「パワハラ、カスハラとか、〇〇ハラが次々出てくる」「どこからがハラスメントになるのかわからない」と、近年ハラスメントにまつわる戸惑いを耳にします。
こうした戸惑いが示すように、「ハラスメント」ほど、明確な定義がないまま世の中に広まってきた言葉は、他にはないかもしれません。
ハラスメントを恐れる上司が部下への適切な指導や管理さえ避けてしまう「ホワイトハラスメント」なる奇妙な現象まで生じていることを見れば、その弊害はある種の極点に来ているといっても言い過ぎではありません。
・長年続く苦しみ、見逃される日常の心理的な呪縛
ハラスメントという言葉が広まったことで、「ハラスメント」と社会的に認知された事象については、一定の配慮がなされるようにはなりました。
一方で、ハラスメントと捉えるべきなのに、依然として見逃されている事象も増えています。特に家庭などが顕著ですが、日常の関わりの中で生じる言語化しづらい侵害はその代表的なものです。定義があいまいなことで、本質的な対処はなされないまま、当事者が長年苦しみ続けるという事態も生じています。
このように、世に溢れる戸惑いや苦しみに答えるためにも、「ハラスメント」についての真の理解と整理が切に求められています。
トラウマ臨床などを通じてハラスメントのケアを専門的に行っている公認心理師が、今回から数回に分けて、「なぜ、ハラスメントはこのように『わからなく』なったのか?」「ハラスメントの本質とは何なのか?」、そしてハラスメントを知ることで見えてくる私たちの可能性について解説してまいります。
・戸惑いに正面から対処しようという議論が起こらない不思議
ふと思えば、とても不思議なことがあります。
ハラスメントの基準がわからないという戸惑いの声があるにもかかわらず、こうした事態が「なぜ起きているのか?」を正面から説明した議論が、実はほとんど見当たらないことです。
せいぜい語られたとしても、「相手の気持ちに配慮することが大切だ」といった精神論や、「過剰反応しすぎないように」といった対症療法的なアドバイスに留まります。
「なぜ、そもそもわからなくなったのか」「わかるようにするためにはどうすればいいのか?」といった核心に迫る議論が、なぜこれほどまでに欠如しているのでしょうか。
“構造”を問う視点や物語の喪失
かつては、人々が抱える困りごとや社会現象に対し、人文学的な教養を背景にその「構造」を明らかにしようという取り組みがありました。例えば、精神科医・土居健郎の『「甘え」の構造』などは、そうした試みの代表例として挙げられるかもしれません。
心の悩みを扱う分野である精神医学でも、単に病気として見るのではなく、その構造や文化までを深く理解し、明らかにしようとしてきました。中井久夫などの業績はその象徴であり、当時の日本の精神医学が海外と比べても高い水準にあった理由でもあります。
しかし、DSM(米国精神医学会の診断基準)などのガイドラインが浸透するにつれて、そうした取り組みは徐々に影をひそめるようになります。クリニックでは基準に基づいて診断を行うことが主となり、「チェックリスト診断」と揶揄されるようにもなりました。
こうした背景には、一つには、「大きな物語の終焉」という言葉に象徴されるように、かつて存在していた進歩の物語や、それを支えていた教養への信頼が失われたことがあるとされます。
また、客観的なデータや証拠を重視する、いわゆるエビデンス重視の流れもあります。
カウンセリングの世界においても、スクールカウンセラーの導入や公認心理師法の施行など、制度化が進むにつれて、エビデンスや基準に沿うことが自然と求められるようになりました。
実際に、医師やカウンセラーが人々の困りごとについてまとめた書籍を眺めてみても、多くが事例を整理したものであったり、論文を整理したライフハック的な内容であったり、パーソナリティ障害や発達障害といった、精神医学や海外から来た概念を援用したものが中心となっています。
それでいいように思えるが……しかし、結局わからなくなる
素朴に見れば、「エビデンスに基づいているし、事例に基づいているのだから、それでいいじゃないか?」と思うかもしれません。
すでに概念化された事象の射程に入っている問題については、それでよいでしょう。
しかし、そうではない新しい問題については、どうでしょうか。
新たな概念や枠組みは、事例やエビデンスを積み重ねれば自然にできあがる、というわけではありません。
統計解析やデータを扱った経験があればわかりますが、実はエビデンスでさえ、自然に集まるものではありません。
収集するデータの形やラベルは人間が設計している以上、先行する概念や思考のフレームがないところには、使えるエビデンスさえ集まらない、ということが起こるのです。
そのため、新しい事象に対しては、構造化の取り組みが欠かせません。
本質を捉えて概念化されなければ、困りごとの事例だけが積み重なり、場当たり的なネーミングばかりが増えていくことになります。
「〇〇ハラ」という言葉が次々と増えていくのも、こうした背景があると考えられます。
そして、ガイドラインと戸惑いだけが残った
ハラスメントとされる現場での迷惑行為や侵害行為は、日々生じ続けています。
そうした現実の問題に法的にも対処するため、国や自治体、あるいは企業は、基準を定める必要性に迫られます。
そこで、事例をもとにガイドラインが作られることになります。
それらは労務や法律の実務に即したガイドラインであるため、当然ながら、心理的な構造、あるいは私たち人間の在り方そのものを踏まえたものにはなりません。
しかし、ハラスメントは、生身の人間同士のコミュニケーションの中で生じる、きわめて心理的で、関係論的、さらに言えば実存的な事象です。
本来であれば、かつてのように、人文学的な視点から構造を深く探ることが求められるはずですが、先に触れたように、そうした問いを立てる土壌や機運は、いまや乏しくなっています。
その結果として残ったのは、ガイドラインと、
「ハラスメントって結局、何なのかわからない」
「わからないから、とにかく抵触しそうなことには一切触れないでおこう」
といった戸惑いと混乱だけです。
「ハラスメントはわからない」という現象には、このような深い背景があるのです。
下記に続く
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