ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 物事には、前提となるステップや要素というものがある。

 いきなり実現することが難しいことでも、前提が整えば、それを組み合わせれば宇宙にまで行くことができる。

 宇宙に行く技術も、物理学の研究と、工業化された製品の組み合わせ。

 極端に言えば、子どもでも、要件さえあれば、ロケットを飛ばすことだってできるようになる。
 

 

 目の間にあるパソコンも汎用品の組み合わせ。
 アポロ計画などの時代ではオーダーメイドで何千億円もした機能の何倍もの物が格安で手に入るし、誰でも組み立てられる。

 さらにそれで組み立てたものでプログラムを打てば、大きな資本がなくても新しいサービスを作ることもできる。

 

 でも、もし、パソコンが手に入らなければ、それも不可能になる。それ以前に、そもそも文字が読めなければ、計算ができなければ、チャンスさえつかめない。

 だから、人類は、教育などを通じて、社会全体で補助をしたりして「足場」を作ろうとしてきた。

 人間は環境の影響を強く受ける生き物で、そこからはだれも逃れられない。
 
 だから、前提(土台)を整えるために補助が必要になる。

 

 器械体操も、もし、安全対策や補助マットがなければ、上達することは難しい。

 補助輪(コマ)というものがこの世になければ、自転車に乗れる人はもっと少ないかもしれない。

 安全装置があるから、何百キロで走る車や電車、飛行機をたくさんの人が利用できる。

 スマホも、要件が積み重ねられて、誰でも使えるインターフェースがそなえられ、全世界の人が利用できるようになっている。

 

 

 「要件」が整うと人間は大きなことができるようになる。 
 反対に、整わないと、とてつもないハンデキャップを背負うようにもなります。
 

 人間も同様に、様々な要件を整えながら発達していきます。基礎(要件)が整っていると、その後の発達もスムーズで、トラブルにも強い。

 要件に問題があると、のちの時期にはそれを取り戻すことにはとても苦労します。

 それを「発達課題」と呼び、先達たちが、様々な仮説を打ち出してきました。

 中でも最も大切なのは、生後半年~1歳半の時期です。
 この時期に、「愛着」と呼ばれるものが形成されていきます。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 愛着とは、安心安全を身体のレベルから感じられることであり、社会的な発達の要件の「パッケージ集」とでもいうべきものです。パソコンでいえばプリインストールされたOS(オペレーションシステム)にあたります。

 

 反対に、この時期に強いストレスを受けたり、身体的な愛護が十分ではないと、愛着が形成されず、その後の発達にも支障をきたすことがわかっています。

 パソコンで例えていえば、トラウマを負っているというのは、一からパソコンを組み立てて、動くために必要なソフトを自分で一からインストールしていかないといけない状態にあるということ。
 さらに、インストールも時間がかかったり、途中で不安定になったりして何度もやり直しをしないといけないということ。
 その間、パフォーマンスが上がらず低い評価に耐えないといけない、ということ。こうしたことが支障ということです。

 

 

 

 もちろん、1歳半~2歳以降の環境も大切です。

 家庭の中が安定しているか? 親や親族が機能しているか?といったことはとても大切。

 夫婦喧嘩などはもってのほか。現在では、「面前虐待」といい虐待と認定されてしまいます。一発レッドカードでトラウマになってしまいます。
 (参考)→「夫婦げんかは一発レッドカード」 

 

 あと、よくあるのは、ストレスにはけ口に子どもに親族の愚痴を言ったり、など母親(父親)が悪口が止まらない、というケース。
 小さい頃は本人もあまり何とも思っていないように感じていますが、成長するにつれて蓄積されたダメージは計り知れないものになります。
 自信がなく、人間関係が億劫に感じられるようになります。

 

 ストレスを受けると身体の恒常性が低下しますから、外部からのストレスにも一層弱くなります。

 

 

 環境が不安定でも、人間関係がシンプルな小学校低学年まではまだよいのです。何とか乗り切れます。
 

 問題なのは、小学校高学年以降。多感で複雑な人間関係の測り方、乗り越え方を体得していくには、「安心安全」という土台が不可欠。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

  特に、
   ・人間とは解離しておかしくなる生き物であることや、ローカルルールの存在
   ・常識や社会への信頼感
   ・関係の作り方、コミュニケーションの作法
   ・公的環境の維持の仕方(礼儀やマナーといったプロトコル)
   ・常識とローカルルールの区別

  といったことを身に着けていきます。

 

 

 例えば、同級生や先輩が理不尽なことをしてきた。
 相手が急に不機嫌になった。その原因を自分にせいだとしてきた、といったようなことでも、安心安全という土台があれば、
 
