はじめての本が出版されます。

 

 筆者は、学生の頃に、『プロカウンセラーの聴く技術』といった本を読んで、一生懸命人の話を聞こう、聞こうとしたりしていたことがあります。

 自分には聞く力がない、という変な思い込みが当時あったんですよね。
 (たぶん、家族の汚言の影響だと思いますが)
 

 面白いことに、そうすればするほど、聞けなくなる。

 むしろ、自分に向かって飛んでくるひどい言葉に振り回されてしまう。
言葉が頭を離れず、ぐるぐるし、それに悩まされてしまう。

 

 会社に入って仕事をしていても、一生懸命にお客さんの要望を聞こうとします。ビジネスの本でも、「聞く」ということがいかに大事か、ということが書かれています。

 しかし、聞けば、聞くほど、なぜか、うまくいかなくなる。
 
 そして、「ちゃんと話を聞いていない」と言われてしまう(あれ?あんなに一生懸命に聞いているのに)。

 いい加減に聞いているように見える先輩や上司の方が上手くポイントを掴んでいたりする。

 

 

 さらには、そんな中で、
 「言葉が現実をつくる」なんていうことも流行ります。

 経営者が手帳に目標を書きましょう、なんて本を出したりする。

 そんな中でも言われるのが、「言葉の大切さ」「言葉の価値の高さ」というものです。

 自分でも真似てみますが、うまくいきません。

 教えられる通りに、言葉を大切にするのですが、全くうまくいかない。

 段々と嫌になってきます。
 それどころか、「言葉」が物事に影響するような恐ろしく感じを持ち、言葉に負けている自分に気が付きます。

 おかしい??

 自分の道具であるはずの言葉に支配されているではないか?と。 

 

 カウンセラーをしていて、出会うクライアントさんたちも同様のことで生きづらさを感じていたり、悩んでいることを知ります。

 そんな経験から、

 「言葉にはそんなに価値があるのか?」
 「言葉の“実際”とはなにか?」

 さらには

 「人間ってそもそもどういう存在?」
 「生きやすくなるためには何が必要なの?」

 ということを探求してきました。

 このブログでも、日々見つけた発見を記事にして書かせていただいてきました。

 

そして、実はこのたび、本を出す機会をいただきました。
 (3月9日頃に発売されます。)

 

 

 今回出る本では、あらためて、そんな「言葉」と「人間」の“実際”について描き下ろしで書かせていただきました。
 

 学生時代に『プロカウンセラーの聴く技術』という本を読んでいた人間が、
 『プロカウンセラーが教える 他人の言葉をスルーする技術』というタイトルの本を書く、というのも奇縁ですが、 類書のない、それでいて読みやすい本になったのではないかと思います(たぶん)。

 内容は、外装に反して、かなり真面目な、硬い本だと思います。

 自己啓発本は書きたくない、というのがありましたので、出版社のご要望にも沿いながらも、書きたい内容をもりこみました。

 
 トラウマや愛着不安とはなにか? についても書いていますし、
 ご存じ「ローカルルール」も登場します。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 「公私環境(領域)仮説」というテーゼも紹介しています。

 この本で狙っていることは、幻想で膨張した言葉の価値を解体し、私たち自身の言葉を取り戻すこと。
 その上で、私たちが自分を作るために必須となる他者との関係の土台を作り直すこと、です。

 本書は本来の自分を取り戻すための基本書、何度も読み直せる“古典”を目指して書いてみました。

 

 アマゾン、楽天ブックス、honto などでは予約が開始されましたので、
 ご興味、関心がおありの方は、ご覧いただけましたら幸いです。
 
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 ※紀伊國屋書店、ジュンク堂書店、丸善、文教堂、ブックファースト、有隣堂、八重洲ブックセンター等全国の書店などには、
 
 3月10日頃から順次配架される予定です(地域によってはすこし遅くなるかもしれません)。

 

 

 

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自我と常識(パブリックルール)が弱い

 

 ある学者が、「個人-中間集団-国家」と3層で考えたときに、日本は、個人主義と国家主義が弱い、みたいなことを書いていて、とても印象的でした。

 たとえば、戦前の日本は、国家主義で「お国のために」と建前では強調されていましたが、実際は国ではなく、省益や世間の圧力で動いていました。
 イメージとは異なり、戦前は国の力がとても弱い時代でした。

 事実、総理大臣でも戦争を止めることはできないし、予算も通せないし、大臣を選ぶのも自由にできない。
 天皇にも全く発言権はない。無責任体制と呼ばれるような極度な“分権制”でした。
 

