親友と思っていた友人から裏切られたり、
「あれ?」と思うような意外な言葉をかけられて傷ついたり、久しぶりに会った知人からかけられる自分への評が、自分の思っていることと違って違和感を感じたり、 筆者にもそんな経験があります。
若いころはとても傷ついたり、人間関係のめんどくささばかりに目が行き、「人っていうのはとてもめんどくさいし、ややこしい」と億劫になっていました。
人との関係を断ち、自分単体で高潔に生きていくすべはないかと模索してみたり・・
でも、いろいろと経験を重ねると、よく考えたら人同士の理解なんてそんなものかもしれないな、と思うようにもなってきます。また、それでも人は人同士のかかわりをうまく回復しないと十全には生きれない、ことも見えてきます。
人間は、ある程度成熟してくると本当に理解(する)される、ということはなかなか難しいということを知ります。血のつながった家族でさえ、完全には理解し合えない。必ずズレが生じる。
相思相愛の恋人同士でも、実は完全に理解しあえているのではなくて、それぞれの頭の中にある幻想を見ているだけ。そのため、恋愛ホルモンが緩むにつれて、その幻覚が薄まってきて、理解しあえていない実態が明らかになってくる。
親友同士でもそうです。最初は良くても、環境が変わると、ズレを感じて、「あれあれ?」と思うことは珍しくない。
芥川賞作家の平野 啓一郎さんが書いた
「私とは何か――「個人」から「分人」へ 」という本があります。
人間というのは、固定された一つの人格ではなく、著者が「分人」と呼ぶような、いろいろな人格要素の束になっている、ということです。
心理学的にもまさに的を得た内容で、人間というのは、そもそもが解離性人格のように、複数の人格的要素が集まってできていて、健康な時は、一つの人格として、統合できていると感じられて(錯覚されて)、生きています。
だから、場面や人によっても、性格は現れ方が異なる。
さらに、スケッチの際に、裏側は決して同時には描写できないのと同じで、その裏にある人格要素は見えなくなる。
ある場面に、ある人格要素が現れるかどうかは、環境条件によります。
そのため、時間が動き、環境が変わり、条件が変わると私たちに感じられる「人格」は変わります。
友人、知人、恋人でもズレ、違和感となってくるのです。
細かなズレを感知しては生きていけませんから、健康な状態にあるときの私たちはある程度、「安心安全」という健全な幻想によって、ズレを見ないこと、互いは理解しあえていることにして、人との「関係」は保たれます。
その「安心安全」をパッケージで提供するものが、これまでもお伝えしている愛着というものです。
一方、悩みにあるとき、トラウマを負っているときは、
「安心安全」がないために、健全な幻想を持つことができません。
健全な幻想がないとどうなるかといえば、100%の理解と0%の理解(無理解)との間で極端に振れてしまいます。
「この人は私のことを分かってくれる」というかと思えば、ちょっとした会話のずれで「この人は私のことを全くわかってくれない」とこき下ろしてしまったりします。
そうして、次々と人を変えていきますが、人間の原則として、100%理解し合えるものはどこにもいないことは変わりませんから、どこまでいっても理解しあえる人には出会えない。
代わりに、理解されている幻想を比較的長く維持できるものは「依存」です。
「依存」によって放出されるホルモンは、愛着の代替として幻想を見せてくれます。
ただし、健康を害したり、経済的な損失をもたらします。
(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと」
もう一つ、本当の理解の代替になるものは「支配」です。
カリスマめいた人にであったり、支配的な人に出会うと、「すべてをわかってくれそう」と思い、引き寄せられます。でも、それは、天性の人たらしのような性質を持つ人が「理解してもらえている」と感じさせるツボを心得ているだけで、本当の理解とは異なります。気が付いたら支配されていて、失礼なことも平気で言われるような状態でボロボロになって抜け出せなくなっていたりする。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か」
本来、健全な人間の理解の土台となるものがあります。
その一つは、「仕事」です。
「仕事」を介することで、人間同士は理解し合えることができます。
医師やカウンセラーがクライアントさんを理解するのは、条件が限定された「仕事」を通じてです。
臨床医学でも、理解するのは「悩み」「症状」という限定された領域です。
もちろん、その背後にある養育環境や人柄も丹念に見ます。医師によっては、生まれた家の間取りを書かせたり、写真をもらったりといったこともして、理解を深めようとする。でも、それもあくまで「症状」を理解するため。
無条件に100%その人を理解することなど世界一の名医でもできない。
名医やカウンセラーは、うまく条件を絞って、「理解」を作り出している。良い治療関係(治療同盟)とは、限定された「仕事」と、身体からくる疑似的な愛着を土台にした健全な幻想を条件としているのかもしれません。
仕事においても、「この人はわかってくれている」というのは、じつは条件が限定されているから。
電化製品を買いに行って、店員さんが「わかってくれている」と思うのは、「仕事」のなかで「電化製品」というカテゴリでやり取りしているから。
最近はやりですが、パーソナルトレーニングなどで、トレーナーが「自分のことを分かってくれている」と感じるのは、「トレーニング」という限られた領域でのやり取りだから。
全然、別の環境で、店員やトレーナーと出会ったら「あれれ?」となってしまう。
「仕事」には、役割があり、場や要件の限定があり、そこで行われる技術があり、やり取りの必然があります。そのことが私たちの健全な理解を支える。案外、消費的な趣味の場所などでは友達を作るのは難しいことがある。
シェークスピアの翻訳で知られる福田恒存の有名なテーゼ
「人間は生産を通じてでなければ付合えない。消費は人を孤独に陥れる」というものは、こうしたことを差しています。
(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」
親子の理解でさえ、それを支えるのも、おむつを替えたり、ご飯を用意したり、「仕事」があるから。
「仕事」や「役割」といったモノを持たない真っ白な状態では、人間はかかわりを持てないし、理解し合えることもない。当事者は、コミュニケーション能力のなさ、性格のせいだと思っていますが、そうではなく、環境や構造的な問題によるもの。
人間関係でも、気が合う、と思えるのは、実は、「学校」「職場」や過ごした時間などそれを支える共通の条件があるから、その条件がずれてくると、理解はし合えなくなってくるもの。
友人関係が壊れるときの原因の一つは、どちらがわるいのではなく関係を支える「条件」が変わったため。
人同士の理解を支えているのは実は「人柄」とかではないのかもしれません。
かかわりを支えている「用事」や「仕事」「役割」がなくなると、徐々に疎遠になるものなのです。
まったくの無条件に、完全な理解を、ということを求めると、あらゆる人間関係は破綻してしまいます。
無条件で、完全な理解を、と求めるの典型を「境界性パーソナリティ障害」といいます。自他の区別がついておらず、それをささえる「仕事」「役割」を持てていない。
(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと」
トラウマを負う、自己愛が傷つく、とは、互いに理解(という健全な幻想)し合うための条件を維持できなくなってしまうこととも言えます。そして、細かな差は捨てて、代表的な要素をとらえて「理解しあえている」と感じる力が失われてしまっている状態。
ものすごく他者や自分にも厳しくなり、「あれも合わない、これも合わない、どれも合わない」「世の中って俗でつまらない。自分の高いレベルに叶うものがない」となってしまいます。
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
“100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要” への1件の返信
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