 「あれ?自分のせいではないのにおかしい」
 「そうか!人間というのは、体調やストレスで、急におかしくなる生き物なのだ。」
 「相手が言っていることは理不尽だ(ローカルルールだ)」

 と直感して、理不尽さの背景を冷静にとらえて、ストレスをキャンセルすることができます。

 でも、安心安全がなければ、それができない。

 

 相手の理不尽さの原因は自分にあると勘違いして、傷ついて落ち込んでしまったりする。それどころか、相手の理不尽さに応えて、合わせてしまうようなことが起きる。

 極端な場合は、「理不尽なことは実は愛情なのだ」といった歪んだ理解をしてしまい、理不尽な行為や人に従ったり、執着したりしてしまうことにもなる。

 常識とローカルルールの区分けがうまくできなくなってしまう。

 

 常識とローカルルールとの区別化できるかどうかで、社会や人間が「信頼できる存在」と感じるか、「恐ろしいモンスター」と感じるか、大きくわかれる。
 
 

 
 本来の親や大人というのは、個人のパーソナリティを超えて、社会を流れる歴史や常識を代表する存在であり、それを公的人格として体現して、子どもを保護して伝達していくのが「機能」であると考えられる。

 ネガティブな私的情動が入ると機能不全になってしまう。
 

 

 特に、人間関係というのは、じゃれ合うようなコミュニケーションを通して、学び取る部分がある。

 そして、敬意やマナーや礼儀といった公的環境を整えるためのプロトコル(手順)を身に着けていく。
 私的環境に置かれると人間はすぐに発作を起こし、解離しておかしくなる。
 礼儀やマナーというのは、公的環境を維持して人間をおかしくさせないための装置である。

 

 礼儀というのは、固定されたものではなくて、学習され、更新されていく動的なもの。

 意味を理解して、時と場合に合わせてうまく使っていくもの。

 

 

 安定型の人であれば、こうしたことを、「安心安全」を基盤としながら、地域、学校といった場所で、身に着けていく。

 
 しかし、安心安全を奪われたり、養育環境が機能不全を起こしていると、それができなくなる。特に、相手と距離を詰めて、じゃれ合うようにコミュニケーションを学ぶことは安心安全なしにはできない。
 
 

 

 もちろん、本人のせいではありません。

 本人も知らず知らずに負った気質、体質が問題であるケースや(内的環境)、
 養育環境が問題であるために起きる(外的環境)。

 

 

 本人はむしろ、人よりも苦労をし、もがき、努力をしている。

 安心安全の足場がないために、本来であれば身に着けるはずのものが身につかない。学ぶ機会が奪われてきた。

 

 足場がなく、本来のものが身に着かない結果、他人の理不尽な言動に巻き込まれてしまい、2次的なトラウマを負ってしまったりする。

 礼儀やマナーといったプロトコルがわからず、公的環境を維持できず、
 その結果、相手が解離して、ローカルルールで呪縛してきたり、いじめられたりもする。(解離したとしても、相手が100%悪いのですが)
 

 やがて、自分にとっての社会や人間関係が「ローカルルール」そのものとなってしまう。困惑し何が問題かもわからず、自分はダメな人間だ、受け入れられない、と自分を責めてしまう。
 そして、人が恐ろしく、こわくなる。化け物のように感じるようになります。

 

 さながら、何のサポートもないまま異国の地に一人放り込まれたような状態。
 そして、誤解から差別され、土台がないから抜け出すこともできない、といった状況。さらに、社会への恐怖、対人恐怖を負ってしまい、その3次被害をケアするのにも四苦八苦で、しっちゃかめっちゃかになる。

 

 社会や人間関係は、ストレスをうまくガードしてキャンセルできれば、心地よい空間になりますが、ガードできなければ、途端にひどい所になってします。

 

 同じ国に旅行をしても、犯罪に遭えば「ひどい国」になるし、

 用心の結果、遭わずに過ごせれば「楽しかった」ともなる。

 日本のように比較的安全な国でも、ドアに鍵をかけることを知らなければ、泥棒にも入られて嫌な思いをします。防犯の対策ができていれば、「安全」と感じて安らかに過ごすことができる。

 

 環境を整備する機能が、関係構築するための手順であったり、礼儀やマナーといったプロトコルだったりする。
 基本的な、安心安全(愛着)が欠如すると、身に着ける機会を失ってとても苦労することになる。

 かつての時代であれば、「しごと」が媒介して、関係作りや公的環境を維持するためのプロトコルを身に着ける機会は多かった。
 でも消費社会である現代は、その媒介が少なく、新自由主義的な風潮もあって、個人のせいにされやすい。
 核家族化が進んだ結果、地域の様々な大人が親の機能を担ったりして、機能不全を補う共同体の支えも弱いこともあり、足場を失い、生きづらさを感じやすい。それがニートやひきこもり、といったことが目立つ原因であると考えられる。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 加えて、人間関係、とくに親との関係がさらにこじれたり、いじめに遭遇したりしていて、社会や人への恐怖が「恨み」や「不信感」となる「こじれ」を起こしてしまうと、問題はさらに難しくなります。

