「事実」に対する主権


 

 先日の記事では、物理的な現実の力を借りることがとても大切であることを数回に渡ってお伝えさせていただきました。

 物理的な現実の力を借りることそのものは難しいことはありません。
積み上げやカットオフができるまでの間、「待つ」ことができれば変化してきます。

(参考)→「「待つ」ことができない~世の中のありのままが感じられなくなる

 

 

 極端に言えば、ただ時間を過ごしているだけでも物理的な現実は積み上がっていって満たしてくれます。

 例えば、統合失調症とか、発達障害でも「晩熟」とか、「晩年軽快」という現象が知られています。
重いケースであっても、歳をとっていくと軽くなっていくのです。
 その方がなにか特別なことをしているわけではないですが、バックグラウンドで物理的な現実としての自分は積み上がっていっているということだと考えられます。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント」「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴

  
 だから、物理的な現実の力があることを知り、日常に取り組めれば多くの場合問題はありません。

 

 ただ、ここで疑問が浮かんできますが、「でも、(物理的な現実の力を借りれず)うまくいかない人が多いじゃない?」「私もそう」と。

 そうです。多くの場合、待てなかったり、途中で諦めてしまいがちです。
 経験が積み上がる感覚がなく、いつも出来事を流しているだけのように感じる。

 それどころか、待っていれば積み上がるところを、自分で壊していってしまう、という感じ。
 

 多くの人にとって、物理的な現実を実感できない、その力を借りることができない(実感がない)、焦りや不安が大きいという悩みがあります。

 

 

 その理由はなぜかといえば、「事実に対する主権」がないからです。

 まず、私たちの目の前にある事象というのはそれだけでは「事実」とは言えません。そのことは、以前の記事でも何度かお伝えさせていただきました。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する」「「事実」とは何か?その2

 

 たとえば、新型コロナの治療薬としてアビガンが注目されました。
少なくない医療関係者が「効果がある」としました。でも、治験をしてみたら「効果は実証できない」となりました。

 つまり、「アビガンが新型コロナウイルスに効果がある」ということは、“事実”とは確定できなかった、ということです。

 
 もちろん、人間の意識の以前に、物理的な現実というものは存在しています。
アビガンが効果がある、というのも「物理的な現実」かもしれません。
 しかし、人間がそのことを認知するためには、時間がかかったり、検証を要します。

 アビガンの効果も、時間をかければ否応なく物理的な現実として立ち現れるのかもしれませんが、薬の治験や検証は、それを実験によって短期間に集中して確かめようとする試みです。

 

 

 科学の実験も同様です。
 ある成分が病気に効く、ということは人間の認識以前に物理的な現実として存在していますが、それを私たちが認識できるように、積極的に活用できるようにするために実験はあります。

 その検証や確定にかかる時間が、私たちにとっての「質的転換(カットオフ)」に要する時間とも言えます。
  

 認知しづらい物理的な現実を、認知できるようにしたものが「事実」というものです。

 

 同様に、「私たちが何者であるか?」ということも、私たち自身は物理的な現実なのですが、それを認知できるまでにはある程度の時間を要します。

 人間社会でややこしいのは、その時間や認知のギャップを狙って「ローカルルール」の邪魔が入る、ということです。

 「あなたなんかにできるわけがない」とか、「他の人はできてもあなたはそうではない」「いい気になっているとろくなことがない」とか。

 特に親など身内の言葉は強烈です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 
 そうすると、物理的な現実を積み上げていても、「質的転換(カットオフ)」まで待つことができず諦めてしまったりしてしまうのです。

 物理的な現実の積み上げはバックグラウンドでも日々生じていますが、積極的に促進することができなくなってしまいます。右往左往して、時間が余計にかかることになるわけです。

 

 

 トラウマを負っていると、「間違った素直さ」「過剰な客観性」というものを持っていることがあります。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる」「「過剰な客観性」

 簡単に言えば、他人の言葉をそのまま客観的な事実、事実を担保する意見として受け取ってしまう。
 
 自分の感覚のままでいては勘違いして失敗してしまうから、他人の意見をよく聞かなければと思ってしまう。

 

 筆者も昔、大学の研究室にいた頃に研究が全くうまく行かず、先輩とか先生の意見、助言を聞くのですが、皆言うことが違うのです。
 先輩や先生というのは、まさにそれぞれの分野で優秀な業績を収めている人だったりするのですが、じゃあ、その意見を受けて足し算すればいいかといえばそうではない。

 すると訳がわからなくなってくる。

 あるとき、「あまりアドバイスを聞きすぎても良くないよ」と言われたことがあります。

 なるほどと思うのですが、じゃあ、自分の考えでやったらまた突っ走っておかしな失敗をするのではないか?と恐れて、結局、人の意見をばかりを聞いて、自分を見失う、ということがありました。

 

 