 そのために機能不全に陥ってしまい、本音ではしたくもない戦争に突入して負けてしまった、ということのようです。

 

 

 この学者さんの指摘が印象的だと感じましたのは、機能不全に陥る状態が、トラウマを負った人とよく似ている、ということです。

 

 「1.自我」-「2.中間集団」-「3.公的規範」の三層でとらえた場合に社会と同様に、私たち人間にとっての機能不全状態とは、「1.自我」と「3.公的規範」が弱い状態を言います。

 反対に、機能している状態というのは、「1.自我」と「3.公的規範」がしっかりとしていて、「2.中間集団」はそれに従属しているような状態です。
 

「3.公的規範」とは言い換えると「常識(パブリックルール)」ということです。

 

 

(図解)機能している状態-機能不全状態の違い

機能している状態:「◎1.自我」-「△2.中間集団」-「○3.公的規範」

機能不全状態:  「●1.自我」-「◎2.中間集団」-「●3.公的規範」

 

「1.自我」というのはすべての土台です。
 これは愛着によって支えられます。
 愛着の支えによって健康に形成されていく「1.自我」は、教養、仕事を通じて「3.公的規範」に接続されます。
 

 「◎1.自我」-(教養・仕事)-「○3.公的規範」というラインが揃うと公的な人格として自我も発揮しながら自己一致、自己実現が果たされるのです。

 

 

 

 しかし、愛着が不安定であったり、トラウマによってダメージを負ってしまうと、「1.自我」がうまく確立しなくなる。そうすると、「1.自我」を確立するために内面化していた他者(通常は親)の規範がローカルルールとなって「1.自我」を支配するようになってしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 
 

 「1.自我」は単なる不安定な私的情動となって、その人を苦しめるようになります。

 その結果、「3.公的規範」とうまくつながれていない「2.中間集団」のローカルルールに支配されやすくなります。

 「2.中間集団」のローカルルールとは、具体的には、家族の支配、学校でのいじめ、会社でのハラスメント、などが代表的です。

 

(図解)ローカルルールに支配されてしまう

「◎他者の規範」が支配 

   ↓
「●1.自我」→「◎2.中間集団」に支配されやすくなる→「●3.公的規範」に繋がれない。
  

 

 中間集団に支配された自我は、さらに中間集団に従属あるいは他者を巻き込んでいって、というハラスメントの連鎖が起きるのです。

 (図解)ハラスメントの連鎖

 「●1.自我 」  → 「◎2.中間集団」に支配されやすくなる→ 

  ↓ 巻き込み≒支配

 「●1.自我 」  → 「◎2.中間集団」に支配されやすくなる→ 

  ↓ 巻き込み≒支配
「●1.自我 」  → 「◎2.中間集団」に支配されやすくなる → 「●3.公的規範」に繋がれない。

 

 

 

 「自我」が弱い人が、形だけの「常識」を肥大化させたようなケースもよくあります。これをニセ成熟といいます。  

 外では礼儀正しいのに、自分が全然ない、という状態です。
 結局、中間集団への感情に強く影響されてしまいます。

(図解)ニセ成熟 

「●1.自我」-「◎2.中間集団」-「◎形だけの常識」-「●3.公的規範」

 

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 

 

 自己啓発やある種のセラピーによって、「1.自我」を抑えましょう、無意識に委ねましょうというのも機能不全を引き起こします。
 基盤となる「1.自我」を叩いてしまうのですから当然の流れです。

 この場合は、中間集団のポジションにセラピーの論理が来てしまっていて真の解決を阻む、という構図になってしまいます。
     
(図解)自己啓発やセラピーがログアウトを志向してしまう

「●1.自我」-「◎2.中間集団(自己啓発やセラピー)」-「◎-セラピーの論理」-「●3.公的規範」

 

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 

 

 「2.中間集団」の役割とは、本来「3.公的規範」の代理店です。家族もそう、会社、学校もそうです。
 

 機能している家族、会社は、個人(自我)を尊重した上で、「3.公的規範」を代表し、個人を社会につなげる役割を持っています。

 家族であれば「愛着」を、
 学校は「教育、教養」を、
 会社は「職能、技能」を、提供することを通じて、社会の中での位置と役割を個人に与えています。
 

 
 生きづらさから抜け出そうという場合、こうした構造を知ることはとても大事です。そのうえで、欠けているものを補い、足を引っ張っているものを取り除いていく。
 
 

