筆者は、中学の頃に吃音になり、思うように言葉が出せなくなります。吃音というのは、自分が出したいときに言葉がうまく出せなくなる原因不明の症状です。
さらに仲の良いと思っていた親戚のお兄さんから嫌われていると聞かされて人間不信になり、吃音もあって、中学3年~高校では友達がほとんどできなくて悩みます。
高校3年間、友達との付き合いをほとんどせずに勉強ばかりしていたので大学以降でも自然に人と付き合う方法がわからなくなります。
家庭では、両親の不和があり、毎日のように喧嘩や悪口を聞かされ続けていて、慢性的なトラウマ(ストレス障害)に陥ります。
非愛着的な世界観の中で足を取られ、トラウマ由来の症状が発症するなど、とても苦労するという経験をしてきました。
(参考)→「非愛着的世界観」
なんとか挽回しようと気楽に喋ろうとすると。自分でも言いたくないけど変なことを言ってしまったり。
「きついですね」と言われてしまったり傷ついたり。
人間不信からすごく言葉を吟味して喋ろうとして言葉が重くなっているのに、 「きつい」と言われるとさらに余計に自然体での話ができなくなります。
こうしたストレスからてんかんにもなりました。
てんかんの発作で、突然頭がもや~っと気持ちの良いような悪いような状態にもなります。
結局は、薬で治ったのですが、薬を飲んでいるときは日中眠くなるため大変でした。
その上、これもトラウマの影響ですが、気分の低下、鬱っぽさもありました。
当時の筆者は、辛気臭い、能面のような顔だったのかもしれません。
さらに過緊張で緊張しやすいし、人のことを過剰に気にして自然体になれないし、、、、何重苦という地獄ですよね。
気楽に楽しんでいる人がいる中で、なんで自分がこんな苦労をしないといけないの?と思いました。
こうした状況について当時はどの様に考えたかというと、「自分が悪い部分を認めて、よし、自分を高めるために、自分の欠点を洗い出してそれを改善だ!」ということでした。
逃げずに努力する、という意識は高かったですから。
他人をベンチマークして理想の自分になるために、毎日努力する。
人付き合いもすごくがんばって、話をして、いろいろなところに出ていって、とやっていました。
今思えば、躁的というか、自分のテンションを無理に上げて明るくしているような感じだったと思います。
心の壁を取り除いて、もっとオープンに、と考えていました(これが大間違い)。
たしかに、努力によってよくなる部分もあるのですが、基本的には「私はだめだ、おかしい」ということが前提にあるために、あるところで限界がやってきます。
努力するということは、自分はだめだということを暗に強化することにもなる。
(積み木の玩具ジェンガのように、自分の足元(自尊心)の積み木を抜いて上に足すようなものですから無理があります。)
(参考)→「自分に問題があるという前提の取り組みは、最後に振出しに戻されてしまう」
さらに、頑張って明るく社交的にしているので、エネルギーを消耗して、だんだんくたびれてきます。心の壁を取り除こうとするものだから、傷つきやすくもなる。
反動で、人付き合いが面倒になってきます。
努力してもうまくいかないし、だんだん努力することにも怖さが出てくる。
そこで、そうした状況を突破するために、当時流行った「願望実現」とかそうしたことも試してみます。要は、「迂回ルート」ですね。
いろいろと取り組んでみますが全然うまくいきません。
(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”」
次にはそれよりも実際的にということで「無意識の活用」といったことにも興味を持ちます。
これは色々と参考になるし、助けてもくれますが、気がつくのは、無意識の活用の前提にも「自分(私)」がおかしくて間違いを犯しやすいから無意識に頼る、という理解でいたことです。
結局、「自分(私)」というものの価値を低く捉えているということ。
そのためか、いつまで経っても「自分の人生は始まらない」という感覚が続きました。
当然です。「自分(私)」というものを排除すべき程度の低いものとして捉えているからです。
人生が始まる、始まらないなにもあったものではありません。「自分(私)」を除外しようとしているんですから。
さらに、以前の記事でもお伝えしましたが、「自分(私)」というものを出すと攻撃されるとか、嫌われる、という意識がありますから、自分(私)を表に出す、ということをしたくないし、してはいけないと思っているのですから、人生が始まらない感覚も当然です。
悩みが治るというのは、「自分(私)」を隠したまま問題と感じている症状が取れることなんだ、という理解をしていました。
ここでも、自分で矛盾に気がついていません。
物理的な現実としての自分は、身体としてあるこの「自分(私)」しかいないのに、「自分(私)」は否定して、隠して、理想的ななにかになることが生きづらさがなくなることだと捉えているおかしさです。
(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。」
何が自分にあうのか、何が自分なのかも、すべては「自分(私)」の身体から湧いてくるのですから、それ以外の高尚なものになろうとしてもできるわけがありません。
(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる」
「自分(私)」を回避する手法というのは、一次避難としては良いのですが、解決のメインの方策としては採用してはいけない。
悩みの症状を取るためにも「自分(私)」というものを避けるのではなく、それが働く環境を整えるようにしていくことが必要。
心の壁をしっかり持って、自他の区別をつける。人格構造を確立させていく。
風邪のときに、対症療法として解熱剤を飲んで過ごすのではなく、そもそも免疫力を高めるのと似ています。
(参考)→「自分のIDでログインするために必要な環境とは」
そもそも、「無意識の活用」にしても、なにか「私」以外の助けを借りる、と捉えていた時点で大間違いだったと今はわかります。
別のものの力を借りようという形をとっているとおかしくなって、うまくいかなくなります。
「自分(私)」ではない別のものに縛られるのが「支配」「依存」ということですから。
自分の悩みを解決するはずの手法によって、いつの間にか、「自分(私)」の価値を低く見るようになってしまっているとしたら本末転倒なことはありません。
わたしたちは、「自分(私)」の力をあまりにも過小評価してきました。
ローカルルールがもたらす「You’r NOT OK」の暗示のためです。
(参考)→「造られた「負け(You are Not OK)」を真に受ける必要はない。」
「自分(私)」とは、思っている何倍も何十倍もすごいもの、大したものです。
「自分(私)」のIDでログインすることではじめて自分の人生がスタートする。
「自分(私)」が「自分(私)」としてログインして「自分(私)」の人生を生きる、結局ここに戻ってくるのです。
(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード」
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