ローカルルールは幼児性の表れでしかない~真に大人になるとはどういうことか?

 

 「理屈」と「感情」を分けるトレーニングのお話をしていましたら、5月1日付の日本経済新聞で、一橋大学教授の楠木健さんのコラムが載っていました。楠木教授は経営学の先生です。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

そのコラムでは、「大人の幼児化」が取り上げれられいました。

 簡単にご紹介しますと、

近年よく使われるようになった言葉に「イラッとする」というものがあり、
 それは、大人の幼児化を象徴する言葉だとしています。

 楠木教授は、幼児性には3つあるといいます。

 1つ目は、「世の中は思い通りになる」と思ってしまっていること。

 2つ目は、独立した個人の「好き嫌い」の問題を「良し悪し」にすり替えてわあわあ言うこと
 
 3つ目が、他人のことに関心をもちすぎるということ。

 

 楠木教授は、子供がイラっとするのは、本来比較する必要のない他人に興味を向けて、嫉妬であることが少なくない、としています。

 さらに、その他人への興味も本当に関心があるわけではなく、自分の不満や不足感の埋め合わせという面が多いのでは、としています。
 (まさに、ローカルルールですね)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 本来人はそれぞれの自分の価値基準で生きているわけで、他人と比較しないのが大人である、ということであり、自分は全てに優れるわけでもない。社会は相互補完しあってできている。
 
 これが社会の実態だから、全て自分の思い通りに、ということはなく、「他人を気にせず自分と比べず、いいときも悪いときも自らの仕事と生活にきちんと向き合う。それが大人というものだ。」としています。   

 

 たまたま、拝見した記事ですが、まさにこのブログでもお伝えしている「ローカルルール」「自他の区別」そのものといってもよいかと思います。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 

 2つ目に上げた「独立した個人の「好き嫌い」の問題を「良し悪し」にすり替えてわあわあ言うこと」は、自分の「感情」だけを感じて「自他の区別を」つけるトレーニングにも関係する話と言えます。

 
 私たちは、子供は「好き嫌い」をいい、大人は「良し悪し」という理屈を言う、と思っていますが、実はそうではありません。

 大人になるというのは、生育の過程で得た親や周囲の大人の「良し悪し」を一旦否定、相対化して、自分の形に翻訳し、自分の基準で「好き嫌い」を言えるようになることです。

 

 「好き嫌い」は、自分を超えて越境することがありません。
 
 あくまで、「自分の好き嫌い」でしかなく、他人に押し付けようとしても押し付ける根拠がないからです。

 反対に、「良し悪し」は、自分を超えて越境する誘引があります(帝国主義的と表現してもよいかもしれません)。

 「良し悪し」という理屈で語ることに慣れていると、越境すること=されることが当たり前になりますから、他者の振る舞いに気持ちを奪われたり、反対に、「良し悪し」というニセの土台に上に他者も越境してきて、自分の行為も支配しようとしてきます。

 
 楠木教授に言わせればこれは「幼児性」の現れなのです。

 

  
 筆者は、ローカルルール人格そのものと対峙したことがありますが、
  
 まさに上記の3点そのものでした。

  1.目の前の人が自分の思い通りに動いてくれないと癇癪を起こす。

  2.自分の好き嫌いをそのまま表現できず、他者に因縁(良し悪し)をつけてわあわあ言う。

  3.他人に関心をもちすぎる。嫉妬などにとらわれる。

 など

 

 

 ローカルルールとは、おそろしい大人の支配ではなく、幼児の振る舞いといったほうが適切なのかもしれません。
 (だからこそ、難しく見えて、その内実はスカスカで、もろく、それに気がつけば変えられる)

 トラウマを負っていると、「大人」というものに嫌悪感があって、永遠に若いことがなにか良いように感じる心性もあったりします。

 あるいは、妙に大人びた感じになって、人並み以上に気を使って、しっかりしなきゃ、という感覚を持っていたりする。
 さらに同時に、周りの人が自分よりもずっと成熟していて、いつも自分が未熟で自信がない、という感覚も持っていたりする。

 実はそれはトラウマ特有のもので、本来の自分の感覚ではない。
 これらは「ニセ成熟」と呼んでいる現象です。
(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”」「ニセ成熟は「感情」が苦手

 

 
 

