自分が本来立ち戻ることができる場所、足場

 

 前の記事でもかきましたが、自分の訳のわからなさ、弱さ、情けなさ、というのは、自分が本来立ち戻る場所だったりします。

(参考)→「自分の弱さ、わけのわからなさ~他者向けの説明、理屈から自由になる

 帰る場所があることで、そこから再び自分を作り直すことができる。

 悩みという状態、世界観から抜け出すためには、安心して移行できる本来の場所が必要です。

 本来の場所をいかに見いだせるか?はとても大切なことです。
 
 一方で、それが見いだせなければ迷妄に陥ってしまいます。

 たとえば、社会的な立場が傷ついたことを病んで自ら命を絶ってしまう人は、立場に拘束され、立ち帰るはずの自分のわけのわからなさ、弱さ、情けなさを承認されてこなかった、ということかもしれません、「立場」の方が自分そのものになってしまって、それが失われると命を絶たざるを得なくなってしまう。

 カルト宗教から脱会できない方の少なくないケースに、経済的に社会関係的に戻るところがない、ということがあります。財産を寄付してしまっていたり、関係性を費消してしまっていたり。

 そこまでではなくても、社会的な立場、役割、評価、他者からのイメージに縛られているケースはとても多い。
 

 そのように考えると、アダルト・チルドレンや、ヤングケアラーがなぜ怖いのか?「自分がなくなってしまうのか?」もよくわかります。

(参考)→「なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 「役割」「立場」が自分そのものになってしまう。
 「家族の責任」が自分そのものになってしまう。

 「ちゃんとしていること」が自分になってしまう。

 そして、それ以外のわけのわからない部分、情けない部分、弱い部分はすべて駄目だとして排除しようとしてしまう。

 その結果、自分を責めて、攻撃してくる「もう一人の自分」となって自分を監視、管理するようになるのです。

 

 これらは、まさにトラウマ(ハラスメント)によって自分が失われるメカニズム、といえるかもしれません。

 

 不良になったり、やさぐれたりするのは、そうしないと、他者から与えられたイメージや立場から離脱できないから。

 他者からの拘束が重い場合は、アルコールや薬物によって酩酊したり、幻惑されなければ、抜けることができないのかもしれません。

 ただ、上記の場合は、覚めたときの“惨めさ”を他者の視点でさばくことが生じてしまい、それでまたそれに拘束されて悪循環に陥ってしまう結果になることが通常です。ほんとうの意味で抜け出すことはできません。

 依存症の克服のプロセスで「底つき体験」が重視されたりするのも、まさに弱さや情けなさの向こうにある自分を取り戻すことができるからだと考えられます。

(参考)→「依存症とはなにか?その種類、特徴、メカニズム

 あるいは、他の趣味を持つ、他の世界やつながりを持てていることもとても大切だったりします。

 

 しかし、そんな物質などに依存しなくても、わけのわからなさ、弱さ、情けなさを受け入れていくことで足場を持つことができます。

 

 

 

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飽きる、疲れる、愛想が尽きる、は健全・健康的

 

 「三日坊主」という言葉がありますが、飽きてしまう、続かないことは良くないことだとされます。

日記などは典型的ですが、続けようと思っても続かずに終わってしまう。

 ブログなども更新されずに日にちが数年前のままのものがたくさん転がっています。
 

 「疲れ知らずの~」ということも、なにやら良いように考えてしまいます。

疲れずに続けられる。働き続けられる。

 3日徹夜して頑張った、なんて武勇伝を耳にすることがありますが、そんなことを真に受けるとすぐに疲れてしまう自分が駄目なように感じてしまいます。

筆者も昔は、疲れない、飽きない状態に憧れて、毎日遅くまで仕事をしていました。

 自己啓発などの世界でも、常に好奇心があってやる気があって、「ワクワク」しているのがいい、というような価値観があります。

 人に対する関心についても、愛想が尽きるというと、なにか情が浅く、冷淡な感じがします。
 
 永遠の愛、永遠の友情というように、困難があっても続く感情こそが上位であり、変わるものは良くないことのように感じてしまいます。

 

