記憶の主権

 
 筆者も、過去の失敗がフラッシュバックのように襲ってきて、自分を否定する衝動が襲ってくることがあります。

 特に、トラウマを強く負っていたときは、顔から火が出るような言動がありました。

 「トラウマのせいなんだから、仕方がないじゃん」ということですし、それでいいのですが、なぜか“自分の問題”だと思ってしまう。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 皆様も、自分の過去について重く引きずっていることは結構あるのではないでしょうか?
 悩みとは、結局、その過去の負債をどうにかしたい、ということだったりします。

 
 でも、負債の重みがなかなかとれない。処理しきれない。

 もちろんこれはニセの責任のせいです。
他人から負わされた負債を背負っている、ということで、本当は自分の負債ではない。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

 
 親の借金を負わされてそれを返済した人の話をよく耳にすることがありますが、まさにそんな感じ。

私たちは家系や環境からの負債(ニセの責任)を負わされていることがよくあります。

 いじめで後々まで残るような心の傷を負った。会社のパワハラ、モラハラで自信を奪われた。

誰の責任か?といえば、加害者に決まっています。

 なのに、被害者が負債を背負っている。

(参考)→「悩みとは実は他人(親など)の責任の尻拭いだったんだ?!

 

 大切なのは、「ニセの責任なんだ」と気づくこと。「自分の問題ではない」と気づくことです。

 

 

さらに、重要なことがあります。

 それは、「記憶の主権」を自分に取り戻す、ということです。

 過去の記憶について、公開や恥、自責の念がある、というのは、過去の自分の記憶を解釈する権利を他者に奪われている、ということ。

過去の自分の記憶について、それを解釈する権利は、本来自分にあります。

 しかし、いじめや虐待、ハラスメントといったことは、他人にストレスを与える、ということだけではなく、過去の記憶の主権を私たちから奪います。

そして、ローカルルールのおかしな理屈で私たちの記憶を解釈してしまう。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

  
 時間が経っても、いろいろな取組をしてもなかなか過去について自責の念や、後悔が抜けない、といったときには、必ず「記憶の主権」がなくなっている、ということがあります。

 そして、「これは、記憶の主権が奪われているのだ」と気づくだけでも、自責の念や後悔はぐっと減ります。

 

 結局、弱く不完全な人間でできている社会の中で、自分の記憶を解釈する権利は自分にしかない、という当然のことに気がつくと、自分の体に力が戻るようなそんな感覚になってきます。

(参考)→「弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「素晴らしい存在」を目指して努めていると、結局、人が怖くなったり、自信がなくなったりする。

 愛着的世界観、人間観とは、人間をありのままに見る、ということです。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 ありのままに見るのはかんたんなことではないか?と思うかもしれませんが、これはなかなか難しいことです。

 多くの場合はそうなっていない。

 

 他者を怪物のように捉えてしまって恐れるか、自分を汚れた存在、ダメな存在と捉えてしまって自信を失っているか。

 あるいは、不安から、自分は人よりも優れている、他人は自分よりも下等である、と捉えているか。

 

 あと、よくあるのは、人間は素晴らしい存在である、あるべきだ、より良くなることを目指そう。しかし、既成の概念に染まっているがために、本来の力を発揮できていないから、自己啓発やセラピーによってそうしたものを外していけば、素晴らしい存在になれるはずだ、という考えです。

(参考)→「カウンセリング、心理療法側も「人間は立派なもの」と思っていたりする

 

 実はこうしたことも、“非”愛着的な人間観、世界観といえます。
愛着が傷ついたがゆえに、人を素晴らしいと捉えざるを得なかったり、自己否定から自分を改善しようと考えている。人を支配したい人がそのように唱えて不安な人をひきつけているケースもよくあります。

 「素晴らしい存在と捉えること、目指すことになにが問題か?」と思うかもしれませんが、現実はそうではないのに「素晴らしい」と捉えれば、当然ながら実際とは異なり無理が出ます。
 本当はそうなれないわけですが、なれない原因を当人に帰属させて、その人は素晴らしい存在よりも劣った存在、ステータスだと認識されてしまう。
 本来は素晴らしいはずなのに、なれていないのはその人が根本的におかしいからだ、となります。
 「素晴らしい存在であるはず」というテーゼが崩れるのを防ぐためにそう考えるようになります。

 

