“あいまいな”マルトリートメント(虐待)②

 今回は、前回ご紹介した『精神の生態学へ』(岩波文庫)に紹介されている母子の話についての続き、です。

参考)「“あいまいな”マルトリートメント(虐待)①」

 ダブルバインドによって精神障害(統合失調症)を発症し、で入院していた息子のところに、問題の母親が見舞いに来ます。息子は入院によって体調はかなり回復をしていました。

 

 しかし、母が来たことを喜んで息子が母の肩に抱き着くと、母は身をこわばらせます。

 それで、息子がとっさに手を引っ込めると

 母は「もう、私を愛していないの?」と言います。

 顔を赤らめる息子に対しては母は、「そんなまごついてはいけないわ。自分の気持ちを恐れることはないのよ」といいます。

 そうして、母が帰った後、息子は暴れ出し、ショック療法の部屋に連れていかれました。。。

 

 
 もし、息子が「母は僕が肩に腕を回すと落ち着かないんだ。僕の愛情表現を受け入れられないんだ」とでも表現できれば、暴れ出すような破滅的な事態は起きず、状況は少しは改善したかもしれません。

 しかし、息子は、強度の束縛(ダブルバインド状況)の中で、母親のコミュニケーションの真実を言語化することができない状況に育ってしまっているのです。
 

  
 一方で母親は息子の状況にもっともらしい論評を加え、自分の解釈を息子が受け入れることを強要しています。

 さらに、息子は医師からも「統合失調症」の烙印を押され、「暴れた」という事実もあるために、その診断は“医学的にも”合理的とされることになっています。

 自分がもしこの息子だとしたらと思うと、本当に恐ろしい状況です。

 前回も書きましたが、統合失調症として現れるか? 複雑性PTSD(発達性トラウマ)として現れるかは、単なる体質の差です。
 パニック障害、解離性同一性障害、うつ病、依存症としてもあられることがあり、気質の違いによります。ベイトソンは、統合失調症の原因としてこれを書いていますが、複雑性PTSD(発達性トラウマ)でもそのまま当てはまります。
 

 

 恐ろしいのは、では、この母の言動は、社会的に虐待と認定されるようなものなのか?といえばそうではありません。まったくもって“あいまいな”ものです。  

 しかし、この“あいまいな”虐待は、社会的認定されている虐待以上の恐るべきダメージをもたらしています。

 

 

 では、ここで取り上げた見舞いの際の母のコミュニケーションをベイトソンが解説していますから、その詳細も紹介させていただきます。

 

●母親は、腕を引っ込めた息子の反応を「もう、私を愛していないの?」などとあげつらうことで、自分の拒絶を隠ぺいしています。
 さらに、息子も母の非難を受け入れて自分の感覚、状況理解を否定しています。 (これが、母が帰った後で暴れたことにつながります。)
 

●「もう愛していないの?」という言葉からは、以下の含みがくみ取れます。

 a)「わたしは愛するに値する」という前提。

 さらに、
 b)「お前は私を愛するべきだ。愛せないお前が悪い。それは間違っている」という非難の含み。

 

 c)「もう」の一言が、「以前はわたしを愛していたのに、今は愛していない」という含みを添える。
  それによって、息子が愛を表現できるか否か、ではなく、愛情を抱くことができるか否かに焦点が移ります。
  しかし、息子は過去に母を憎んだこともあるのだから、この葛藤において母の優位は揺るがなくなります。
 息子は過去も十分に母を愛せていなかったことに罪悪感を感じます。

 

 d)「もう愛していないの?」と言うことで、つまり息子が母の肩を抱いたことについて「お前が今表現したことは、愛情ではなかった」という一方的なラベルを貼っています。
  そのラベルを息子が認めるとき、これまで社会的に学んできた愛情表現の方法(肩を抱く、など)は愛情表現ではないと否定されます。
  すると息子は、過去に自分が行った愛情表現が表現として不適切だったのだ、相手がそれを受け入れたと思えたことまでが疑わしい、と不安を感じるようになります。
  ここで彼が経験するのは「支えの喪失」です。
  過去の経験が自分の支えとしての機能を失ってしまう、疑わしいものになるということです。

 

