ニセ良識、ニセのバランス感覚~2、3割は自分のせいだ、というローカルルール

 

 ローカルルールが面倒なのは、少しでも、自分にも非がある、という意識があるとそこから水が浸透するように、自分の中に入り込んで、苦しめ続ける、ということです。

 
 「ローカルルールをすべてを否定して、自分を100%肯定するのは都合が良すぎるのでは?」
 「せめて、2,3割は反省しなければ」といった感覚もトラウマを負っている人によく見られます。

 


 いじめやハラスメントを受けていながら「自分にも悪いところがあった」というのです。

 


 例えば、親からひどい目にあった、という場合、
 「相手がすべて悪い」で良いのです。100:0で こちらに責任はありません。

 

 それなのに、「自分にも悪いところがあったのでは?」「完全に悪者にしたら申し訳がない」といった気持ちになってしまい、中途半端なところで、「自分にも非があった」「相手も良かれと思ってした部分もあった」としてしまう。

 

 それで、悩みが完全に取れれば何も問題はありません。

 

 しかし、「自分にも非があった」「相手も良かれと思ってした部分もあった」を残したことが命取りになります。
 日常生活を過ごしていても、過去の問題がフラッシュバックして、自分を責める気持ちが湧いたり、なぜ、相手があんなことをしたのか?という気持ちが湧いてきて頭がぐるぐるしたり。

 

 なにより、自分に自信がなくなる。本当に自己を肯定しきれない感覚になる。

 


 トラウマを負った人の傾向として、「善なる人」「良識を志向する人」というところがあります。
 それは、理不尽な目に合わせた人と同じ人間になりたくないという気持ちも背景にあります。「あんな独りよがりな人間にはなりたくない」

 


 だから、感情を否定し、軽蔑しますし、常に客観的で、冷静で、良識的でありたいと考えています。

 

 しかし、そのことで、高い理想で自分を責め続けて、結局疲弊して慢性的なトラウマ状態(自律神経など三調整系の失調状態)におちいってしまったり、ローカルルール人格にスイッチした他者からそれを悪用されたりするのです。


 
 実はこうした感覚も、ローカルルールからもたらされるものだったりします。

 


 例えば、親が自分の感情から理不尽なことをしていることを隠すために、「あなたのせいだ」として非を認めなかったり、地域や学校でトラブルがあっても、子どもの味方をしなかったり「あなたにも悪いところがあった」というような親のローカルルールを内面化しているような状態。


 
 夫婦げんかに巻き込まれて、父親、母親の悪口を言われ続けたり、果ては、「父親(母親)に似ている」といったようなことを言われたり。


 いじめなどにあっても同様です。理不尽な目に合わされ、「それはあなたがおかしいから」と因縁をつけられたり。

 

 

 あと、現代にまで残る「喧嘩両成敗」というおかしなローカルルールの影響もあります。

 
 先日の記事でも書きましたが、喧嘩両成敗とは、ローカルルールを正当化するために用いられている、詭弁の道具です。

 (参考)→「「喧嘩両成敗」というローカルルール

 

 


 もう一つの問題点は、モラハラを裁く側もローカルルールに感染しやすいということです。

 


 例えば、学校の教師もいじめなどが起きた際に、容易にいじめのローカルルールに感染するのは、様々な事件で知られています。
 
 明らかにいじめがあって親が何度問い合わせても「いじめはない」と回答する。
 
 下手をすると教育委員会レベルまで感染は広がります。
 
 
 教師もローカルルールに感染しますから、ローカルルールからみて「こいつはムカつく」とか、「こいつはいじめられても致し方ない」という感情を隠すために、喧嘩両成敗といったおかしな理屈が持ち出されてしまうのです。

 参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 
 会社でも同様です。モラハラがあって会社に訴えても、ローカルルールに感染していれば、「お前にも問題があった」「行き過ぎはあったが、指導の一環であった」といったようにされてしまいます。

 参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 


 本当は、愛着(安全基地)を背景にして、すべて押し返して、完全に否定しなければならないのですが、それができない状態で、さらに、上に書きましたような「あんな奴らになりたくない」としてニセ成熟の理想主義(客観的で、良識的でありたい!)を採ってしまうためにどこまでいっても、自分を完全に肯定できない、自分に自身が持てない状態がずーっと続くのです。

