ローカルルールの仕組みがわかってきて、だんだんとそこから抜け出せるようになってきても、でも、どうしても頭に引っかかってしまう、ということがあります。
完全には否定できない、という感覚です。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
オウム真理教事件でも、脱会した信者も何年たっても、「教祖の言っていたことが本当ではないか?」という恐れや不安があったといいます。
それに似たような感じで、「相手がおかしいのはわかってけども、その状態でも相手の言っていることには理があった(だから頭から離れない)」というケースも多い。
例えば、「おかしくなった(ローカルルール人格にスイッチした)状態で私の行動に対して指摘してきたことは正しかったし、たしかに私にも問題があった」とか。
「たとえローカルルールであっても、良いものは認めなければいけないのではないか(自分の悪いところは認めないといけないのではないか)?」
「自分に都合が良すぎるように感じる」という感覚です。
いじめ、ハラスメントでも、そういうところはあるのではないかと思います。
「いじめっ子たちのほうが、イケてたし、みんなからも支持されていた」とか、
「DVをしてきたパートナーの言っていたことはあたっている部分もあった。たしかに私も段取りが悪かったし・・・」といったこと。
酷いことをされたストレスもありますが、同時に「相手側に正当性を感じる」という感覚。
そのために、何十年も相手からされたことが頭から離れなくなるのです。
それは、全く真に受ける必要はありません。
実はここにローカルルールをさらに打ち破るポイントが隠れています。
宗教を思い出していただければわかりますが、断片的に見ればみんな良いことを言っています。オウム真理教でさえ99%は良いことを言っていました。
「殺生をするな」とか「ウソをつくな」とか。
独裁者の国でも、良いことを言っています。ブラック企業の社長もいいことを言っています。
(少し前に、NHK特集で「半グレ」の特集をしていましたが、振り込め詐欺の団体では、勧誘した学生に「自己成長」を説いていました。
素晴らしいことを書いたマニュアルで研修をしていて、実際に、関わっていた学生は「自分のためになった」というのです!?)
でも、いくら良いことを言っていても、当たり前ですが、信じていない人から見たら「なにかおかしい」「窮屈そう」と感じます。
ローカルルールというのは、良いことでコーティングされていますから、”表面的には”良いことに聞こえます。そうして「正統性」を偽装しなければ、ローカルルールが維持できませんから。
ローカルールが支配するおかしなところほど立派なことを言います。
(参考)→「「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。」
カルト教団の中にいても、「あなたはこうしたほうがいいよ」「ここは良くないよ」とか、役に立つことは言われることでしょう。
でも、カルトはしょせんカルトでしかない。教義は教祖が自分の不全感を満たして、相手を支配するためにつくった”作文”です。
ローカルルールというのは、それが成立するためには、「正統性」をまとう必要があるために良いこと、最もなことを言わなければならない。
世の中の常識をその文脈から切り離して断片化して、悪用(拝借)している、ということなのです。
ローカルルールとは良いことでコーティングされている、ということ。
だから、ローカルルールはもっともらしく見えるのです。
その偽装を剥がしてしまえば、結局は、私的な感情(不全感)にすぎないのです。
だから、「嫌な相手からも、汲むべき教訓があった」とか、「私も反省すべき点があった」というのは全く考える必要がありません。
そう思わせることも含めて、ハラスメントなんだ、ローカルルールなのだと知らなければなりません。
ローカルルールは、「ルール」という言葉が入っているように、それ自身が秩序であり、秩序が成り立つためには正統性が必要なのです。
どんな狂人の言っていることでも、断片的には必ず「もっともなこと」が含まれています。
なぜなら、人間は社会的な動物であり、狂人でさえ、社会の中に生きているからです。最もな言葉を社会からいくらでも拝借して悪用することができます。
でも、耳を傾ける必要は全くありません。日常の人間の言葉はすべて戯れ言ですから。
(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。」
断片化した常識を悪用しているローカルルールの仕組みがわかれば、「酷いことを言われた、されたことが頭から離れない」「自分に自信が持てない」という状態から抜け出すことができます。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
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