以前取り上げた経営学者のドラッカーの本に「すでに起こった未来」という邦題のものがあります。
ドラッカーは、多くの「未来予測」を行って、多くの示唆を与えてきましたが、ただ、意外にもドラッカー自身は未来予測はできないと言っています。
できることは今すでに起こった未来を捉えることだけだ、というわけです。
今すでに起こった未来を捉えるだけでドラッカーは、非常に示唆に富んだ知見を提示していたのです。
(参考)→「弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる」
今すでに起きている未来というのは、「物理的な現実」という観点で見てもわかります。未来のことは誰もわからないのですが、今ある「物理的な現実」から延長してどうなるかはある程度わかったりします。
(参考)→「私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?」
例えば、家とかマンションの建設現場でまだ基礎を作っている段階。家やマンションは完成していません。しかし、計画、工程表があって、何ヶ月後にはマンションになることは「予定」されているわけです。
よほどの災害とか倒産でもない限り、何ヶ月後かに立つであろうマンションの存在を通常疑うことはありません。
目の前にある「物理的な現実」は建物の基礎でしかありませんが、その「予定」を含んで捉えています。
植物の種があったとして、まだ芽も出ておらず、葉も出ておらず、実もなっていないわけですが、これを植えて育てれば実になるだろう、ということはある程度は「予定」されています。
特に、複数の種があれば、ほぼ確実だと言えます。
現代において、今年や来年の食料がなくなることを私たちは心配してはいません。
季節が来ればスイカがスーパーに並ぶ、ナシが並ぶ、新米が出荷されることは「予定」されています。
人間の子どもに対しても同様で、子どもとはいえ大人が一方的に価値観を押し付けず、個性を尊重して育てることが大切だ、というのも、それが道徳的にそうだからではなく、将来、子どもが一人の独立した大人になる、ということが「予定」されているからです。
特に健康な世界であれば、ほぼ問題なく未来は予定通りになるわけですから、その「予定」も含んで、相手へのリスペクトを持って私たちは目の前の人間や事物に対して向き合っています。
こうした「予定」も含んだ向き合い方というのは「愛着」の特徴と言えます。
“安心安全”というのは物事が予測できること、「予定」されていることだからです。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて」
愛着的な世界観では、現在の物理的な現実には「予定(未来)」も含まれているのです。
(参考)→「愛着的世界観とは何か」
物理的な現実という観点から見た自分自身についてもそうで、今の自分だけではなく、未来の「予定(自分)」も含んでいます。
それは、継続していけば積み上がっていくであろう「経験」や「技能」であったり、「機会」であったり。
その予兆は現在にもすでにあるわけです。
実は私たちはその予兆を体感レベルでは感じ取っていたりします。それが未来への楽観であったり、予感として漠然と感じ取られていたりします。
懐疑的な意見や視線は、「愛着」がフィルタを掛けて取り除いていってくれます。その上で周囲からの物心両面でのサポートが十分であれば「やる気」となって湧いて出て、行動となって具体化していきます。
物理的な現実の積み上げは更に促進されるわけです。
(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」」
「非愛着的世界観」では、こうはなりません。「予定」というものへの信頼が低い。
(参考)→「非愛着的世界観」
目の前の物理的な事象に対して「予定」というものを含めて捉えることができない。
非常事態モードですから、将来何が起こるかわからない。安心できないという感覚があります。
これが自分自身に対しても向かってきます。
そのために、直感としては「自分は大した人間だ」ということは感じるのですが、目の前の物理的な現実に対して「予定」を含んで捉えることができない。
今のコンディションが悪いから「自分はだめな人間だ」、過去に失敗があったから「おかしな人間だ」と表層的に捉えてしまう。
未完成の過去や今の自分を卑下する感覚しかわかない。他人のこき下ろす言葉をそのまま受け取ってしまう。
本来は、前回紹介しましたウェーバーの言葉のように、「それでも」といって、「ゆっくりと穴を開けていく」ところで折れてしまって、「やっぱり、自分はだめな人間だ。それが現実だ」として、くじけていってしまいます。
「俺はまだ本気出してないだけ」というタイトルの漫画がありましたが、将来の可能性を「予定」として感じ取っているというのは決しておかしなものではありません。それは健全な自尊心です。
もちろん、現在を未来につなぐのは、行動であったり、あるいは「待つ」ということであったりします。
くじけてそれを壊してしまっては、「未来(予定)」も失われてしまうことは言うまでもありませんが。
中国の「中庸」という古典にも
「至誠の道は、以って前知すべし」という言葉がありますが、現在の物理的な現実の中に「予定」を感じ取って、人生を作っていく、ということは人間にとって正常な姿です。
ただ、トラウマがあると、「未来に対する主権」を奪われて、やる気の起動も起きず、行動の具体化も起きないままで、積み上げに時間がかかってしまい、本当に諦めてしまう、ということが起きてしまうのです。
「予定(未来)」というのは、「物理的な現実」のうちに含まれていますから、物理的な現実の力を借りることができていないと、未来が立ち現れることにも余計な時間がかかってしまうことになるのです。
(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」」
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