前回、ニセの良識、ニセのバランス感覚について書きました。
(参考)→「ニセ良識、ニセのバランス感覚~2、3割は自分のせいだ、というローカルルール」
トラウマを負った人というのは、ニセの常識(ローカルルール)を背負わされている、ということがあります。
高潔にその常識を守っているのですが、実はそれはニセモノの常識だった、ということです。
(参考)→「人格者になりたい」
「えっ、今まで当たり前とおもっていたことが実は違うの?」というばかりです。
健康的な人、愛着が安定している人というのは、建前と本音の世界に生きています。
実際は言わないだけで、実は良識なんて守っていない。あくまで“社交”としてフリをしているだけ、ということがほとんど。
健康な人は、人が喋っていることがすべて戯れ言だとわかっている。
(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。」
でも、それでよい。そうしてはじめて人と気楽に付き合っていける、ということなのです。
なぜなら、健康な人というのは、「安心安全」を体感として持ち、社会全体の一部であるような感覚で生きているからです。
自分が特別に高潔である必要がない。
これら裏ルールは体感のようなものですから、わざわざ言語化されることがありません。言語化するのも野暮なことです。
(参考)→「“裏ルール”が分からない」
以前も書きましたが、実はこれは子どもでもそうで、筆者が少年野球をしていたとき、周りの子ども達は嘘をついて水を飲んだり、練習をサボったりしていたのですが、筆者はそれがあまりわからず、自分の真面目さと周りとのズレに驚いたことがありました。
(参考)→「トラウマ的環境によって、裏ルールを身に着けるための足場を失ってしまう」
じゃあ、筆者が高潔で正しく、周りがずるくて汚いのか、といえばそうではありません。周りの子供達のほうが大人からは可愛がられたり、多くの友達とコミュニケーションが取れたりする。
人間とはそういうものなのです。
「そんな世の中は変えなければならない」と考えるのは、トラウマを負った人に多い、あたかもテロリストのような考え方です。
(参考)→「トラウマを負うと一元的価値観になる」
嘘をつく子供たちにこそ、実は悩み解決のヒントがあります。
例えば、嘘をつける、というのは発達心理学では、自我の発達(自他の区別)にとって良い影響があるとされます。嘘を付くことで自他の区別がはっきりする。
嘘をつけない、高潔である、というのは、自他の区別が曖昧になるという致命的な副作用を伴い、その後の生きづらさにも関わるのです。
(参考)→「ウソや隠し事がないと生きづらさが生まれる」
「相手の立場を考える」というのも、常識のようにおもわれていますが、実はニセの常識(ローカルルール)です。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
「えっ、なんで?相手の気持を考えるのが良い人間であることでしょ?」
「自分のことしか考えない、独善的な人間に嫌な目にあってきたからこそ、自分はそんな人間にはなりたくない!」
と思う方も多いかと思いますが、
それも、ローカルルールによって強制された思考なのです。
健康な人は、「まずは自分の主観、都合からスタートする」ものです。
コンピューターのプログラム風に言えば、
1.まず、主観からスタートして自分の体感(愛着の土台)を参照する。
2.ついで、その体感から伝わってくる、社会の常識(パブリックなルール)を参照する
3.2に照らして、相手の態度が常識的かどうかを判別する。
4.常識的でないと分かれば、それ以上は相手にしない。
5.もし常識的なら、その際は、相手の立場も考える。
という感じになっている。
反対に、トラウマを負った人は、
1.まず、客観(ニセの客観、良識)からスタートして、頭で考える。
※頭で考えることで、自分の親から受けたローカルルールに巻き込まれます。
2.相手の立場や心理、感情に移入する。
※相手の立場に移入することで、相手のローカルルールに巻き込まれます。
3.自分にも悪いところがあるのでは?と反省し、自分を責める。
という様になっています。
つまり、まず、客観的になろうとしたり、良識的になろうとすること、そして相手の気持を考えたり、というのはおかしいのです。
実はそれは、ローカルルールに巻き込まれているだけ。
人間というのはミラーニューロンでつながっている、という説があります。
そうであれば、解離して因縁をつけてきている相手の気持を考えれば、相手のローカルルールに巻き込まれるのは当然のことです。
本来は、自分に主観、体感からスタートしなければならないし、それが自然なことです。
これは決して、独善的になるとか、そういうことではありません。
そうすることが人間の発達、そしてあり方としても正常なことなのです。
人間は自分の体感(いわば無意識)を通じて、社会とつながるのです。
自我、そして身体が成熟した者が、社会的な役割、責任を背負って初めて「人間」でいられるのです。
(アリストテレスが「人間は本性上、ポリス的動物である」と言っているのはこうしたことです)
そうして「人間」になってはじめてちゃんと相手のことを考えられる、のであって、最初に相手のことを考える、というのは、人間の在り方としてもおかしいことなのです。
自分がどういった順番で、何を参照しているのかをチェックしてみると、問題が見えてきます。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。