 押し出しの強い他者に出会った際に、根源的に素晴らしい存在として過度に理想化するか、あるいは、悪魔、支配者と捉えて、強く恐れるようになったりもするのです。

 

 その背景には、存在(Being)と行動(Doing)との一体視があります。存在(Being)と行動(Doing)を一体と見て、「素晴らしい存在」とします。
しかし、行動(Doing)は不完全で弱い、ということは変わりがありませんので、それが、「素晴らしい存在」ということと整合しない。
 すると、行動(Doing)と一体化している存在(Being)も「劣った例外」として一体で処理されてしまう。
 さらに、行動(Doing)を装飾する他者に出会うと、存在(Being)も理想的で完全だ、と錯覚して、自分が駄目な証拠とするか、ローカルルールに従ってしまう、となってしまうのです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 

 共産主義だとか宗教といったユートピア運動において、人間を理想的な存在としながら、現実にはそうなっていない人たちを別カテゴリとして排除する、支配欲を持った人たちが自分たちは完全、他人を支配して当然だと錯覚する、
 といったことはしばしば見られることです。

 それと同様のことが私たち個人レベルでも生じます。
 

 
 「人間は素晴らしい存在である」という価値観と、私たちを苦しめるローカルルールとは同根であるのです。

 ローカルルールは、「人は素晴らしい」はずなのに、「あなたみたいなわがままで、扱いにくい人間はよほどおかしいにちがいない」(その証拠に、行動Doingが不完全だ)とします。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  

 
 
 セラピーやカウンセリングの理論や人間観などでは、「人間を素晴らしいもの」とする考えをするものがよくありますが、実は危ない前提であったりする。

 聞いているとうっとりしてよいかもしれませんが、論理の構造はローカルルールと親しく、実は自分の首がしまって、主権は奪われてしまう。

 ローカルルールから離れようとして、別のローカルルールを対置しているような変な構造になっている。

 

 

 カウンセリングの始祖のロジャーズも、人間の素晴らしさを訴えて、同時代の哲学者から手痛い反撃を食らったことがありました。
 哲学者は、人間とは弱く、不完全で、それゆえ社会の中でしか生きていくことができない存在だ、としていたのです。

(参考)→「私たちは、“個”として成長し、全体とつながることで、理想へと達することができるか?

 

 
 
 実は、「人間は素晴らしい」とすることで愛着的世界観から離れてしまい、他者はモンスターのように感じ、自分はなぜか自信がなくなる。
 人間らしさ、主権が奪われてしまうのです。
 

 人間とは、社会内の存在であって、社会の中で位置と役割を得る必要があります。人間とは弱く不完全だ、と認識した人間が技術や教養を身につけ一身独立し、位置と役割を得ることで初めて公的な存在としてあることができるようになります。
 公的な存在でなければ、人間は独立した人間として存在することができません。
 ひきこもりなどの問題は、このプロセスにおいて、不適切な対応や、サポートがなかったりすることから生じます。
 私たちが感じる生きづらさも、主権を持って生きるための要件に問題が生じているために起きています。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 自由というのも、社会の中での位置と役割を持つことと同義です。 
 公的な存在としてあることができなければ、生物的には存在してても、自分が何者かわからないまま、主権を奪われ、焦燥と不安に生きるしかなくなってしまいます。

 

 愛着的人間観、世界観というのは、生きるための土台ともなるものです。

 ローカルルールから離れようとして、「より強く、より完全に」と努力することは、実は反対に方向に進んでいることになっていたりする。
 ローカルルールの世界観をなぞる結果となってしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  

 

 私たちが頭の中で、自分をなじって責めるのも結局、何やら理想的な状態と比べて自分を罰しているわけですからね。

 本来、解決の方向とは、「弱く、不完全に」(現実を知る)というもの。
それは、自分だけではなく、すべての人間がそもそもそうだ。だから自分の存在(Being)に罪などない、という世界です。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 人間とは、弱く、間違いをおかすものでもあります。
 人間はいい加減で、だらしがなく、まとまらない存在。
 よく「落語の登場人物のよう」といわれますが、こうした人間観、世界観は、「愛着的世界観」です。 健康な人にとっての見え方です。

(参考)→「非愛着的世界観

 では、弱く不完全であるということは、その存在がだめだということを表しているのでしょうか?

