最近起きました教師間でのいじめ事件。被害を訴えても、校長に取り合ってもらえなかったり、適切に対処してもらえなかったり。
モラハラがはびこるのは、喧嘩両成敗だけがすべての要素ではないのですが、日本社会において、非が明らかにされにくい要素の一つには現代にまで残る「ケンカ両成敗」というおかしなローカルルールの影響があるようにおもいます。
ケンカ両成敗というのは、日本独特の慣習法で、世界でも稀なものです。
できたのは室町時代で、それまでは領主や個人などがそれぞれ受けた被害に対して復習をしていて収集がつかなかったのに対して、紛争を押さえるために「喧嘩両成敗」という考え方がもちこまれるようになったとされます。
この歴史的な慣習法が、波風立てずに丸く収めよう、というような感覚で日本に馴染み、今も残り、しばしば悪用されている、と考えられます。
喧嘩両成敗だとしたら、ハラスメントを行っていても、ケンカに見えるような揉め事に持ち込んだら最後、相手にも半分非があることになるのですから、モラハラを行う側にとってこんな都合の良いものはありません。
あおり運転も、被害者に半分非がある、レイプされても被害者にも半分非がある、ということになるわけですから。
喧嘩両成敗が問題なのは、まずは、加害の所在がごまかされてしまうこと。被害者も加害者とされてしまうこと。
「たしかに手段には行き過ぎがあったが、被害者にも問題があり、加害者はそれを正したのだ」とされてしまいます。ローカルルールにとって喧嘩両成敗というのは親和性が高い、都合が良い考え方なのです。
なぜなら、被害者側に、根本の罪があり、加害者の罪はその行為だ、というように両成敗される罪が不均衡なのに、それが隠されてしまうのです。
親であれば、「あなたのためにやったのよ」というようなことです
ローカルルールとは、不全感から相手に因縁をつけて攻撃するためにあります。罪そのものが不全感によって無いところからつくり出されてしまうことは人間社会には当たり前にある、ということが見えなくさせられてしまうのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
不全感からおこなった行為であることをごまかすために、もっともな理屈でコーティングするのがローカルルールです。喧嘩両成敗は、最もな理屈の中で、あいこにさせられてしまい、その裏にある不全感が見過ごされてしまいます。
さらに、ローカルルールには感染力があります。そのために、裁く側も加害者が醸し出すローカルルールに感染し、雰囲気で決められ、ローカルルールにおいて漠然と善とされるものが勝ち、弱者に罪が被せられることということがあります。
いじめでも、明らかにいじめたほうが悪いにもかかわらず、いじめられた子どもにも問題があると、教育委員会レベルまでいじめっ子や教師を擁護するようなことがしばしば起きています。
参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」
教師もローカルルールに感染しますから、ローカルルールからみて「こいつはムカつく」とか、「こいつはいじめられても致し方ない」という感情を隠すために、喧嘩両成敗という理屈が持ち出されてしまうのです。
会社でも同様です、モラハラがあって会社に訴えても、ローカルルールに感染していれば、「お前にも問題があった」「行き過ぎはあったが、指導の一環であった」といったようにされてしまいます。
ローカルルールというのは、もっともらしい意図を騙るのがその特徴です。
ですから、その意図などに耳を傾けたり、「ニセの公平さ」といった態度に堕ちてはいけない。
ローカルルールによって、生み出された因縁というのは、常識の力で一刀両断に跡形もなく否定しないといけないのです。1%の理も相手に認める必要はないし、そうしてはいけない。
そうしてはじめて秩序は回復する。
トラウマを負った人に多いのですが、自分の中で「喧嘩両成敗」といったことや、「ニセの公平さ」「ニセの誠実さ」というローカルルールに感染していることが多い。
そのため、「もちろん、相手が悪いのはわかっている。だけど、自分が100%と正しい、ということができない。」「あまりにも自分に都合が良すぎる」として、半ば自動的に、「自分にも、2,3割は悪いところがあった、とするのが妥当」として自分に非を残そうとしてしまうのです。
そうすることが「知的なことだ」とでも言わんばかりに。
その結果、その残した「2,3割の自分の悪い部分」から癌が増殖するかのように、罪悪感や自責感がふくらんでいき、日常でも過去に受けた理不尽な記憶が抜けなくなったり、
いつまでたっても、なぜか自分に自信がもてない、ということが起きるのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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