 身近な人のなんでもない言動まで、自分への非難として受け取ってしまう、
 「関係念慮」にさいなまれてしまう人も少なくありません。

 「関係念慮」とは、ちょっとしたことでも自分への非難や攻撃のサインとして捉えてしまうようなことです。
   何気ない表情で自分はつまらないと思われている、と感じてしまう。
   相手が少し笑顔を見せただけでバカにされた、と捉えてしまう。
   少し声が大きくなっただけで罵倒された、と受け取ってしまう。
   少し体が触れただけで暴力を振るわれた、と記憶してしまう。
  などなど、

 

 人間は、「関係」の中で守られ、回復していくのですが、「関係」が作れなくなって、さらに孤立させられてしまう。自尊心は傷つき、さらに自分を責めて追い込んでいくことになる。

 
 なぜ自分がそのようなことになっているのか訳が分からなくなるため、目に見える、「容姿」「学歴」「職歴」といったわかりやすい要因に問題の原因を帰属して考えるようにもなります。
 でも、それらは本当の原因ではないので、真の解決にはならない。
 

 さらに、サポートを受けるはずの、医師やカウンセラーといった人に対しても些細なことで不信感を持ったり、トラブルになるなどして、
 回復を支える足場さえなくなってしまいます。
 

 自分という成長の糸がもつれにもつれてしまっているような状態です。

 これも、本人に責任はなく、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶ場、足場を奪われてきたために起きていることです。

 
 安心安全という足場さえあれば、なんでもないことが、ないために身につかない。身に着ける機会が奪われ、
 それどころか、理不尽さに巻き込まれて「ローカルルール」を社会そのもののと思わされてしまうことも起きてしまうのです。

 
 「足場」がないつらさは計り知れず、
 「足場さえあれば、自分はもっと大丈夫な状態になれるはずなのに」というまっとうな直感と、でも、現実には「足場」がないために惨めな状態が続くギャップを誰も理解してもらえない。

 自分で「足場」を作ろうにも作れず、それどころか人間や世の中への不安や恐怖が襲ってきて動けなくなる。
 そんな自分の状態をうまく言葉にすることもできず、理解されず孤独を生きづらさにあえぐ、そんな状態にもがき苦しむ方は少なくありません。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルール(偽ルール)とは何か?~私たちを苦しめる関係の構造

 

 臨床の現場にかかわっていると、相談者を長く苦しめ続けている悩みや生きづらさの奥に、共通した構造が見えてくることがあります。

 

 私は、トラウマ臨床を専門とする公認心理師として、『発達性トラウマ 生きづらさの正体』などの書籍で、そうした臨床の知見をまとめてきました。
このブログでは、現場で見えてきた構造を、できるだけわかりやすくお伝えしいます。

今回は、私たちの生きづらさの核にある「ローカルルール(偽ルール)」という構造について解説します。

 

・しつこい生きづらさ、悩み

 

 「鬱々とした気持ちが晴れない」

 「なぜか自信がない」

 「自分が気を遣って、どうしても下手に出てしまう」

 「人間関係で苦手な人がいて困っている」

 など

 こうしたお悩みはよくお伺いするご相談のテーマです。
 読者の皆様も同じようなお悩みでお困りの方がいらっしゃるのではないでしょうか?

 もちろん、カウンセリングに取り組むことで様々な症状はよくなっていくのですが、なぜか根本のところの生きづらさがなかなか晴れないというケースはあります。

 ご本人は何年も苦しんでおられることが珍しくありません。

 どうして長く苦しみ続けるのでしょうか?
 実はそれには構造があります。それが今回のテーマである「ローカルルール(偽ルール)」の存在です。

 

 

・ローカルルール(偽ルール)とは何か?