 そんな事はありません。

 その存在自体はなんの罪もなく、誰もが尊重されるに足ります。

 

 

 「もともと呪われている」「もともとがだめだ」というような考えというのは偽りで、滑稽なことです。

 

 例えば、カラスを見て、「カラスは呪われた生き物だ」なんて考えている人がいたとしたら、いつの時代の価値観なんだ!?と思われるでしょう。

 

 私たち現代人は、科学的な価値観を持ち合わせていますから、「カラスだってひとつの生き物だ」「いろいろな特徴や習性はあるが、それと存在の正邪は関係ない」と考えるでしょう。

 

 つまり、行動(Doing)と、存在(Being)とを分けて捉えていて、
 存在(Being)になにか根本的な問題がある、という考えはとりません。

 ゴミをつついたり、鳴き声がうるさくて迷惑をかけていたとしても、カラスは単なる生き物。存在(Being)自体にはなにも問題はありません。

 

 
 もちろん、存在(Being)にはなにも問題がない、からといって、カラスが完璧な生き物だ(生き物でなければならない)というわけではありません。

 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして、両立します。
 

 

 人間も同様です。

 冒頭に書きましたように、人間の行動(Doing)は、弱く、不完全です。間違いをすることもあります。
 しかし、それをもって、存在(Being)が「呪われている」「邪悪だ」ということを意味しません。

 人間においても、 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして両立するのです。

 
 愛着的世界観、健康な人間観では、存在(Being)は、行動(Doing)とは、全く別のものとして捉えられています。
 
 
 だから、安心して失敗できる。安心して自己開示できる。人を特別恐れることもありません。
  
 

 

 しかし、虐待とか、ハラスメントというものは、存在(Being)と行動(Doing)という別次元のものを無理やりつなげようとします。つながっているように見せる、刷り込む、そして行動(Doing)の不完全さによって存在(Being)の不完全を証明する、というトリックを行います。

 

 例えば、行動(Doing)の不完全さ、未熟さを取り上げて、存在(Being)がダメだと叱責する。
 子どもが失敗したことを取り上げて、「あなたは生まれてこなければよかった」といったことをいう。
 部下が失敗したことを取り上げて、「お前なんか、社会人として失格だ。クズだ」と暴言を浴びせる、といったようなこと。 

 

 健康な状態では別れていたはずの存在(Being)と行動(Doing)が繋げられて、しかも、存在(Being)が不完全だと思わせて呪縛にかけます。

(参考)→「自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 

 ここからがさらに厄介なのですが、ハラスメントを仕掛けられた人(被虐待者)は、その状態から抜け出そうと努力をします。

 努力というのは、行動(Doing)によって行われます。

 しかし、存在(Being)と行動(Doing)はもともと別次元のものであるために、いくら行動(Doing)を頑張ったとしても、存在(Being)のキズは癒やされることはありません。なぜなら、種類が違うから。

 

 存在(Being)のキズは、そもそも、呪縛によって仕掛けられたものなので、行動(Doing)よって挽回されるものではなく、あくまで、呪縛自体を覆しにかかる必要があるのです。

 

 しかし、そのことがわからないまま、行動(Doing)によって挽回しようとして、へとへとになってしまいます。

 特に、存在(Being)の完全性を取り戻すために、行動(Doing)レベルでも完璧さを求めて、絶対正しい、絶対に間違いのない、という領域を目指そうとして、挫折を繰り返すことになります。

(参考)→「トラウマチックな世界観と、安定型の世界観

 

 さらに、人間の本性は、行動(Doing)レベルは、弱く不完全なもの、ですから、どこまでいっても不完全なままです。うまくいったとしても、ゴールポストを動かされてしまえば、成功も失敗と判定される。

 「やっぱり、自分は存在自体が不完全なんだ、だって行動(Doing)レベルの証拠があるもの」となって、さらなる呪縛へと落ち込んでしまうのです。

 

 トラウマの裏には、存在(Being)と行動(Doing)との間違った接続、同一化が存在しています。

 

 

 

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「言葉」への執着の根源

 なぜ、なんの筋合いもない親とか友人の言葉を真に受けてしまうのでしょうか?なぜ、「言葉」偏重になってしまうのか?