 特に、いかに「1.自我」を強化していくか?ということが大切で、そのための基礎は「睡眠、食事、運動」であり、「2.中間集団」の影響から抜け出し、「3.公的規範」とつながることがとても大事。
 

 そのための橋渡しが、「愛着」「教育、教養」「職能、技能」です。

(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 

 愛着については、以前もお伝えしましたが、特に成人が一人の人から全てを得ることは出来ませんので、街で出会う人達から、0.01程度をコツコツ集めていく。ちょっとした挨拶、目配せ、気配りで十分。
 そうしたものをじわじわ浴びる。

 深い付き合いは必要ありません。負担になってしまいます。

(参考)→「0.01以下!~眼の前の人やものからはほんのちょっとしか得られない

  
 
 橋渡しとしてあげた項目ですが、実は、濃淡はあれ、それぞれを有していたりしますから、「私は~」という言葉を意識して、それらに自分の名前をつける、ということをしていくことです。

 これまでは、完全でなければ自分のものではない、としていたのを、厚かましいくらいに自分のものだと捉えていく。

 難しい状況にある方も多いですが、やはり、社会の中で位置と役割を得られるように様々な支援を受ける。

 

機能している状態:「◎1.自我」-「△2.中間集団」-「○3.公的規範」

 

を意識して、環境を整えていくことがとても大切です。

 

 

 

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0.01以下!~眼の前の人やものからはほんのちょっとしか得られない

 

  昔、ドラゴンボールで、「元気玉」という技がありました。

 世界のみんなからほんのちょっとずつ元気を分けてもらって、大きなボールを作って、それで敵を倒す、というもの。

 それぞれからはほんのちょっとずつ元気をもらうだけなのであげた側もあげたことにも気が付かない。

 少しずつの力ですが、まとまると最強の敵も倒すようなものになる必殺技です。

 ただ、それぞれからは気づかないくらいちょっとずつ、というところがミソです。

 

 

 実は私たちのBeing(存在)もそのような構造でできています。

 目の前にある人や物事(仕事とか趣味)からは、ほんのちょっとしかBeingを満たすものは得られない。

 100が満タンだとしたら、最大でも0.01くらいしか得られない。

 それは、親であろうと、家族であろうと、恋人であろうと、教師であろうと、治療者であろうと。  
 
 
 だから、日常では、目の前からは、気づかない程度の充足しか得られないまま過ごします。

(参考)→「一つのモノや人、コトからはすべては得られない。

 

 

 どうしてそれで満足できるかといえば、生育歴の中で基本的な充足が完了する状態になっているからです。
 それが「愛着」というもので、内燃のサイクルである程度満たせるようになっているから。
 
 だから、Being とDoing が分離できていて、Doingのやり取りに集中することができている。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 
 しかし、Beingを内燃的に充足できる体制にないとどうなるかといえば、目の前の人や物から10、20、場合によっては100の充足を得ようとしてこだわってしまう。

 本来は、0.01しかもらえないことがわからずに、「なんで0.01なんだ!? 対応が悪い!大事にされていない!」といって、怒ってしまう。

 自分が否定されたように、負けたように感じてしまうのを防ぐために食い下がってしまう。

 相手を非難して巻き込んで、なんとか10、20を得ようとする。

 しかし、実際にはそんなにたくさんのものは得られない。

(参考)→「100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 

 さらに、困ったことに、Beingの受容の閾値が高い状態に設定されているので、せっかくもらった0.01以下のものをうまく吸収することができない。

そうして、余計に飢餓感を感じてしまうのです。

「愛着障害とは愛着が得られないことではなく、受け取れないこと」といわれますが、まさにそのような状態になってしまいます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 健康な状態では、Being とDoing が分離している、ということをお伝えしたことがありますが、上に見ましたように、それは世界の構造的にもそのようになっている、ということです。

 日常では、ほんのちょっとのBeingしかえられないのですから、一体であると捉えていると世の中の実際と適合しなくなる。
 日常のDoingに集中することができなくなります。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの」 

 

 
 最大でも0.01しか得られないと知っておくと、世の中や、普段関わる人に落胆がなくなります。まあ、こんなもんだな、と思える。すると、閾値が下がって、愛着に対する感覚が適正なものになってきます。
  

 また、こちらから人と接する場合の感覚も変わってきます。

 今までは、Beingを20、30も与えないと見捨てられると思っていて、0.01しか与えられない自分を責めたり、こだわっていたのが、誰でも0.01程度しか与えられないんだ、とわかれば、もっと軽く接することができるようになる。
 自他の区別がついて、ドライに接することができるようになります。

