どこからどこまでがハラスメントか?――現場で使える判断の基準

 「どこまでが指導で、どこからがハラスメントか?」 この問いに、現在の法律やガイドラインは明確な答えを出せていません。その結果、現場では「ホワイトハラスメント」や「指導の放棄」という新たな混乱が起きています。

 本稿では、前回のメカニズム編(「「ハラスメント」とは、本当は何か?」)を受け、日常の現場で使える「どこからどこまでがハラスメントか?の真の基準」を提示してみたいとおもいます。

 ハラスメントのメカニズムを知ったうえで、実際に日常の現場でどこからがハラスメントで、どこからがそうではないのかを見ていきたいと思います。

1.ハラスメントの基準を知るための前提

 まず、「ハラスメントとは加害者が自分の不全感をかりそめに癒すために表面的な規範を道具に、私たちの社会性、善性を悪用する行為」という理解が基本です。

 そうした関わりをされると、された側も何とも言えない嫌な感覚がわいてきます。「不全感」という概念はあまりなじみがないかもしれませんがとても重要です。

・「不全感」の存在を知る

 人間の言動の背景には実は不全感が含まれていることがあり、それが人間関係や組織(家庭、学校、地域、職場など)をおかしくしているのだ、ということについて私たちは正しく認識する必要があります。これらを知っているだけでもハラスメントの基準についてかなりのことがわかります。

 そして、不全感をかりそめに癒すために他者の社会性、善性を悪用することがない関わりであれば、まずはそれはハラスメントではない、ということです。

2.行為doingレベルの迷惑行為と、存在(精神)beingレベルの影響とを分ける

 そのうえで基準をより明確にするために、行為doingレベルの迷惑行為と、存在(精神)beingレベルの影響とを分けてとらえてください。

 行為レベルの迷惑行為・ストレス事象のみの場合は厳密にはハラスメントには当たりません。

・口は悪いが不全感による侵害行為はないケース


 例えば「口は悪いのになんだか憎めない、嫌な感じがしない」というのはこうしたケースです。あるいは、熱意をもって叱咤するといった上司の姿などもある意味同様です。(※ただし、実務や現場における総論としては、できれば避けるべき行為として取り扱われます)。

・単なる迷惑行為であるケース

 最近、職場で人が立てる音が気になって困るということで「音ハラ」ということが言われるそうです。これも音を立てる人が不全感から意図して発しているのでないのであればハラスメントではなく、単なるストレス事案、迷惑行為となります。

 このように何でもハラスメントになるということを防ぎ、基準をもって切り分けていくことができます。

3.存在レベルに立ち入っているか否か?不全感の解消が意図されていないか?

・行為レベルのやり取りはハラスメントではない

 次に、社会におけるかかわりの原則は、他者の存在レベルの事柄には立ち入る(相手の人間性を云々するようなこと)権利は誰にもない、ということ。できることは行為レベルでのやり取りであるということです。特に仕事などでは、行為レベルでの改善や要求をやり取りできなければ仕事にならないため、それらについての関わりは基本ハラスメントではないことがわかります。

・疑われる行為は検証を行う

 行為レベルのやり取りの際に、暗に存在レベルへの侵害がないかどうか?については現場でも検証をすることです。
 例えば、不機嫌になりながら指示をするといった行為は、暗に「お前が自分を不機嫌にしている」というメッセージが込められている場合(かりそめに自分の不全感を癒そうとする行為)があり、ハラスメントになりえることがわかります。

・コミュニケーションは行為レベルに限定された「Iメッセージ」で行う

 もちろん人間ですから、仕事で迷惑をかけられて腹が立つことはあります。その際は必ず、「Iメッセージ(私は困ります。こう改善してください)」つまり、自分を主語にした1人称で、相手の存在を尊重したうえで、行為レベルに限定して発せられる必要があります。

・基準の共有と吟味~社員の多元性、多様性が尊重されているか?