 


 こうしたことが残っていると、いくらセラピーを受けても、なぜか自分に自信が持てない、という状態が継続することになります。
 

 

 ローカルルールを内面化したニセのバランス感覚、ニセ良識とでもいうものです。

 


 「バランス感覚が大事」とか「良識的でありたい」というのは、ローカルルールの反動で起きたもので、それ自身もローカルルールの一部だということです。

 


 
 なぜ、ローカルルールに接した場面で、自分を完全肯定してよいか、といえば、カンタンです。

 ローカルルールとは単なる私的な情動にすぎないからです。そこに一部の理もない。ただ、ローカルルールは根拠がないために、根拠を捏造するために常識を悪用したり、相手のせいにしたりしているだけだからです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 人間というのが容易に解離しやすい動物であり、東大の安富先生が「世の中はモラハラでできている」というように世の中はローカルルールがそこここにあります。

 


 ローカルルールにおもねったバランス感覚や良識といった理想主義で、自分が守られるようにはできるような要件を世の中は備えてていません。
 


 ニセのバランス感覚や良識というもので、「2,3割は非を認めて自分を否定しよう」というのは、「家の窓やドアの2,3割は、鍵をかけないでそのままにしておこう」というくらいにおかしなことです。
  

 バランス感覚や良識そのものが、かつて親などが子どもにかけたローカルルールを成立させるために、演じさせられている、ということがあります。

 

 トラウマを負っていない、安定型の人から見ると、「なんでそんなに、自分を悪く思わないといけないの?」と不思議がられてしまいます。愛着を土台にしながら、自然と自分をすべて肯定している。

 

 本来、健康な人間というのは、愛着の土台の上に、自他の区別を持ち、社会の常識(パブリックなルール)とつながって生きています。自分でありながら、社会全体の一部であるような感覚があります。

 完全肯定というのは、そうした安定感、つながりを感じている感覚です。

 

 たとえば、目の前のりんごを「みかんだ」といわれても、そうは思えない、というくらいの感覚。決して、ムキになるとか、意固地になって、自分が正しい、という感覚とは違います。

 

 

 ポイントは「自分が正しい」とは思っていない。「自分が正しい」というのは、どちらかというと病的な自己愛性の感覚であって、健全な感覚というのは、善悪、正誤というよりは、「肯定」という感覚です。


 自然界の動物には、善悪、正誤という感覚はありませんが、でも、自分を責めたり、疑うという感覚はありません。あのような感じに近いものです。

 

 

 敵意とかトラブルに見舞われたら、さっと自分のみを守る行動を取ります。
その時も「自分が悪い」なんて感覚はありません。場合によっては、相手をやっつけますが、もちろん「自分が悪い」という感覚はありません。
 相手への「慈悲」はあるかもしれませんが。


 
 慈悲とは、自分を完全に肯定してなお成立するものです。

 

 自然界の生き物は、「自分を100%肯定するのは都合が良すぎるのでは?」「せめて、2,3割は反省しなければ」なんて思いません。

 それで良いのです。

 


 実際の社会では、因縁をつけて、「善悪」「正誤」のローカルルール世界へと巻き込もうとしてくる人が出てきますが、愛着が安定していると、そこには価値を見いだせずに、あまり巻き込まれません。

 

 正しい正しくないというのは、”常識”が決着をつけてくれる、という安心感があります。 

 


 反対に、愛着が不安定だと、因縁をつけられると容易に動揺し、「善悪」「正誤」の世界に巻き込まれて、罪悪感を持たされたり、あきらかに「自分は正しいけど100%は言い切れないから、2,3割は悪いことにしておいて」といったことにしてしまう。
 


 これは、他者のローカルルールを成立させるために行わされていることに過ぎません。


 
 「自分を肯定するなんて、自己中な人間みたいになりたくない」という気持ちがあったら、それはローカルルールに感染している、ということです。


 
 自分を完全に肯定する、ということは自然なことですし、そうすることがごくごく普通のことなのです。 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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