 

 ローカルルールとは、規範や常識といったもっともらしい理屈を付けて他者に押し付けられる「不全感」のことを言います。

 一見もっともらしく見えますが、中身は個人の不全感でしかありません。

 

 ここでいう不全感とは、
・自分の存在が承認されていない感覚
・愛されていない感覚
・自分が否定されている感覚

などを指します。

愛着不安やトラウマ、短期的にはストレスなどによって生じます。
「I am not OK」と感じられている状態、と言えばわかりやすいかもしれません。

(参考)→「トラウマ(発達性トラウマ)、PTSD/複雑性PTSDとは何か?原因と症状

    →「「愛着障害(アタッチメント障害)」とは何か?その特徴と症状

 

 私たちは成長過程で、親など他者から適切な関りを受け、自分を十分に認められ、安心安全感を感じられることが必要ですが、マルトリートメント(不適切な養育)や家族の不和・機能不全、学校でのいじめなどによってそれが十分になされないと私たちは強い不全感を抱えてしまうようになります。

 こうして抱えた不全感(「I am not OK」)の苦しみは大きく、適切なケアの機会がなければ、個人で抱えることは困難です。
その結果、多くの場合は他者を巻き込むことでかりそめの癒しを得ようとします(心身の不調や、それを解消するために依存症として問題化する場合もあります)。

 それが、他者に「You are not OK」というメッセージを飲み込ませることです。

 本来であれば、適切な関りやケアや自己の研鑽を通じて「I am OK」の状態を作り出すことが必要ですが、それがかなわないとき、他者を「You are not OK」と位置づけることで、一時的に自分を「I am OK」の側に置こうとするのです。

 

 その際に、そのまま不全感をぶつけては、自分がおかしな人間扱いされてしまいますし、相手も受け取るはずもありません。
そのため、
・「これはルールだ」
・「これは常識だ」
・「お前がおかしい」
といった理屈で、表面をコーティングすることになります。

 見た目はもっともらしい理屈ですが、中身は毒(不全感)です。
いわば“毒饅頭”のようなもの、飲み込まされた相手はその毒(他者の不全感)を抱えて長く苦しむことになります。

 不全感には、かつて自分が支配的な関係性を強いられてきた苦しみが含まれていることも多く、その反転として、相手を支配し(支配欲を満たし)、上下関係を作ろうとするケースも少なくありません。

 ローカルルール(偽ルール)とは、一時的な不全感の発散のみならず、飲み込んだ相手を自らの下位に置き、支配する関係性を作り出すことでもあるのです。
 

 こうしたことが半ば無意識におこなわれています。
 これがローカルルール(偽ルール)という現象です。

 

・なぜ、私たちは、ローカルルールを飲み込んでしまうのか?~社会的な存在(ゾーオン・ポリティコン)としての私たち

 

「そんな不全感など受け取らなければよいではないか」
と思われるかもしれません。しかし、それは容易ではありません。

 理由の一つは、
私たち人間が社会的な存在(ゾーオン・ポリティコン)であることにあります。

 人は社会的存在として、規範に従い、他者との関係を維持しようとします。
これは社会性の根幹にあるものです。

 そのため、「これはルールだ」「これは常識だ」として提示されるものにとても弱いのです。
 

 それを否定すれば、自分のほうが「おかしな人間」だと扱われかねません。
もっともらしい理屈を否定するには、強い対抗理由や、関係性が壊れる覚悟が必要になります。

 結果として、違和感を覚えながらも、表面の理屈を真に受け、ローカルルールを飲み込んでしまうのです。

 

 

・行動レベルのミスを口実にする

 ローカルルールを飲み込ませやすくするために、行動レベルでのミスや落ち度が利用されることもよくあります。

 例えば、
 些細な業務上のミスをタテに、指示・指導だとして、上司が部下などに対して一方的な価値観や方法を押し付ける、感情(不全感)をぶつけるといったようなことはその代表例です。自分のミスをあげつらわれているため、部下は指摘を拒否しにくくなります。

 また、仕事においては上司の指示に従うべきという規範もありますから、どこかおかしいとおもいながらも、飲み込まざるを得ません。

 しかし、よくよく見れば、結局のところは、それは上司の不全感でしかありません。

 業務上のミスは誰にでも起こりますし、仕組みの問題であることも少なくありません。それをわざわざ取り上げ、不全感解消と支配の口実にしているのです。

 

 学校などで生じるいじめでもそうです。
 同調的で閉鎖的な雰囲気の中、例えば運動ができない、ノリが合わないといった違いを理由に、「お前は変だ」「お前はダメだ」と位置づけ、
理不尽を飲み込ませることが起こります。
 
 さらに、いじめの場合は、教師や保護者もローカルルールの理屈に巻き込まれるということは珍しくありません。
 (「変わった子だからいじめられても当然だ」というようなように)

 
 こうして、加害者は、相手にダメ出しをするという因縁を付けて、自分を正義の位置に置き、相手を罰するように自分の不全感を飲み込ませて、支配し、かりそめに「I am OK」な状態を作り出して、自分の不全感を癒そうとするのです。
 
 スクールカーストという言葉があるように、傍観している側も下位の人間が生まれることで、自らをカースト上位に位置付け、「I am OK」を感じることができるというわけです。

 

 

・家族でも行われている~不全感は世代を超えて連鎖する

 