●「そんなまごついてはいけないわ。自分の気持ちを恐れることはないのよ」

 このメッセージには以下の意味を含んでいます。
 a)「普通の人は自分の気持ちを表現するのにお前はそうしない、できていない。だからお前は他のきちんとした正常な人間とも違う」

 
 b)「自分の気持ちを恐れることはない」ともっともなことを言い、「お前の感情自体は問題ない。問題はお前がその感情を容認できていないことだ」としていますが、しかし、自分が母に触れた時に母が示したこわばりが自分に現れた感情を母が容認しないと示している以上、彼は過去の葛藤に追いやられることになります。 
 母が勧めるように、自分の感情に恐れを感じないでいるならば、母への愛の感情も素直に表現して当然です。

 しかし、そうしてしまえば、恐れているのは母のほうだを気づかずにはいられない。しかし、気づいてはならない。
 息子はこれまで母との関係や母の幻想を壊してしまわないように、自分が感じた感情(つまり、母は私を拒絶している)を認めないようにして来たわけです。母は自分の欺瞞のために息子を協力させてきたのに、ここではそれがおかしいと非難をしているわけです。言葉では「自分の気持ちを恐れることはない」とキレイ事を言っていますが、構造としては、私の幻想と私との関係を壊すなとしているわけです。

 

 この見舞いの場面では母に愛情を示さなければ母を失う、でも、示した愛情はおかしいとされる、自分の気持ちに率直になることは、母の幻想や関係を壊すためにできない、こうした解決不能のジレンマに息子はおちいっているわけです。

 

 ベイトソンの解説は秀逸だと思います。

 こうした構造の状況は、トラウマ、複雑性PTSDの相談において実際によくあります。

 

 繰り返しになりますが、母の会話がもし音声で録音されていてもおそらくすぐには「虐待!」とは認定されないでしょう。よほど、家族関係やハラスメントの専門家が見なければ正しくアセスメントはしてくれません。

 

 ましてや本人は呪縛の中にいますから、気が付きようもなく、しかし、心身に症状だけが生じていて、社会でもうまくいかず、人間関係も作れず、その“事実”から自分はおかしいと責めるようになります。

 前回でも書きましたように、
 「いや~、親がそれほどひどかったとは思えないんです・・」
 「親のせいにするなんて自分がそう思いたいだけかもしれません??」
 「実際に、社会でうまくいっていない自分のほうがおかしい。だって他の兄弟は何ともありませんし。。」などとなってしまうのです。

 社会的にもあいまいだからこそ、それ自体が、第4、第5の拘束のメッセージともなりさらなる拘束となります。
 

 まさに、あいまいなマルトリートメント(虐待)の恐ろしさです。
そして、あいまいなマルトリートメント(虐待)は、決して稀ではなく、そこここに存在しています。

 

 母子に単純化していますが、これが、親族、学校、会社などでも様々な場面でも起こりえます。

 生まれつきそうではないか?天才的!?と思うくらいに、絶妙のタイミングで私たちの些細な行動を弱点として取り上げて、あげつらう(ハラスメントをする)のが得意な人というのはいたりします。
 あるいは、普通の会話、やり取りなのに、なんとも言えない嫌~な気にさせるような人などもいますし、皆様もそうした人に出会うことがあるのではないでしょうか?
 (それは、もちろん生まれつきではなく愛着不安やトラウマによる不全感を抱えたことを土台として、その人の気質が合わさって生じるものです。)

 そうしたことは表面では現時点では、虐待ともハラスメントとも、されないかもしれませんが、ベイトソンが明らかにした視点から精緻に分析すれば、それは、私たちを縛る欺瞞的なコミュニケーションなのです。

 このことに対して私たち社会全体も、もうさすがに気がつかなくてはなりません。
 不全感に基づく欺瞞的なコミュケーションについて賢くなり、明らかにしていく必要があります。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

Xでは役に立つつぶやきを毎日ご覧になれます

Instagramではお悩み解決についてわかりやすく解説

Youtubeではトラウマなどの解説動画を配信

 

 

“It’s the society,the community stupid”(“社会”こそ問題なのだよ、愚か者!)

 私たちは幼い頃を思い返すと、数々傷ついてきた経験を抱えています。

 仲良くしてほしいし、そうすればいいと幼心に感じているのに、両親が喧嘩をやめない。

 訴えてみても、耳を傾けてくれない。

 なんで??

 ただ、仲良くすればいいじゃない?
 