 こうした基準の共有、吟味とコミュニケーションの配慮、必要に応じてトレーニングがされれば、会社で若手社員に恐る恐る接するといったような「ホワイトハラスメント」なるおかしな現象は生じなくなります。

・飲み会はハラスメントか?を吟味する

 例えば、飲み会についても、存在レベルでの侵害(来て当然だ、来ないやつはダメな奴、など)がないか?などは吟味し、必要性への了解と、相手の事情を配慮したうえで開催することが原則です。飲み会そのものや、誘うこと自体はストレスがあったとしても行為レベルのもので、基本的にはハラスメントではないと捉えます。

 仕事において、さらに突っ込んだやり取りが必要な場合、規範や責任についてやり取りが必要な際は、それが真に妥当なものか?不全感を隠した関わりではないか?といった吟味が必要になります。

・本来、職場とはどうあるべきなのか?

 「ブラック」「宗教的」といったような批判を受けるような職場は、経営者の不全感がそのまま企業理念や社員規範となっている場合があり、本来は、経営者個人の不全感は脱臭・昇華した理念にする必要があります。
 具体的には、パブリックルール(社会の良識)のフィルタを通し、社員の多元性、多様性を尊重したものである必要があります。マインドセットや意欲といったことが求められる場合でも、社員の人格Beingを云々するのではなく、あくまで行為レベルのものとして扱われるべきものです。

 さらにいえば、相互の尊重や信頼が十分に醸成されている職場では、「自分の不全感から他者の社会性、善性を悪用する」という危険性がなくなるため、トークストレート(率直な会話)ができるようになります。実際に実現している会社は存在します。そうした会社では、相手の立場などに臆せず、言うべきことを言う、しかし、イシューと人格は切り分けられている、ということが当たり前になっています。

 ここまで見たように、ハラスメントのメカニズムという視点があれば、これまでにない様々な応用やアイデアが涌いてきます。

ハラスメントの抑止と対処~メカニズムを理解、応用した環境づくり

 ハラスメントのメカニズムという視点を持つことによる応用やアイデアとは、たとえば職場においては、どのような職場づくりをすればハラスメントの防止に有効なのか?ハラスメントのメカニズムを理解した上での職場づくりはどうすればいいのか?すでに世の中で知られ、実施されている取り組みについてもその意味や効果が別の角度で見えてきます。

・ダイバーシティ、パーパスなど経営施策の本当の意味

 例えばダイバーシティ、パーパスといったことも、それらが経験的に有効というのは経営の観点からわかっていることですが、実は心理学やハラスメントに関する知見から捉えると、それらが、ハラスメントを抑止するために必要な多元性、多様性を醸成する効果があることがわかります(パーパスの策定などは、経営理念や文化に含まれる創業者や経営者個人の不全感を昇華させて、真にパブリックな会社にする効用もあります)。

 こうしたことは既存の経営書などにも書かれていない視点です。

 

・「ハラスメント」とは、私たちのあり方、他者とのかかわり方など根源的な問いを含む問題

ここまで見てきたように、ハラスメントか否かを判断するためには、行為(Doing)の問題なのか、存在(Being)への侵害が生じているのか、そして、その背景に「不全感の解消」という意図が含まれていないかを見極める視点が重要になります。

こうした整理があれば、「何でもハラスメントになる」という混乱や、「何も言えなくなる」という萎縮を避けることができます。

しかし同時に、ここまでの議論は、単なる職場ルールや対処法の話にとどまらないことにも気づかれるのではないでしょうか。

ハラスメントという現象は、人間がどのように他者と関わり、正しさや規範をどのように使ってしまう存在なのか、という、より根源的な問いを含んでいます。

次回は最後の回となりますが、ハラスメントを理解することで見えてくる私たちの可能性と、人文知を活用する意味について触れてみたいと思います。

なぜ「ハラスメントはわからない」のか?――戸惑いと混乱の背景にあるもの

「パワハラ、カスハラとか、〇〇ハラが次々出てくる」「どこからがハラスメントになるのかわからない」と、近年ハラスメントにまつわる戸惑いを耳にします。

こうした戸惑いが示すように、「ハラスメント」ほど、明確な定義がないまま世の中に広まってきた言葉は、他にはないかもしれません。

ハラスメントを恐れる上司が部下への適切な指導や管理さえ避けてしまう「ホワイトハラスメント」なる奇妙な現象まで生じていることを見れば、その弊害はある種の極点に来ているといっても言い過ぎではありません。