(参考)→「「自他の区別」を見捨てられている証拠と歪曲される~素っ気ないコミュニケーションは大歓迎

 

 反対に、なにか失敗したとしても、それは最大でも0.01分のBeingを失うことでしかない。

 だから、気にせずにまたチャレンジしていけばいい、となっていく。 

 
 つまり、日常では、Being というのは意識に昇ってくることはないということです。日常は、ほぼDoingの世界であるということ。

 

 Being はなにかじんわりと感じるもので、強く感じられるものではそもそもありません。

 愛着障害の回復というのはこうした世の中のしくみがわかることでもあり、心身のBeing受容体が適切な閾値に戻ることでもあります。

 

 

 

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 

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自分のIDでログインするために必要な環境とは

 

 前回の記事では、「私」を出すと否定されると思わされてきたこと、そのことでログインとは真反対の方向に努力させられてきたことを見てきました。

本当は「私」を出して、自分のIDでログインすれば愛着的世界で生きることができるのに、回避することでどんどん生きづらくなっていることがわかります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 では、「自分のIDでログインしよう!」と気合を入れるだけでできるか?といえば、なかなか難しいものです。 

 なぜなら、私たちが、自分のIDでログインして生きていくためには環境が必要になるからです。

 

 では、環境というものはどの様に整えられていくのでしょうか?

 その参考になるものということで、先日NHKの番組取り上げられていました、大阪の西成高校で行われている「反貧困学習」について見てみたいと思います。

 

 生活保護の受給者が多い大阪・西成ですが、西成にある西成高校も非行や中退が多い教育困難校として知られていました。

 子どもの問題の裏には必ず家庭の問題があるとされますが、西成高校でも教師が家庭訪問をしてみると、家庭の問題が見えてきました。

 例えば、親が精神疾患で働くことができない、子どもを養育することができない。食事も十分に提供されない。
 親が出ていって不在、育児放棄されてきた、という場合もあります。
 子ども自身が家事をする、食事を作らないといけず、学校に行く余裕がない、といったことも。

 そうした背景から、学校に行こうにもいけない、行っても仕方がない、希望がない、と思い非行や退学といったことにつながっていることがわかったそうです。
 

  
 
 退学しても就ける仕事は非正規や安い賃金、過酷な環境の仕事で、そこでも不当な扱いをされて泣き寝入りといったことになりがちです。そうして貧困が連鎖していく、という結果になっていました。

 
 そこで、西成高校の教師たちが取り組んだのは「反貧困学習」という名の取り組みです。
 「反貧困学習」とは、生徒を取り巻く貧困とは一体どういうものか?何が背景にあるのかを教え、バイトなどで不当な扱いをされた場合は労基署に相談させる。親がいない場合は生活保護を受けさせる、といったように、具体的に貧困に立ち向かうための学習を提供していったのです。
 

 もちろん、日常でも家庭訪問を続けるなど地道な努力も合わせて行われています。

 そうするなかで、生徒たちは、世の中に関わる力、貧困の連鎖から抜け出す自信をつけていったのです。
 

  
 ここで興味深いのは、問題を抱える生徒に対して「本人のせいだとして叱責する」のでもなく、本人の心の問題だとして「カウンセリングを受けさせよう」ではなく、「反貧困学習を提供しよう」となった点です。

 人間は環境の影響で成り立っている生き物、環境のサポートがなければ、生きていけない存在です。

 子どもも大人の問題、社会の問題をとても敏感に受けていて、心身の不調や問題行動となって現れます。

 不調や問題行動を当人の責任とすることを「関係性の個人化」といいます。
環境の問題であるはずのものを、「個人のせいだ」としてしまうのことをいいます。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 そうすると、問題はかえって悪くなる恐れがあります。なぜなら、問題はその人のせいではないから。環境の問題を個人のせいにするというのは、まさに、“ニセの責任”を背負わされているということです。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 「カエサルのものはカエサルに」とはキリストの言葉ですが、「環境の問題は環境に」が本来です。原因は正しく返さなければいけません。

 

 西成高校でも、個人のせいにされがちな非行や退学を「貧困」という問題として「社会化(外部化)」したことで、責任が本来あるべき環境へと返されたのです。それが効果を上げていきました。

 さらに、観念的に責任の所在を整理するだけで終わるのではなく、公的機関への働きかけなど具体的な行動でそのことを実現していきます。
 労基署に相談したり、といった個別の具体的な取り組みによって社会とのつながり、
「働きかけたら、必要なときに助けてもらえる」という効力感が生徒にも身につきます。