(参考)→「「言葉」偏重

 

 全く資格も実績もないのにも関わらず。

 ズガーンと言葉が入ってきてしまう。
 
 ボクサーが脳やわき腹にパンチを食らったように、クラクラして、その日一日その影響でなにもできなくなるくらいに。

 

 

 よく考えてみると、これが営業とか販売でこんな事が起きたら、こんな楽なことはありません。
 営業マンや販売員の言葉が即、胸に突き刺さるのであれば、売る側はとても楽でしょう。
 

 でも、実際は、買う側も良い意味で疑いの目で見て真偽の吟味していますから、かんたんには買ってくれません。

 健康な状態とはこうしたもののはず。
 タイミングが合って、ニーズも満たされて、納得も得られれば、契約成立、というのが本来のやり方です。

 

 しかし、こうしたことを破るような間違った販売方法というのもあります。
 それが押し売りとか、脅迫めいた売り込みであったり、あとは、閉じ込めて集団心理を悪用して買わせるといった方法。
 
 まさに、機能不全の家族というのは押し売りのような空間と言えるかもしれません。

 

 さらに、マインド・コントロールを使った方法というのもあります。

筆者も、大昔に「マインド・コントロール」という本を読んだことがあります。いわゆる自己啓発セミナーの内実が書かれたものです。

 マインド・コントロールとはどのように行われるか、といえば、参加者にグループを作らせて、そこで、メンバーの欠点や悪い印象を互いに言い合いをさせます。すると、徐々に自我の土台が揺らいできます。
 
 自分が何者なのか? 自信と思っていたものが崩れてくるのです。

 

 そうしたあとに、「感謝」だとか、「利他の心」だとか、冷静に見れば陳腐なお題目を提示すると、不安になった参加者はそれにすがるようになります。
 健康な状態であればチェックして弾かれるはずの言葉が、ガーンと脳に入ってきます。

 最後に、自分の家族や知人が登場して拍手して、感動のフィナーレといったものです。

 
 こうしたものは人間の心理を悪用した詐欺的な手口ですが。

 
 かつての中国の洗脳もこうしたものに似ていますが、もっと緩やかで、その分強力なものだとされます。

(参考)→「「自分が気がついていないマイナス面を指摘され、受け止めなければならない」というのはローカルルールだった!

 

 共通するのは、常識とのつながりを絶ち、「自分はおかしい」と思わせることです。

 「自分はおかしい」と思わせることで、それを覆すための手段をなんとか得ようとします。
 そうしなければ、この世に存在することができないような根源的な不安を感じてしまいます。

 

 覆すための手段が、新しい価値観の実践です。
 新しい価値観を実践することで免責、免罪される、というなかで、ローカルルールを受け入れていくのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 親や友達の言葉を真に受けたりこだわるのも、同様であると考えられます。

 原罪のように、「自分がおかしい」ということが根源にはあり、それを免罪するための方法として、身近な人の「言葉」があるように感じる。だから、わかっていてもスルーすることができない。

 受け入れたくないけど、執着しちゃうのは、それをしないと「この世にいることができない(存在してはいけない)」と感じているから。

 

 

 もう一つの側面は、愛着の問題。
 愛着というのは、特定の人(多くの場合は母親)との絆ですが、
 幼い頃のスキンシップなどで育まれるとされます。

 親の様々な都合で、そうしたものが得られない、あるいは過干渉すぎる、といった場合に、「不安定型愛着」「愛着障害」といった状態になります。
 
 愛着という安全基地がなく安心安全を感じることができないのです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 この「安心安全」とは、身体的、物理的なものですが、精神的には「自分はおかしい」あるいは「この世に存在することができない」などと感じられる。
 (「安心安全」がないだけなら、警備会社に頼むか、保険に入るか、ボディガードを雇えばいいですが、それではおさまらない。)
 

 「自分はおかしい」とか、「この世にいることができない(存在してはいけない)」といったことは、もちろんニセの責任によるものです。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

  
 愛着という身体的な問題からも生まれるし、虐待、ハラスメントなどの社会的な要素からもやってくる。
 

 このニセの責任の呪縛からなんとか逃れようと、免責されようとして、人の言葉に執着をしてしまう。自分にまつわる、全く根拠のないおかしなことでも真に受けて、信じてしまう。

 人の言葉に救いの鍵、答があるように、免罪符のように感じられて、そこにヒントを求めてしまう。

 でも、実際にそれは幻想ですから、言葉からハラスメントをさらに受けるような格好になってしまい、苦しみ続けてしまうことになります。

 

 

 

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