 家庭の中でもこうしたことは行われています。

 愛着不安やトラウマは連鎖するといわれるように、そもそも親自身も不全感を抱えているというケースは少なくありません。

 そうした場合に、子どもに対して、しつけや教育と称して不全感を飲み込ませてしまうということがあります。

 特に子どもが見せるわがままさや無邪気さとは、自身が認めてもらえずに、ダメだとされた自分の姿そのものとして親には映ります。
自分はそれを否定され、そして、適応するために努力してきた、大人が望むように姿になろうとしてきた、ということから、子どもの無邪気な姿に触れた時に強い恐れや不快感、拒否感が生じるのです。

 

 ただえさえ子育てには強いストレスがかかりますが、親自身が抱える不全感が刺激されると平静でいることは難しく、その不快感や拒絶の強い衝動を抑えるために子どもに対してローカルルールを飲み込ませるというようなことを行ってしまうのです。

 あるいは、もっと能動的に、親が子どもに干渉、支配するといったケースもあります。

 親の不安やコンプレックスや自分の人生の代償として、子どもに塾や習い事、将来の職業を強いるなどというのも、まさにローカルルールであることがわかります。
(「あなたのため」だとして表面をコーティングしていますが、結局は親の不全感でしかありません。)

 ローカルルールを飲み込まされた子どもは、長くそのことに気が付かず、成長してからそれが心身の不調として現れるといったこともありますし、一見問題なさそうに見えても、ローカルルールに適応した「ニセモノの自分」として生きづらさを抱えたまま生きるということもあります。

 

 

・真面目な人ほど「内面化」してしまう~社会性の虐用(ソーシャリティ・アビューズ)

 

 ローカルルールの恐ろしいところは、被害者がそれを「自分の問題だ」と信じ込んでしまう(「内面化」する)点にあります。
 特に、子どもの頃に親からローカルルールを押し付けられた場合、子どもは親を愛したい、愛されたいという社会性や善性から、自らが否定されることを「自分が悪い子だから怒られるんだ」と誤学習してしまいます。こうした社会性を悪用されることを「社会性の虐用(ソーシャリティ・アビューズ)」と呼びます。

 大人になってもこの影響は続き、「自分はダメな人間だ」という感覚(自己否定感)や、「人の顔色をうかがわなければならない」という過剰適応、過緊張、自分の外側に正しさの基準が存在するという感覚から自信のなさ、自己の喪失といったトラウマ症状として残ります。その結果、職場など新たな環境でも、再びローカルルールを押し付けてくる支配的な人に巻き込まれやすくなってしまうのです。

 

【図解:ローカルルールの構造】

 

 

・ローカルルールという視点がもたらすもの~ハラスメントなど日常の理不尽の構造や対策が明らかに

 

 ここまでローカルルールについて解説してまいりましたが、ローカルルールという視点を持ってみると、悩みや生きづらさはもちろんですが、私たちが日常で感じる理不尽さや違和感の構造がよくわかります。

 例えば、社会で問題となっている「ハラスメント」の構造もより深く知ることができます。
 多くの場合ハラスメントは労務や行政のガイドラインといった表層的な定義ばかりが取りざたされますが、関係性や心理的な背景がわかれば、対策も洗練されていきます。上司がハラスメントとされてしまうことを恐れるあまり生じるホワイトハラスメントといったおかしな現象も防ぐことができます。

 

 別の例では、いわゆる、ブラック職場や、不祥事を起こす会社の風土などもローカルルールという視点を持ってみるとその理由が見えてきます。会社組織の場合は、そもそも創業者やトップの持つ不全感がカルチャーとしてローカルルールとして浸透しているのです。

 上記以外でも、私たちは、ハラスメントとまでは言い切れないけども、なぜかうまく言語化できない、腑に落ちないけど人間関係を維持するために飲み込んでしまっているようなこともよくあります。そうしたことにも光を当てていくこともできます。

 今回解説したローカルルール(偽ルール)のように、関係性や心理の“構造”を明らかにすることで、従来は言語化されてこなかった「現代社会の病理を解き明かす新しい視点」を私たちは手にすることができるのです。その視点は、個人が抱える生きづらさを理解し直す手がかりにもなります。

 

 

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「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。

 

 「愛」などもそうですが、私たちにとってサイズに合わない言葉や概念は、私たちを機能不全に陥れます。

 
 人間にとってスペックオーバーである「愛」という概念を持ち出すと、愛が得られないことに絶望したり、応えてくれない相手に憎しみを感じたり、個として完成しようとするあまりに孤独に陥ったり、ということが起こります。

(参考)→「なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 

 「責任」も同様に私たちにはスペックオーバーの観念の一つ。

 

 一般に言われる意味での「責任が果たされていない状態」とは、責任がないのではなく、「責任」という身の丈に合わないものを当てはめた結果、逆説的に機能不全になってしまっていると考えられます。