・長年続く苦しみ、見逃される日常の心理的な呪縛

ハラスメントという言葉が広まったことで、「ハラスメント」と社会的に認知された事象については、一定の配慮がなされるようにはなりました。

一方で、ハラスメントと捉えるべきなのに、依然として見逃されている事象も増えています。特に家庭などが顕著ですが、日常の関わりの中で生じる言語化しづらい侵害はその代表的なものです。定義があいまいなことで、本質的な対処はなされないまま、当事者が長年苦しみ続けるという事態も生じています。

このように、世に溢れる戸惑いや苦しみに答えるためにも、「ハラスメント」についての真の理解と整理が切に求められています。

トラウマ臨床などを通じてハラスメントのケアを専門的に行っている公認心理師が、今回から数回に分けて、「なぜ、ハラスメントはこのように『わからなく』なったのか?」「ハラスメントの本質とは何なのか?」、そしてハラスメントを知ることで見えてくる私たちの可能性について解説してまいります。

・戸惑いに正面から対処しようという議論が起こらない不思議

ふと思えば、とても不思議なことがあります。

ハラスメントの基準がわからないという戸惑いの声があるにもかかわらず、こうした事態が「なぜ起きているのか?」を正面から説明した議論が、実はほとんど見当たらないことです。

せいぜい語られたとしても、「相手の気持ちに配慮することが大切だ」といった精神論や、「過剰反応しすぎないように」といった対症療法的なアドバイスに留まります。

「なぜ、そもそもわからなくなったのか」「わかるようにするためにはどうすればいいのか?」といった核心に迫る議論が、なぜこれほどまでに欠如しているのでしょうか。

“構造”を問う視点や物語の喪失

かつては、人々が抱える困りごとや社会現象に対し、人文学的な教養を背景にその「構造」を明らかにしようという取り組みがありました。例えば、精神科医・土居健郎の『「甘え」の構造』などは、そうした試みの代表例として挙げられるかもしれません。

心の悩みを扱う分野である精神医学でも、単に病気として見るのではなく、その構造や文化までを深く理解し、明らかにしようとしてきました。中井久夫などの業績はその象徴であり、当時の日本の精神医学が海外と比べても高い水準にあった理由でもあります。

しかし、DSM(米国精神医学会の診断基準)などのガイドラインが浸透するにつれて、そうした取り組みは徐々に影をひそめるようになります。クリニックでは基準に基づいて診断を行うことが主となり、「チェックリスト診断」と揶揄されるようにもなりました。

こうした背景には、一つには、「大きな物語の終焉」という言葉に象徴されるように、かつて存在していた進歩の物語や、それを支えていた教養への信頼が失われたことがあるとされます。

また、客観的なデータや証拠を重視する、いわゆるエビデンス重視の流れもあります。
カウンセリングの世界においても、スクールカウンセラーの導入や公認心理師法の施行など、制度化が進むにつれて、エビデンスや基準に沿うことが自然と求められるようになりました。

実際に、医師やカウンセラーが人々の困りごとについてまとめた書籍を眺めてみても、多くが事例を整理したものであったり、論文を整理したライフハック的な内容であったり、パーソナリティ障害や発達障害といった、精神医学や海外から来た概念を援用したものが中心となっています。

それでいいように思えるが……しかし、結局わからなくなる

素朴に見れば、「エビデンスに基づいているし、事例に基づいているのだから、それでいいじゃないか?」と思うかもしれません。

すでに概念化された事象の射程に入っている問題については、それでよいでしょう。

しかし、そうではない新しい問題については、どうでしょうか。

新たな概念や枠組みは、事例やエビデンスを積み重ねれば自然にできあがる、というわけではありません。

統計解析やデータを扱った経験があればわかりますが、実はエビデンスでさえ、自然に集まるものではありません。

収集するデータの形やラベルは人間が設計している以上、先行する概念や思考のフレームがないところには、使えるエビデンスさえ集まらない、ということが起こるのです。

そのため、新しい事象に対しては、構造化の取り組みが欠かせません。
本質を捉えて概念化されなければ、困りごとの事例だけが積み重なり、場当たり的なネーミングばかりが増えていくことになります。