 

 しかし、実は、トラウマという視点から見れば逆です。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服

 

 飽きない、疲れない、愛想が尽きない、というのは、トラウマの特徴と言えるものです。

 「トラウマは無限の世界観を特徴とする」、と拙著でも書きましたが、ずっと物事が続くように捉えています。
 通常ならば、疲れ、飽きが来るタイミングでそれらがこない。
 だから、不眠症になったり、依存症になったりしてしまうのです。

 ずっと食べても飽きが来ない、満足がないのです。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 

 愛想が尽きないというのもそうです。「そんなひどいことをされれば普通は愛想が尽きますよ」というような人間関係を続けてしまう。

 家族などは典型的ですが、「家族だから・・」という理屈のもと、おかしなことをされても自分を犠牲にして関係を維持してしまう。

 健康な世界で当たり前の有限の循環ギブアンドテイクが機能していないためです。

(参考)→「循環する自然な有限へと還る

 

 
 なぜ無限か?といえば、一つには、他者や自己の不全感(痛み)に支配されているためです。

 不全感は暗闇のように底(限り)がありません。

 物事はDoing(行為) Being(存在) とに別れますが、
 DoingとBeingとは別の次元にあります。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 基本的にDoing(行為)によっては、Being(存在)レベルの不全感を満たすことはできません。
しかし、その区別が曖昧にさせられ、Beingレベルの不全感に巻き込まれると、自分のDoingを動員してBeingの欠損を埋めようとしますが、次元が異なるので、いくら穴に土砂を放り込んでも限りがなく、満たされることがないのです。
 (アルコールなどの依存症などはまさに”底なし”に飲んでしまう。)
 

 そのために、ずっと”無限”の飽きない、疲れない、愛想が尽きない状態が続いてしまうのです。
 

 

 

 もう一つは、安心安全の欠如です。

 安心安全がない、世の中への信頼感がないために、ずっと危機の状態が続くように感じられてしまう

 

 さらに、時間間隔の歪みです。
 
 これは、頭で全てを捉えようとすることから起きます。
 健康な状態では、身体も含めて、世界のダイナミクスを捉えようとします。
 誤配、偶発性も含んで世界が展開していくという感覚があります。

 しかし、トラウマの世界は、頭で認識できる歪んだ範囲が、「現実」「事実」とされ、「どう考えても、良い展開になるはずがない」となってしまうのです。
 
 こうした感覚も、無限さを産みます。 

(参考)→「未来に対する主権~物理的な現実には「予定(未来)」が含まれている。

 

 

 

 トラウマケアをしていると、徐々に、疲れが感じられたり、愛想が尽きてくることを感じられたり、飽きが来たりするようになります。

 
 クライアントは、「~~に飽きてきました」「疲れるようになってきました」ということを自身では良いこととは思っていないのですが、カウンセラーからすると、「良くなってきましたね」ということになります。

 私もよく、「”飽きる、疲れる、愛想が尽きる”はとても良いことです」とお伝えしています。

 飽きたらどうなるか?といえば、次の展開がやってきます。

 疲れたらどうなるか?といえば、休んでエネルギーを充填し、次の取り組みに取り掛かることができます。

 愛想が尽きるとどうなるか?といえば、おかしな関係からは抜け出すことができます。

 いずれも、無用な固着にとどまることを防いでくれます。とても健康で有用な機能であることがわかります。

 

 

 

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 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

他者の領域に関わる資格、権限がない以上、人間の言葉はやっぱり戯れでしかない。

 

 私たちは、人から干渉されることをとてもおそれます。
それは、過去に似たような状況で干渉されてきたトラウマによるものです。

 人が人に干渉することが当たり前だと思っています。

 しかし、実際はそうではありません。

 人間は社会的動物です。

 責任や権限、道理、根拠の有無にはとても敏感です。

 道理があるところで、それを超えることはかなりむずかしい。

(参考)→「自他の壁を越える「筋合いはない」

 