 真に「大人」となるためにはどうすればよいか、といえば、頭で意識するような「大人」になることではありません。それはニセモノの大人。

 

 他人と比較し、羨んだり、いつも自信がなくおどおどしたり、反対にちょっと調子が出ると見下したり、他人の行為にすぐにイライラしたりという風になってしまう。
 
 (最近報じられているように、自粛しない人に怒りをぶつけたり、他人のSNSを炎上させたり、というのは、まさにニセの大人、幼児性によるものと言えます。)

 

 

   
 大人になるというのは、実は「無邪気さ」といったほんとうの意味で人間の根源的な要素(エネルギー)を陶冶し、自分のものとしていることであったりする。(交流分析では、フリーチャイルド といったりする要素)

 

 一見子どもに見えることが「真の大人」に通じ、一見大人に見えることが醜い「幼児性」に陥るという逆説。

 

 

 トラウマというのは、人間の根源的な要素を、他者の理屈(ローカルルール)で押さえつけられている状態、といってもよい。
 人間の根源的な要素を見た、たとえば親などが、それを羨み、おそれ、あるいは不全感をぶつけて、潰してきた。
 さらに、理屈をこねて、人間の根源的な要素を抑えることが「大人」なのだとしてきた、ということ。

 その理屈は、単なる親の幼児性(ローカルルール)の表れでしかないために、真に受けた当人も、大人になったら他人に「理屈」をつけてイライラする事が止まらなくなったりするのです。

 

 

 真に「大人」なるためには、「理屈」はつけず、「感情」だけを感じることを意識すること。先日お伝えしたトレーニングを繰り返す。 

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 なにか頭の中で、「そうはいっても、これは常識でしょ」というものがあっても、実は単なる親の価値観(親の幼児性、理屈)に過ぎなかったりする。

 それは一旦否定して、本当に必要なものがあれば自分で翻訳し直す。

 それは、楠木教授が言うように「好き、嫌い」で判断する、といったこと。
 

 

 そうすることが、「自他の区別」を生み、他者と比較せず自分の価値観で生きるということができるようになる。他者に無用に越境(支配)するようなことをしない、支配もされない、という真の成熟を生むのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 私たちは、“愛着”という足場を基礎として、徐々に公的な環境を自分の内と外に作り出していきながら成長(社会化)していきます。

 公園デビューをした時、幼稚園・保育園に入園したとき、など、
 大人から教えられるのは、挨拶であったり、おもちゃを貸してあげなさい、ということであったり、「公的な環境の作り方」を教えられる。

 

 時に、相手が解離して「私的な感情」の洗礼を浴びるときがある。

 その時は、安全基地(愛着)まで後退して、親の力も借りながらストレスをキャンセルし、再び、公的な環境を作りながら、お友達との付き合いを再開させていく。

 安全基地(愛着) ←(行ったり来たり)→ 探索しながら“公的な環境”を拡張する旅

 といったことを繰り返していく。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 安全基地(愛着)が堅固であればあるほど、遠くまで旅をすることができる。

 愛着とは、親との子のきずなを指します。

 機能している親子だと、親子関係にも、健全な距離感があり、親も子を尊重する意識があります。
 親が不全感や発達障害傾向などがある場合は、その距離感が崩れて、距離が遠すぎたり、不安定すぎたり、近すぎたりする。
 もっとわかりやすく言えば、親が私的な情動を抑えられず、それが前面に出すぎて、不安定型愛着となってしまう。
 親はそのことをごまかして、これは正しいことだ、と強弁すると不安定さはより強まってしまう。

 

 不安定型愛着とは、親子の間に生まれたローカルルール状態のことだといえます。

 

 安定型の愛着は、それ自体が公的な環境のひな型となりえる。
 (相互に別々の人間であるというわきまえとリスペクトがあります。)
 

 人間は成長の過程で愛着という安全基地を足場として、さながら開拓民のように、探索行動をして自分にとっての公的環境を拡張していく。

 

 

 もちろん、心身に危険なこともある。その時は基地まで戻って、ストレスをそらしてまた再開する。身体への危害も、心への危害も、ともに私的情動によるものですが、公的な環境というバリアがあれば、それらから自分を守りやすくなります。

 

 

 公的な環境を拡張する旅は、自分の内側にも向きます。

 それは、精神的な成熟ということです。

 