「〇〇ハラ」という言葉が次々と増えていくのも、こうした背景があると考えられます。

そして、ガイドラインと戸惑いだけが残った

ハラスメントとされる現場での迷惑行為や侵害行為は、日々生じ続けています。

そうした現実の問題に法的にも対処するため、国や自治体、あるいは企業は、基準を定める必要性に迫られます。
そこで、事例をもとにガイドラインが作られることになります。

それらは労務や法律の実務に即したガイドラインであるため、当然ながら、心理的な構造、あるいは私たち人間の在り方そのものを踏まえたものにはなりません。

しかし、ハラスメントは、生身の人間同士のコミュニケーションの中で生じる、きわめて心理的で、関係論的、さらに言えば実存的な事象です。

本来であれば、かつてのように、人文学的な視点から構造を深く探ることが求められるはずですが、先に触れたように、そうした問いを立てる土壌や機運は、いまや乏しくなっています。

その結果として残ったのは、ガイドラインと、
「ハラスメントって結局、何なのかわからない」
「わからないから、とにかく抵触しそうなことには一切触れないでおこう」
といった戸惑いと混乱だけです。

「ハラスメントはわからない」という現象には、このような深い背景があるのです。

下記に続く

 

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気安さには文化、環境の積み重ねが必要

 

 「いや、知り合いの~~さんは、気安いけど、人望があるよ」という場合はどうなのでしょうか?

 「べつに怒りっぽくもないよ」と

 
 どう考えればよいのでしょうか?

 
 結論から言えば、その人は、
 基礎がしっかりできたうえでの、応用段階にある、ということです。

(参考)→「暗黙のしくみを知るためには、物事や情報を基礎、応用と分けて考える」

 

 

 心の免疫システムがしっかりと構築されていて、自然に活動しているために、その結果、気安く見えている、と考えられます。

 

 例えば、治安が良い国では、警察権力のプレッシャーを感じることは少ないです。
 しかし、治安が良いということは、治安を維持する力は強い、ということです。

 警察だけではなく、コミュニティやカルチャーに治安が保つ力も重要です。

 そんなことの助けの上で、のんびり歩いていても、危険を感じない気安い環境が成り立っています。
 

 最初から、法律も警察も地域文化も無くて大丈夫、ではありません。

 

 

 

 会社でも、自由闊達な会社というのはありますが、その状態に至るまでには、歴史の積み重ねがあったりします。

 自由闊達な結果、利益が上がったという成功体験も必要でしょうし、
 どこまでがOKなのか、という暗黙の前提の積み重ねも必要でしょうし、
 個人がそれぞれ自分を律する信頼関係も必要でしょう。

 他の企業がいきなり、「うちも自由闊達するぞ!」といっても、すぐにはできない。
 無秩序になってしまって、おかしなことになってしまう。

 

 

 お金持ちのお家に育ったお坊っちゃん、お嬢様で、おっとりして誰にも別け隔てがない、みたいな人の場合は、家系も含めて文化、環境の土台(基礎)があるということかもしれません。

(参考)→「「いい人」には意識してなるものではなく、環境の集積である。」

 

 そういう背景がない場合に、いきなり別け隔てがない、としようとしても公的環境を作りきれず、相手にやられてしまうだけになります。
 

 特別な背景を持たない、私たち個人で見れば、まずはしっかり閉じる、ガードする。自他の区別をつける、が大事です。

 そこから、良い関係は形成されていきます。

(参考)→「あなたは素直じゃない 怒りっぽい、という言葉でやられてしまう~本来私たちはもっと閉じなければいけない」
 

 

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「人の意見を聞く」とはどういうことか?