 お互いに話を聞けばいいじゃない?

 こうすればいいじゃない?

 でも、直感的な正論が全然通用しない。

 その絶望感、孤独感。

 

 友達に対してもそうです。

 自分の素直な気持ちや在り方で接したら、ある時、急に意地悪される。

 突然嫌なことを言われる。

 なんで??
 
 どうして??

 
 自分はこんないい子なのに、仲良くしてくれればいいじゃない?

 ただ受け入れてくれればいいじゃない?

 なんで、人はこんなふうにおかしなことになるの?

 

 
 でも、自分の気づきや訴えは全然周りに通じない。

 大人に相談してみても、ちゃんと対応してくれない。
 喧嘩両成敗になる。

 そのうち、「自分にも悪いところがある」というお題目を信じるようになってしまう。

 

  
 大人になってからもでもそうです。

 自分は普通にしているだけなのに、理不尽な目に遭う。

 信じられないような失礼なことを言われたり、意地悪をされたり、などということは日常のそこここにあります。

 しかも、それらは明確に言語化できないようなとても微妙な状況で行われるので、声を上げることさえできない。

 声を上げる不利益や手間を考えれば、と飲み込んでします。
気の強い人なら言い返せるのに、即座に反論できない自分が悪いのだと思ってしまう。
 

 理不尽は自分で何とかすることが当たり前だ、とされて、“社会”のおかしさは個人化されてしまう。
 

 幼いころ、自分はただありのままにいるだけのものなのに、親から「この子はダメだ」「この子はおかしい」といった間違った指摘を受けて、それをずっと心に抱えたまま、真に受けたまま、ボタンを掛け違えたまま、その答えを探そうとして、その後の人生を生きている人もとても多いです。

 

 いじめを受けても親たちが「仕方がない」として適切に対処してくれないことで不登校に陥っているのに、個人のメンタルの問題にさせられている、というようなケースもよくあります。
 
 例えば、最近、海外で日本人の子供が襲われても現地の政府は「偶発的な事故」といいっていますが、仮にそうだとしても、「全力で対処します」と言ってくれなければ、安心して住むことはできません。だから問題になっています。
 同様に、親や先生が「学校ができることも限られるし、仕方がない」なんて言っていては、子どもが安心して登校できるはずもありません。「いじめには断固対応します」「全力で守ります」ということが本来です。
 
 しかし、大人の都合で安心安全が守られていないから学校にいけないのに、自分が弱いせいにさせられているし、自分でもそう思い込まされてしまっている。 

 これも、大人(“社会”)の機能不全を子どもが背負っているようなケースです。

 
 
 あるいは、親の理不尽、家族の問題を自分が引き受けて、そのために生きづらい人生を生きている人もいます。ヤングケアラーなどはまさにそうですし、ヤングケアラーと名付けられなくても、トラウマを負った人の多くはそうです。

参考)→「なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 確かに、多くの人は、心の悩みについては、環境に問題がある。環境が大きな要因になる、ということには同意します。しかし、「それはそうなんだけど、結局、環境は変えられないんだから、個人が何とかしなきゃね」といったおかしな留保がついてしまい、そのことで、結局個人の中に問題が流れ込んでいってしまう。

 

 

 あるいは、「“社会”全体がおかしいなんてことはない」といった思い込みも強く存在します。

 ここでいう“社会”とは、日本社会とかアメリカ社会といった大きな社会や社会問題の社会ではなく、私たちを日常で取り巻くローカルなコミュニティや人間が不全感を抱えてルールを騙る状態や機能不全を“社会”と呼んでいます(いわゆる社会の問題や不正義や加害者を糾弾しようとか!そういう論とは異なります)。
 

 

 それらが全部、おかしいなんてことはないだろう?という思い込みです。

 
 もちろん、そんなことはありません。いじめは学校や職場でも横行していますし、いじめに感染するとあっという間にみんなの頭がおかしくなることは観察されている事象です。
 

 学校、会社や親族には「しっかりしていそうな人」「客観的な判断ができそうな人」「立派な学校や会社にお勤めの人」もいたりします。そして、そうしたひとが“バランスの取れた意見”を言ったりしますが、それらが正しいか?といえばそんなことはありません。
 