 人間の精神は、社会での活動や肉体の発達とも不可分ですが、思春期などを経て、相手の気持ちを考えたり、抽象的な思考ができるようになるなどしていきます。

 発達課題、その中でもいちばん重要なアイデンティティの確立、という難しいテーマにも挑戦していきます。

 

 

 そして、人間が精神的に自立するためには、公的な環境を作り出すために大人たちから得た規範を内面化しつつ、それを棄てて、昇華するということが必要です。

 

 例えば、二度にわたる反抗期で、大人に対して「嫌々(NO)」ということ。
 大人の教えに反発すること。

 自分だけの秘密を持ったり、ウソが付けるようになったり、ということも必要。俗には”悪”と感じられるようなエゴも大切なことです。

 

 規範の内面化 → 規範の否定 → 規範の昇華 というプロセスを経て、公的環境が真に自分の土地となる。 

 

 

 さらに、成長とともに、社会的な役割も引き受けることになります。

 習い事、部活やバイトなどの「しごと」引き受けながら公的人格に憑依することを通じて、精神は落ち着きを持つようになります。

 新入社員の顔を見ればわかりますが、どこか人間としての所在が落ち着かない浮ついた感じから、ベテランになると、目や雰囲気がすわってくる。

 本当の自分はどこかべつにあるのでもなく、私的人格にあるのでもなく、公的な人格の中にこそあります。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 

 ですから、もし、精神的に不安定であったり、悩みの中にあるときは、そこから抜け出すためには、なんらかの社会的な役割をいただく、公的な人格をまとう必要がある。
 ただ、家にいても良くなることはありません。
 (家は、あくまで一時緊急避難先としての機能しかありません)

 
 私的な環境は、人間をおかしくしてしまいます。

 (参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 
 人間は、

 愛着(安全基地) → 公的な環境 → 公的な環境 →・・・
            (安心安全)  (安心安全)
          
 という形で、ストレスから身を守りながら、安心安全の領域を拡張していきます。
 

 社会で活躍できる方、精神的に安定している方というのは、分解すると、こうした段階を持っていると考えられます。
 
 
 登山の時も、基地を作って前進、基地を作って前進、と進んでいきますが、
 まさにそのような感じ。

 基地がなければ遭難してしまう。
 

 

 前回の記事で、トラウマを負った人は社会で活躍していくための足場を失ってきた、ということを書きましたが、

(参考)ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 反対に、トラウマを負っている、愛着が不安定な場合(あるいは発達障害傾向など)は、

 
 愛着が不安定 → うまく公的環境(安心安全)が作れない。 →  うまく公的環境(安心安全)が作れない。→・・・

 という感じになっている。

 安心安全の前線基地がないために、礼儀やマナーといった関係のプロトコルを上手く使うことができなくなります。

(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 その結果、関わる人が私的な環境にとどまり、情動をコントロールできず解離して、理不尽なことを仕掛けてきやすくなってしまう。
 もちろん、理不尽なことをする側に問題があり、トラウマを負った人には責任はありません。
 実際に、いじめといったローカルルールはこちらの状況にほとんど関係なくやってきますが、安全基地があれば、一歩前に戻って嵐がすぎるのをまったり、別のルートを選択することができる。

 安全基地がないと礼儀やマナーと言ったこと関係のプロトコルが何やら億劫に感じられるようになってきて、公的な環境がうまく作れないために、

 

 愛着が不安定 →  ローカルルール  → ローカルルール  →・・・
         (社会恐怖、対人恐怖)(社会恐怖、対人恐怖)
         
 

 という負の連鎖になってしまう。

 トラウマを負った人が感じる(見ている)社会や人間とは、社会や人間そのものではなく、ローカルルールでおかしくなった状態のものです。

 トラウマチックな記憶が処理されるためには共感が必要ですが、
 その記憶もうまく処理されずに、心身に残り、苦しみ続けるようになる。

 かりそめの安心安全を作り出そうとして、ニセ成熟と呼ばれる状況に陥ったり、宗教だとか、スピリチュアル、自己啓発に頼る場合もある。

 「ニセ成熟」というのは、ローカルルールに合わせて公的な人格を作り上げた状態で、本物ではないので、いびつで、本人にとっては自然体ではなく、ヘトヘトになるものです。本当の成熟ではないので長くは続きません。