 

 トラウマを負っている人に共通する意識として、「自分の言葉で話すと、自分はおかしなことを話してしまう」「自由に行動するとおかしなことをしていまう」という恐れ、自信のなさです。

 これがベッタリと心に張り付いていて、行動が制限されている。

(参考)→「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。」

 
 自分が信頼できないから、外側にある基準に従うしか無い。

 

 
 自分の問題の原因が他者からのローカルルールの支配にある、とわかったとしても「ローカルルールがなくなったとして、じゃあ、自分で判断できるか?といえばできない」
「だって自分の判断で行動するとやらかしてしまうから」「自分がやりたいことをやる姿が想像できない」となってしまう。

 そして、また馴染みのあるローカルルールの世界へと引き戻されてしまう、という悪循環になっています。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」

 

 

 そこに、「言葉偏重」など様々な要因が重なって、なかなか脱出できなくなってしまいます。

(参考)→「「言葉」偏重」

 本当は自分で判断して良いはずなのですが、そのことを心底わかるようになるにはなかなか時間がかかります。

 
 こうしたトラウマティックな世界は脇においておいても、私たちは外からの情報も吸収しながら生きています。
そうでなければ生きていくことはできません。

 ただ、外から情報を得る、人の意見を聞くとはどういうことなのか?についてはあらためて考えてみる必要がありそうです。

 

 

 

 筆者は休日にテニスのスクールに通っているのですが、例えばコーチから、「スロトークのときは腕はこうしてください。ボレーの構えはこうしてください」と言われます。

 テニスは“再現性のスポーツ”、“繰り返しのスポーツ”と言われて、正しい構えとか、身体の使い方というのがあります。

 だいたい、私たちが素朴に感じる身体の使い方とは反対の方向に身体を使います。コートにボールを落としたいのであれば、スイングは下から上にする。ボレーではラケットは振らないとか・・

 

 

 初心者の頃から同じアドバイスを何回も聞いていますが、身体が納得してそのとおりにするためには何年もかかります。頭でわかっているのですが、どうしても自分が慣れた打ち方、動かし方を選んでしまう。

 でも、ある時期が来ると、身体が納得したように動き方が変わる(これが上達のタイミング)。

段が上がるようになるわけですが、段が上がるそこでもまた同じようにアドバイスを耳にしてもそのとおりにはせず、身体が納得するまで時間がかかる、というようになります。

 別に聞いていないわけでも、頑固なわけでもありません。
 後から頭で思えば「もっと早くに言うことを聞いていれば・・」とおもうのですが、なかなかそのとおりにはならない。

 テニスのスクールのコーチとスクール生徒の関係というのは利害関係がなく、支配=被支配みたいなややこしいこともありません。 
とても程よく距離が取れている関係で、アドバイスを受け入れることに何のマイナスもないはずです。

 

 

 落ち着いて周りを見てみると、スクールに参加している人達を見ると、身体の使い方は本当に人それぞれです。お年を召した方や、若くても腰や膝が悪いという方もいらっしゃいます。

 だから、皆が同じようには動けない。

 身体は大きなシステムなので、腕の振りを変えるにも、下半身も含めて全体の調整が必要になる。
 そのシステム調整にけっこうな時間がかかるのだと思います。

 ですから、耳からのアドバイス脇においておいて、実際に身体を動かす中で身体で吸収して、コーチの動きを見て、自分でもいろいろ失敗しながら体験して、身体全体のバランスを整えて、変化する準備ができてから具体的な変化として現れる。
 
 
 人間というのは、耳から聞いたアドバイスで動いているのではなく、身体で吸収して、経験して、内側から必然性が湧いてきたときに初めて変化する、行動する生き物である、ということではないかと思います。

 
 私たちは、(特にトラウマを負っていると)「人の話を聞かなければ、自分は暴走してしまう」とか、「自分は独善的でおかしなことをしてしまうのでは?」と考えてしまいがちです。
(親が自分の言うことを聞かせるために、「あなたはわがまま」とか、「人の話を聞かない」と決めつけて、刷り込んだりすることも影響しています)