 そうした人がみんなを惑わすので一番厄介なのです。

 立派そうに見える人がまともである、というわけでは全くありません。

 そうした人は、自分を失った結果見かけの立派さを手にしているケースもとても多いですし、立場主義から発言することが上手であることはよくあります。
 
 以前書いた記事で取り上げられたなんでも100点が取れるエリートたちはまさにそうです。
 

 「あんな立派な人が、しっかりした人が言うんだからやはり自分が悪いんだ」

 「さすがに自分を取り巻く周りが全部おかしいことはないでしょう?」

 という風になってしまうと、自分が飲み込んでしまった“社会”の問題は出ていかなくなってしまい、生きづらさを抱え続けることになってしまいます。

 

 文化人類学者のベイトソンは、結局、他者の理不尽(ダブルバインド)を引き受けてしまうことが統合失調症の原因だと、喝破しましたが、結局はまわりまわってみれば正しい認識だったとされています。

 

 そのとおりで、“社会”の理不尽を個人が引き受けさせられていることこそが、私たちの生きづらさのすべてであるといっても過言ではありません。

 

 だから、そろそろ、私たちは気づいてもいいのではないか?声を上げてもいいのではないか?

 “社会”こそがおかしいのだ、“社会”こそが問題なのだ、ということを。

 

 ※本記事のタイトルの”It’s the society,the community stupid”(“社会”こそ問題なのだよ、愚か者!)
 とは、昔、クリントン大統領が選挙戦で使ったスローガン(経済こそが問題なんだよ、愚か者! It’s the economy, stupid”)をもじったものです。当時の問題の核心をついて、有権者の共感を得て当選をしたそうです。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

Xでは役に立つつぶやきを毎日ご覧になれます

Instagramではお悩み解決についてわかりやすく解説

Youtubeではトラウマなどの解説動画を配信

 

 

 

もっといい加減に、というダブルバインド

 

 ここ数回の記事では、「わけのわからなさ」「いい加減さ」というものにこそ、自分の足場があるのではないか?ということをお伝えしています。

(参考)→「わけのわからなさを承認できていないと、他人のおかしさにも拘束されやすくなる

 乳幼児などは、ある意味、わけのわからなさ、いい加減さの塊のようなものです。
 

 それらを受け入れてもらうことで、安心安全(愛着)というものを感じていくことができます。

  その、足場を作る、本来の自分に戻るという際に、もう一つ罠となるのが、反面教師や偽の役割を背負わされる、追いやられるという問題です。

 
 アダルト・チルドレンや、ヤングケアラーといったことがまさに典型ですが、家族が機能不全に陥ると、その中で才気ある子どもは、その役割を埋める、埋めさせられることを背負わされます。

 家族はいい加減に、わけのわからないことをしているのですが、自分は「きっちり」「ちゃんと」ということを強いられる。

 自分が「わけのわからなさ」「いい加減さ」を見せると受け入れてもらえずに、否定されるということが生じます。

 もちろん、家族がおかしな価値観に支配されていて、子どもの「わけのわからなさ」「いい加減さ」を受け入れないという場合もあります。これもある種の機能不全です。

(参考)→「機能不全家族に育つと、自分が失われて、白く薄ぼんやりとしてしまう

 

 そんな中で育つと、自分というものは段々と失われて、「きっちり」「ちゃんと」という部分だけ、役割や立場だけが自分となってしまいます。

 生の素材の風味や地味はできる限り脱臭して、削ぎ落とした料理を作るようなものです。食品サンプルのような自分が出来上がってしまい、本来の自分に戻ろうにも抵抗が生じてうまく戻れなくなります。

 そうした状態の中で、カウンセリングやセルフケアに取り組んでみても、本来の自分≒何やら立派な存在 みたいにすり替わってしまって、足場になるようでならない、ということも生じてしまいます。

 

 更によくあるのが、周囲や家族が「あなたは真面目だから、もっといい加減にならないと」とか、「もっと気楽に」といったアドバイスをしてくることです。

 こうした場合の「いい加減さ」「気楽さ」というものは、見かけは「わけのわからなさ」「いい加減さ」を示しているようで、実は本当のいい加減さではありません。

 

 あくまで周囲にとって都合の良い「わけのわからなさ」「いい加減さ」であり、結局そうした言葉を通じてその人を否定しているだけだったりします。
「あなたは真面目だから、もっといい加減にならないと」とか、「もっと気楽に」というアドバイスが、暗に「あなたは真面目てつまらない人間」というような前提を刷り込むような結果になってしまい、自分のほんとうの意味での「わけのわからなさ」「いい加減さ」に戻ることを妨げます。

