常に自分の寝室(私的領域)に他者を上げたり、他者の寝室(私的領域)に上がり込むようなコミュニケーションは、例えば、親が自分の不全感を慰めるために子どもに仕掛けていたローカルルールでした。
「私の気持ちを察しなさい、そうしないあなたは悪い子だ」と
子どもが距離をとって反応しなかったら
「あなたは冷たい」
「あなたは気が利かない」
とフィッシングメールで巻きこんで、自分の心の中の寝室(私的領域)に連れ込んでいた。
(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション」
こうしたことをが繰り返されると、子どもはそうしたコミュニケーションが当たり前だと思うようになる。むしろ、そうしたコミュニケーションこそが親密であり、正しいのだと思い込まされてしまう。
大人になっても、相手の私的領域に上がり込むようなスタイルが抜けなくなる。
あるいは、相手が自分の私的領域に入ってくることを期待する。
自他の区別が曖昧な状態が本来なのだと思わされてしまう。
すると、自他の区別がちゃんとできている人の態度がそっけなく見えて、それが自分への見捨てられ不安のサインだと錯覚して、不安になったり、怒りを覚えるようになったりする。
(参考)→「自他の区別がつかない。」「「自他未分」」
これは歪められたコミュニケーションスタイルでしかない。
愛着不安になると「見捨てられ不安」という状態になりますが、これは、実は上記のようなことも背景にあると考えられる。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて」
→「境界性パーソナリティ障害を正しく理解する7つのポイント~原因と治療」
人間というのは健全に発達し、自他の区別がちゃんとついていれば、私的領域には立ち入らず、人との関わりはさっぱりしたものになり、いちいち、ウェットに他者のことを気にかけたりはしなくなる。ドライなスタイルになる。
そして、人の言葉も戯言だとわかっていて、言葉に価値を置かずに気楽に使うことができる。
(参考)→「人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。」
ドライで、言葉を戯れに使うことができる結果、人との付き合いが軽くできるようになり、「あの人は気が利く」とか、「思いやりがあるわね」なんて言われるようになる。
これが本来の状態なのですが、ローカルルールによるコミュニケーションスタイルの歪曲によって、他者の健全なコミュニケーションスタイルが見捨てられのサインだと思い込まされてしまう。
素っ気く、自分に関心がないのは、相手が怒っているからだ、自分が無価値だとされているからだ、と感じさせられてしまっている。
ドライなコミュニケーションスタイルは、自他の区別が着いている健全なことで、自他の区別をつけて接してくれるからこそ、私達も自他の区別をつけることができて良い関わりができる。
そっけなく見えるコミュニケーションは大歓迎でなければいけない。
反対に、ウェットなコミュニケーションは、実はそれはローカルルールの歪んだもので、本来のものではない。
実は不全感を抱えた親のローカルルールの世界観でしかなかったりする。
「世の中の人は価値のないあなたには興味がなく、誰も相手にしない。その証拠にそっけない態度をとってくるでしょう?それはあなたに価値がなく見捨てられている証拠」「私的な領域に立ち入ることが本来のコミュニケーションなの」と親のローカルルールは言っていて、それをトラウマを負った人は内面化しているだけなのです。
その結果、普通の人の態度を見て、「やっぱり、私は価値がない」(見捨てられ不安)と思わされているのです。
ウェットなコミュニケーションが当たり前だと思うので、いつまでたっても自他の区別がつかず、生きづらいままにさせられてしまっている。
これらは、単なる親のローカルルールですから、放おっておいてよいのです。
むしろ、自他の区別がついた素っ気ないコミュニケーションは大歓迎。
もし、日常で、見捨てられ不安を感じたら、これはローカルルールの影響では?と立ち止まってみることがとても大切です。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
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