 

 

 本来、私たちに必要なのは、それぞれ適切な「役割(位置)」です。

 
 以前、経営学者のドラッカーの言葉を紹介しましたが、
 「個人にとって、社会的な位置と役割がなければ、社会は存在しないも同然である。(中略)個人と社会との間には、機能上明確な関係が存在しなければならない。」と述べています。
 反対に、「役割」が失われると、社会の中で存在していないも同然となる。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 広く言えば、失業など「役割」を奪うハプニングは、社会に多くありますが、私たちの日常にも私たちの「役割」を奪ってしまうものは存在する。

 対人関係などで浴びる嫉妬や支配、それらが化けたローカルルールといったものはその代表格。

 

 ローカルルールとは、常識のフリをした私情が相手を支配しようとすること。

 いわゆる支配というのは、身の丈に合わない概念や言葉を持ってきて、私たちの「役割」を奪い去ってしまうことです。

 

 「責任」やそれにともない「罪悪感」というのは最もよく用いられる支配の道具の一つです。

 

 

 

 「責任」という言葉が過剰に用いられると、「役割」は失われて機能不全になってしまう。

 以前の記事で、「カウンセラーも免責が必要なようです。」と書きました。カウンセラーも責任から自由な状況のほうが、不思議なことに効果が出やすいことがわかってきている。
 統合失調症でさえ短期間で治る、という報告があるくらい。

(参考)→「「免責」の“条件”

 

 

 なぜ、効果が出やすいのか? については、よくわかっていませんでしたが、
「責任」ということを深めて考えていくと、その謎に迫ることができるかもしれない。
 
 
例えば、カウンセラーの「役割(機能)」というのは、本来は、

 ・そこに存在すること(それによって、クライアントは「安心安全」を得る)
 ・クライアントを苦しめているローカルルールからクライアントを切り離し、本来の社会とつなげる。(それによって「関係」を回復する)
 ・上の二つための入口、媒介となる。
  ※心理療法は、これらを助けるための単なる道具。
 
といったことが考えられる。

 しかし、

 ・(お金をいただいているからには)早く良くしなければならない
 ・難しいクライアントを怒らせてはならない

 ・クライアントに責められる
 ・首尾よく、改善しなかった場合にクレームになると困る
 ・医師やスーパーバイザーの評価が気になる

 といった「責任」がのしかかってくると
 「機能不全」を起こし始め、徐々に「役割」が果たせなくなってしまう。

 

 
 反対に、うまくいっているケースというのは、クライアントとの「関係」が良いことから、「役割(機能)」が発揮される。

 心理療法自体の効果というのは、あくまで「関係」とその先にある「役割」発揮を助けるきっかけでしかないのかもしれない。

 実際に、よく知られた研究では、
 治療効果に与える、心理療法の割合は、15%程度でしかないとされている。

 クライアントとの「関係」のほうがずっと大事とされる。
 

 

 それは「関係」によって、カウンセリングの「役割(機能)」が発揮されることを示している。

 

 

 境界性パーソナリティ障害など
 かんしゃくを起こしたりして治療者を責める他責的なクライアントが「難しい」のは、治療関係に「責任」の呪縛をかけてしまうから。

 治療者を非難したり、振り回したりして、「責任」のプレッシャーをかければかけるほど、反比例して効果は下がる。
 だから、なかなか良くならない。

 そのクライアントも、実は本心ではなく、養育環境での呪縛でそのようにさせられているだけ。
 「I’m OK」を得るために、「You’r NOT OK」として相手に自分にのしかかっている「責任」を渡そうとして他責的になっている。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 

 このように考えると、「無責任(免責された状態)」をいかに作り出すかは、とても大切。

 

 “名人”と呼ばれるような名医は、治療に行き詰まると、
 「う~ん、なぜよくならないかわからないね~~。なぜだろう?」とクライアントにわざと正直に白状したりする。

 すると、治療の膠着状態が解かれて難しいケースが不思議なことに前進することがあるという。
 「責任」の呪縛、機能不全に陥るのをうまく回避して、「役割(機能)」が発揮されるようにしていると考えられる。

 

 「無責任」というのは、実はとても大切。

 

 
 以上のことは、治療者側を例にしていますが、
 「無責任(役割・機能を発揮する)」の効果は、私たちすべてに当てはまります。

 
 私たちがよりよく生きていくためには、
 「責任」は棄てて、「役割」を発揮させることが必要。

 生きづらさとは、「過責任」がもたらしたものであることは、社会学などでも指摘されている(関係性の個人化)。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 「責任」といったビックワードはかくも、私たちを機能不全に陥らせてしまうもの。

 