(参考)→ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 ローカルルールに合わせた公的人格とは、理不尽な親や友達などの要求に応えるように頑張っているような状態のことです。
 (例:「あなたはすぐに調子に乗る」→調子に乗らない自分 「あなたは人から好かれない」→人から好かれるように頑張る など)
 

 また、自己啓発等の「安心安全」の代替は、あくまでかりそめであり、それ自身がローカルルールであることも多く、本当の安全は得られない事が多い。

 

 人間にとって正規の発達とは何か?というと、
それは、愛着を基礎に、自己の内外に公的環境を作り出しながら、「安心安全」を拡げていくプロセスということになります。

 
 今もし生きづらいなら、それは、安心安全の足場がない状態ではないか? 事実と思っていることがローカルルールではないか?
 と確認してみること、が大切です。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」

 

 筆者は、誰とでもうまく話せないし、知らない人と話すのは億劫に感じるし、そんな自分を責めていました。自分は人見知りなんだ、と思っていました。
 しかし、〝心”に聞くと、「人見知りではないよ」と答えてくれます。

(参考)→「「心に聞く」を身につける手順とコツ~悩み解決への無意識の活用方法

 

 でも、症状としてはどう考えても人見知りだし、〝心”の答えは気休めなのかな?と思っていました。

 

 そんなあるとき、海外旅行に行ったときのことでした。

 現地に着くと「なんか日本で感じる感覚とは違うなあ」と感じます。
 
 あれこれと人を気遣うような電波のようなものを感じない。
 

 そんななか、一泊二日のミニツアーのようなもので、砂漠に行くことになりました。周りはほとんどが外国人。

 すると、最初少しは緊張しますが、でも、相手と気楽に話せたりするのです。

 「あれれ? 人見知りのはずだけど、できちゃうな。」
 人見知りとは思えないようにふるまえるのです。

 

 変に気を遣わず、本当の意味で人と関わる必要がわいてきたら関わる。
 そうでないときは、周りには関心を持たない。
 もちろん、だからといって冷たいわけではない。
 さっぱりと乾いた空気のような感じ。

 

 「〝心”が言っていたのは本当だったんだ!」と気がつきます。

 日本に帰ってくると、じっとりした人づきあいの億劫さが戻ってきてしまいましたが、ああ、人と付き合うのはこういう感覚なんだ、と面白い発見でした。

 

 

 「日本人は・・・、西洋では・・・」というようなことは古くからある安っぽい文化論であまり好ましくありませんが、しかし、事実としてあるのは、例えば「対人恐怖症」というのは、日本にしかない症状である、ということです。(特定の国にしかない症状を「文化依存性症候群」といいます。)

 

 対人恐怖には、ちょうどいい外国語訳がないのです。
 「社交不安症」がそれに該当しますが、ピッタリはハマらない。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック
 

 

 
 日本社会の特徴は、ご近所に気を遣う「世間の延長」ということもあり、過剰に人に気を使い、周囲に合わせるという傾向があります。

 

 生きづらさを抱える人ほど、そうした社会の特徴を内面化して翻弄されてしまう。

 

 社会学者の貴戸理恵氏は、不登校や引きこもりなど生きづらさを抱える人は、「「社会性」がないのではなく、むしろ社会性が過剰なのです」と指摘します。
さらに、「関係性への志向は、持っていなければならないけれども、持ちすぎてもダメなのであり、」「(「関係的な生きづらさは」)それについて深く考えてはいけないようなものを、ふと意識してのぞき込んでしまうときに、出現するのかもしれません」
と述べています。

 貴戸理恵「「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 確かに、海外に行くと感じることですが、人に気を遣わない(関係性への志向が低い)国民性を持つ人たちのほうが、人との関係は活発に行っている。

 

 筆者がモロッコに行ったとき。“親切な”気楽なモロッコ人たちが声をかけてきて、最初はうっとおしく戸惑いましたが、慣れてくると、これは居心地がいいな、と思うようになります。
 多分、精神的な症状を抱えている人も、この国にしばらくいたら、悩みがなくなってしまうのではないか、と感じるほど。

 

 

 台湾に旅行に行った際にも驚いたのが、電車で乗り合わせた知らないおばさん同士が世間話をしている姿。
 互いに知り合いなのかと思ったら、目的地が来たら、互いにサッといなくなる。