 貧困といった具体的な問題、物理的な問題に個別の物理的なサポートをおこなった。その中で社会とのつながりや、適切な距離感が作られていった、ということです。

 そうして、自分に主権、自尊心が戻っていった。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 「ヤル気の問題」「本人の問題」とされていたことを、学習を通じて、「ああ、環境のせいなんだ」「問題を解決する物理的手段があるんだ」と知っていくことで問題がもとのところへと返っていく。
  個人化されたニセの責任が、ドバーッと社会に戻されて行って解放されるようなイメージです。

 具体的な取り組みを通じて、社会人としての人格形成(成熟)も後押しされていきます。

 まさに、みにくいアヒルの子が 「あれ?環境のせいで、そう思わされていただけだったんだ?」と気がついたような感覚。

 

 
 こうした取り組みは私たちが自分のIDでログインしようとする際にも、とても参考になります。

 悩みというのは、基本的には、自分の問題ではないもの、ニセの責任を引き受けてしまってるような状態。 
 その結果、自他の区別がつかなくなり、主権を奪われて、力を発揮できなくなっている状態のことです。

 例えば、養育環境での親の対応によって愛着が不安定になっている、というのは子どもには責任はありません。
 そのことで大人になってから生きづらさを抱えていることについても本人に責任を求められても困るものです。
 これらはニセの責任です。

 

 以前も、「おかしな連立方程式」として記事を書いたことがありますが、ニセの責任との複雑な連立状態になって解が出ずに疲弊している。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 西成高校の貧困学習とは、おかしな連立方程式を解体して、個別の式として離して解決していったといえます。
 しかも、具体的な社会的な手段によって。

 そこは、物理的な現実に根ざし、主権が自分にあることを知らせる取り組みです。

 それらが、ニセの事実やおかしな連立方程式などをねじ伏せるように壊していってくれる。

(参考)→「「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる

 

 

 「反貧困」というは、そのためのとても明確なキーワードです。

 一方、私たちの悩みの多くは原因の所在が一見して曖昧です(曖昧にみえるから長く悩まされるわけですが)。
 なので、「反貧困」というようにスパッと還元しにくいのですが、その構造は同じです。
 
 ニセの責任をほぐしながら、原因の所在を明確にしていく。
 多くの場合は、身近な人に巻き込まれているので、自他の区別(人格構造)を確立していく必要があります。

(参考)→「自尊心とは、自分の役割の範囲(なわばり)が明確であること~トラウマを負った人はなわばり(私)がない

 

 

 そこで大切なのは「主権」という意識。
 いいかえると、自分のIDでログインするということなのです。

 

 

 主権(「私」)を持とうとすると、理不尽な目に合う、責任を取らされるという恐怖心も湧いてきます。

 そこでカウンセリング、セラピーの出番。
 その恐怖心を解決しながら、自他の区別を確立していきます。
 (その際のカウンセリング、セラピーは、問題の責任はその方にはないということを前提にする必要があります。)
 

 

 具体的な場面での対処についても徐々に再学習されていく。

 自分に主権があって、自他の区別があれば、理不尽な言動する相手に理がないことは明らかです。  
 その明確な区別が「この人は犯し難い」という雰囲気となって伝わり始めるようになります。

 
 場合によっては、言葉で「やめてください」と伝えることもあります。
 以前だと伝えられなかった言葉がすっと出てきたりするようになる。

 そこで醸し出される雰囲気が「公的環境」です。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 相手も自分も解離せず、本来の人格同士の関わりになります。

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 そうすると、他者から愛着を受け取ることもできるようになります。
 特定の一人ではなく、多くの人から少しずつ愛着を集められるようになります。
 それがメッシュ状のゆるやかな絆のネットワークです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 ネットワークの中で、「位置と役割」もよりはっきりを感じられるようになります。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 
 なにか自分がミスをしたり、他者から感情をぶつけられても、
 「本質的に自分はおかしいからだ」という暗闇に落ち込むことはなく、少し凹んでもすっと立ち直ることができるようになります。

 自分と他人は別なんだ、責任は限定されている、という感覚。
 
 人間関係における基本と例外を分けて考えられるようになる。

(参考)→「人間関係に介在する「魔術的なもの」の構造

 

 物理的な現実というものに基礎をおいて、1+1=2というように理屈が通ることが肌でわかる。 
 自分でログインしているから積み上げを感じることができる。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 こうしたことを繰り返しながら、人格も成熟していきます。

 
 自分のIDでログインする、自分をもって生きる、とはこういう環境に基づいた取り組みです。

 

 

 

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