 私たちは養育環境など、これまで生きてくる中で、「責任」を過剰に背負って生きている。それで生きづらくなり、力を発揮できない。

 例えば、

 「両親が不機嫌なのは自分がいい子ではなかったからだ(自分の責任)」

 「友達を怒らせたのは自分の存在がいけないからだ(自分の責任)」

 「上司が期限が悪いのは、自分がどんくさいからだ(自分の責任)」

これらは、すべて「責任」というニセモノ。

 

 ただ、「責任」(ニセの責任)が捨てれないのは、それを捨ててしまったら、自分が堕落してしまうかも、といった恐怖があるから。

 
 実はそれも「責任」がもたらす幻想。

 「責任」を捨てて「無責任」になってしまったら、いい加減で無秩序になるのではありません。むしろ、本来の「役割(機能)」が発揮されて、社会とつながることができる。

 

 
 例えば、すごくプレッシャーのかかる仕事で、追い詰められて追い詰められてうまくいかず、最後に開き直ったらうまくいった。
というのはよく聞く話です。

 スポーツ選手など、試合に勝つためにストイックに責任を感じて煮詰まっていると、あるときコーチなどから、「もっと楽しんだら?」といわれて、ハッとなって、本来のパフォーマンスが発揮される、
というのもよくあります。

 

 

 「責任」があるほうが良い、と思っていますが、「愛」とおなじくそれはまったくの幻想で、本当は、「責任」こそが力を奪っている。

 

 本来の意味で「責任を果たす」とか「責任を取る」というのは、「公的な役割」を意識して、没頭すること。「責任」なんていう概念を持ち出す必要はどこにもない。

 

 逆に、「責任」というのはプライベートな人格にまで侵食して責任を問おうとする性質から、「公的な役割」に集中することを阻み、公私をあいまいにする。
 仕事の失敗が、あたかも自分の存在をすべて消し去るかのような恐怖を与えてきます。
 公私があいまいな状況というのは私たちをおかしくする。本来のパフォーマンスが発揮できなくなるのです。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 こう考えると、私たちが感じる「責任」とは、実はローカルルールの一種であることが見えてくる。あらゆる「責任」それ自体がニセモノ。

 

 

 事実、「責任」といったものを感じているときと、「役割」を感じているとき(例えば仕事に没頭しているときのすがすがしさ)とを身体感覚で比べてみるとその違いがわかります。
 

 「責任」の気持ち悪さ。居心地の悪さたるやない。

 
 反対に、「役割(機能)」の場合はとても心地が良い。

 よく、「あの人はなぜ、あのように状況で役割を果たせたのだろう?」と思うようなケースがありますが、(消防士とか、乗務員とかが、危険を顧みず人を助けたり) あれは、「役割」を果たす感覚なのかもしれない。

 

 反対に、「なぜ、あの人は責任逃れのような卑劣な行為をしたのか?」という場合は、「責任」にとらわれた結果の行為なのかもしれない。

 

 

 私たちの生きづらさの大きな原因の一つは「責任」という、一見大切だけど、まったくのニセモノの概念にありそう。

 
 日常で、もし「責任」を感じたら、「そんなもの要らない」と完全に捨ててみる。

「無責任になって、いい加減な人になるのでは?」と思ったら、それも捨ててみる。大丈夫、心配いりません。

「無責任」になることで、本来の「役割」が浮き上がって来ますから。

 「役割」の心地よさ、機能する状態のすがすがしさを体感してみる。

 

 呪縛が取れた身体の軽さ、本当の意味での社会とのつながりの回復、湧き上がってくる自尊心、信頼感といったものを感じることができます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「0階部分(安心安全)」

 

 以前、「関係」がどのように成立するのかについてまとめました。

 「関係は1階、2階、3階といった階層構造になっている」
 また、「私的領域では人間はおかしくなる、公的な領域こそが本来の居場所である」ということを見てきました。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 

 実は、これまで明らかにした関係や公的領域にはそれが成立する前提があります。

 それが、今回お伝えする「0階部分」ともいうものの存在です。

 

 
 私たちはクラウド的な存在であり、「関係」によって成立しています。
 そしてその「関係」とは、公的領域でなければ正しく機能せず、私的領域(個人の情動やローカルルール)にとどまった場合、嫉妬や支配といったおかしなものに堕してしまうようになります。

 

 ただ、こうしたメカニズムの以前に、カウンセリングをしていると、「関係念慮(妄想)」といった状況に陥って、周囲への不信や被害感情に苦しんでいる方に多く出会います。

 

 関係念慮というのは、特別に病的な人がなるものではありません。
 誰でも、体調が崩れたり、睡眠不足になったり、あるいは人間関係のストレスにさいなまれると、容易にそのような状態に陥ります。