 

 別の場面では、案内してくれた現地の知人が、マッサージ店の店主と古くからの友人と話すかのようにずっと話をしている。
 あとで、知人に「知り合いの店だったの?」と聞くと、「いいえ、はじめての店だよ」という。それを聞いてびっくり。「あの親密さは、どう見ても知り合いやん!?」と。

 日本だと余程コミュニケーションに長けた人が行うであろうことを普通の人たちが簡単に行っている。
 (その台湾人の知人も日本ではシャイになったりするのですが。対人恐怖症もそう、結局悩みはほとんどが環境に依存している。外からやってくるもの)

 

 ほかの国でも、旅行などで訪れてみると、日本人からすると、「何だこりゃ!?」ということばかり。

 

 おとなり韓国も、日本人のように過剰に気を遣うことはない。

 筆者も、学生時代にトラウマや人間不信の後遺症に苦しんでいるときに、留学した先であった韓国人たちが気楽に声をかけて、仲間に誘ってくれたことには大変助けられました。
 韓国で暮らす人の話を聞くと、日本よりも人間関係ははるかに気楽だ、とおっしゃいます。

 

 

 上記でも書きましたが、人間関係で悩む人が、それぞれに国に行ったらそれで解決してしまうのではないか?と本当に感じます。

 台湾などは、普通の人々が、生きづらさを抱える日本人が理想とする気楽なコミュニケーションを交わしてしますから。

 

 

 サッカーのワールドカップで、日本人サポーターが競技後に会場を掃除して称賛されていますが、こうしたことからみれば喜べない。

 その気遣いこそが自分の首を絞める。
 

 「別にそのままでいいじゃないか」
 「誰かが掃除してくれるよ」

 という感覚が大事ではないか。

 

 実際、“生きづらさ”といった言葉が生まれる以前の日本では、電車の床にごみを放ったりしていました。痰をホームにはいたりもしていました。※池上彰さんの番組でよく紹介される事例です。
 (日本が発展したのは日本人の気遣いのおかげではありません。当時の国際環境(資源安、冷戦、旺盛な需要など)のおかげがとても大きい。もし、気遣いが発展の原動力なら、気遣いMAXの美徳の国、現在の日本はもっと成長率が高くないとおかしい)

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服
 

 

 過剰な気遣いが、今度私たちがありのままに行動することを妨げる。

 

 「対人恐怖症」が日本にしかない、ということを考えても、どうも、私たち日本人が当たり前と思っている「人間関係」観というのは、人間の標準から見て、かなり歪でおかしい「幻想」なのかもしれません。

 

 私たちは、「社会性過多」であえいでいる。そんな日本で書かれた「コミュニケーションの上達のコツ」「気づかいの極意」みたいな本などを読んだらもう大変。社会性過多の上に、もっと過剰になれ、というのですから。幻想の上に幻想を重ねるだけ。 コミュニケーションのヒントは、コミュニケーションの〝カリスマ”にではなく、海外の普通のおじさん、おばさんたちに教わったほうがいいかもしれない。

 

 

 私たちは、良い「関係」を作るためには「社会性」をもっと削がないといけない。必要なのは、「社会性」を削ぐ方法です。

 

 私たちが当たり前と思う「人間関係」観。それは本気で一度解体して、社会性の水準をぐっと下げて壊して、それから社会性を組み上げていく必要があるようです。

 

 

 

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ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

生きづらさを抱えているときは、どうしても現実を迂回したくなります。
自己啓発、スピリチュアルなもの、自分独自の理想主義などに傾倒してしまったりします。
(生きづらさが顕著に出るアスペルガー障害では、ほぼすべてといってケースでスピリチュアルなものへの傾倒が見られる、とする専門家もいます。)

 

筆者も、成功法則とか、「引き寄せの法則」とか、そういった本を読んだり、話を聞いたりした時期もありました。

 

その通りに取り組んでみますが、
だいたい、結果は出ません。

 

出ないので、自分の取り組み方が悪いのかな、と思って気を取り直してまた、取り組んでみます。

 

でもやっぱりそのようにはなりません。

 

「新しい」とされる、別の方法を試してみます。
やっぱり結果はでません。

 

だんだん、「これは正しい方法なのか?」と、違和感を感じてきます。

 

 