 さらに、人間というのは、誰もが弱く、だらしがない生き物でもあります。

「強く、しっかりした人もいる」と思うかもしれませんが、それは見かけだけです。

 実態は見栄を張って隠しているだけ。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 見かけだけをそうしているだけで、本当はそうではありません。誰しもが弱く、だらしがない。
(「男はやせ我慢」みたいな台詞というかキャッチコピーがありましたが、我慢しているということは、内面はそうではないということ)

 だから、人はだれも他人のことを裁く権利のある人はいない。
 

 1.他者に干渉する権利もない、2.他者を裁く資格もない、というのが大原則です。

 

 

 大前提なのですが、

 この前提を見えなくさせるものがあります。
 それが「不全感」というものです。
 
 不全感というのは、要は「承認がない状態」「安心安全がない状態」のことです。

 
 不全感を癒やすためには、他人を巻き込んでむりやり自分に関わらせるか、他人のNOを突きつけて自分をYESと浮き上がらせるか、しかありません。

 そのためには、社会的動物である人間を巻き込むためにむりやり因縁をつける必要があり、「ルール」を騙り、ローカルルールを作り出すことになります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 その際、自分が干渉する権利もない、裁く資格もない、という原則は脇にやられ、さながら自分が神様のような存在になります(エセ神化)。

 

 
 エセ神化すると、その瞬間だけはニセの責任、罪悪感にまみれていた自分を解放することができます。
 でも、すぐに苦しくなるので、ローカルルールの状態を続けていく必要があります。
 
 さながらアルコール依存、薬物依存のように、抜けられなくなってしまいます。
 依存症の人も人格がスイッチしたようになりますが、まさにスイッチした状態がローカルルール人格とも呼べるモードです。 

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 
 「じゃあ、不全感を抱えた人に関わると干渉されるのでは?」と不安に感じてしまいます。

 でも、不安には及びません。

 よく見ればわかりますが、不全感を抱えた人も干渉するためには、偽のルールが必要なように、やはり人間は社会的動物であることには変わりがない、ということです。 

 

 つまり、道理をわきまえているところでは、干渉することはできない、ということです。

 ヤクザでさえそうです。道理を越えることができない。
 だから、因縁をふっかけて問題を起こして、自分のしのぎを確保するわけです。
 因縁がなければ反社会的な人格であるヤクザでも他者に干渉できない、ということでもあります。

 以前書きましたように、人間は公的環境ではまともでいられるが、私的環境ではおかしくなりやすい、というのもこうしたことを反映しています。

(参考)→「

 

 

 特に、「私は~と思う」「私は~と感じる」といって私を主語にしていると自他の区別が明確になり、公的環境が生み出されて、他人は干渉することはできません。どう感じるか、考えるかはその人の問題だからです。

(参考)→「自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム

 

 しかし、私を脇において、「人間とは~」「世の中とは~」といった話し方をしていると、他者を主語に置いていますから、他人がその内容に干渉する道理が生まれてきます(だって、他人の話ですから、他人も口出しできる余地があるように受け取られるのも理解できます)。

 だから、トラウマによって、対人不安、社会不安になって、自分を隠して自己開示できなくなると、余計に他者からの干渉を受けやすくなるのはそのためです。(まさに、「私」、そして主権が奪われた状態。)

(参考)→「自分のもの(私が~)と言えないから、他人に干渉される。

 

 ただし、それも、あくまで言葉の内容に対してであって、その人の「存在」に対しては干渉することはできません。
(干渉というのは、結局は、かなり無理を敷いた幻想の中でのこととも言えます。だから、抜け出すこともできる。)

 健全な状態であれば、人間は相手に干渉する権利がない以上、言葉とは、発する側に、ではなく、受け取る側に主権があります。  

 どう受け取るかは、受け手が決めるということです。

 コミュニケーションは、相手に何かを伝えたり、相手から情報を得たり、
 さらに内容を踏み込んで相手のことを述べたり、評論したりします。
 それは相手に干渉する道理がなく、受け手に主権がある以上、やはり、すべての言葉とは「戯れ(たわむれ)」でしかない、ということです。

