「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる


 

 言葉やイメージによって人を操る、というと新興宗教の教祖とか独裁者が浮かびます。

 有名なところでは、ナチスのヒトラーがいます。

 巧みな宣伝と演説で人々を熱狂させて権力を握って、ユダヤ人を虐殺したり、戦争をしたり、と考えられています。

 親衛隊のユニフォームは有名デザイナーにかっこよくデザインさせて、ヒトラー自身も多くの人に支持されるようにと軍人にもサラリーマンにも労働者にも見えるような制服を着ていました。
 党大会では一糸乱れぬ行進と、サーチライトを光の柱に見立てて幻想的な風景を演出したり、といったように。

 そんなことから、大衆というのは、言葉とかイメージで簡単に操られてしまう、と考えられてきました。 

 

 

 しかし、最近の研究ではこうしたことは否定されています。 

 どうやら「巧みな宣伝で人々を熱狂させた」という事自体がナチスの宣伝だった、ということのようです。

 今残っている映像などは、ナチスが撮ったものなので、宣伝がうまくできているように見えるように編集されているわけです。

 

 
 実際のナチスの宣伝の方法などは、他の政党もやっていたもので特別なものではなかったようですし、それほど巧みでもなかったようです。 

 しかも、当時のナチスの支持率は高くなく、政権を取れたのも偶発的な要素も強い。
  
 宣伝の力というよりも、どちらかというと、議会戦術で他党が妥協しているあいだに権力を握った、というのが実際のところです。
 

 現代のプロパガンダの元祖ともいえるナチスの実態もこのようなもので、言葉やイメージで現実をなんとかできる、というのは、実はかなり怪しい「神話」なのです。

 

 そのナチスドイツは、戦況が不利になってきた1943年に、宣伝大臣が巧みな演出で盛り上げた演説を行います。
 宣伝大臣自身が「最高」と自賛するような演説ですが、その結果はどうなったでしょうか?

 戦況は全く好転しませんでした。当たり前です。巧い演説したからと言って敵が手を緩めるわけはありません。

 当時は東側でソ連と戦っていましたが、ソ連は大量の戦車と人員を投入して怒涛のように迫ってきます。

 1年後には、国内でもヒトラーを暗殺しようという人が出てきます。
 このように人々が熱狂的に支持していたわけではありません。

 さらに、ノルマンディー上陸作戦の成功で、米英軍も西から迫ってくる。

 結局、左右から挟まれるように首都ベルリンが陥落して負けてしまいました。

 宣伝が巧みといっても、実際はこのようなものです。

 
 

 同じ時期、日本も戦争をしていましたが、最終的に、世界の5分の4の国を相手に戦うような状態に陥っていました。
 
 「軍部が暴走して、人々はいやいや悲惨な戦争していた」と私たちがイメージするのと違って、当時の日本人の戦意はとても高かったようです。

 一般市民もアメリカとの戦争を期待していて、慎重な政府や軍部の上層部もその声を無視できず、「ここで引き返しては世論やすでに中国大陸で犠牲になった人たちに顔向けできない」という面子もあって、ズルズルと戦争に突入していったという要素も強いようです。
 (新型コロナで政府が世論とマスコミに押し切られて緊急事態宣言を出した状況とどこか似ていますね。)

 先日の記事でご紹介したような日記もなぜあのような言葉出てきたかというと、「負けるはずがない」と考えていたからです。

(参考)→「私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?」 

 

 

 でも、戦意がいくら高くても、「負けるはずがない」とおもっていても、物理的な現実には歯が立ちません。
 最新鋭のB29の大編隊で空襲されて焼野原になる、さらに原爆も投下されるなどして、ご存知のように日本も負けてしまいました。

  
 言葉やイメージは、「物理的な現実」によってかんたんにねじ伏せられてしまいます。

 

 

 例えば、現代でも、電通などの広告会社がキャンペーンをしたりしますが、何十億円を投じても、失敗することがあります。

 平成は「モノが売れない時代」といわれましたが、そんなときにいくら巧みに宣伝をしても人々が熱狂して買うなんてことはありません。

 
 じつは売れるモノというのは最初から売れる要素・価値があって、宣伝というのはあくまで早くそれを必要な人に伝えるためにあるものなのです。

 