また、本では素晴らしいことを書いているカリスマがいますが、本人に会ってみると、どうも様子が違う、ということもあります。

 

本の内容は温かい内容だったのに、

著者本人は、少し怖い雰囲気だったり、

カウンセリング、コーチングと称して、お客さんをただ詰めているだけだったり・・・。

 

当センターのクライアント様が報告してくださる経験でも、「本は素晴らしいけど、自己啓発のマスター本人に会ってみると、思ったようではなかった」とか「セラピーがうまくいかないと、こちら側のせいにされた」とおっしゃるケースは少なくありません。

 

いろいろと経験してみてわかったのは、世の常識を超える、と称する自己啓発、スピリチュアルはじめとする理想主義も、それは常識を超える理想でも何でもなく、実は、それもローカルルールをもとに弱い相手を支配するような道具である場合も多い、ということです。

 

実は、現在流布されている自己啓発やスピリチュアルの源流は、もともとはキリスト教の異端の思想であったり、近代化の中で派生したオカルトの現代的な焼き直しでしかなかったりします。
(実際に、そうしたことを調べた研究書などもあります。)

その効果・効用のほどはすでにかなり昔に決着がついているものでもあるのですが、ただ消費する側は、そんな歴史をたどって、原典を当たるようなことは面倒くさいからしません。焼き直して「海外から来た新しい方法です」と紹介されたものを定期的に消費されていく、という構造であるということのようです。

 

これも二階建ての構造の一階部分の現実なのかもしれません。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

ただ、生きづらさを抱えているときは、ウブなもので、ついつい期待してしまい、結局いいように利用されがちです。

 

 

 

 一方、筆者は、たとえ来歴がどうあれ効果があれば何でも利用すればいい、悩んでいる人が楽になれば何でもいい、エビデンスは後からついてくるもの、とも考えます。そのため先入観なく試してみようとします。
 少ない経験ではありますが、素朴な好奇心からそうしたものを実際に試してみても、効果は宣伝されるほどでもありません。正確に言えば、効果はないことはありません。ただし、認知行動療法でも同じくらい効果は出ます。運動ならばもっと出るでしょう。魔法のような効果があるとするのは、結局、主催者側のマーケティングのうまさであったり、誇大宣伝だったりするようです。

 

 さらに、面倒なのは、その世界の思想に乗らないとだめだ、というものもあったり、その世界の中で人間同士のしがらみや支配、メンバー間で競争意識が渦巻いていたりもします(世間と変わらないか、それ以上にややこしかったりします。)

 

 

 

ハンナ・アーレントというドイツの哲学、思想家が鋭いことを述べています。

 

「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる」

 

結局、私たちに、現実を超えるユートピアを提供するとする心理療法や自己啓発といったものの結末は、ここに尽きると思います。

 

現実を迂回してニセ成熟の道から悩みを解決しようと目指しても、達成されることはありません。
ポップ心理学、スピリチュアル自己啓発などは、「見たいものを見ている」だけで、実のところ内容もとても薄っぺらい。

 

 当然ですが、現実の世界のほうがよほど深く、多様性があります。自然がそうであるように、厳しくも優しく、ただそこにあります。その現実を探求する学術的な心理学や哲学、社会学、文学、生物学などのほうがどこまでも深いもので、はるかに面白いものです。

 

 

 もちろん、名医とされる神田橋條治氏が、気、代替療法などを活用しているように、利用できるものは偏見なく利用すれば良いですし、科学ではまだよくわからないけど臨床では役立つものは当然あるとおもいます。ただし、魔法ではなく、臨床家の道具として機能するものと思います。

 「心に聞く」といったテクニックでさえも、それはユートピアへの案内ではなく、現実の世界でよりよく成熟していくための方法です。ここを誤解してはいけないと感じます。

 

 いろいろなものを経験しまわりまわってみると、どうやら私たちは迂回せず、本来の成熟の道、常識の世界に還るほうが良いようです。

 

 そこは多元的で、奥行きがあり、真の意味で私たちが自分らしく生きられる場所があるように感じます。

 

 

 

「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 筆者は、昔、「常識」というものが嫌いでした。

 モラハラとかで苦しんでいたこともあってか、そうしたことに縛られて、自分を決めつけられることを嫌悪していたと思います。

 