(参考)→「人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 それぞれの道理、領域が自他の区別のもとに明確にされた上で、戯れに言葉をやりとりする、というのが人間の交流のスタイルと言えます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 親友と思っていた友人から裏切られたり、
 「あれ?」と思うような意外な言葉をかけられて傷ついたり、久しぶりに会った知人からかけられる自分への評が、自分の思っていることと違って違和感を感じたり、 筆者にもそんな経験があります。 

 

 若いころはとても傷ついたり、人間関係のめんどくささばかりに目が行き、「人っていうのはとてもめんどくさいし、ややこしい」と億劫になっていました。

 人との関係を断ち、自分単体で高潔に生きていくすべはないかと模索してみたり・・
 でも、いろいろと経験を重ねると、よく考えたら人同士の理解なんてそんなものかもしれないな、と思うようにもなってきます。また、それでも人は人同士のかかわりをうまく回復しないと十全には生きれない、ことも見えてきます。

 

 

 人間は、ある程度成熟してくると本当に理解(する)される、ということはなかなか難しいということを知ります。血のつながった家族でさえ、完全には理解し合えない。必ずズレが生じる。

 相思相愛の恋人同士でも、実は完全に理解しあえているのではなくて、それぞれの頭の中にある幻想を見ているだけ。そのため、恋愛ホルモンが緩むにつれて、その幻覚が薄まってきて、理解しあえていない実態が明らかになってくる。

 親友同士でもそうです。最初は良くても、環境が変わると、ズレを感じて、「あれあれ?」と思うことは珍しくない。

 

 

 芥川賞作家の平野 啓一郎さんが書いた
 「私とは何か――「個人」から「分人」へ 」という本があります。

 

 人間というのは、固定された一つの人格ではなく、著者が「分人」と呼ぶような、いろいろな人格要素の束になっている、ということです。
  

 心理学的にもまさに的を得た内容で、人間というのは、そもそもが解離性人格のように、複数の人格的要素が集まってできていて、健康な時は、一つの人格として、統合できていると感じられて(錯覚されて)、生きています。 

 だから、場面や人によっても、性格は現れ方が異なる。 
 さらに、スケッチの際に、裏側は決して同時には描写できないのと同じで、その裏にある人格要素は見えなくなる。
 

 ある場面に、ある人格要素が現れるかどうかは、環境条件によります。

 そのため、時間が動き、環境が変わり、条件が変わると私たちに感じられる「人格」は変わります。

 友人、知人、恋人でもズレ、違和感となってくるのです。

 

 細かなズレを感知しては生きていけませんから、健康な状態にあるときの私たちはある程度、「安心安全」という健全な幻想によって、ズレを見ないこと、互いは理解しあえていることにして、人との「関係」は保たれます。
 その「安心安全」をパッケージで提供するものが、これまでもお伝えしている愛着というものです。
 

 

 一方、悩みにあるとき、トラウマを負っているときは、
 「安心安全」がないために、健全な幻想を持つことができません。
 

 健全な幻想がないとどうなるかといえば、100%の理解と0%の理解(無理解)との間で極端に振れてしまいます。
 「この人は私のことを分かってくれる」というかと思えば、ちょっとした会話のずれで「この人は私のことを全くわかってくれない」とこき下ろしてしまったりします。

 そうして、次々と人を変えていきますが、人間の原則として、100%理解し合えるものはどこにもいないことは変わりませんから、どこまでいっても理解しあえる人には出会えない。

 

 