 

 確かに、言葉というものが持つ力、というものはあります。
 人を勇気づけたり、感動させたり。時代を先どったり。
 
 ただ、それは言葉が時代をつくる、というよりは、あいまいな時代の変化を「代表」して表現している、というもので、言葉が時代、社会を変えるというものではどうやらないらしいのです。

 糸井重里さんなどが、「おいしい生活」などのコピーで80年代を代表しましたが、あれも、キャッチコピーが時代を変えたのではなく、時代の空気を感性でキャッチして言語化した、としたほうが適切。

 

 
 近年は災害が多いですが、歌手などのアーティストが、「こういうときは、僕たちは無力で」みたいなことをおっしゃるのをよく耳にします。
 
 筆者などはそうはおもわないのですが(「歌は十分に社会の力になるよ」とおもいますが)、確かに、災害が発生した直後は、物資がまず第一。直接的な物理的な援助こそ求められるというものです。
 言葉でいくら励ましても、物理的なものがなければたちゆきません。

 カウンセラーなども同様で、災害時への対応の指針となる「サイコロジカル・ファーストエイド」というものがあります。
 その中でうたわれているのは、「見る・聞く・つなぐ」というものです。
 つまり、災害時の支援では、なにか言葉かけをするとか、そういうことではなく、物理的な支援につなぐこと、安全を確保すること、そばにいることで安心を提供することが仕事になります。

(参考)→「【保存版】災害(震災、水害、事故など)時の心のケアと大切なポイント

 そこでは言葉は求められていません。 

 アーティストが災害時に「僕たちは無力」と感じるのも常識的な感覚です。

 

 

 私たちは、ポップ心理学や自己啓発の影響のためか、いつの間にか人の言葉や評価イメージが物理的な現実よりも大きく感じさせられています。ポジティブな言葉を言えば現実が変わる、みたいなことを聞いて確かに勇気づけられますが、言葉やイメージの価値がインフレーションを起こした結果、他人の言葉やイメージにも過剰に敏感になってしまう副作用も起こしている。
 (そもそも生育環境で他人の言葉や評価に振り回されてきた経験も重なります。)

 そのために、他人から「あなたってダメな人ね」と言われたら、そんな気になって落ち込んでしまう。

 なぜなら、言葉やイメージはすごいって思わされているから。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 
 もちろん、それはいわゆる暗示にかかっているだけで、「物理的な現実」としての私たちが言葉によって変わることは絶対にありません。

 目の前の「みかん」が、言葉やイメージによって「りんご」に変わることはありません。

(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。

 以前も書きましたが、フッサールという人間の認知の仕組みを研究した哲学者も、認知とはすべて主観だが、「物理的な現実」というのはその主観をねじ伏せるように立ち現れる、としました。

(参考)→「物理的な現実への信頼

 

 本来、言葉やイメージというのは力がなく、「物理的な現実」によってねじ伏せられてしまうものなのです。

 セラピーとかカウンセリングも、負の暗示から別の言葉イメージに移すためにあるのではなくて、本来の「物理的な現実」に気づいて、それによって、おかしな暗示、”作られた事実”をねじ伏せるためにあるものです。

 

 
 筆者も最近、スポーツをしていたときに、人の目が気になって調子を崩しそうなことがありましたが、そのときに、「物理的な現実は変わらないから、これまで練習してきた分の力は自然と出るはず」と自覚してみると、力が出て、思う通りにプレーすることができました。「物理的な現実」が負の暗示をねじ伏せてくれたな、と感じました。

 他者から「あなたって、~~な人ね」と言われて力を奪われてしまう、ということはしばしばあります。

 現在や過去に人から言われたひどい言葉、気になる言葉で力が抜けそうになったら、「物理的な現実」「物理的な自分」と思ってみることです。

 言葉に対して言葉、イメージに対してイメージの場合は、打ち消そうとしても、すぐにぶり返しますが、「物理的な現実」だとサーッと負の暗示が抜けていくことを感じることができます。

  
 「物理的な現実」としての自分は、言葉やイメージによって1ミリも変わることはありません。

 そこに気がつけば、「物理的な現実」が他者からの言葉やイメージもねじ伏せていってくれます。
 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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