悪いときも自らの仕事と生活にきちんと向き合う。それが大人というものだ。」としています。
たまたま、拝見した記事ですが、まさにこのブログでもお伝えしている「ローカルルール」「自他の区別」そのものといってもよいかと思います。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる」
2つ目に上げた「独立した個人の「好き嫌い」の問題を「良し悪し」にすり替えてわあわあ言うこと」は、自分の「感情」だけを感じて「自他の区別を」つけるトレーニングにも関係する話と言えます。
私たちは、子供は「好き嫌い」をいい、大人は「良し悪し」という理屈を言う、と思っていますが、実はそうではありません。
大人になるというのは、生育の過程で得た親や周囲の大人の「良し悪し」を一旦否定、相対化して、自分の形に翻訳し、自分の基準で「好き嫌い」を言えるようになることです。
「好き嫌い」は、自分を超えて越境することがありません。
あくまで、「自分の好き嫌い」でしかなく、他人に押し付けようとしても押し付ける根拠がないからです。
反対に、「良し悪し」は、自分を超えて越境する誘引があります(帝国主義的と表現してもよいかもしれません)。
「良し悪し」という理屈で語ることに慣れていると、越境すること=されることが当たり前になりますから、他者の振る舞いに気持ちを奪われたり、反対に、「良し悪し」というニセの土台に上に他者も越境してきて、自分の行為も支配しようとしてきます。
楠木教授に言わせればこれは「幼児性」の現れなのです。
筆者は、ローカルルール人格そのものと対峙したことがありますが、
まさに上記の3点そのものでした。
1.目の前の人が自分の思い通りに動いてくれないと癇癪を起こす。
2.自分の好き嫌いをそのまま表現できず、他者に因縁(良し悪し)をつけてわあわあ言う。
3.他人に関心をもちすぎる。嫉妬などにとらわれる。
など
ローカルルールとは、おそろしい大人の支配ではなく、幼児の振る舞いといったほうが適切なのかもしれません。
(だからこそ、難しく見えて、その内実はスカスカで、もろく、それに気がつけば変えられる)
トラウマを負っていると、「大人」というものに嫌悪感があって、永遠に若いことがなにか良いように感じる心性もあったりします。
あるいは、妙に大人びた感じになって、人並み以上に気を使って、しっかりしなきゃ、という感覚を持っていたりする。
さらに同時に、周りの人が自分よりもずっと成熟していて、いつも自分が未熟で自信がない、という感覚も持っていたりする。
実はそれはトラウマ特有のもので、本来の自分の感覚ではない。
これらは「ニセ成熟」と呼んでいる現象です。
(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”」「ニセ成熟は「感情」が苦手」
真に「大人」となるためにはどうすればよいか、といえば、頭で意識するような「大人」になることではありません。それはニセモノの大人。
他人と比較し、羨んだり、いつも自信がなくおどおどしたり、反対にちょっと調子が出ると見下したり、他人の行為にすぐにイライラしたりという風になってしまう。
(最近報じられているように、自粛しない人に怒りをぶつけたり、他人のSNSを炎上させたり、というのは、まさにニセの大人、幼児性によるものと言えます。)
大人になるというのは、実は「無邪気さ」といったほんとうの意味で人間の根源的な要素(エネルギー)を陶冶し、自分のものとしていることであったりする。(交流分析では、フリーチャイルド といったりする要素)
一見子どもに見えることが「真の大人」に通じ、一見大人に見えることが醜い「幼児性」に陥るという逆説。
トラウマというのは、人間の根源的な要素を、他者の理屈(ローカルルール)で押さえつけられている状態、といってもよい。
人間の根源的な要素を見た、たとえば親などが、それを羨み、おそれ、あるいは不全感をぶつけて、潰してきた。
さらに、理屈をこねて、人間の根源的な要素を抑えることが「大人」なのだとしてきた、ということ。
その理屈は、単なる親の幼児性(ローカルルール)の表れでしかないために、真に受けた当人も、大人になったら他人に「理屈」をつけてイライラする事が止まらなくなったりするのです。
真に「大人」なるためには、「理屈」はつけず、「感情」だけを感じることを意識すること。先日お伝えしたトレーニングを繰り返す。
(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング」
なにか頭の中で、「そうはいっても、これは常識でしょ」というものがあっても、実は単なる親の価値観(親の幼児性、理屈)に過ぎなかったりする。
それは一旦否定して、本当に必要なものがあれば自分で翻訳し直す。
それは、楠木教授が言うように「好き、嫌い」で判断する、といったこと。
そうすることが、「自他の区別」を生み、他者と比較せず自分の価値観で生きるということができるようになる。他者に無用に越境(支配)するようなことをしない、支配もされない、という真の成熟を生むのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
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