 そのアドバイスに沿って、「わけのわからなさ」「いい加減さ」になろうとしても、アドバイスに従うということ自体が自分を失う結果をもたらしたり、「そうはなりたくない」という反発を生むなどして、本当の足場にはならないのです。

 あるいは、エッセイや自己啓発本が唱えるような、「気楽に」とか「いい人はやめよう」といったことや、「老荘思想」みたいなものにも足場はありません。読んだ一瞬気持ちよくなるだけです。
 
 
 まさに自分の中にある自分の「わけのわからなさ」といったものを見つめ、捉えて肯定していくことにこそ、足場ができていきます。

 だんだん、周りが大したことがない、ということが見えてくるのです。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

Xでは役に立つつぶやきを毎日ご覧になれます

Instagramではお悩み解決についてわかりやすく解説

Youtubeではトラウマなどの解説動画を配信

自分のメールアドレスもない、SNSなどのサービスが怖い

 

 トラウマの症状の中核は”自己の喪失”であると『発達性トラウマ 生きづらさの正体』の中で書かせていただきました。

 
 そして、このブログでも、そうしたことを「自分のIDでログインしていないスマホのよう」と表現してきました(それを本にも書かせていただきました)。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 自分のIDとは、自己の主体性や、アイデンティティということの譬えです。

 興味深いことに、トラウマが重いケース、機能不全家庭の子どもだったというケースの場合に、自分のメールアドレスを持っていない、最近であればLINEのアカウントを持っていない、というようなケースがまれにあります。

 そうした場合、ご家族のメールアドレスを利用されている、あるいはご家族が連絡してくる、ということになります。

 冒頭の、自分のIDというのは譬えだったわけですが、譬えにとどまらずに、文字通り自分のID、アドレスを持っていない、ということに気が付きます。

 これだけIT化した社会で、メールアドレスがないとECなどサービスサイトでアカウントの作成もできませんし、LINEなどはある種のサービスインフラともなっていますから、それを持たないということは様々な制約になります。

 「メールアドレスなんて単に手続き的なこと」「持つ持たないは個人の嗜好」とは言えず、そこには、まさに自己の喪失が具体的に表れているととらえられるかもしれません。

 

 上記とは少し角度が違いますが、SNSのアカウントをとるのが怖い、というケースもあります。理由を聞くと情報漏洩のリスクを気にして、ということです。

 もちろん、情報漏洩のリスクはありますし、実際に生じています。
しかし、私たちはその辺をどこかで割り切って無料でサービスを使っています。

 そのリスクの見積もりや判断のころ合いや適度さは、社会性の指標とも言えます。

 たとえば、街を歩いていても、交通事故のリスク、通り魔などの犯罪被害、女性などは性被害にあうリスクはあります。
 ショッピングモールで刺されたなんて事件もニュースで見たことがあります。

 
 家にいたほうが絶対に安全です。
 しかし、私たちは社会に出ます。リスクを見る目からすれば、「あまりにもリスクに甘すぎる」といえるかもしれませんが、どこかでその時はその時だと割り切っています。それは、決しておかしな判断ではありません。

 もし、リスクを過大視して家に引きこもってしまうなんていうことがあれば、
 臨床的に言えば「社会恐怖」「社交不安障害」といった名前が付けられてしまうような状態になってしまいます。

 SNSも同様で割り切って使うことになりますが、過大に恐れるといった場合、たとえば、身近な家族が過度に不安が強かったり、というケースが見られます。
 そうした言説や文化の中で、外を過剰に疑い、内に撤退してしまう、ということが生じるのです。

 以前にも書きました「外を疑い、内を守る」というようなことの表れと考えられます。

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 では、内が安全かといえば、そうではなく、そこはローカルルールの世界です。 社会的動物であるはずに自分が、社会から寸断され、自分というものが徐々にぼやけて失われていってしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 もし、自分や家族が一般的に社会で用いられているようなサービスのID、アカウント、アドレスなどを持っていないなんていうことがあれば、それは、機能不全な環境の影響から来ていないか? と点検してみるとよいかもしれません。自己の回復の具体的な一歩となります。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

公式Xはこちら