 それよりももっと人間の「本質」で、互いにやり取りをすることが大事と考えていました。

 ある種の理想主義の下、いろいろなことを試みてきました。

 

 

 今から見ると、ニセ成熟の迂回ルートといえるような道筋なのですが、それも良い経験であったかもしれません。

 

 

 そこで見えてきたものは、常識を盾に苦しめられてきたのは、実は本当の常識ではなく、単なる中間集団全体主義の「ローカルルール」にすぎなかったのではないか、ということです。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 常識とされているのは、支配してくる人たちの”個人的な信条”にすぎず、なんら、社会的一般常識ではない。巧妙に常識をすり替えられていただけ、ということが見えてきました。

 

 また、常識に代わるものとして、理想主義(ユートピア)に居場所を求めても、薄っぺらいものであったり、当てにならないこともわかってきました。

 

 結局のところ、現実に戻るほうが安全であり、素朴な常識こそが、私たちを守ってくれるものである、ということに気づくようになりました。

 

 そのころに知ったことですが、経営学者のピーター・ドラッカーが同じようなことを言っているそうです。
ドラッカーは、ナチズムや共産主義といった、理想が吹き荒れる時代にキャリアをスタートしています。

 

 当時、時代を分析した本の中でドラッカーは、理想主義の危険性やうさん臭さを指摘し、そして、変革の原理としてよりどころになるのは伝統的な保守主義しかないとしています。
 ドラッカーのいう保守主義とは、簡単に言えば、素朴な常識のことです。素朴な常識こそが社会が多元的であると知り、うまく均衡させるすべを持っている。

 

 一方、理想主義というのは、表面的には良くても、多元な現実をとらえる幅はない、危険な「ローカルルール」ということです。(ナチズムも、当時は新しい理想でしたし、千年安泰の帝国を作る、としていました。)

 

 つまり、常識こそが現代を生きる知恵となりえますし、多元な私たちの在り方についても尊重してくれるものです。

 

 実際、ドラッカーは、常識を駆使して、経営学の巨人と呼ばれるような業績を残していきました。日本でも多くのファンがいます。

 

 ハラスメントの研究で知られる東大教授の安富歩氏は、
ドラッカーは「常識人に愛好された」「常識人の常識を守りつつ、しかもその常識を揺るがす、という高度な技が展開」した、としています。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 あらためて常識とは何か?といえば、特定個人の信条でもなければ、堅苦しく固定された決まりでもありません。

 

 それは人それぞれであるという多様性があり、人は弱いものであるという前提や限界も踏まえているものであり、弱者への目配りも忘れないものです。社会の1階部分と2階部分を併せ持っています。その中で時代や社会の歴史も背負いながら導き出そうとするある種の態度です。固定されたものではなく、学習され日々更新されていくものでもあります。「社会通念」という言い方をすることもあります。

 

 

 ブラック会社などは、一番わかりやすい例で「人間としてあるべき理想」を語り、極端だと「24時間いつも仕事のことを考え続けろ」といったことを強要してきます。
疑う社員のほうを「逃げた」として追い詰めたりもします。
「常識」で見ればあり得ない、「ローカルルール」が支配しています。

 それに対して「それ、おかしいんじゃないの?」と声を上げるのも常識の力です。

 

 働き方についての価値観、意識は様々ですが、例えば、「残業は月何時間までが適正だ」とか、「残業代がないのはおかしい」といった常識は、価値観の多様さを支えてくれます。

 

 家族の問題も同様です家族の在り方は多様で、他人が口を出すことではありません。
しかし、ではどんな家庭でもよいかといえばそうではなく、家族がその「機能」が果たしていなければ、「それ、おかしいんじゃないの?」と苦しんでいる家族のメンバーは声を上げる権利があります。

 

 そして、その苦しんでいる家族のメンバーが参照する先は「社会通念」での家族の機能、常識です。

 

 多くの場合、常識というのは、愛着を通じて、社会とつながり、そこから体得されていくものです。ただ、愛着が不安定だったり、機能不全家庭だと、常識はゆがめられているため、自信が持てず、「おかしい」と声を上げることができない状態にさせられています。

 

 ローカルルールでしかない、ニセの常識を見破って、
素朴な常識から「おかしい!」と堂々と声を上げていい、常識こそが自分を守ってくれる、ということを知るだけでも、生きづらさから自分を守るすべを得ることができます。