 

 「周りの人が私のことをネガティブにとらえている。悪口を言われている気がする」
 「周囲がひどい人ばかり」

 といったようなことです。
 

 そのために、クラウド的な存在であるにもかかわらず、「関係」を構築できず、周囲とつながることができず、代わりに、家の中で嫌な家族やつらい過去の記憶とつながるしかなく、余計に苦しくなってしまう、ということが起きます。

 

 これは、トラウマを負っている方に多い傾向があります。
 (内分泌の疾患、発達障害の方などでも同じような問題が生じます)

 なぜ、そうした方に多く見られるかというと、それはトラウマを負っている方は「安心安全」が脅かされやすいためです。

 「安心安全」の欠如とは、身体的な不調、心理的には不安定型愛着に起因します。

 

 
 人間というのは、免疫やホルモン、自律神経によって、外的なストレスに対処しています。ホルモンなどが国境の壁や軍隊の役割をしていて、防御が利いている間は、その内側は平和でいられます。
 

 ボクシングでいえば、ガードしている状態。
 極端に言えば、どんなにパンチがきつくても、ガードしている間は、安全でいられますし、むしろ、打ってくる相手とガードのタイミングが合い、さながらダンスを踊っているかのように、心地よくさえあります。

 

 これが健康な人間の状態で、健康な人から見れば、
 「人間というものは信頼できる。社会とは安全なものだ」と感じられています。ストレスさえも、どこか心地よく感じられる。
 

 

 

 しかし、防壁が壊されたり、ガードのテンポが合わなくなると、ストレスをもろに浴びるようになります。

 物理的には同じ環境にいながら、途端に「人間とは信頼できない。社会とは危険なものだ」と感じられるようになります。

 これがストレス障害(トラウマ)というものです。 

 

 ※出産を基準にして、出産前にお母さんの中でお腹の中でのストレスでその防壁が壊されてしまうことを「発達障害」といい、出産後、環境のストレスで壊されてしまうことを「トラウマ」といいます。そのため両者の症状は瓜二つになるのですが、それはどちらもストレス障害だからです。ホルモンの失調でも似た状況になります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

    →「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴~様々な悩みの背景となるもの

 

 

 
 同じコミュニケーションでも、防壁があるときは、肯定的なメッセージは、そのまま「肯定的なメッセージ」としてとらえれます。
 しかし、防壁がないとむき出しであるために、肯定的なメッセージも「否定的なメッセージ」として捉えられるようになります。

 

 むき出しですから、「周りはひどい人ばかり」となります。
 (臨床心理の世界では、「周りはひどい人ばかり」と訴えているケースは、強いストレス障害(発達障害)による記憶の断片化が疑われます。)
 

 

 相手が普通に送ってくるメッセージが正しく受け取れないわけですから、通常のやり取りができなくなる。「1階、2階、3階」とフィルタをかけながら積みあがていくように「関係」を構築できなくなってしまう。

 (参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 積み上げ=フィルタ式ではなくて、すべてを警戒するか(回避)、すべてを受け入れるか(接近)、といった極端な形になってしまう。

 

 このように、「0階部分」とは、心身の「安心安全」のことを差します。
 「0階部分」が関係を土台となって、私たちを支えてくれています。

 

 トラウマとまではいかなくても、睡眠、食事、運動が不足すると、私たちは容易に土台が崩れてしまいます。

 
  かつての警察の取り調べや、カルトの洗脳などでは、
  ・睡眠時間を少なくし
  ・食事を制限し
  ・自由に運動ができないようにする

 ということがセオリーです。そうすると、正気を維持できなくなるからです。

 小さなお子さんをお持ちの方はご経験がありますが、
 眠たくなると子供はわけがわからなくなる。
 特に、睡眠不足は容易に人間をおかしくするものです。

 

 

 身体的な健康が脅かされると、人間はだれでも妄想的になります。

  
 そのために、「0階部分」では、「身体」的な健康、安心安全が確保されていることがとても大切です。

 

 

 「0階部分」を整えるためには理屈よりも何よりも、まずは、睡眠、食事、運動から入る。

 睡眠をしっかりとり、栄養を整える。
 
 最近は、鉄分などの不足が精神の不調に大きく影響している、ということが指摘されるようになってきています。

 
 また、たとえばうつ病でも「運動」によって9割が回復するというエビデンスがすでにある(抗うつ剤では2割しか治らない)。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 それほどに「0階部分」は大切です。  

※いわゆる「愛着」というのは、「0階部分」のOS(オペレーションシステム)ともいうべきもので、ソフト面から「0階部分」の機能をサポートしてくれています。
 (参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 「0階部分」によって、わたしたちの「公的領域」、「関係」というものは支えられています。

 

 

 

 

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