 

 しかし、そんなことはありません。
 身体は日常でも、様々な経験を通して、膨大な情報を吸収しています。そして、さらに私たちはそれぞれ社会を「代表」しています。  
(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能」 

 ですから、必要な変化というのは実は内側から自然と湧き出てくるようになっている(内的必然)。そして、それはおかしなことでも、やらかしてしまうことにもなりません。

 もちろん、「頭が固い」ということが頭が身体の気づきを邪魔するということはあるのですが、身体感覚に意識を向けて信頼することをしていれば、内側からくる変化の衝動は誰でも捉えることができます。

 

 

 

 「でも、内側から湧くことを待たずに、人のアドバイスを聞いてすぐに変化すればいいじゃない?」と思うかもしれませんが、
2つの面で、どうしてもそれはできません。

 

 一つは、上にも書きましたが、私たち人間は巨大なシステムとして心身がなりたっているということ。

 近年、人間そっくりのロボットを制作しようとしていますが、最新の科学で作られたロボットでさえもごく限られた行動を表面的に再現することしかできていません。複雑な人間をロボットとして作り出すことはまだまだ先の話です。それだけ人間は複雑だということです。

 メガバンクがシステム障害を起こしたことが新聞で報道されていますが、巨大なシステムになるとちょっとした変更でも不具合を誘発することがあります。
 (そのシステムを更新するだけで4000億円をかけて20年近い時間がかかっています。)

 もし、自分が乗る宇宙ロケットの仕様を打ち上げ直前に変更します、といわれたら「大丈夫?」と心配になると思います。何気ない変更でも思わぬ事故に繋がる恐れがあるからです。

 

 それは人間でも同様で、何かのアドバイスを聞いてすぐに変更するということはできないのです。あまりにも巨大なシステム過ぎるからです。

だから、変更するまでにはなかなか時間がかかる。

 

 「でも、職場では注意されたらすぐに行動を変えられる人がいるよ」と思うかもしれません。実はその人は、ダイレクトにアドバイスを聞くことができるのではなく、“(変化への消化吸収が終わっていて)準備が整った人”だということです。スポーツも同様です。
 
 だから、全く異なった次元への変化を求められるとすぐに対応することはできません。それなりに時間がかかります。
 プロのレベルになると、スポーツ選手等が下手にフォームを変えると何年も不調に陥ってしまうことも珍しくありません。

 

 

 人のアドバイスを聞いてすぐに変化することができないもう一つの理由は、人の意見というのはあまりにも信頼性が低い、ということです。信頼性が低すぎて聞きたくてもそのまま聞くことがどうしてもできない、ということです。
(参考)→「「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬」

 

 
 そのまま聞くにはあまりにも危なすぎるのです。

 
 人間はすぐに解離する、支配欲もある。
 仮に人格が安定しているときでさえ、たった一人の意見だけではそのまま真に受けることができない。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。」

 さらにそのアドバイスは本当に自分というシステム全体のバランスを考慮に入れたものなの?というと怪しい。

 
 だから、人の意見はまずはスルーするのが基本なのです。
 言い換えれば、人の意見は聞いてはいけない。そのまま聞くと毒気に当てられるか、全体のバランスを崩してしまうのです。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない」

 

 では、人の意見をスルーしたら独善的な人間になって、「やらかしてしまう」のかといえばそうではありません。

 上でも見ましたように、身体がそのアドバイスも含めて様々なことを吸収して、免疫でチェックして、濾過して、整えて、内側から湧き上がらせてくれています。

 

 本当の意味での「人の意見を聞く」というのは、耳から聞くのではありません。人の意見は無視して、そこらへんに散らかしておく必要がある。無視して散らかしておくと、それを身体が吸収して整理して必要なものだけ自分の言葉としてくれる。
 さらに、「代表」という機能も働いてくれています。
 

 それこそが本当の「人の意見を聞く」ということです。

 
 だから、「(人の意見を聞かなければ)自分は独善的でおかしなことをしてしまうのでは?」と恐れる必要は全くないのです。

 

 

 

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