 代わりに、理解されている幻想を比較的長く維持できるものは「依存」です。
 「依存」によって放出されるホルモンは、愛着の代替として幻想を見せてくれます。
 ただし、健康を害したり、経済的な損失をもたらします。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 もう一つ、本当の理解の代替になるものは「支配」です。
 カリスマめいた人にであったり、支配的な人に出会うと、「すべてをわかってくれそう」と思い、引き寄せられます。でも、それは、天性の人たらしのような性質を持つ人が「理解してもらえている」と感じさせるツボを心得ているだけで、本当の理解とは異なります。気が付いたら支配されていて、失礼なことも平気で言われるような状態でボロボロになって抜け出せなくなっていたりする。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 本来、健全な人間の理解の土台となるものがあります。
 その一つは、「仕事」です。

 「仕事」を介することで、人間同士は理解し合えることができます。
 医師やカウンセラーがクライアントさんを理解するのは、条件が限定された「仕事」を通じてです。
 
 臨床医学でも、理解するのは「悩み」「症状」という限定された領域です。
 もちろん、その背後にある養育環境や人柄も丹念に見ます。医師によっては、生まれた家の間取りを書かせたり、写真をもらったりといったこともして、理解を深めようとする。でも、それもあくまで「症状」を理解するため。
 無条件に100%その人を理解することなど世界一の名医でもできない。

 

 名医やカウンセラーは、うまく条件を絞って、「理解」を作り出している。良い治療関係(治療同盟)とは、限定された「仕事」と、身体からくる疑似的な愛着を土台にした健全な幻想を条件としているのかもしれません。

 

 仕事においても、「この人はわかってくれている」というのは、じつは条件が限定されているから。
 電化製品を買いに行って、店員さんが「わかってくれている」と思うのは、「仕事」のなかで「電化製品」というカテゴリでやり取りしているから。
 

 最近はやりですが、パーソナルトレーニングなどで、トレーナーが「自分のことを分かってくれている」と感じるのは、「トレーニング」という限られた領域でのやり取りだから。

 全然、別の環境で、店員やトレーナーと出会ったら「あれれ?」となってしまう。

 

「仕事」には、役割があり、場や要件の限定があり、そこで行われる技術があり、やり取りの必然があります。そのことが私たちの健全な理解を支える。案外、消費的な趣味の場所などでは友達を作るのは難しいことがある。

 

 シェークスピアの翻訳で知られる福田恒存の有名なテーゼ
 「人間は生産を通じてでなければ付合えない。消費は人を孤独に陥れる」というものは、こうしたことを差しています。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 親子の理解でさえ、それを支えるのも、おむつを替えたり、ご飯を用意したり、「仕事」があるから。

 「仕事」や「役割」といったモノを持たない真っ白な状態では、人間はかかわりを持てないし、理解し合えることもない。当事者は、コミュニケーション能力のなさ、性格のせいだと思っていますが、そうではなく、環境や構造的な問題によるもの。

 
 

 人間関係でも、気が合う、と思えるのは、実は、「学校」「職場」や過ごした時間などそれを支える共通の条件があるから、その条件がずれてくると、理解はし合えなくなってくるもの。
 友人関係が壊れるときの原因の一つは、どちらがわるいのではなく関係を支える「条件」が変わったため。

 人同士の理解を支えているのは実は「人柄」とかではないのかもしれません。

 かかわりを支えている「用事」や「仕事」「役割」がなくなると、徐々に疎遠になるものなのです。

 

 まったくの無条件に、完全な理解を、ということを求めると、あらゆる人間関係は破綻してしまいます。

 無条件で、完全な理解を、と求めるの典型を「境界性パーソナリティ障害」といいます。自他の区別がついておらず、それをささえる「仕事」「役割」を持てていない。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 トラウマを負う、自己愛が傷つく、とは、互いに理解(という健全な幻想)し合うための条件を維持できなくなってしまうこととも言えます。そして、細かな差は捨てて、代表的な要素をとらえて「理解しあえている」と感じる力が失われてしまっている状態。

 

 ものすごく他者や自分にも厳しくなり、「あれも合わない、これも合わない、どれも合わない」「世の中って俗でつまらない。自分の高いレベルに叶うものがない」となってしまいます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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