理不尽なハラスメントを受けて相手がおかしいということは十分にわかっていても、 「自分にも非があるのかも?」という思いがどうしても拭えない、ということがよくあります。
特に相手が社会的に評価されている部分がある、とか、他の人とは仲が良い、といった場合はそうです。
そのことを勘案すると、どうしても相手を否定することができない。
治療者から「相手がおかしく、あなたは自分を責める必要はありません」といわれても、「そうは言ってもそう思えないのです。なぜなら~」となる。
よく知られたことですが、例えば、DV(ドメスティックバイオレンス)の加害者はしばしば、職場では紳士的で、仕事ができる人であったりするケースが多い。
社会的な地位があって、職場ではそんなふうに見えない。
でも、家に変えるとパートナーや家族をボコボコにしていたりする。
落ち着いて見てみれば、家庭での理不尽な振る舞いは、職場で仕事ができる、ということでは全く正当化できないことがわかります。
最近ありました教師間のいじめの事件でも、加害者は保護者からは評判が良かったそうです。
でも、ワイドショーなどで「人間のクズだ」と批判されるようなひどいいじめを行っていた。
評判の良さといじめをするという行為は全く両立します。いじめっ子もほとんどの場合、クラスでは上位の層に位置して人気があったりする。
人間というのは、内的には人格が分かれていて、不全感に刺激を受けると、容易に解離する存在である、ということ。さらに、人間は社会的な動物であり、規範の中に生きています。そのため、ルールの大本を握った側が極端に優れて見える傾向(規範バイアス)があります。
ローカルルール人格状態のときも、評判が良い、とか仕事ができる、という下駄を履かされた状態を悪用して、自分のローカルルールを正当化しようとします。
「あなたがだめな人間だから私が指導する(なぜなら私のほうが仕事ができるから。先輩だから)」といったように。
本来の常識(グローバルなルール)からすれば、「指導する、なんて筋合いはない」「だめな人間なんて決めつけること自体がおかしい」「仮に指導だとしても、礼儀を欠いていい道理なんて無い」、そして、「そもそも指導する、というのは口実で、不全感を解消したいだけなんでしょ?それはおかしなことです。お断りします」と一蹴することができます。
ローカルルールは「正当化」も含めて成り立っています。表面的には最もに聞こえ、その正当化がなかなかやっかいで、何年にもわたって被害者に影響を及ぼします。
「酷いことをはされたけども、相手は評判が良い人だから私にも非があったに違いない」といったように。
人間の人格が一つである、世の中は良貨(グローバルなルール)のみ、という誤解があると、呪縛から抜けることができなくなります。
人格が分かれているし、ローカルルール(悪貨)だらけ、というのが社会の実態なのに、人格は一つだ、世の中はまともで自分はおかしい、として複雑な問を解こうとするからずっと頭がぐるぐる回りしてしまうのです。
本当は次元の違うものが併存しているだけ。
相手の人格は勝手にスイッチしローカルルールを押しつけてくるもので、こちらのコンディションは全く関係がない、と知れば、呪縛されなくなります。
さらに、相手の方が自分よりも上手である、というのも実はローカルルールによって成り立っていることもあります。
以前も書きましたが、ローカルルールというのは”ごっこ遊び”のようなものですから、ルールの大本を握っている側が、すごく見えてしまう、という性質があります。
「理不尽だけど、親(上司)から言われたことがどうしても否定できない」という場合はこうした事が関係している。
親が正当に見えるのは、親が家庭の中のルールの大本を握っているから。
上司が正当に見えるのは、上司が、その職場のルールの大本を握っているから。
ルールの大本を握る効用というのはものすごくて、心理学の実験でもありますが、なにかの役割を任されると、その役割のように人間というのは変わります。
王様の役割をすれば王様のようになる。
「理不尽な他者が現実に仕事ができるし、評価もされているし、立派である」というのは、ルールの大本を握っているからでしかなく、本来の能力でも、人間性の良さの結果でもない、ということです。反対に、ルールに適合していないと極端に劣って見えてしまう。学校ではそれをスクールカーストと呼ばれたりする。もちろん、ローカルルールですから実態を何も反映していません。
反対に被害者の側も、養育環境で、ローカルルールの呪縛にかかっている場合もあって、社会で出会う人が過度に立派に見えたり、理想化して見えたりすることもあります。
「同じ年代でも相手の方が自分よりも大人に見える(自分が幼く感じる)」という場合は要注意です。
他者イメージ、自己イメージと言った私たちの認知はかなり歪まされています。
特に親は子供にとっては理想型です。成熟とともに、徐々に理想型は等身大のサイズに収まってきます。反抗期には「精神的に親を殺す」という過程も経て自立を果たします。
しかし、幼少期からローカルルールに呪縛されていると、そうした健全なプロセスが阻害されて、親のイメージが大きな理想型のままになり、反転して悪魔のように感じられて、恐れが拭えなくなってしまいます。
その結果、相手が立派に見えている、ということもあります。
さらに、「親は大事にしなければ」「親子は仲良くあるべきだ(仲良くできていない自分はだめだ)」という規範も影響して、呪縛が拭えなくなるのです。
「会社の上司」と言った社会で出会う人も同様です。人間というのは「家族の形態」が無意識の基底をなすとされます。家庭での親子関係などを投影して捉えます。
上司は自分の親として捉え、先輩も兄弟という関係で捉えます。
養育環境で受けたローカルルールの影響は、その後にまで影響します。
その結果、過度に相手が立派に見えたり、「あれだけ仕事ができるのだから、指摘された私にも非がある」という結果になるのです。
それは歪められたレンズ(規範バイアス)によって拡大されたものでしかありません。
「本当に立派なのか?」と突っ込んでみてみると、実はそうではなかったりする。
ローカルルールに歪められて、そのように見えていたりするだけ。
そもそも会社などでは、本人の実力よりも担当する部署や顧客の規模で成績の大半が決まったりもします。押しが強くて声の大きなだけ人が力を持っていることも多い。
反対に、だめだと思っていた自分も環境が変われば、そんなことがないことも多い。
ローカルルールが溶けてくるというのは、「ニセの客観的現実」が壊れていき、そうした景色が変わるということでもあります。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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