 ここでわかるのは「物理的な現実」を感じ取れるまでにはある程度時間がかかるので、その間の時間は、自分が意思を持って、主体性を持って向き合うしかない、ということです。

 言い換えれば、「主権」をもって事実に向き合う。

 
 主権を持って向き合うとは、目の前にある事象を検証し、物理的な現実の兆候を逃さず、捉えていく、ということです。

 

 例えば、何かのプロジェクトを行っていて、「もしかしたら失敗するかもしれない」と不安になることもあります。「どうせできない」「うまくいくわけがない」といわれます。

 でも、「プロジェクトがうまくいった」という物理的な現実が現れるまでには時間がかかります。

 なので、コツコツとレンガを積み上げながら、日々現れる事象については、自分が主権を持って解釈を行っていく必要があります。
 
 そして、危うい方向に行っているなら修正する。
 人の意見については、フィルタを掛ける。ネガティブな意見は鵜呑みにしない。嫉妬、やっかみでおかしなことを言う人も多いものです。

 直近の事象はネガティブなことばかり、といった状態であることもしばしば。

 めげずにレンガを積み上げていく。
 するとやがて「質的転換(カットオフ)」が訪れる。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 この過程が、「事実に対する主権」のある状態です。

 

 

 別の場面で言えば、

 他者から、「あなたは、嫌な人だ」と言われたり、「あなたはおかしい」と言われたりしたとします。でも、それは意見でしかなく、事実ではありません。しかも、サンプル数は1しかない。

 他者の意見を真に受けて「私は嫌な人間だ」と思うというのは、「事実の主権」がない状態です。

 他人から何を言われようが、物理的な現実としての自分は1ミリも変化ありません。 

 多くの場合は、入り口のところで、「失礼なこと言わないでください!」とはねのける。

 発言者の人格や様子から発言を検証をしても良いな、と思ったら自分がもつ「代表」という機能を通じて検証を行う。
 検証を行っても、ほとんどの意見は却下してよいものです。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 こうした状態も「事実の主権」がある状態です。

 

 大切なのは、「事実」とは他者から直接には得られない、ということです。
 他者の意見とか評判というのは事実を知らせる手段としてはあまりにも貧弱で、信頼性が低いものです。

(参考)→「「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬

 他者というのは物理的な現実が立ち現れてから間接的に知らせてくれる存在であって兆候の段階で「事実」を掴むことができるのは自分しかいないということです。

 直接、自分がさまざまな予兆を感じて、さらに、自分の体感を感じてしか「事実」はつかみ得ない。 

 途中で弱気になって「人の意見を聞いてみよう」ではうまく行かない。

 

 

 以前取り上げた政治学者のマックス・ウェーバーが「職業としての政治」という本の中で、以下のように言っています。
 ※職業というのは「ベルーフ」といい、「使命」とか「天職」という意味です。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

「政治というのは、硬い板に力強く、ゆっくりと穴を開けていく作業です。」
「情熱と目測能力を同時に持ちながら掘るのです。この世界で何度でも不可能なことに手を伸ばさなかったとしたら、人は可能なことすら成し遂げることはなかった。これはもちろん絶対に正しいし、歴史的な経験はすべてこのことを証明しています。」
「そして、導く人でも英雄でもない人も、あらゆる希望がだめになっても持ちこたえるハートの強さで、今すぐ武装しなければなりません。さもなければ、今日可能なことすら実現できない。自分の立っているところから見て、自分が世界のために差し出そうとするものに対して、この世界があまりにも愚かでゲスだとしても、それで心が折れてしまうことなく、こうしたこと全てに対してすら「それでも」ということができる自信のある人だけが、政治への「ベルーフ(使命、天職)」を持っているのです。」

 政治というのは、自分の仕事や生活と置き換えてみることができます。

 

 私たちは、日々「自分ってなんだろう」とか、「自分のやりたいことってなんだろう」と考えますが、結局占いをしても、人に意見を聞いてもそれは絶対にわからない。

 目の前の世界が「あまりにもおろかでゲスだとしても」「あらゆる希望がだめになっても」主権を持って、「それでも」といって、「ゆっくりと穴を開けていく」ことで、物理的な現実の兆候としての「事実」を掴むものだということです。

 そうしていると、そのうちに、誰がなんと言おうとねじ伏せるような「物理的な現実」は立ち現れてくる、ということのようなのです。

(参考)→「「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる」 

 

 おそらく悩み、生きづらさというのは、その「物理的な現実」がたち現れてくるまでの時間差を悪用して主権を奪う妨害でしかないのかもしれません。

 自分の悩みは変わらない、自分は良くならない、とネガティブに感じるときに、その解釈はローカルルールのものであることはしばしば。
 その裏に直感する「でも、自分は本来はこうではないはず」というほのかな感覚が実は「事実の主権」の土台となるものです。

 

 

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